2009.11.19

繁忙と焦燥と

現在は少々雑事に追われておりまして、今月末まで続きそうです。
というわけでして、ここの更新もしばらく途切れがちになりそうです。


もう今年もあと一月半ですねえ。結局、今年は足踏みしてほとんど前に進めなかったなあ。焦りを感じております。
あまり悩んでも精神衛生上よろしくないので、今後に向けた充電期間と前向きに捉えたいところですが、将来のことを考えるとあまりのんびりもしていられずで…。なんてクヨクヨする日々です(笑)。立ち直るにはもう少し時間がかかりそうですかねえ。

先日とは別の、またも伝統ある研究誌で拙著の書評をしていただきました。たいへんありがたく存じます。
それにしても…、私は課題だらけです(笑)。一生掛かっても批判に応えることができるかどうか心許ないですが、応える努力だけはしてゆきたいと思います。

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2009.11.15

如意輪寺

NyoirinjiNyoirinji_2吉野詣の最後は如意輪寺。金峯山寺のある中心部とは、一つ谷を隔てた別の尾根筋にあります。寺伝によると、延喜年間に醍醐天皇の帰依を受けた日蔵道賢上人によって開かれたとされています。ここも修験の道場として信仰を集めたようですので、金峯山寺とも関係はあったのでしょう。ともあれ、草創期のことはよくわからないようです。元は真言宗でしたが、一度荒廃して再興した後は浄土宗になっています。

Nyoirinji_11さて、ここには後醍醐天皇陵があります。塔尾(とうのお)陵とも呼ばれています。手許に本物の三種の神器を有すると主張し、南朝として吉野で執政をしつつ自らの子を各地に送り込んで幕府に対抗しましたが、延元4年(暦応2年、1339)、京都への復帰は叶わず吉野の金輪王寺(御所)で死去しました。享年52。

「たとえ骨が『南山』(吉野)の苔に埋もれようとも、魂は常に『北闕』(京都)の空を飛ぶだろう」(意訳)との言葉を遺したとされ、京都復帰への並々ならぬ思いを抱いたまま世を去りました。墓も、陵墓としては唯一京都方面である北を向いています。
一方、足利尊氏は天竜寺を建立して供養しますが、以後も足利将軍家は後醍醐の「怨霊」を恐れ続けることとなったようです。たとえば足利義政は、東山山荘(現在の銀閣寺)に後醍醐の位牌を祀っていたそうです。

時期のせいもあったでしょうけれども、歴代で最も有名とも言える天皇の墓所にしては、ひっそりとしていました。
まあ、陵墓は正直観光には不向きとはいえますが…。

Nyoirinji_14こちらは、その傍らにある世泰(ときやす)親王陵。南朝3代目の長慶天皇の子。ただ、墓は後世に造られたもののようです。


Nyoirinji_9このお寺にまつわるエピソードに関わるものとして、墓の下には、楠木正行(まさつら)の髻(もとどり)塚があります。
正行はご存じ楠木正成の子で、南朝方の有力武将として河内国を本拠に活動した人です。勢力を失いつつある南朝方にあって、山名・細川連合軍を打ち破るなど奮戦しましたが、正平3年(貞和4年、1348)に河内国四條畷(現大阪府四條畷市)での戦いにおいて、幕府軍を率いる高師直・師泰兄弟に敗れて自害しました。その勢いに乗った高師直らは、一挙に吉野まで攻め寄せて、吉野は灰燼に帰したとも言われています。南朝の天皇だった後村上天皇(義良)は、吉野からさらに山深い賀名生(あのう、現奈良県五條市[旧南吉野村])に逃れています。

さて正行は四條畷へ合戦に赴く際に後醍醐陵に参拝しており、遺髪として奉納した髻を供養したがこの塚だとされています。
また、その折りに決死の覚悟を示すため、如意輪堂(如意輪寺の本堂)に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」という辞世を刻んで行ったとされています。負けるとわかっていながら決戦に臨む姿は、軍記物としては打って付けの題材ということになりますかね。

ちなみに宝物館や庭園、多宝塔などもありますが、時間の都合などで今回はパスしました。本堂はあいにく修理中で覆われていたため、写真は載せません。今の本堂は、近世初頭の築のようです。

■奈良県吉野町

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2009.11.13

吉野水分神社・世尊寺跡

MikumariMikumari_3吉野の中心部からさらに奥へ。急な山道を登ってゆくとあるのが水分(みくまり)神社。創建年代は不詳ですが、延喜式内社であり、古代から神社として存在していたことは確かかと思われます。
名前と立地から考えて、水源地に建てられた神社ということかもしれません。

