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2006年9月

2006.09.29

信州(2) 新海三社神社

Shinkaisansha06Shinkaisansha09佐久市(旧臼田町)にある新海三社神社です。名前の通り東・中・西の三つの祭神からなり、中本社は諏訪社、西本社は八幡神がまつってあります。写真左の東本社(重要文化財)は16世紀の建立とされており、武田信玄によるものという言い伝えもあります。信玄は永禄8年(1565)の上野国箕輪攻めの際、この神社に願文を奉納したとされています。写真右の三重塔(重要文化財)は永正12年(1515)の建立とされており、神仏習合の遺風を伝えています。

この地域は元々守護代大井氏の支配地域でしたが、武田氏の影響下に入った後、その滅亡後は依田氏が拠点としたそうです。この神社との関係は定かではありませんが、彼ら領主による崇敬を受けたものと考えられます。なお幕末には大給松平氏田口(田野口)藩の城下町に属し、近くには藩主松平乗謨(のりかた)によって築かれた五稜郭(龍岡城)が残されています。五稜郭は函館とここにしかありません。

Yodabanshoin06Yodabanshoin04新海三社神社や龍岡城のそばにある蕃松院。武田氏滅亡後に入った依田信蕃(のぶしげ)の居館跡とされる所で、このお寺は信蕃の菩提寺となっています。裏山は居城田口城跡です。写真右は境内にある、信蕃の墓と伝えられる多宝塔。

2006.09.27

信州(1) 法住寺虚空蔵堂

Kokuzodo01Kokuzodo03遅くなりましたが、信州の史跡シリーズです。塩田荘関連はまとめて後回しにして、それ以外のところから紹介します。
最初は上田市(旧丸子町)の法住寺虚空蔵堂(重要文化財)。棟札から、文明18年(1486)に建立されたとされています。ただその経緯はわからないみたいです。
Kokuzodo04全体的な建築様式は和様ですが、懸魚(けぎょ)と言われる部分(屋根が合わさった部分の下にある装飾)が禅宗様に造られているそうで、折衷のような形式は珍しいものなんだそうです。懸魚については、こちらのサイトが詳しいです。

2006.09.25

残念な一報

とある歴史系出版社が破産したとのこと。今はあまりおおっぴらにしない方が良いかもしれないので社名はとりあえず伏せますが(この話を書くこと自体もまずいかも?)。
最初に噂で聞いた時にはまさかと思ったんですが、ショッキングなニュースです。

現在手がけている出版事業はなんらかの形で引き継がれるような手順を取るとのことですが、これまで出版した文献も膨大であり、研究面でも重要なものばかりなので、そのゆくえも大変気がかりです。
私ひとりでは力になることはできず忸怩たるものがありますが、勝手な言い分であることは承知の上で、なんとか再建が叶うよう祈念します。

<追記(2007.2.6)>
この記事は一旦公開した後非公開にしていましたが、再度公開いたします。
既に周知の通り、「とある歴史系出版社」である続群書類従完成会(続群)の出版書籍は、八木書店へと引き継がれています。ただ、続群が刊行していた「史料纂集」が今後出版継続されるかどうかは、この追記を書いている時点で私の元に情報は届いていません。

2006.09.24

末森城跡

Suemori04Suemori02能登関連をもう一件。宝達志水町(旧押水町)にある末森城跡です。大河ドラマ「利家とまつ」が放映された2002年に観光地化を目指して少し整備されたようですが、今はこの通り薮の中(笑)。雨も降っていたので、延々20分ほど登ってやっと辿り着いたものの、遺構はあまりはっきりと見られませんでした。写真左は本丸下の曲輪。写真右が本丸です。途中、生活区域であったと推定される若宮丸と呼ばれる曲輪もあります。でも、さすがに生活空間は麓だったんじゃないかなあという気がするぐらいの結構な山城です。
この城が文献に登場する時期は実はかなり短くて、今のところの初見は天正5年(1577)。上杉謙信が七尾城攻略のために、「末守」にいたと述べた書状があり、七尾城が落城すると村上国清・斎藤朝信が入ったとされています。後に越中の領主である土肥親真が城主となったそうですが、その後織田方に降伏し、天正9年(1581)には能登に入った前田利家に従いました。土肥親真は賤ヶ岳の戦いで戦死したそうで、城代の土肥茂次を補佐する形で、利家の家臣である奥村永福・千秋範昌が在城。
ハイライトは天正12年(1584)の佐々成政の侵攻ですね。成政の猛攻を受けて土肥茂次は戦死しますが、奥村らが頑強に守り抜き、秀吉の制止を振り切って前田利家が援軍に駆けつけて佐々軍を退けた、とされています。この後すぐに廃城となりました。

