2009.07.09

中世社会像の現在

木村茂光『日本中世の歴史1・中世社会の成り立ち』(吉川弘文館、2009年)読了。読み終えてからしばらく経っていますが、中世史に特化したシリーズの刊行ということで、やはり触れておくべきかなと。

このシリーズが刊行されると聞いて、まず浮かんだのはやはり、中央公論新社が出した「日本の中世」のシリーズ。とりわけ総論的な位置づけにある、石井進『日本の中世1・中世のかたち』(中央公論新社、2002年)をどのようにして乗り越えるのか、といったところへの期待です。

やはりその辺を意識されている様子が、「あとがき」で触れられているところから窺えました。また、石井さんの描いた中世像に違和感をお持ちであったことも書かれています。

どの点に違和感があったのか。はっきりとは書かれていないのでわかりづらいのですが、どうやら、中世の時代像の理解について、外在的な要因(対外関係=東アジア世界のダイナミズム)に大きく拠っているような叙述になっている点に批判の矛先がありそうです。それゆえか、対外関係に絡んだ叙述は、最後に控えめに登場する程度です。

一方、本書では、日本社会の持つ内在的な要因を重視する叙述を目指した、ということになりますでしょうか。この辺りは、村落の住民の動向に視点を置いた著者の叙述が面目躍如といったように思いました。とりわけ、中世前期における民衆運動については、私自身あまり詳しくないこともあって、とても読み応えがあります。

近年は特に中世史の研究状況は細密化していて、すべてを追うのが相当困難になっています。もちろん完璧とは言えないかもしれませんが、それらの最新の研究成果を積極的に取り込もうとする意欲も感じられて、中世史の「現在」を辿るためにも有益だと思います。

…まああんまり褒めすぎるとかえって胡散臭いので(笑)、この辺で。
細かいことを言うならば、所々あった基礎的なルビの誤りは気になりました。あと、城下町の叙述のところで、「安芸毛利氏の山口」(p.153)というのはいくらなんでも違和感があります(勘違いされたのでしょうか?)。
好評のようで増刷されるそうですが、この辺について修正されることを希望いたします。

464206401X中世社会の成り立ち (日本中世の歴史)
木村 茂光
吉川弘文館 2009-05-15

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2009.07.08

竹原小早川家墓所・手島屋敷・賀茂神社

Takeharakobayakawa_4Takeharakobayakawa_5木村城の麓にある関連史跡です。
まずは竹原小早川家墓所。中世の宝篋印塔と五輪塔が数多く並んでいます。
ほとんどが中世末期の様式だそうです。さらにここから登ったところに、隆景の養父となった小早川興景のものと推定されている宝篋印塔があったそうですが、見つけられませんでした(残念)。私有地のようだったので、怖じ気づいてあまり奥深く入れませんでした。

Takeharakobayakawa_6Takeharakobayakawa_9こちらは墓所のすぐ近くにある「手島屋敷」。
元は「西殿(にしんどん)屋敷」と呼ばれたそうで、竹原小早川氏の居館跡に推定されています。
小早川氏が竹原を去った後は、その被官だった手島氏がこの屋敷と居館を受け継いだと考えられています。
方形区画のいかにも中世武士の屋敷らしい雰囲気でしたが、今もお住まいの方がおられるようでしたので、中には入りませんでした。

Takeharakobayakawa_10Takeharakobayakawa_13こちらは、すこし離れた所にある賀茂神社。都宇・竹原荘は賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)領の荘園でしたので、鎮守として勧請されたものと思われます。

なお、位置関係についてや歴史的経緯については、こちらが詳しいです(横着してすみません)。

■広島県竹原市

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2009.07.06

木村城跡

Kimurajo_25Kimurajo_17ここからは竹原小早川氏関連の史跡を。

小早川氏の歴史については有名ですので、なるべく手短に…。
鎌倉初期に小早川氏は安芸国沼田(ぬた)荘(現広島県三原市[旧本郷町])の地頭職として西遷・土着し、承久の乱の後に、惣領の小早川茂平は都宇(つう)・竹原荘の地頭職も与えられました。正嘉2年(1258)に、子の政景に都宇・竹原荘が分与され、以後この一流は竹原小早川氏と呼ばれます。
惣領家の沼田小早川氏は北条寄りだったとされる一方、竹原小早川氏は足利方に与するなどて対立。この頃から、竹原小早川氏は惣領家に対抗しうる家として確立していったようです。

