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2006年8月

2006.08.26

初めての常陸(2) 鹿島城跡

Kashimajo06鹿嶋市の鹿島城跡です。といっても写真ではただの原っぱにしか見えませんが(笑)。
常陸平氏大掾氏の一族で、この地域の地頭となった鹿島氏の居城です。同時に南北朝期には鹿島神宮の惣大行事職になっているそうです。
写真は本丸跡。かなり広大です。大永3年(1523)に鹿島義幹が拡張したとか。この下にも広大な二の丸・三の丸があったようですが、現在は宅地化しています。
Kashimajo02ここの外堀は圧巻だったのですが、しょぼいカメラだと全然雰囲気が掴めません…。こことかに雰囲気のわかる写真が掲載されています。
Kashimajo04
城から西を見た景色。見えているのは北浦で、手前側の橋のたもとが、中世では大きな湊であった大船津です。
Kashima01城跡の近く(二の丸跡?)にある護国院の板碑。関東ではよく板碑が見られますが、常陸では珍しいそうです。

ちなみに鹿島氏は、例の佐竹義宣の陰謀によって当主が暗殺され、天正19年(1591)に一旦滅亡しました。ただ庶子の系統が残り、近世においても鹿島神宮の惣行事職が継承されたそうです。城の麓にある根本寺に、今も鹿島氏の墓があります。余談ながら、剣豪として知られる塚原卜伝(高幹)は鹿島神宮の神官の家の生まれで、鹿島氏の一族塚原氏を継いだそうです。

2006.08.23

歴史的悲劇のエネルギー源

うさたろうさんのところで話題になっている靖国問題。
せっかくなんで、こちらに書いたコメントを改訂して転載。

根拠に乏しい話ですが、20代までの若者にとって、おそらく自らの人生において身近に存在した権威的存在というのは、教師だけだっただろうと思うわけです。社会的にドロップアウト気味な層にとっては、彼らの不遇の責任を社会に求めようとした時、具体的に浮かぶ「巨敵」というのは多分、戦後民主主義、時には左翼的思考を説く教師になってしまう側面もありそうに思えます。
すべての人がそうだとは思いませんが、彼らが「巨敵」に対して「自虐」をキーワードに攻撃することによって、自らを不遇に貶めた社会に対する“レジスタンス”になぞらえて陶酔している面もあるのだろう、と思います。

この話、先日の某新聞に同じようなことが書いてあってふと浮かんだ感想です。とはいえ私らの世代でも、せいぜい未成年のうちは同じ環境だったと思うわけですが、なぜ今と昔は違うのか、という問題を考える必要がある点で、この「説」はまだ難ありです。社会環境の違いなのか、家庭環境の違いなのか、…色々要素はありそうですが、専門家ではないのであまり突っ込んだ分析は出来ません。結局ネットのせいになっちゃうのかなぁ。安易にそこに理由を求めるのは、やや抵抗もあるんですが…。

ちなみに私自身は、特に高校生の時は教師の持つ「権威」にはあまり不快感を持っていなくて(わりと仲が良かったためでもあるでしょう)、横並び主義的な同級生の雰囲気を極端に嫌悪していました(単純に仲が悪かったせいもあるでしょう(笑))。
そういう意味では、おそらく深層ではネチズンの悪弊に対する懸念が強い方だと思うわけで、歴史的には帝国主義的状態よりも、ファシズム的状態の方がより悪質で不幸である、という一種のイデオロギーが私には根付いているようです。その点では、政治家の排外主義的言動よりも、それを直接的にしろ間接的にしろ、支持してやまない大衆動向の方が、より危険に感じています。

戦争問題に引きつけて言えば、日本国民はA級戦犯が責任を被ることで、国際社会から免罪されました。それをいつまでも引きずって良いのか、という批判は批判としてありだと思います。しかしA級戦犯を東京裁判の妥当性の有無にまで遡及した上で罪から解放してしまうことは、自ら歴史の精算を拒否するということであり、代わりに国民が自らその責任を負うことの表明であるという自覚をせねばなりません。
かの戦争は軍部の暴走という視点が重視されており、確かに契機はそうなんですが、それを下支えしたのは明らかに「国民感情」の存在であったことを、決して忘れてはいけないと思います。

2006.08.22

初めての常陸(1) 長勝寺

Choshoji02最初に行ったのは潮来市の長勝寺です(後ろ姿なのでご勘弁いただけると思うのですが…、被写体の方からクレームがあればこの写真は差し替えます(笑))。
文治元年(1185)に、源頼朝が戦勝祈願のために建立したと伝えられていまして、禅宗寺院としてはかなり早い時期に建立された寺院です。鎌倉後期になると常陸守護の小田氏を押しのけて得宗家がこの地域に勢力を浸透させたそうで、最末期には北条高時が千葉氏との発起によって、頼朝の追善のために梵鐘が奉納されています。
Choshoji03これがその鐘です(重要文化財。ちっちゃく写ってますが)。梵鐘銘に、元徳2年(1330)に奉納した旨が刻まれているそうです(実見した人談)。
Choshoji05なお本堂とこの写真にある山門について、様式は桃山建築とされていますが、実際の築造年代は不明で、近世初頭ではないかと考えられているようです。水戸藩主徳川頼房・光圀親子のどちらかが再興に関与したものと見られます。山門は元禄13年(1701)に建てられたもので、近くにあった別の寺院の山門を移したものだそうです。
本堂(仏殿)は、元は鎌倉末期に建てられたと推定されており、元禄7年(1695)に徳川光圀・綱条親子が改修したものとされています。