私は「利家とまつ」は見ませんでしたが、奥村永福と末森城のエピソードは、隆慶一郎『一夢庵風流記』やそれをもとにした漫画『花の慶次』でも取り上げられており、私も随分昔に読みましたが記憶に新しいところです。一時はブームに沸いたのかなぁという感じでしたが、今はまたひっそりとした、埋もれた山城に戻ったような、そんな史跡です。行った時期がちょっと悪かったなあ。雑草があまり生い茂ってない時期を選んだ方が賢明ですね(当たり前ですが)。

2006.09.22

気多大社

Keta02Keta04羽咋市にある気多大社。能登一宮です。古代から多くの文献に記録が残っており、由緒の古い神社です。中世では建保5年(1217)に鎌倉将軍家から田地の寄進を受けた文書が残っているとか。室町期になると、守護畠山氏が社領の代官を請け負っていることがわかり、逆に社領の安堵も行っています。畠山氏滅亡後は、上杉氏、のち前田氏からも庇護を受けており、社領の寄進があったとのことです。中世から近世にかけての文書を多く所蔵している神社として知られており、神社に伝わる文書のほか、宮司桜井家に伝わる文書があります。特に天文16年(1547)の後奈良天皇女房奉書は重要文化財に指定されているとか。既に活字化もされています。
写真右は延宝8年(1680)築の拝殿(重要文化財)。ほか同じ年に建立された本殿や同じ時期に築かれた同白山神社本殿も重要文化財に指定されています。
Keta05こちらは本殿の左側にある摂社若宮神社本殿(重要文化財)。永禄12年(1569)築とされていて、正しければ、気多大社に遺る最も古い社殿です。
Keta03こちらは神門(重要文化財)。正確な建築年代はわからないようですが、様式から桃山期建築とされており、16世紀末期のものと推定されているようです。

今は縁結びの神様として、若者へのアピールもあってか、社務所あたりはやや洒落た趣が感じられました。巫女さんがガイドをしていたりとか、ほかの神社とは異なり「営業努力」がわりと熱心な感じ。ただ、文書の展示は一切していない様子。保存の問題とか、公開することにはいろいろ問題があるということなのでしょうけれども、ちょっと残念。ちなみにすぐ横に正覚院というお寺があります。神仏分離をくぐり抜けた唯一の気多社の社坊です。本尊は重要文化財。

Keta11Keta12左は参道を映しましたが…わかりにくいですね。まっすぐ海へ伸びています。そして海へ向かってひたすら歩き、海岸線へ出たところにある鳥居が右の写真です(鳥居の間に見える山が社叢です)。海との関わりの深い神社であることが想像されます。

2006.09.21

書類に体力を奪われ

慣れない書類と格闘して疲弊。論文書くのも楽とはいえないけど、一字当たりの疲労度を仮に考えるなら、やっぱ単純な事務的書類とはいえ慣れてないと疲れます。
時間的効率性がもちろん第一義だろうけど、やっぱ従事者にとって書類のフォーマットってのは必要だなあ、と思う次第です(って、大袈裟ですが(笑))。「様式は任意」ってのが一番辛い。

でもがっちりフォーマットがあっても、ワープロソフト(つまりワード)で記入すると体裁を整えるのにかなり体力を削がれてしまいますね。単に私が使いこなせていないだけなのかもしれませんが、書き込んだ後あれやこれやと体裁を整える作業がかなりこたえます。対処法ってあるんでしょうかねえ?