こうして両者の関係も悪化し、応仁の乱の頃には、沼田小早川氏は細川方(東軍)、竹原小早川氏は大内方(西軍)に属して対立。その後も和睦しては対立しと紛争は収まらず、しかも戦国期になると当主の早世が相次ぎ弱体化してゆきました。天文10年(1541)に竹原小早川氏当主の小早川興景が死去すると、実子がなかったため、毛利元就の子の隆景が養子に迎えられて当主となりました。後に隆景は沼田小早川氏の家督も相続する形を取っています。隆景は小早川氏の家中に請われて当主となったとはいえ、伸張する毛利氏に抗しきれず事実上乗っ取られたということになるのでしょう。

やっぱり長くなってしまいましたが(笑)、さて本題の木村城跡です。竹原小早川氏が本拠とした城郭とされています。右写真が本丸です。それほど規模は大きくはなく、詰めの城というべき規模なのでしょう。実際に居館は麓にあったようです。

Kimurajo_6Kimurajo_9本丸は下段にあたる曲輪近辺。
遺構はわりとはっきりしていたのですが、いかんせん落ち葉が大量に積もっていて、写真にするとよくわかりませんね(笑)。

Kimurajo_13Kimurajo_18こちらは本丸下を廻る曲輪。
フェンスで囲われている所には井戸跡がありました。石積もちゃんと遺っていました。
右写真は本丸から見た下の段の曲輪。

Kimurajo_21Wagajinja_1左写真のように、一部何か建造物のあった痕跡がありました。現地看板によると「若宮社跡」とのことですが、これが中世にあったものなのか、後世に建てられたものなのかはわかりません。まあでもたぶんここは櫓かなにかがあって、後世に社殿が建てられたのかな、という気がします。

右写真は麓にある和賀神社。別名小早川神社と呼ばれ、小早川隆景を祀る神社だそうです。
戦前は県社にもなっていたそうですが、今は荒れ放題。氏子もいなくなったのでしょうか。現地看板には「昭和20年の豪雨による山津波で損壊」とありましたが、今ある建物はもっと後の時代のもののような気もしたんですけど、どうなんでしょう。

さてこの木村城ですが、天文19年(1550)に小早川隆景が沼田小早川氏の家督も相続すると、沼田の高山城へ移ったため、廃城となりました。

■広島県竹原市

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2009.07.05

「天地人」展と中近世移行期都市論

すっかり今年の大河ドラマは見限り気味ですが(もう何ヶ月も見てない)、恒例の関連企画展「天地人展」をサントリー美術館に見に行ってきました(招待券をいただきました。ありがとうございます)。この美術館に行くのは3回目だけど、やっぱり六本木は慣れない。

私は人混みが大嫌いなので(好きな人はいないだろうけど(笑))、平日午後に行ったわけですが、それでも結構な来館者数のように見受けました。立地もいいですが、やっぱり視聴率もいいからでしょうかね。

思ったより文書の展示が多くて、楽しめました。「直江状」も展示されていましたが、今は信憑性が高いという評価なんですね。印象批評はしてはいけないでしょうけど、そうは言われてもやっぱり「ほんまかいな?」という思いが…。
文書は、釈文も添えられていて配慮がされていたと思います。でも、いくつか読みが「?」という箇所があったような。ま、私が読み違えているんでしょうけど(笑)。

目玉は上杉本の洛中洛外図屏風。確か所蔵している上杉博物館でも普段は現物を展示していなかったと思うので、眼福でした。人だかりが出来ていて、あまりじっくりは見られませんでしたが。


そして昨日は、帝京大学山梨文化財研究所(山梨県笛吹市)で開催されたシンポジウムに出席しました(二日間の日程だけど、初日のみ出席)。中近世移行期の都市をめぐる議論。耳学問。出されていた史料のうち、個人的に興味深いものがあって得しました。実際に使うかどうかはわからないけど。
小野正敏ほか編『動物と中世―獲る・使う・食らう』(高志書院、2009年)購入、というか、参加費に購入費用が入っていました。昔からこういうことやってたっけ? ま、この件について言うなかれ。