この神社もやはり金峯山寺との関わりが強く、修験道場としての役割を担っていたようです。かなりの山中にあるので、実際に神社の周辺で多くの修験者が往来していたのかもしれません。
現在では、「みこもり」と転じて子授けの神として信仰されているそうです。

Mikumari_6Mikumari_10社殿は一括で重要文化財に指定されています。左写真が本殿。
社殿は慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって建てられたものです。本殿は三つの社が繋がっているような造りで、珍しい様式をしています。中央は春日造りで、左右は流造りだそうです。
祭神は、木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝)。建長3年(1251)のものですが、公開はされていないようです(こちらに写真があります)。

右写真は、本殿築造と同時期に秀頼が寄進したという釜です。

Sesonjiato_3Sesonjiato_5少し下ったところに、世尊寺という寺院の跡があります。
寺院は跡形もありませんが、右写真の「三郎鐘」と呼ばれる梵鐘(重要文化財)が残されています。銘によると、保延6年(1140)に平忠盛(清盛の父)が寄進したもので、母の菩提を弔うためであったことが記されています。

Sesonjiato_1そして、以前一度掲載しましたが、世尊寺跡からの眺めがこちら。吉野の中心部が一望できます。

ここからさらに登ってゆくと、源義経が潜んだと言われる金峯神社があるものの、時間の都合でそこまで行くのは断念。山道を相当登るようで、そもそも行けるかどうか不安なのでやめた、というのが正直なところですが(笑)。

■奈良県吉野町

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2009.11.12

吉水神社

Yoshimizu_4Yoshimizu_8金峯山寺から少し歩くとあるのが吉水(よしみず)神社

今は神社になっていますが、かつては金峯山寺の子院で、吉水院(きっすいいん)と呼ばれていました。維新後に神社となり、後醍醐天皇と楠木正成を祀っています。
というわけで、本殿をはじめ神社らしい建物もあるのですが、どちらかといえば寺院の雰囲気を濃厚に残しています。

後醍醐院が吉野へ逃れた際、まずはじめに居所としたのがこの吉水院でした。彼を迎え入れたのは、院主だった宗信という僧侶で、神社では彼も祭神としているようです。

Yoshimizu_7Yoshimizu_10左写真の書院(重要文化財)は、後醍醐院が吉水院に滞在した際、居所とした場所と考えられています。鎌倉期のものとされており、現存最古の住居建築とも言われているようです。現在、内部には書院造りの様式も見られるようですが(だから「書院」と呼ばれている?)、これは室町期の改変によるものと思われます。

源義経主従もここに潜んだという伝承があるそうですが、その辺の実否やいかに…?

右写真は、「秀吉花見の本陣」。文禄3年(1594)に、豊臣秀吉は豊臣秀次以下総勢5000人をも随えて吉野に参詣して花見をしており、その場所がここだったとされています。訪問時期は夏だったのでよくわかりませんが、今も花見の名所なのでしょうか。ちなみに、その様子を描いた「吉野花見図屏風」がいくつか現存しています(こちらをどうぞ)。

Yoshimizu_13Yoshimizu_12こちらは吉水神社参道の向かいにある東南院の多宝塔。そこに、右写真の鰐口が掛かっています。永禄7年(1564)の銘があるそうです(直接は見えませんでした)。

■奈良県吉野町

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2009.11.11

秋深く、またもダレ気味

ITunesの文字化け問題が全然解決されないので頭に来ていたのですが(こちら参照)、こちらを見ると解決法が書かれていました。
それによると、ファイルに数行追加すればあっという間に直るらしい。

試してみたら、ほんとに文字化けが直りました。作業時間5分足らず。
アップルはユーザー側の不具合と認識している模様ですが、JIS2004はMSの正式フォントなのでお門違いもいいところ。見識を疑う。
やっぱり、この会社の母国における文字に対する意識の問題かしら?