2006.09.20

北加賀をあるく(7) 金沢城

Kanazawa02Kanazawa05最後は金沢城です。ちゃんと整備されてからは初めて来たので、中に入ったのももちろん初めてです。左はおなじみ石川門(重要文化財)。右は、二の丸に復元された五十間長屋。
戦国期にはこの地には本願寺教団の御坊(金沢御堂。尾山御坊とも)があったことが知られていますが、天正8年(1580)に佐久間盛政が一向一揆討伐後に城を築き、天正11年(1583)に前田利家が入りました。近代には陸軍が駐屯し、戦後は金沢大学のキャンパスとなっていましたが、最近になってやっと史跡公園として整備されています。
Kanazawa10Kanazawa11こちらは三十間長屋(重要文化財)。近世建築で残っているのは石川門とこの長屋だけです。石川門は天明8年(1788)、三十間長屋は安政5年(1858)築。ちなみにその右の写真は、三十間長屋の石垣。繋ぐ部分だけ削って積んでいます。かなり珍しい積み方だそうです。

Kanazawa09本丸では発掘調査がされていて、丁度現地説明会もされていました。天守閣は慶長年間のごくわずかな時期に存在していましたが、その後は再建されることもなく、本丸には御殿が建っていたそうです。この石垣は天守閣のものではなく、17世紀頃の御殿のものだとか。天守閣の石垣はまだ発見されていないそうです。
御殿の石垣が地中から出るのは不思議で、説明によると、周囲に盛土をして埋めた可能性が高いとのことでした。うろ覚えの記憶では、その時期ははっきりしないとか。推定では、近代に邪魔なので陸軍が埋めちゃったんじゃないかという話だったような。この辺記憶違いかもしれないので、あてにしないでください。

これで北加賀シリーズは終了です。あとは能登のものを少しばかり。

2006.09.18

北加賀をあるく(6) 本泉寺

Honsenji06Honsenji05金沢市の山間部・二俣町にある本泉寺です。創建年代は諸説ありますが、本願寺五世・綽如が明徳元年(1390)に当地に逗留したことにより草庵が建ち、15世紀半ばに六世・巧如の子である如乗が寺院として建立したとも言われています。早くから加賀における本願寺教団の拠点寺院として発展しており、宝徳元年(1449)からは蓮如が三年間住んだともされています。
15世紀後半には蓮如の子・蓮悟が本泉寺に入り、教線を拡大。蓮悟は加賀の各地に坊舎を建立しますが、蓮悟自身も若松(現金沢市若松。金沢大学の麓)に移住しており、この地が「若松本泉寺」と呼ばれる一方、ここの本泉寺は「二俣本泉寺」と呼ばれるようになりました。
若松本泉寺が一向一揆の中枢を担ったことはよく知られており、波佐谷松岡寺(現小松市)とともに「両御山」と言われたり、さらに山田光教寺(現加賀市)を加えて「賀州三ヶ寺」とも呼ばれます。蓮悟は長らく一向一揆を主導しましたが、享禄の錯乱によって本願寺方の超勝寺と対立し、敗れて享禄4年(1531)に若松本泉寺は焼亡。蓮悟は各地を流浪した末、天文12年(1543)に堺で死去しました。

以後本泉寺は本願寺との関係を持ちながらも、二俣のいち寺院としてひっそりとした歴史を送ったようです。なお若松本泉寺の系譜は、大阪府四條畷市にある本泉寺に受け継がれています。
Honsenji02Honsenji04写真左は境内の庭(わかりにくいですが)。蓮如が作庭したと伝えられており、県名勝に指定されています。写真右は境内の蓮如堂です。

2006.09.16

戦国史硬軟

橋場日月『戦国歴史力―あなたのサムライ度をチェック!』(「大人のテスト」文庫4、学習研究社、2006年)受贈。ありがとうございます。私は今やすっかり歴史に対する見方がひねくれてしまっていて、小難しいことばかり考えていますが、そもそも歴史を楽しむという原点を思い出させてもらえる本です。
あと、先日神保町にて本多隆成『初期徳川氏の農村支配』(吉川弘文館、2006年)購入。ちと戦国・織豊期の徳川領国を勉強してみたくなったもんで。でもやっぱり先行研究が分厚いですね…。

