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2006.02.21

蓋然性を許容せざるべきか

『信長は謀略で殺されたのか』読了。先に触れた通り、本能寺の変「謀略」説をことごとく否定する内容となっているわけですが、あまたの「謀略」説がどれも説得力に欠けるということは、丁寧な「批判」でおおむね納得できました。
その手段としては、とにかく史料の裏付けの有無が重視されているようです。つまり、史料の裏付けに乏しい「謀略」説はいずれも史実とは言い難い、という流れになっています。
まぁ、確かにTさんの言うような「秘中の秘」だったためなんていう理由で済ませるのは、研究者としては自殺行為で傾聴に値しないと思いますが、かといって、明確な史料の裏付けが無ければすべて虚構だと言い切ることができるかといえば、必ずしもそうでもないように思います。学術的にも、史料的裏付けが確実ではないものでも、傍証を固めてあれば蓋然性が高いという理由で、それが事実として主張されますし、実際にそれが通説となっているものも少なくないと思います。

もっとも鈴木・藤本両氏もその辺は織り込み済みで、すべてにおいて蓋然性を否定しているわけではないとも思います。しかし「謀略」説の「一掃」においてはなぜか極端な姿勢を取っています。とはいうものの、なぜそこまで極端な姿勢で「謀略」説を否定するのか。その目的が正直言ってよくわかりませんでした。
学問として本能寺の変を見れば、「明智光秀が織田信長を殺した」という事実の一点だけが、この事件に対して与えられた歴史的評価でしょう。なので、あくまで学術的側面を重視するのであれば、「黒幕」の有無を議論することとか、光秀がどのようにして信長を殺したか、とかいうのがどのような歴史的意義を持つのかを強調すべきのように思いました。単に一般人の抱く「虚像」を潰して回り、歴史マニアの「夢」を奪うだけなら、それにいかなる意味があるのだろう?とやや疑問を持ちます。
あと、これは言っても詮無いことですが、事件の具体的経緯に関する記述について、やや推測の多いことが気になります。この姿勢は、本来はそんなに気にするべきほどのものではないですが、両氏があえて徹底的に批判する姿勢であるだけに、余計に気になりました。自分で自分の首を絞める結果になってはいないでしょうかね。
一応具体的に一例を出しておきますと、光秀が「信長殺し」を打ち明けるタイミングについて、何の知らせもなしに京都に向かえば「明智軍のなかに不審が広がってもおかしくない」(64頁)と推測する一方で、その理由の通知が「全軍に徹底しなかった」(65頁)というのは、どのように整合的に解釈すべきなのか、私にはわかりませんでした。情報伝播をかなり重視されているようなので、ここは結構重要な問題ではなかろうかと思うわけですが。

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