2008.05.16

訃報 角田文衞氏

考古学や古代史の泰斗で、古代学協会をリードしてこられた角田文衞さんがお亡くなりになったそうです。
日本古代史では知らぬ者の無い大学者ですが、それのみならず、海外での発掘調査にも精力的に参加され、知見をお持ちであったことは、とても凡百には真似できない功績ではないかと思います。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 考古学と歴史学を統合した「古代学」を提唱し、海外の発掘調査も率いた考古学者、角田文衞(つのだ・ぶんえい)さんが14日、急性呼吸器不全で死去した。95歳だった。
(中略)
 福島県出身。京都大卒業後、戦前のドイツ、イタリアに留学。戦後、大阪市立大で教えた。51年に古代学協会を設立し、67年に平安博物館(現・京都文化博物館)をつくった。
 平安京跡などのほかエジプト・アコリス、イタリア・ポンペイの各遺跡の発掘調査を手がけた一方、紫式部、清少納言ら平安女性文学の独創的な研究など、業績は多岐にわたる。京都の冷泉家の典籍・古文書類のリストづくりと財団法人化などにも尽力した。
 著書に「古代学序説」「平家後抄」「ヨーロッパ古代史論考」、編著・監修に「古代王権の誕生」などがある。
―http://www.asahi.com/obituaries/update/0515/OSK20080
5150077.htmlより

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2008.05.14

深大寺

Jindaiji_8Jindaiji_1今年のGW中に、深大寺(東京都調布市)に行きました。予想以上の人出で少し面食らいましたが、なんか人並みの休日を過ごせた感じです。
メインはそば、じゃなくて(いや、それもメインですが(笑))、深大寺城跡。16世紀前半に扇谷上杉朝定が後北条氏対策のために築いた城で、都内では珍しくわりと遺構が遺っているところです。詳しくはこちら参照。

Jindaiji_5Jindaiji_21左写真は一の郭(本丸)と二の郭を隔てる堀の跡。結構しっかり遺っています。右写真は二の郭。腰掛けのように利用されている(笑)杭のようなものは、柱穴跡です。

Jindaiji_29もちろん深大寺にも参拝。写真の山門は現存する最古の建築物で、元禄8年(1695)築とされています。ほかの堂舎は幕末に焼けてしまいましたが、この山門だけは遺ったそうです。
本尊は奈良時代のものとされる銅仏(重要文化財)で、ガラス越しに見ることができました。梵鐘(重要文化財)が永和2年(1376)鋳造だったそうなんですが、見逃した…。無念。

ちなみに、わりと有名な?鬼太郎茶屋は素通り。

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2008.05.09

研究史回顧が花盛り

えー、しつこいようですが、5月31日(土)の「室町殿」ミニシンポへのお運びをお待ちしております。
ところで、足利義満は応永15年(1408)5月6日に死去しました。これを新暦に換算すると、1408年5月31日なんだそうです。なんと、ちょうどミニシンポの日が600年忌の日となります(笑)。ま、単なる偶然ですが。

さて、来週はいよいよ歴研大会ですが、今年も飲み会三昧というか、飲みまくります(笑)。いつからの伝統なのかわかりませんが、これだけ飲みのスケジュールが分厚い学会(部会)もほんと珍しいですね…。
対象となる時代は、主に院政期と南北朝期。うまく時代の転換期をめぐって議論になるとよいのですが。

で、その翌週は国史学会で鎌倉期のシンポジウムがあるそうで。ここでも政治史の研究史について議論が交わされるようですが、その翌週の上記ミニシンポにも参加すれば、戦国期以前の中世史を通時代的に学ぶよい機会となるわけです。
もちろん国史学会と特に示し合わせていたわけではないんですが、日程面も含めて、うまくできているもんだなぁ、と。

そして、7月には東大の中世史研で『室町・戦国期研究を読みなおす』の書評会が予定されているそうです。企画に向けて動いているという噂は耳にしていましたが、報告者の顔ぶれを拝見するに、是非とも拝聴したいところです。
ここで戦国期も含めた議論を聞くことができれば、中世史研究の現状に関してこの上ない耳学問の機会を得ることになるのではないか、と。専門家の皆さんはもちろん、できれば卒論・修論を控えた学部生やマスターの若い人たちに積極的に参加して欲しいところです。