北加賀をあるく(5) 倶利伽羅不動寺

Kurikara03富山県との県境であり、木曽義仲が平氏を破った戦として有名な倶利伽羅峠ですが、この峠に古くからあった手向神社です。現在の本殿は慶長19年(1614)に前田利常が建立したものです。
Kurikara04同じ敷地には倶利伽羅王(不動)を本尊とする堂があったとされており、その堂が手向神社の別当寺としてのちに「長楽寺」になったとされています。今の不動寺は、その跡地に再興された寺院です。戦国期には住持職をめぐる相論が深刻化しており、それに伴って本願寺との関係を深めて門徒化する時期もありました。そんなこんなで結局は一向一揆に編制されてしまい、16世紀半ばには本願寺の影響力が非常に強く働いていたようです。16世紀後半になると戦乱の舞台に度々なっており、焼亡を繰り返したようですが、加賀藩政時代になってようやく復興。廃仏毀釈によって廃寺となりました。今の不動寺は戦後に復興したものです。

見ての通り、行った時は土砂降り。長居は無用ということで、写真を撮って早々に退散しました。登る途中には城跡や北陸道の跡もあったのですが、こういう天気だったり、城跡の方は立ち入り禁止だったりで、残念ながら素通り。

2006.09.15

北加賀をあるく(4) 鳥越弘願寺跡

Guganji03Guganji01津幡町にある鳥越弘願寺(ぐがんじ)跡です。今は神社が建っています。弘願寺は観応元年(1350)に本願寺三世・覚如の弟子玄頓によって建立したとされています。先の吉藤専光寺とともに、15世紀後半における初期段階の一向一揆での拠点寺院となりました。実際には城郭化していて、土塁も残っています。
ちなみに写真にあるように、室町中期頃のものと思われる宝塔が残っています。ただしこれは弘願寺とは直接関係のない石造物と考えられているようです。なお現在の弘願寺は各地を転々とした後、津幡町加賀爪地区に今はあります。

津幡には冷泉為広の供養塚があるそうなんですが、それがどうも小学校の敷地内にありそうで、小学校の入口までは行ったんですが…このご時世ですから深入りするのはやめました(笑)。小学校の入口のところには、別に津幡城跡の碑がありました。小学校の敷地が城跡だったようです。

2006.09.14

北加賀をあるく(3) 金津荘

Kanazukamo01研究面でもあまり有名ではありませんが、北加賀には上賀茂神社領の荘園である河北郡金津荘がありました(現かほく市)。河北潟の北側から能登国境にかけて広がる広大な荘園で、戦国期の史料が多く残されているほか、「天文日記」にも出てきます。…が、実のところ研究はほとんど進んでいません。
戦国期には荘内に10の村があったことが史料からわかりますが、その村名のほとんどが今も地名で残っています。写真は、その村の一つ横山地区にある賀茂神社です。名前から推測するに、中世では荘鎮守であったものと思われます。結構大きな神社でした。
Kanazukamo02Kamoema写真は、境内にあった五輪塔。中世のものじゃないかと思ったんですが、いかがでしょう? 記念に、絵馬を買って持って帰りました(笑)。

Kanazuyochi04Kanazuyochi01Kanazutani02荘内の風景です。「糺之社」は、現在の余地(中世では「与知」)地区にある社で、かつての賀茂神社の社殿が移築されたとされています。名前からして下鴨神社の末社として勧請されたことが考えられますが、詳細はよくわかりません。余地地区は荘園領主から派遣された荘官が京都の糺ノ森に見立てて地区整備をしたという言い伝えがあり、「京田」「京中」などの小字が残っているそうです。その余地地区の現在の風景が次の写真。圃場整備がしっかりされているので中世の田園風景とは異なりますが、それに近い風景が残されているように感じました。
もう一つの写真は、谷地区の「亀田神社」。この神社は「亀田宮」として中世の史料にも出てきます。境内には大きな岩がいくつも転がっていたんですが、その理由はわかりませんでした。ちなみに境内は古墳だったそうです(ここ参照)。

この地域は「金津荘」であったという歴史がしっかり受け継がれているようで、上記神社の説明書きにも金津荘との関係が伝承として伝わっている旨があったりしました。この荘園の研究自体は遅れているのですが、そのような伝承が現在にまで伝わっているという事実は重いものです。いずれ、地元の方々にしっかりインタビューできる機会があればいいなあ。もちろんそのためには自分がもっと勉強しないといけないのですが。
圃場整備がされている上、中世の史料では坪付などが残っていないので、当時の耕作状況はほとんどわかりませんが、そういえば近世の帳簿が残っていれば遡及して推測できるかも…ということを教えられて、なるほどと思いました。荘園の現地調査はいろいろな手法を駆使することで当時の実態に近づくことができますが、不幸にも私はまだ実際にそういう調査に同行させてもらった経験がないので、ノウハウがありません。こういう技術を伝授してもらえる機会がいずれ来ればなあと思うのですが…。
ともかくも癒される田園地帯で、また来たいと思わせられました。

