
吉野の中心、金峯山寺(きんぷせんじ)です。
元は修験の道場として開かれた寺院で、役行者を開創としています。本来はさらに奥にある山上ヶ岳(奈良県天川村)も合わせた地域を霊場としていたようです。
平安期には浄土信仰とも結びつき、藤原道長や白河院などの権力者も参詣するほどの勢力を築いています。これには醍醐寺を開いた真言僧の聖宝(しょうぼう)が大きく関与しており、その縁から、中世においては醍醐寺系の修験道場(当山派)として発展しました。
京都を逐われた後醍醐天皇が吉野の地を当てにしたのも、単に山深いということだけではなく、武力をも有する修験道場の存在が大きかったと思われます。
近世になると同じく修験道場を系譜とする日光の輪王寺の傘下となったようですが、維新後は修験を禁じられ、山奥の古刹として今に続いてます。
左写真は仁王門(国宝)。築造年代は不明ですが、下層は延元年間(1330年代後半)、上層は康正年間(1450年代半ば)のものと推定されています。安置されている仁王像は、阿形は延元3年(1338)、吽形は延元4年(1339)に造られたものだそうです。
右写真は本堂でもある蔵王堂(国宝)。天正20年(1592)築。豊臣秀吉の援助によって再建されたものです。なにせ巨大。東大寺大仏殿に次ぐ規模とされています。

左写真は、参道にある黒門。総門に当たり、ここから内側は商店が建ち並んでいます。
右写真は、銅鳥居(重要文化財)。『太平記』には正平3年(1348)に焼亡したとの記述があり、その後再建されたものと思われますが、宝永3年(1706)に火災に遭い、正徳元年(1711)にさらに再建されたものです。銅製鳥居としては現存最古のものとされています。
修験道場の内外の結界を示すものと言われていますが、神仏習合(というか、融合に近い?)の雰囲気が残る建造物です。

再び境内へ。
左写真は、蔵王堂の前にある銅灯籠(重要文化財)。私は確認できませんでしたが、銘によると、文明3年(1471)に妙久禅尼という人が寄進したものであることがわかるそうです。保存状態もよく、意匠もなかなか凝っているように見受けました。
蔵王堂正面には、仁王門とは別にかつて二天門のあった跡が残っています。ここが村上義光が自害した場所とされていて、今はそれを示す石碑も建っています。
右写真は、蔵王堂の脇にある威徳天満宮。天徳3年(959)の創始とされています。当然ながら菅原道真が祭神なわけですが、社伝によるとむしろ道真を左遷した醍醐天皇の供養をする主旨が強いようで、この辺は醍醐天皇を意識した後醍醐院との関係もあるのかもしれません。
今の社殿は桃山期のものとされ、豊臣秀頼によって改修されたと伝わっています。1998年の台風で被害を受けたそうですが、復旧しました。
そして、蔵王堂からほど近くにあるのが、「吉野朝宮跡」。元は実城寺という寺院だったそうですが、南朝天皇が御所とした所です。
延元元年(建武3年、1336)に後醍醐院は京都から吉野へ逃れ、この地に移って寺号を「金輪王寺」と改めて居所としました。延元4年(1339)に死去するまで、ここで過ごしたと言われています。
ちなみにこの「金輪王寺」は、近世になって江戸幕府が寺号を日光に移したため元の実城寺に戻り、維新後は廃仏毀釈で廃寺になったそうです。
当時と今とでは地形が多少変わっている可能性もありますが、現地に行くとずいぶん手狭な感がしました。いかにも「雌伏」という言葉が似合うような場所、という印象です。
■奈良県吉野町
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