このところ、研究史の再検証が一気にブームになった感がします。そのきっかけが何であったのか、背景になにがあるのかは、“同時代人”としての私にはまだ掴みかねているところなんですが、これをきっかけとしてどのような新しい方向が見出せるのか、注目していきたいと思います。もちろん、私も積極的に割ってはいることができればいいんですが…。
以前大家がおっしゃっていたように、10年後ぐらいに今の歴史研究の総括が進むならば、そこでどのような評価が下されることになるのでしょうかね。

なお上記研究会の案内は、私の把握できている限りHP掲示板にて紹介しておりますので、ご参照ください。

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2008.05.07

対馬(12) 金田城跡(遠望)

KanedanokiKanedanoki_1美津島町の浅茅湾沿岸には、古代の城郭遺跡である金田城(かねたのき)跡があります。国の特別史跡に指定されています。
『日本書紀』によると、白村江の戦(663)で敗れた後、天智天皇6年(667)に大和・高安城(奈良県平群町)、讃岐・屋島城(高松市)とともに、この金田城が築かれたという記事があるそうです。
私は結局上まで登らなかったのですが、登った方々によると、実に立派な遺構が遺っているそうです。こちらに、写真が紹介されています。

下から見るとすごい峻険な感じでしたが、実際はそれほどでもないらしいです。でも、20分程度は登るそうですが。

Kaneda健脚自慢の方は是非観光ルートにどうぞ。

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2008.05.06

対馬(11) 土寄崎

Osakisoda_2Osakisoda_2_2美津島町尾崎へ。対馬は中部に多島海である浅茅(あそう)湾が広がっていますが、その湾口の南側に当たる地域です。
ここはかつて「土寄崎(つちよりざき)」と呼ばれた所で、14~15世紀にかけて活発化した倭寇の首領的存在である早田(そうだ)氏の本拠地とされています。そして倭寇対策に悩む朝鮮王朝が、応永26年(1419)にこの地を襲撃しました。「応永の外寇」(己亥東征)と呼ばれる事件です。

Osakisoda_1この尾崎地区にある水崎遺跡の発掘調査によって、15世紀前半のものと思われる陶磁器が大量に見つかりました。しかもそれらには火災にあった痕跡があり、応永の外寇との関連を窺わせる貴重な資料となっています。
陶磁器は90%が海外からの招来品だそうで、うち70%以上が朝鮮産とのことです。ほかにベトナムやタイ産と思われるものもあり、海の交流の活発な様子が窺えます。また出土した銭貨のうち、55枚中14枚が日本ではあまり使われない大銭(大型の銭)なのだそうです。
できればこの遺跡の発掘報告書が欲しいところですが…。情報求ム。

Osaki参考文献:国立歴史民俗博物館企画展図録『東アジア中世海道』(同博物館編集・毎日新聞社発行、2005年)

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2008.05.03

実証と推論

先日とある研究会に出席したのですが、報告内容に少々首を傾げることがありました。

歴史学の基本中の基本が実証にあることは疑いないことですが、私自身は、実証さえしていればよい、とまでは思いません。史料では追い切れない重要な問題点があるならば、ある程度推論の形で主張することも必要だと思っています。

とはいえその推論が説得力を与えるかどうかは、当然ながら基礎となる実証作業があってこそで、その基礎が出来ていないまま推論を重ねても、それは妄想でしかない。というか、聴衆には決定的にその印象を植え付けてしまいます。

そして、歴史学の方法論においては、どうしても研究者個々の主観が入ってしまう、というのもよく言われる話です。徹底的に主観を排除することができるとは思いませんが、個々の論証において自らその主観的な理解を自覚することは必要なわけで、それは報告時に聴衆との討論のなかから把握してゆくことができるのではないか、と。

そういう意味では、個人的には積極的に口頭報告をするべきだと思っているんですが、逆に言えば、そこで“聞く耳”を持たないならば口頭報告なんてすべきではない、と思います。
もちろん理不尽な「批判」も時にはあったりしますけれども、どれだけ自らの論が“客観性”を得られているかを確認するためには、まずは自らの論に対して自らが客観的(=謙虚)であろうとする態度が不可欠。それが無ければ、時間の無駄でお互い疲れるだけです。

そんなことを聞いていてふと思いました。自戒したいところです。

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2008.05.02

郡内地域散策

Iwadono_16Tsuru_8なんだか恒例化したかのように、今年の春も山梨へ行ってきました。今回は郡内地域をということで、比較的東京寄りの所へ。
メインは岩殿山城(山梨県大月市)。左写真のような断崖の脇を登るわけですが、これがまたきつかったです。気温も高く、途中で熱中症になりかけました…。