<追記>
戦国期の金津荘に関する論文を発表いたしました。興味がお有りの方は是非ご一読ください。
→「加賀国金津荘の荘家一揆と一向一揆」(『ヒストリア』207、2007年)

ありがちな事態

やっぱりというか、大事な時期に決まってトラブルがあるもんで。

何の前触れもなく、突然プリンタが壊れました。プリンタの表示窓にエラーのコード番号が表示されているんですが、マニュアルを繰っても、メーカーのサイトを探しても、そのコード番号の言及がない。ここで嫌な予感がしたわけですが、電話してみると、残念ながら修理になります…とか。
応対はわりと丁寧だったんでなんとなく修理の手配をして電話を切ったけど、せめて考えられる原因ぐらいは聞いておくべきだったなあ。ゴネようと思っているわけじゃないけど、原因不明なのもなんか気持ち悪いし。
一週間ぐらいで帰ってくる予定だそうですが、いやはや困ったもんです。いや、それより、出費が…。

<追記>
一週間で修理されて返ってきましたが、結局修理代金は請求されませんでした。特に理由も書いてなかったのでなぜなのかはよくわからないのですが…。まあ詮索はしないことにします(笑)。
修理箇所の説明がちゃんと書かれた書類が同封されていて、良い対応をしていただいたと思います。故障原因までは結局わかりませんでしたが。

2006.09.13

初秋の信州

Chuzenji02Chuzenji03今年のゼミ旅行は長野県の中東部・小県郡を中心とした地域を巡見してきました。この地域の中世建築をほぼ総ざらえという感じで、神社・仏閣の巡礼みたいな感覚。出来うる限り史跡を見ることができて楽しかったです。
写真は上田市の中禅寺にある、長野県内では最古の金剛力士像。平安末期頃の作と推定されています。この寺のあるのは、別所温泉にも近いかの塩田荘。巡見地は、北加賀の方が終われば順次紹介いたします。

天気は、最終日が雨に祟られたほかは、涼しくて快適でした。二日目に泊まった戸倉上山田温泉(千曲市)は古くからの結構有名な観光地だそうですが、私は知りませんでした。実際に行ってみると、確かに観光地としての歴史は古そうです。よく言えばレトロというかトラディショナルというか。意地悪に言えば、さびれて…。ま、でも最近ではかえって珍しく硫黄がプンプンしている温泉らしい温泉で、良かったですよ。

(1)法住寺虚空蔵堂(2)新海三社神社(3)大法寺(4)真田氏館跡(5)真田本城跡(6)真田の史跡(7)国分寺・国分尼寺跡(8)荒砥城跡(9)智識寺(10)村上氏館跡(11)筑摩神社(12)林城跡
塩田荘は→こちら

2006.09.10

北加賀をあるく(2) 大野荘

Onominato01Onominato02次は金沢市の海寄りの地域にあった大野荘の故地に建つ、大野湊神社です。この大野湊神社は、河北潟と犀川の河口にある、加賀の要港大野湊を抱える大野荘内の宮腰という地域にある神社で、中世においては「佐那武(さなたけ)社」として史料に登場します。

石川郡大野荘は中世前期は白山社領だったようですが、中世後期には天竜寺の塔柱である臨川寺領となっており、15世紀末期を中心としてこの荘園に関する史料が多く残されています。15世紀後半になると「荘家の一揆」が激化し、さらには一向一揆の発生との関係が追究されています(浅香年木『中世北陸の社会と信仰』、法政大学出版局、1988年が詳しい)。
おそらくは戦国末期の一向一揆討伐によって焼亡したと思われ、その後天正14年(1586)には前田利家によって再興のための寄進を受けています。以後代々藩主に保護を受け、今の社殿の多くは寛永16年(1639)の前田利常による造営にかかるようです。
なお隣接して、近世後期に北前船で巨利を得た豪商銭屋五兵衛の記念館があります。