面白いのは、12世紀後半という早い段階に禅宗寺院がこの地域に建立された点です。この地域は、鎌倉から陸を伝ってではなくて、やはり東に開けた海から様々な文化が入ってきたんだろうなぁ、という風に考えさせられます。潮来・鹿嶋はまさにその「内海」の入口に当たり、真っ先に先端文化の受容が見られたのでしょう。
…なんてことは、関連書を読めば書いてあるのでしょうけれども。
ちなみに、参道は今もまっすぐ延びていますが、当時はそのまま海に繋がっていただろう、とのことです。奥が深い。

<2009.11.11追記>
掲示板で頂戴したまつうらさんのご指摘に従い、斜体部分を追記しました。
取消線部分については、『茨城県の歴史散歩』(山川出版社、2006年)によると本堂は「桃山時代の手法がうかがえる」としています。従来の建築年代から推定された記述がされているようですが、近年の調査によって、その理解は再考が必要のようです。
なお、まつうらさんのコメントを下記に転載させていただきます。ご教示ありがとうございました。

「修理工事報告書によれば、本堂(仏殿といいます)は鎌倉末期(推定)に建立された堂を光圀・綱條親子が元禄7年に大改修したものです。最近、古材を歴博で調査してもらったところ、鎌倉末期の伐採の推定が出ました。この仏殿に使われている木鼻は古様を示しており、瀬戸内海地方の真言律宗に関係する寺院と似ていて、この地方に鎌倉時代後期に来た忍性との関わりがあるように思われます。山門は元禄13年の建立で長勝寺の近くにあった寺院の山門を長勝寺に移したものと判明しています。」

2006.08.20

初めての常陸

Kashima04茨城県の旧常陸国地域南部をまわってきました。要するに霞ヶ浦の東側ですが、中世では霞ヶ浦とかその東にある北浦も海だったと考えられていて、現東京湾沿岸と並んで「関東の内海地域」と言われているところです。
現地を訪れてもその独自性をイメージするのは結構難しいんですが、どこへ行っても興味津々。暑かったけど、充実していて楽しかったです。

その翌日は茨城県立歴史館でシンポジウム「中世東国における内海世界」拝聴。元々土地勘があまり無かったので、正直言って聞いても消化しきれないだろうなぁと思っていたんですが、予想に反して、引き込まれて聞き入っておりました。かえって常陸に対する興味が沸々とわいてきたりして、思わず売っていた『茨城県史料』が欲しくなったり(荷物になるので買いませんでしたが(笑))。関東在住のメリットを活かして、いずれ関東もフィールドにするために勉強したいなぁとは思っていたんですが、いいきっかけになりそうです。
常設展も観覧しましたが、わかりやすい展示を心がけているなぁといった感じでしょうか。展示物はやや少ない気もしましたが。

なお、写真は見ての通りアントラーズの氏神常陸一宮の鹿島神宮。折を見て、ほかに撮った写真も紹介したいと思います。

…さて、現実に戻ります(笑)。

(1)長勝寺(2)鹿島城跡(3)鹿島神宮(4)行方あたり

2006.08.17

ささやかな盆休みに

やっと博論の草稿がでけました。今月中になんとかと思っていましたが、予想より早くできてよかったです。もっとも、内容は書き上がりの早さに反比例している可能性が高いわけですが…。

実は先週末にあらかためどがついていたので、ここ数日はペースを落としてやや盆休みモード。明日からは水戸へ行ってまいります。常陸はほぼ初めて。前々から行きたかったので、楽しみです。ただ、ほんとはアンコウの季節に行きたかっ…ごほごほ。

2006.08.16

反「国益」ナルシスト

祖父も親父も国会議員で、自らも40年国会議員をやっていて、あの間抜けな言動の数々は…。
一体どういう脳みそしてるんでしょうかね。真の意味でのバカじゃないの?