さて、いよいよ自分の仕事をする時間の確保を最優先する必要が出てきました。多方面に不義理をしてしまうかもしませんが、ご容赦ください。

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2009.06.30

尾道(6) 持光寺

Onomichijikoji_2Onomichijikoji_3JR尾道駅からほど近い持光寺です。

寺伝によると、淳和年間(9世紀半ば)に最澄の弟子の持光上人によって建立されたと言われています。はじめは天台宗寺院で、天禅寺という名でした。
仁平3年(1153)の「絹本着色普賢延命菩薩像」(国宝)を所蔵しています。この画像は、近衛院の息災祈願のために作成されたとのことだそうです。

その後は一度衰微したのでしょうか。永徳2年(1382)に善空頓了上人という人によって再興され、この時から浄土宗となり、持光寺の名になりました(ただし両者の寺院にそもそも関係があるかどうかは、見解の分かれる所のようです)。

Onomichijikoji_5お目当てはこの石塔。室町期の「国東(くにさき)塔」と呼ばれる形式のものです。名前の通り、現在の大分県国東半島を中心に分布する石塔で、現存するものは9割以上が国東半島に分布しており、他地域では極めて珍しいです。

国東半島からやってきた人(商人?)が尾道で葬られたのでしょうか。中世の瀬戸内海流通と関わって、いろんな想像を掻き立ててくれます。

■広島県尾道市

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2009.06.29

リフレッシュ出張

昨日は大阪歴史学会大会に出席しました。

今年は中世が合計4本もあるという豪華な構成。いずれも手堅いご報告で、勉強になりました。
直接私の関心と被っていたわけではありませんが、いろいろと考えさせられました。

ひとつだけ欲を言うならば、手堅さゆえに感じたのですが、大きな話というか、大上段に構えるような方向の議論を一言二言ほど聞いてみたかったなあ、という気も(いわゆる「空中戦」とでも言うか)。
もっとも、じゃあお前はできるのかと言われたら、かなり心許ないのですが(笑)。

でしゃばって質問してしまいましたが、時間の浪費でしたね…。すみませんでした。

最近、なかなか研究に没頭できないでいたので、かえってリフレッシュする機会になった感がします。停滞気味な自分に活を入れたいと思います。

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2009.06.26

尾道(5) 天寧寺

Onomichitenneiji_6次は千光寺から降りていったところにある天寧寺。

貞治6年(1367)に、尾道の万代道円居士という人の発願によって、相国寺や天竜寺などの住持で、幕府の僧録になった春屋妙葩(しゅんおくみょうは、普明国師)を開山として建立されました。はじめは臨済宗寺院で、十刹にも数えられた名刹です。現在は曹洞宗になっているそうです。

康応元年(1389)には、足利義満が厳島参詣の途次に天寧寺に立ち寄っています。その時の記録によると、

「いまだ朝のほどに備後国尾道につかせ給ぬ。御座は天寧寺とて天竜寺の末寺なり。海中までうき橋かけて御道とせり。なにとなくめづらしかりき」(『鹿苑院殿厳島詣記』)

とあります。天竜寺の末寺だったようです。

また『老松堂日本行録』には「禅寺の大刹なり。津頭には人居地を撲(つく)し、山上には僧舎羅絡せり。」とあるほか、「傑閣なり天寧寺。江に臨みて塔は幾層なる。門前に喧価(値段の掛け合い)の客。堂上に定禅の僧」云々とあります。門前には賑やかな町場が形成されており、おそらく室町期の尾道の中心地であったと考えられます。

OnomichitenneijiOnomichitenneiji_2こちらは、上記史料にも登場する三重塔(重要文化財)。
嘉慶2年(1388)に、「道慶居士」という人によって建立されました。寺院を開いた「道円居士」同様、商人(有徳人)なのでしょうか。
実は、元は五重塔だったようです。和様を基調に禅宗様を取り入れたもの。元禄5年(1692)に修理した際(落雷によるか)、上の二層が撤去されて三重塔になったそうです。

季節柄、本堂の前にはきれいな花が咲いてました(枝垂れ桜だったっけ? よく覚えてません(笑))。これを目当てに観光客の方がたくさん来ていました。
現在では、かつての境内と思しき場所には家々が立ち並んでいて、一見すると本堂と三重塔は別々の所に建っているようにも感じられます。室町幕府の衰微に殉じたということになるのでしょうか。