Yoshifujiこちらは荘内の吉藤神社。この辺りに長享2年(1488)の有名な「長享の一向一揆」において中心的役割を果たした吉藤専光寺がありました。現在は地名としての「専光寺町」と、この神社の「吉藤」が窺えるだけで、この地には寺を偲ぶものは今のところありません。
なお現在の専光寺は、近世初頭に今のJR金沢駅東口すぐのところに移転しています。こちらにも行くつもりだったんですが、結局行きませんでした。

2006.09.09

北加賀をあるく(1) 横江荘荘家跡

Yokoe01巡見した順番通りに紹介していきます。
最初は白山市(旧松任市)にある横江荘荘家跡。昭和45年(1970)の鉄工団地造成に伴う発掘調査によって発見された遺跡です。初期荘園の管理施設跡としては最初に発見されたもので、国指定史跡となっています。

越前国加賀郡(のち加賀国石川郡)横江荘は東大寺領の初期荘園で、初見は弘仁9年(818)の酒人内親王(桓武天皇妃)施入状(「東南院文書」)だそうです。10世紀末期以降は支配に翳りが見え、中世前期の状況については不明な点が多いようです。「延慶本平家物語」によれば、寿永2年(1183)には横江荘が林六郎光明の所領であったとし、木曽義仲が白山権現に寄進したという記述があるそうですが、史実とするには問題がある模様。南北朝期以降は天竜寺領荘園となっていますが、戦国期には退転しており、天文期に天竜寺は下間頼盛の押領を本願寺に訴えている記述が「天文日記」に確認できます。

なおこの政所跡からは主屋建物遺構のほか墨書土器が出土しており、そのうち「三宅」という記載のあるものがあったことが決め手となったようです。
Yokoe02現地の案内板。

『平安時代史事典』CD-ROM版

既に各所で話題になっていますが、「復刊ドットコム」にて古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典』(角田文衛監修、角川書店、1994年)がCD-ROM版で復刊することが決まったそうです(詳細はこちら。なお著者項目に二重の誤りあり)。

以前から復刊が希望されていましたが、このたびCD-ROMになったとのことで。検索の便はありそうですが、ただ、値段(80000円)を考えるとなかなか思い切った決断に迫られそうですね。単に増刷するという手は、出版社側にはもうないのかなあ。
ともかくも、かねてより復刊に向けて尽力されてきた方々(例えばこちら)にとっては、いよいよ報われた感があろうかと思います。おめでとうございます。

2006.09.08

北加賀をあるく

Kenrokuen01参加させてもらっているゼミの合宿で北加賀から能登の日本海側あたりへ行きました。個人行動でこの地域の史跡をいろいろ廻ってきましたので、追々紹介したいと思います。天気は最悪の大雨だったので、行けなかった所がいくつか出てしまったのは少々残念でしたが、おおむね念願が叶って満足です。

ただ…致し方ないこととはいえ、中世を偲ぶ文化財の残存状況が極端に乏しいのは、当地の歴史が逆に濃密であることを考えると、残念といえば残念です(この辺、研究レベルでも障碍になってる気もするしなあ)。もっともこのような中世と近世との明確な“断絶”こそがこの地域の持つ歴史的特徴であり、地域性にも繋がる部分ではあるとも言えるでしょうか。

写真はお馴染みの兼六園の灯籠。平日で天気も良くなかったので、それほど混んでなくて良かったです。地元のタクシーの運転手さんによると、「夏の兼六園は面白くない。冬の方が風情がある」とのことでしたが。夏場は全体的に観光客が落ち込むんでしょうかね。

(1)横江荘荘家跡(2)大野荘(3)金津荘(4)鳥越弘願寺跡(5)倶利伽羅不動寺(6)本泉寺(7)金沢城/番外編:気多大社末森城跡

2006.09.03

小休止に目で学ぶ

この一週間は意外にも?飲みが続いたことや、今週・来週と立て続けにある合宿の巡見に向けた事前準備なんかもやったりしたので、自分の仕事は放置。草稿が書けたとはいえ、ちょっとのんびりしすぎたかなぁ。博論以外にも書き直したい原稿とかもあるんだけど、なかなかリハビリがはかどりません(笑)。
合宿が終わるまでこんな調子になっちゃうかもしれませんねぇ。でも終わるともう提出準備も現実的に考えないといけない時期に入ってくるし、手を入れている時間なんてないかも…。うちは口頭試問の後に書き直すようなシステムになっているらしいので(ほかではあんまり聞かないシステム)、「とりあえず出しちゃえ」的な意識に既に支配されてはいますが。