2,3ヶ月前から続く自宅のデスクトップの不具合(突然落ちる)が一向に改善する気配がないので、そろそろ買い換え時かなと思って量販店で価格動向を見て回るんですが…、今やデスクトップは全然並んでませんね。いわゆる「ネットブック」にスペースを奪われてしまったようです。
これだけノート型が流行しているのは日本だけらしいという話も耳にしますが、すっかりノートがパソコンの主流の地位を確実にしたといったところでしょうかねえ。未だ、自宅ではデスクトップ、という自分の意識はもう時代遅れなのかもしれません。

でも、やっぱりデスクトップが欲しい。
ネットで買った方がいいのかもしれませんねえ。まあ懐具合を勘案するとまだ踏ん切りが付かないので、しばらく様子を見たいと思います。
とか考えていると、最近パソコンはあまり落ちなくなりました。スクラップにされそうなことに気づいたのかしら?(笑) まあ、涼しくなったためかと思いますが。
マウスも奇妙な動きをし出したし、作業環境の更新をすべき時のようです。

史料めくりをしていますが、やっぱり簡単には行きませんね。構想していたネタは、先行研究で既に使われている史料だけで突破口を探るしかなく、新出史料を発掘できる余地はなさそうです。こりゃ断念するしかなさそうですね。さすが大家の牙城は難攻不落…。
違うネタを探さないと。懊悩の日々。

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2009.11.09

金峯山寺

Kinpusenji_16Kinpusenji_2吉野の中心、金峯山寺(きんぷせんじ)です。
元は修験の道場として開かれた寺院で、役行者を開創としています。本来はさらに奥にある山上ヶ岳(奈良県天川村)も合わせた地域を霊場としていたようです。

平安期には浄土信仰とも結びつき、藤原道長や白河院などの権力者も参詣するほどの勢力を築いています。これには醍醐寺を開いた真言僧の聖宝(しょうぼう)が大きく関与しており、その縁から、中世においては醍醐寺系の修験道場(当山派)として発展しました。
京都を逐われた後醍醐天皇が吉野の地を当てにしたのも、単に山深いということだけではなく、武力をも有する修験道場の存在が大きかったと思われます。

近世になると同じく修験道場を系譜とする日光の輪王寺の傘下となったようですが、維新後は修験を禁じられ、山奥の古刹として今に続いてます。

左写真は仁王門(国宝)。築造年代は不明ですが、下層は延元年間(1330年代後半)、上層は康正年間(1450年代半ば)のものと推定されています。安置されている仁王像は、阿形は延元3年(1338)、吽形は延元4年(1339)に造られたものだそうです。

右写真は本堂でもある蔵王堂(国宝)。天正20年(1592)築。豊臣秀吉の援助によって再建されたものです。なにせ巨大。東大寺大仏殿に次ぐ規模とされています。

KinpusenjiKinpusenji_19左写真は、参道にある黒門。総門に当たり、ここから内側は商店が建ち並んでいます。

右写真は、銅鳥居(重要文化財)。『太平記』には正平3年(1348)に焼亡したとの記述があり、その後再建されたものと思われますが、宝永3年(1706)に火災に遭い、正徳元年(1711)にさらに再建されたものです。銅製鳥居としては現存最古のものとされています。
修験道場の内外の結界を示すものと言われていますが、神仏習合(というか、融合に近い?)の雰囲気が残る建造物です。

Kinpusenji_5Kinpusenji_8再び境内へ。
左写真は、蔵王堂の前にある銅灯籠(重要文化財)。私は確認できませんでしたが、銘によると、文明3年(1471)に妙久禅尼という人が寄進したものであることがわかるそうです。保存状態もよく、意匠もなかなか凝っているように見受けました。
蔵王堂正面には、仁王門とは別にかつて二天門のあった跡が残っています。ここが村上義光が自害した場所とされていて、今はそれを示す石碑も建っています。

右写真は、蔵王堂の脇にある威徳天満宮。天徳3年(959)の創始とされています。当然ながら菅原道真が祭神なわけですが、社伝によるとむしろ道真を左遷した醍醐天皇の供養をする主旨が強いようで、この辺は醍醐天皇を意識した後醍醐院との関係もあるのかもしれません。
今の社殿は桃山期のものとされ、豊臣秀頼によって改修されたと伝わっています。1998年の台風で被害を受けたそうですが、復旧しました。

Kinpusenji_14そして、蔵王堂からほど近くにあるのが、「吉野朝宮跡」。元は実城寺という寺院だったそうですが、南朝天皇が御所とした所です。

延元元年(建武3年、1336)に後醍醐院は京都から吉野へ逃れ、この地に移って寺号を「金輪王寺」と改めて居所としました。延元4年(1339)に死去するまで、ここで過ごしたと言われています。
ちなみにこの「金輪王寺」は、近世になって江戸幕府が寺号を日光に移したため元の実城寺に戻り、維新後は廃仏毀釈で廃寺になったそうです。

