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2006.07.31

蓋然性への恐怖

蓋然性について以前ちょっと触れたことがありますが(参照)、私はどうもこの蓋然性の活用が下手ではないか、と思うようになってきました。以前の記事では言及した書籍について、蓋然性をやや否定的に見ているのではないかと批判的な感想を述べましたが、私自身その立場に固執しているような気がしているわけです。

歴史学の論証手法は、言うまでもなく史料解釈及び史料批判による「実証」です。虚心に史料に当たり、史料に基づいて論証すべきであるということは、歴史学徒であれば基礎の基礎として叩き込まれます。もちろんそれは大原則なんですが、しかしそのことによって、「史料に無いことは書けない」という命題が正になるわけではないように思えるわけでして、そこらへんのことを理解はしていても踏み出せない一線になっているのではないか、と。

とある方にかつて「ずいぶん禁欲的だ」と言われたこともありますが、この意味するところは一つにその辺のことを指しているのでしょう(もう一つは、なるべく先行研究批判を避けようとする性格的問題か)。「この史料からこういうことが言える」という組み立て方ではなく、「この史料でここまで言えるのかなぁ」というネガティブな思考に支配されていて、どうしても窮屈さを感じてしまいます。
これが私の文章に、如実に弊害をもたらしていることを自覚しはじめました。要するに先行研究のパッチワークをやってるだけで、オリジナルな「論」が無いんですね(笑)。史料を探して知られていなかったことを明らかにした点は褒められるんですが、でも「論」がないよね…っていう評価になりがちなようです。

このもやもやを打破するには、「空論」の批判を怖がらずに、思い切って多少無理なことも言ってしまえ(そして言葉が悪いですが先行研究もボロクソに言ってしまえ)ってことなんでしょう。もちろん本当の空論じゃダメなわけで、そこで蓋然性という物差しを正しく利用する必要が出てきます。しかし私の持つその物差しは、ほかの人の物差しより長すぎやしないだろうか。大丈夫だろうか。うーむ。

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