先日、埼玉県立歴史と民俗の博物館に初めて行ってきました。いわゆる埼玉県における「県博」です(ってか、旧称が埼玉県立博物館)。貨幣に関する特別展を8月いっぱいまでやっていたためなんですが、その特別展よりも、常設展の方が初めてだったので面白かったです。多分昔からあんまり展示が変わってなさそうで、展示物はレプリカが大半だったけど(まぁこれはどこの博物館も主流ですが)、初めて見た者としては、充実していたと思います。ただしリピーターを期待した時、その辺どうなのかなぁ? もちろん通史的な展示なんて、そうコロコロ変わるようなもんでもないですがねぇ。

この博物館で面白いのは、板碑の展示に力を入れている所でした。板碑のコーナーを造って、実物大に復元した板碑をずらりと並べる様子は、なかなか壮観です。板碑ファン(そんなのいるのか?)は必見でしょう。
ほんとはついでに近所にある、武蔵国一宮のひとつでもある氷川神社にも行きたかったんですが、時間がなくなったのでパス(まぁ中世の面影なさそうだし…いいか)。そういや、もう一つの一宮の小野神社にもまだ行ってないなあ。なかなか機会が…。

乗り換えではなく、実際に大宮で降りたのは何年ぶりかわかりませんが、次に降りるのも何年後になるやら(笑)。

2006.09.02

初めての常陸(4) 行方あたり

Tonagi1写真は行方市(旧玉造町)の鳥名木(となぎ)城跡(ここが詳しいです)。常陸平氏の一族鳥名木氏の居城で、今もご子孫が麓にお住まい。家文書として中世文書を伝える珍しい所で、石井進さんなどが直々に調査に訪れた話で知られています。城跡自体はまさに藪の中といった感じで、いくつかの遺構を確認できましたが、ひっそり建っていた碑を撮ってもこの通りピンぼけで…。鬱蒼としていて暗かったので、いい写真は撮れませんでした。

Hodoin01Hodoin02同じく行方市の宝幢院。ここの鐘は、これも常陸平氏一族の玉造憲幹が永享3年(1431)に寄進したという伝承を持つ鐘があります。しかしこの鐘、17世紀に割れてしまい鋳直してしまったようで、銘には中世以来の由来を確認することができませんでした。ちょっと残念。

以上で終わりです。今度は北の方を回ってみたいですね。

2006.09.01

初めての常陸(3) 鹿島神宮

Kashima08鹿島神宮です。写真は、今は奥宮と呼ばれていますが、かつての本殿です(重文)。慶長10年(1605)に徳川家康が本宮として造営した社殿ですが、元和5年(1619)に徳川秀忠が今の本殿を造営したため、奥宮として今の所に移設されました。
Kashima06こちらが今の本殿で、右側(手前)が拝殿です。
Kashima05こちらは楼門。寛永11年(1634)に初代水戸藩主徳川頼房によって造営。
Kashima07こちらは元和4年(1618)秀忠による造営の際に造られた仮殿。これも重文です。

鹿島神宮は文献面でもかなり古くから由緒を辿れる神社で、奈良の春日大社も元は鹿島から勧請したと言われています。奈良で鹿が神の使いとされたのも、鹿島から伝わったとされているとか。
鹿島は元々「香島」と書き下総国一宮の香取神宮と対のような関係にあったようです。藤原鎌足とも関係が深く、鎌足自身が鹿島を出身とする伝承が『大鏡』に残されているほどです。以上のような経緯のゆえに藤原氏の氏神とされています。
中世においても一宮として威容を誇ったようで、頼朝下文などの中世文書も多く残されています(今は、原本は非公開だとか)。代々中臣(大中臣)氏が経営してきましたが、中世では常陸平氏、とりわけ鹿島氏の影響力が強くなっていったものと考えられています。

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