その後は小山田氏の本拠地、都留市(昔は「谷村(やむら)」)へ。菩提寺(右写真は伝・小山田信澄の墓)や勝山城跡などへ。私はこの地域について実はあまりイメージがなかったんですが、有名な史料の「勝山記」の勝山ってここのことなのかと同行メンバー間で話していたものの、実は違うらしい(笑)。所蔵している富士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町[旧勝山村])とは場所が離れてますしね…。

この地域では富士吉田のうどんが有名ですが(こちら参照)、都留市内で入ったうどん屋もその系統だったのか、すさまじくコシが強くて美味でした。そういや写真撮るの忘れてたなぁ…。

例によって写真を撮ってきたので、紹介は対馬の後に。数ヶ月先になるかもしれませんけれども…。
ちなみに、富士山はまったく見えず。なんとか見えるという人もいたようですが。日頃の行いの違いでしょうか(笑)。

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2008.05.01

対馬(10) 小茂田浜

Komoda_4Komoda_3厳原町小茂田へ。小茂田浜と呼ばれるこの地区は、文永の役(1274)にモンゴル軍が襲来した元寇激戦地として知られています。旧佐須郡の中心地であることから、佐須浦として史料に出てきます。

右写真が、応戦した宗助国(資国)以下の諸士を祀る小茂田浜神社。在郷民が祠を建てたのがはじまりで、南北朝期に宗経茂が現在地に移して「軍(いくさ)大明神」として保護したと言われています。また元禄期に宗義真が神門や石碑を建立、明治になって小茂田浜神社となりました。

もっとも小茂田地区は、かつては入り江が入り込んだ浦だったとのことで、実際の激戦地は少し内陸に入った辺りだったというのが実態のようです。中世では塩田が広がっており、製塩を生業としていたことがわかっています。

Komoda_6Komoda_9小茂田から少し内陸に入った樫根地区の法清寺には、宗助国の墓とされる胴塚があります(左写真)。さらに少し離れた所には首塚もありました(右写真)。五輪塔の下半分が胴、上半分が首を表しているようです(笑)。胴塚は中世のものだったと考えられているようです。法清寺には平安期の木彫仏像が安置されていますが、見られず。

Komoda_5こちらは小茂田の集落にある譜門寺。宗助国の菩提寺とされています。

Sasu

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2008.04.29

対馬(9) 椎根の石屋根倉庫

Ishiyane_4Ishiyane_1豆酘から西岸を北上、といっても、海沿いの道は切れているのでほとんど山道ですが(笑)。
厳原町椎根へ。ここには対馬の伝統的な建物である石屋根倉庫がいくつか遺っています。

元々食料や日用品を保管するために建てられた倉庫で、対馬の各地にみられたそうですが、今ではほとんど見られなくなったそうです。
屋根に乗っている平べったい石(板石、「島山石」と呼ばれるそうです)は、対馬特有の石質で、石を屋根に置くことによって北西の強い季節風や雨露から守るために考案されたものだとされています。
起源がいつまで遡るのかはわかっていないようですが、少なくとも近世にはあったかも?

Sasu

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2008.04.28

締切、観戦、沈酔

この一週間はいろいろとありました。ただ、〆切に追われているので、細々とした話はまた機会があれば…。
それにしても、先週は酒量が半端ではなかったです。少々反省。

旧知のIさんより、加能史料編纂委員会編『加賀・能登歴史の扉』石川史書刊行会、2007年)受贈。ありがとうございます。
刊行中の『加能史料』の会報に新稿を加えたものとのこと。ふとしたきっかけから私も加賀で論文を書いたこともあって、それぞれのお話に興味津々です。
戦国期はまだ刊行途中ですが、この地域はわりと史料も豊富で、卒論・修論などのネタ探しにはおすすめです。

そして今季初観戦。ひでえ結末でしたが、まあそれなりに楽しめました。
観客の少ない雰囲気はなんだか懐かしかったです。不人気チーム同士のカードならでは(笑)。
ただ、またしばらくは行けないなぁ。去年もそれまでに比べてだいぶ減りましたが、今年はさらに観戦機会が激減しそうです。

〆切原稿を一つクリア。あと二つ。苦悶。
さらにまた書類が降ってくる。年度初めの恒例とはいえ、ほんと書類(論文ではない)を書くのは辛い作業です。秘書が欲しい。給料払えないけど(笑)。

この間、いくつか御本や抜き刷りをお送りくださっていますが、お礼が遅れております。申し訳ありません。もう少ししたら(歴研大会の頃?)一本活字が出来上がりますので、それまでお待ち下されたく…。

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