まじめに論評する気にもなれない。

2006.08.13

称名寺

先日、暑い中横浜へ行ってきました。
金沢文庫で文書展示があるってことで、それにかこつけて行ったわけですが、いやはや暑くて駅からタクシーを使う始末で。
Shomyoji01で、称名寺へ。一度は行っておきたかったので、いい経験になりました。二度目があるかどうかはわかりませんが…(笑)。
Shomyoji03お約束の墓荒らし(語弊あり)。この五輪塔は結構古そうですがどうでしょ。寺の歴史を考えると、遡れても17世紀までかなぁという気はしますが(ほかに、元禄年間の銘の入った墓石はありました)。

その後神奈川県歴博へ。明治期の洋館を転用しているという構造上の問題もあるんでしょうけど、正直言って展示はいまいちかなぁ。これでもかっていう程並べればいいってもんじゃないんでしょうけど、ちょっと物足りなさを感じてしまいました。円覚寺舎利殿の内部を再現したりとか、所々おっと思うような演出はありましたが。

最後は中華街まで歩いて、食って、伊勢佐木町まで歩いて、飲み。普段は横浜スタジアムの往復だけなことを考えれば、結構横浜を満喫できたかなぁ。気分転換にはなって良かったです。でもやっぱり横浜は遠い…。あんまりしょっちゅう行けないなぁという感じです。

2006.08.08

研究文献リストもブログで

関連リンク欄に、「ブクログ」を追加しました(ここ)。
中世史を学ぶにあたって基本文献となるであろう書籍をリストアップいたします。適宜追加したいと思います。
本来ならコメントを入れるべきなんでしょうけれども…、今はちと余裕がないので(笑)、息抜きがてら書けそうなところから随時加筆できれば、と思います。

元々こういうリストを作ってみたいと思っていたんですが、ネットの進歩はすごいですねぇ。こういうのがあるのはありがたいです。

マスコミバッシング

すっかり原稿に追われている日々ですが、実は先日のボクシング見ました(笑)。ってか試合開始が21時からなのに19時半から放送を延々やってるのは、視聴率のためには手段を選ばないさすがの魂胆というべきか。まぁその辺は織り込み済みだったんで、試合開始に合わせて見ようと思い新聞で時刻をチェックすると…つーか、朝日新聞さんはなんで「18時」なんて開始時刻を打ったんでしょうか。
結果については物議を醸していますが、個人的にはあんまり興味ないです。「判定がおかしい」ことなんかそもそも議論しても意味ないと思うので。プロスポーツなんてそんなもんでしょ。

問題なのは、TBSの実況。なんですかあれは。以前プロ野球中継についてもこき下ろしましたが、まったくおんなじでしたね。ある程度エンターテイメント的要素を入れる必要性を否定はしませんし、プロスポーツってのは根本的には「見せ物」だってこともわかってますが、そこを過剰に意識して「演出」するのは絶対逆効果でしかない。スポーツにドラマ性を見出す時(そしてそれを狙う時)、そこには演出などあってはいけないのです。少しはNHKを見習って、むしろ淡々と「実況」する方針に徹するべきものを。
結果として選手とその親にバッシングが集中しているようですが、それ自体私はお門違いだと思う(まぁ態度がなっとらんのはそう思いますが(笑))。根本的に問題だったのは、明らかにTBSの制作姿勢のはず。最近は視聴率が低迷しているのかどうだか知らんけど、その原因が奈辺にあるのか、もっと真剣に考えた方がいいんじゃないでしょうか。

マスコミは亀田親子をピエロにして遊んでいる一方、なぜTBSをバッシングしないのでしょうか。ご同業は叩きにくいんですかね。だとすれば、経営者たちは命を懸けてジャーナリズムを守り通した先人たちに土下座しても足りないくらい罪深い存在ですな。そんなんだからいつまで経っても政治家に手玉に取られるんですよね。

2006.08.05

ある暑い怠惰な一日

今日は調べものと関連本を借りるために大学へ行きましたが、あまりの暑さに帰宅したら意欲減退。
つーわけで、原稿をほっぽらかして酒盛りに。

ひとしきり飲んで、某チームの最下位転落の瞬間を見てニンマリし(ファンの方すみません)、その後もとりとめもなく過ごして、さてそろそろ寝るか…という時間になって、無性に原稿を書きたくなってくる始末。一時朝型を続けていたものの、最近またもや夜行性になってしまい、夜が更けないと文章を書く意欲が沸かない状態。なので、いわば生理現象のようなものなんでしょうけど(笑)、今から書き始めると明日に響くので、これを書いて少し発散することにして、さっさと寝たいと思います。

明日(ってか今日)は気分転換でちょっくら横浜へ。恐ろしく暑そうなのが気になるけど…。

2006.08.03

泰斗の軌跡に触れて

31738634永原慶二追悼文集刊行会編『永原慶二の歴史学』(吉川弘文館、2006年)受贈。去年の追悼シンポジウムをもとにした追悼文集です。このシンポジウムをお手伝いしたので、頂戴することができました。そのほか数年前に『歴史評論』であったインタビューとか、永原さんが生前に編まれた自伝など。写真がたくさん掲載されているんですが、写っている方々もさすがに錚々たる面々。「史学史」の一齣を垣間見ることができます。

それにしても、著作目録が凄い。いったい一生の内どれくらいの時間、原稿に向かっておられたのであろうか。かつて聞いた噂では、永原さんは〆切を必ず守り、しかも字数は規定枚数ぴったりで、最後の原稿用紙の最後の行で必ず終わっていたとか。それでいてあの明快な論理展開で構成されているのは、驚愕ものですね。

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