当時と今とでは地形が多少変わっている可能性もありますが、現地に行くとずいぶん手狭な感がしました。いかにも「雌伏」という言葉が似合うような場所、という印象です。

■奈良県吉野町

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2009.11.08

吉野神宮と村上義光墓

YoshinojinguYoshinojingu_2これより吉野に入ります。
史跡かというと微妙なところですが、まずは吉野神宮。吉野の里の入口に当たる所にあって、広大な敷地で静寂感が漂っていました。

後醍醐天皇を祀る神社ですが、創建は明治25年(1892)。近代における宗教政策というか、国家神道との関わりの深い所といえます。境内には、南朝の遺臣を祀った社も置かれています。

Yoshinojingu_8Yoshinojingu_9こちらは、吉野神宮の近くにある村上義光(よしてる)墓。信濃の村上氏の出身で、今のところ『太平記』でしか確認できないようですが、護良親王に従った“忠臣”として知られています。元弘3年(1333)に吉野に籠もって鎌倉幕府と戦いますが、吉野が二階堂貞藤(道蘊)によって落とされると、護良の影武者となって吉野の中心部にある金峯山寺蔵王堂前で自害しました。

墓の隣にある右写真の石碑は、天明3年(1773)に大和高取藩士の内藤景文が建立したものだそうです。
宝篋印塔そのものはいつものかはわかりませんが、石碑と同時に建てたのでしょうかね?

■奈良県吉野町

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2009.11.05

栄山寺

Eizanji_8五條の名刹である栄山寺。寺伝によれば、養老3年(719)に藤原武智麻呂が開創し、その菩提寺とされています。吉野川のほとりに佇むお寺。当初は「前山寺」と呼ばれていたそうです。

武智麻呂を祖とする藤原南家代々の菩提寺となっていて、南北朝期には南朝天皇の行在所ともなっていました。現在は国史跡。
このお寺は今はひっそりとしている感じでしたが、全国的に見ても有数の古刹で、古代以来の文化財が今なお遺されている貴重な所です。ただし、伝来した文書は現在歴博が所蔵しているようです。
写真は本堂。本尊の薬師如来像(重要文化財)は永享3年(1431)のものです。

Eizanji_9Eizanji_5まずは石造物二点。
左写真は、本堂の前にある石灯籠(重要文化財)。弘安7年(1284)の銘があり、当初の姿をよく残しており貴重なものです。意匠は「栄山寺型」と呼ばれる独特のもののようです。

右写真は、奈良時代のものとされる七重石塔婆(重要文化財)。全国的にも最も古い石塔の一つとされています。

Eizanji_4Eizanji左写真は、塔之堂(大日堂)。室町期のもの。写真にある通り、看板には「重要文化財」と書かれているものの、文化財データベースで探しても見つからなかったのですが…。最近指定されたとかでしょうか? いずれにせよ、中世の建造物として貴重です。

右写真は、目玉の一つの梵鐘(国宝)。銘文は菅原道真の撰で小野道風の書と伝わっています。銘により、延喜17年(917)のものであることがわかっています。元は伏見の寺にあったものを、武智麻呂の子孫である藤原道明が寄進したとされています。龍頭の精巧さは随一で、京都神護寺・宇治平等院の鐘とともに「平安三絶の鐘」と言われています(パンフレットによる)。

Eizanji_12そしてこちらがメインともいえる八角円堂(国宝)。「恵美押勝」こと藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が父母の追善供養のために建立したものです。なんと奈良時代の建築物で、築1200年以上。現存最古のものとして法隆寺が知られていますが、匹敵するほどの古さに驚きです。
外観は八角形ですが、内部は四角形になっています。内部(内陣)には装飾画(重要文化財)が遺されていますが、剥落が激しかったのは気がかり。天平期のものとしては唯一だそうで、太っ腹にも開け放して公開されているのですが、そろそろ保存の手段を考えるべきではないでしょうか…。

このほか、木造十二神将像(重要文化財)も所蔵。また、裏山には藤原武智麻呂墓所があります。

奈良県は当然ながら文化財の宝庫なわけですが、数だけではなくて、ほかの地域とはやはり格が違いますね。

■奈良県五條市

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2009.11.04

いざ鎌倉

KamakuraekiYuigahama_1二日間かけて鎌倉へ行ってきました。
鎌倉はかれこれ十数年ぶり。東京に来て以来行かずじまいでしたが、一念発起してやっと訪問できました。

