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2006.08.23

歴史的悲劇のエネルギー源

うさたろうさんのところで話題になっている靖国問題。
せっかくなんで、こちらに書いたコメントを改訂して転載。

根拠に乏しい話ですが、20代までの若者にとって、おそらく自らの人生において身近に存在した権威的存在というのは、教師だけだっただろうと思うわけです。社会的にドロップアウト気味な層にとっては、彼らの不遇の責任を社会に求めようとした時、具体的に浮かぶ「巨敵」というのは多分、戦後民主主義、時には左翼的思考を説く教師になってしまう側面もありそうに思えます。
すべての人がそうだとは思いませんが、彼らが「巨敵」に対して「自虐」をキーワードに攻撃することによって、自らを不遇に貶めた社会に対する“レジスタンス”になぞらえて陶酔している面もあるのだろう、と思います。

この話、先日の某新聞に同じようなことが書いてあってふと浮かんだ感想です。とはいえ私らの世代でも、せいぜい未成年のうちは同じ環境だったと思うわけですが、なぜ今と昔は違うのか、という問題を考える必要がある点で、この「説」はまだ難ありです。社会環境の違いなのか、家庭環境の違いなのか、…色々要素はありそうですが、専門家ではないのであまり突っ込んだ分析は出来ません。結局ネットのせいになっちゃうのかなぁ。安易にそこに理由を求めるのは、やや抵抗もあるんですが…。

ちなみに私自身は、特に高校生の時は教師の持つ「権威」にはあまり不快感を持っていなくて(わりと仲が良かったためでもあるでしょう)、横並び主義的な同級生の雰囲気を極端に嫌悪していました(単純に仲が悪かったせいもあるでしょう(笑))。
そういう意味では、おそらく深層ではネチズンの悪弊に対する懸念が強い方だと思うわけで、歴史的には帝国主義的状態よりも、ファシズム的状態の方がより悪質で不幸である、という一種のイデオロギーが私には根付いているようです。その点では、政治家の排外主義的言動よりも、それを直接的にしろ間接的にしろ、支持してやまない大衆動向の方が、より危険に感じています。

戦争問題に引きつけて言えば、日本国民はA級戦犯が責任を被ることで、国際社会から免罪されました。それをいつまでも引きずって良いのか、という批判は批判としてありだと思います。しかしA級戦犯を東京裁判の妥当性の有無にまで遡及した上で罪から解放してしまうことは、自ら歴史の精算を拒否するということであり、代わりに国民が自らその責任を負うことの表明であるという自覚をせねばなりません。
かの戦争は軍部の暴走という視点が重視されており、確かに契機はそうなんですが、それを下支えしたのは明らかに「国民感情」の存在であったことを、決して忘れてはいけないと思います。

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