木村城跡
小早川氏の歴史については有名ですので、なるべく手短に…。
鎌倉初期に小早川氏は安芸国沼田(ぬた)荘(現広島県三原市[旧本郷町])の地頭職として西遷・土着し、承久の乱の後に、惣領の小早川茂平は都宇(つう)・竹原荘の地頭職も与えられました。正嘉2年(1258)に、子の政景に都宇・竹原荘が分与され、以後この一流は竹原小早川氏と呼ばれます。
惣領家の沼田小早川氏は北条寄りだったとされる一方、竹原小早川氏は足利方に与するなどて対立。この頃から、竹原小早川氏は惣領家に対抗しうる家として確立していったようです。
こうして両者の関係も悪化し、応仁の乱の頃には、沼田小早川氏は細川方(東軍)、竹原小早川氏は大内方(西軍)に属して対立。その後も和睦しては対立しと紛争は収まらず、しかも戦国期になると当主の早世が相次ぎ弱体化してゆきました。天文10年(1541)に竹原小早川氏当主の小早川興景が死去すると、実子がなかったため、毛利元就の子の隆景が養子に迎えられて当主となりました。後に隆景は沼田小早川氏の家督も相続する形を取っています。隆景は小早川氏の家中に請われて当主となったとはいえ、伸張する毛利氏に抗しきれず事実上乗っ取られたということになるのでしょう。
やっぱり長くなってしまいましたが(笑)、さて本題の木村城跡です。竹原小早川氏が本拠とした城郭とされています。右写真が本丸です。それほど規模は大きくはなく、詰めの城というべき規模なのでしょう。実際に居館は麓にあったようです。

本丸は下段にあたる曲輪近辺。
遺構はわりとはっきりしていたのですが、いかんせん落ち葉が大量に積もっていて、写真にするとよくわかりませんね(笑)。

こちらは本丸下を廻る曲輪。
フェンスで囲われている所には井戸跡がありました。石積もちゃんと遺っていました。
右写真は本丸から見た下の段の曲輪。

左写真のように、一部何か建造物のあった痕跡がありました。現地看板によると「若宮社跡」とのことですが、これが中世にあったものなのか、後世に建てられたものなのかはわかりません。まあでもたぶんここは櫓かなにかがあって、後世に社殿が建てられたのかな、という気がします。
右写真は麓にある和賀神社。別名小早川神社と呼ばれ、小早川隆景を祀る神社だそうです。
戦前は県社にもなっていたそうですが、今は荒れ放題。氏子もいなくなったのでしょうか。現地看板には「昭和20年の豪雨による山津波で損壊」とありましたが、今ある建物はもっと後の時代のもののような気もしたんですけど、どうなんでしょう。
さてこの木村城ですが、天文19年(1550)に小早川隆景が沼田小早川氏の家督も相続すると、沼田の高山城へ移ったため、廃城となりました。
■広島県竹原市
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