偶然だったのですが、円覚寺と建長寺では、「風入れ」で宝物を公開していたのが幸運でした。しかも円覚寺では舎利殿の近くまで行けたのが収穫(撮影禁止だったのは残念でしたが…)。公開していた円覚寺の文書は圧巻。尾張国富田荘の絵図が目に入った時は、思わず感嘆の声を出してしまいました(いかにもアヤしい人な風情)。満足。

初日は北鎌倉をくまなく回って、扇谷を経由して鎌倉駅まで歩く。写真の駅の風景は、その際の暮れなずむ時間帯のもの。その後は近隣のお仲間のお宅にお世話になり、宴会(ありがとうございました)。そして宿泊。

二日目は鎌倉駅から由比ヶ浜まで歩き(右写真)、さらに大町周辺と二階堂の方を廻りました。鶴岡八幡宮と大仏はパスするというマニアックなコース。もっともこれらも久しぶりに見に行きたかったのですが、時間の都合によりまた今度、ということで…。

二日間で結構歩きました。筋肉痛が辛い(笑)。それにしても、鎌倉はとても一日二日では廻りきれません。また近々再訪したいところです。
どちらかといえばオフシーズンなものの、凄い人出でした。特に小町通りは昔から有名とはいえ、すっかり雰囲気が一変したような気もしましたが、どうなんでしょう。混み合う鶴岡などは避けて正解だったかもしれませんねえ。

さて、心機一転したことで、性根を入れて本業をがんばります…。

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2009.11.01

アジール「復権」への挑戦

夏目琢史『アジールの日本史』(同成社、2009年)受贈。ありがとうございます。
著者は後輩。ベースは卒論だそうで、驚目至極です。

様々なアジールに関する研究を要領よくまとめています。私もそうでしたが、若いうちはいわゆる“堅い”話をしてみたいという思いがあったのでしょうか、実証に傾注するというよりは、思想史的なアプローチに貫かれている印象を受けます。つまりは、アジールの実態を歴史的に検証するというよりも、これまでどのようにしてアジールが捉えられてきたか、といった視点が本書のテーマのように感じました。

そういう意味では、著者にとっては、これからの研究の指針を示すいわば見取り図のような位置づけになるのでしょうか。卒論という性格からすれば、それはそれで見識ではあるでしょう。
ただ、一般的に著書というのは、これまでに積み重ねた研究をベースにして提言をするという性格のものという理解が私にはなお存在するので(古くさい、といえばそうかもしれません)、この時点で著書を出版すべきだったのかということについては、他人事ながら少々懸念がないでもないです。見取り図が「足枷」にならないことを祈ります。

さて、ほかの地域・時代のことについては詳しくないので、日本中世について言及している箇所について一言。
戦国期の事例を中心として、寺社のアジールについて説明していますが、私は少々違和感があります。本書も示している通り、研究史においては、アジールを示す具体的な事例として寺社への守護等による検断不入を認めていたことが挙げられます。この寺社の検断不入については、中世ではわりとよく見られる事例ですが、これをアジールという概念で説明することが適当なのか、私はかねてより疑問がないでもありません。基本的には、これらは寺社による検断の優越性を確認するものであり、駆け込んだ人々が検断を免れて網野善彦さん流の「自由」になるわけではないと考えるべきではないか、と思っているわけでして…。

少なくとも中世における寺社の持つ機能については、アジールや「無縁」というやや手垢の付いた理念で説明するよりも、寺社が独自の検断権を保持し、それが外部権力にも認められるという、いわば権力の主体でもあるという側面から分析する必要があるのではないか、という気がしています。(もっとも、私がアジールという理念を誤解している可能性もあるのですが。)

ともあれ、網野・阿部謹也両氏(そして、いわゆる社会史)が論壇から去ったためにやや低調になった議論ですが、果敢に挑戦しようとする姿勢は見習いたいところです。今後の展開を待ちたいと思います。

4886214916アジールの日本史
夏目 琢史
同成社 2009-08

by G-Tools

本書の内容とは直接関わりませんが、やっぱり写真はもうちょっとどうにかした方がいいと思います(笑)。いくらなんでもピンぼけはまずいような…。失敗した写真はあえて掲載しない、という「勇気」があってもよかったのではないでしょうか。

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