■広島県尾道市

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2009.06.25

尾道(4) 千光寺

Onomichisenkoji_7Onomichisenkoji_10たぶん尾道で今は一番有名な寺院である千光寺
寺伝によると、大同元年(806)に空海を開基として創建したとされ、後に源(多田)満仲の中興とされています。本堂は「玉の岩」と呼ばれる巨岩の上に建っているそうです。

左写真の本堂は、貞享3年(1688)築。この地方では珍しい舞台造りで、堂内の須弥壇は応永~永享頃(15世紀前半)のものとされています(写真撮れそうだったんですが、遠慮しておきました)。

尾道の背後にある山(千光寺山)のほぼ頂上部に位置し、眺めは抜群。そのため、多くの観光客が訪れていました。尾道観光では必ず組み込まれるスポットなんでしょうねえ。
中世の来歴はよくわかりませんが、立地からみても、やはり修験の道場だったと考えられています。また、千光寺山には戦国期に杉原氏が拠点を築いたとも言われています。

Onomichisenkoji_13Onomichisenkoji_15観光客のほとんどは見向きもしませんが(笑)、この寺院は石造物がなかなか見物です。本堂下を少し降りた所にある左写真の逆修塔は、天正17年(1589)2月の銘が確認されています。その隣には、右写真の磨崖仏もあります。尾道周辺では最も古い磨崖仏とされ、中世のものと思われます。

Onomichisenkoji_11これは、本堂裏側にある石塔。
積み方がややいい加減な気もしますが…(笑)、下の二つは宝篋印塔の一部で、鎌倉期のものとされているようです。
正しいかどうかはわかりませんが、それぞれ中世のものであることは間違いなさそうです。


Onomichisenkoji_8Onomichisenkoji_9こちらは本堂下にある逆修塔と磨崖仏。左側のものは、はっきりと天正17年2月の銘と、「逆修」の字が読み取れました。上の磨崖仏と同時に造られたものでしょうね。
右写真は、年代はわかりませんが、これも同時期のものなのかもしれません。

いずれも素朴な造りという印象ですが、尾道の中世における仏教信仰の様相を窺える貴重な資料といえそうですね。

■広島県尾道市

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2009.06.23

「長命寺文書」の織田信忠書状案

またもや懲りずに、こちらにある写真から起こしてみました。
目が疲れる…。


態申候、仍煩ニ而色々肝
煎入、祝着候、随而近江
長命寺之儀、岡崎より
申越候、此方へも従前
承(?)候而、坊中共ニ無相違
様ニ肝煎入、柴田方へも
可申候、恐々謹言、
  霜月廿九日
(端裏)「五郎左衛門尉との  寄妙」 

(※追記:端裏、「奇」→「寄」に変更)

いつ頃のものかはわかりませんが、天正初年頃なんでしょうかねえ?
「岡崎」は家康のことだと思うのですが、どういう関係になるんでしょうか。
私はあまり詳しくないのでわからないことだらけです。ご教示いただければ幸いです。

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2009.06.22

尾道(3) 西国寺

Onomichisaikokuji_1Onomichisaikokuji_8高台というか、尾道の背後の山の山腹あたりにある西国寺(さいこくじ)。寺伝では、行基の開基と伝わっています。
治暦2年(1066)に火災があって伽藍が焼失した後、住持の慶鑁(けいばん)が白河院を頼って復興が果たされたとされています。西国でも最大規模の伽藍を誇ったとか。

その後衰微した上に14世紀後半にはまた火災に遭ったようですが、備後守護山名氏の保護を受けて再興。再び伽藍を構えています。
左写真の仁王門は安土桃山時代のものとされています。毛利氏あるいは水野氏が再建に関わったのでしょうか。大きな草履が有名です。

Onomichisaikokujiこちらは金堂(重要文化財)。
至徳3年(1386)築。和様を基調にした折衷様式。現地看板によると、「入母屋造の妻飾は二重梁大瓶束で屋根に重量感をもたせ、規模も壮大で手法上も全体より受ける感じは和様の風格が濃厚な堂々とした建物である」そうです。

Onomichisaikokuji_11Onomichisaikokuji_14左写真は、境内の一番高い所にある三重塔(重要文化財)。麓からも見え、このお寺のシンボルのような存在です。
永享元年(1429)築。将軍足利義教によって建立されたそうです。わりとどっしりとした外観でした。

右写真は、三重塔から少し下りたところにあった墓所の片隅に置かれた古い石造物たち。近世のものがほとんどだと思いますが、中世のものもあるかも?

■広島県尾道市

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