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2006年10月

2006.10.31

今年の日本史研顛末

大会前日の金曜に、東京から直行で和歌山へ。和歌山県博で開催されている熊野那智大社の企画展を見に行きました。和歌山はいつ以来かわからないくらい久しぶり(少なくとも大学進学以後は初)。展示内容は圧巻。平日午後だったこともあってか、来客も少なくてじっくり見ることができました。那智は行ったことがないので、是非行ってみたくなりました。
私のホームページにもリンクをはってくださっている学芸員のTさんにご挨拶を…とも思ったんですが、生来のヘタレな顔見知り体質によって、怖じ気づいてすごすごと退散。実は、館内でお見かけはしたのですが…。

土曜は昼過ぎに京都入りして日本史研大会へ。中世はHさんのご報告。対外関係史からはすっかり遁走気味なので、かえって新鮮な感覚でした。その後は本を買い込み、東京からお見えの先輩方と一杯引っかけた後、懇親会へ。去年とは打って変わって広々とした会場でした。実にゆったりとまったりと。さまざまな先輩方や、さっさと私を追い越し気味の新鋭と与太話やら、まじめな話やら。Hさんの「対外関係から足を洗ったんですか?」とのストレートなご質問に恐縮しきり…。その時にもお答えしたんですが、ほんとは今でも対外関係に関わりたい、という思いは持ち続けております。
ともかくも、こんな私でも居場所があることを感じることができて、幸せに思います。

日曜は出発が遅くなってしまい、午前中の報告には間に合わないと判断して京都府立総合資料館へ。東寺百合文書の展示をじっくり見た後、確認したいことがあって調べものをしたんですが、収穫はまあまあ。
その後会場へ行って討論を拝聴。報告そのものを聞いていないのであれこれ言うのは憚られますが、個人的には最後の方で発言されたOさんのご意見に一々納得しました。やっぱり、ある歴史像の解明には、対象とする時代の持つ歴史的背景に規定されるものを確実に捕捉する必要があるなあ…と改めて自覚した次第です。

その後、京都駅で一杯飲んで帰京。充実していたということかもしれませんが、今年はやや慌ただしい感じでした。来年は行けるかなぁ…。

2006.10.30

急用につき

結局、週末は帰省しつつ日本史研究会に行ってきました。

そのレポートを書こうと思いつつ、何か忘れてるぞ?と思ったら…、そうだ、神保町で古書まつりをやってるんでした。
というわけで、これからかけつけます(笑)。レポートはまた後ほど。

2006.10.26

美しくない師弟関係

私の所属大学の院生自治会が、パワーハラスメント(含セクハラ)に関するアンケート結果を公表しています(こちら)。ひっそりと一部で報道もされたようです。
そういえば私の所にもこんなアンケート来たような…、でも書いたかどうか憶えてないなあ…。と、私自身この程度の問題意識しか無かったのはお恥ずかしい限りですが、私のように、幸いにもハラスメントとは無関係な環境にある人は、まぁそんな感覚ではないかと勝手に思っております。それゆえ、回答率自体はかなり低いです。

しかし問題は比率ではない。「ゼロではない」という厳然たる事実ですね(まぁうちの大学での「セクハラ」は、最近数年の間に複数例が報道されてはいましたが…)。個々の事例にはそれぞれ特殊性もあるので、一発で解決する方策はなかなか見つかりにくいのが根を深くしているんだとは思いますが、こういうハラスメントはいつでもどこででも起こりうるものである、という前提に立った大学行政が必要であろう、ということなのでしょう。残念ですが。実際、その立場に立って、それぞれの大学には相談窓口を設けているところも少なくない。

極端に言えば、一人の指導教員との師弟関係というシステムが維持される限り、こういう問題はゼロになることはないだろう、と思います。単純に指導教員を替えろといっても、院生個々もそれぞれ専門を持っていて、その専門に基づいて教員を選んでいるわけですから、簡単な話ではありません。こういう場合、大学間で「移籍」する可能性を探ることも解決策の一つとして考えて良いかもしれませんが…。これもそう簡単には行かないでしょうかねぇ。

しかし、未だに性的関係を要求する輩がいるのは、頭が痛いです。

2006.10.25

今更なネタで喜ぶのは…?

なんか、突然高校で必修科目の履修がされていない問題が浮上したようですけど…。個人的な印象では何を今更という感がするんですが、どうなんでしょうかねぇ。
確かにこれ自体は問題なわけで、是正する必要はあるわけですが、そもそも高等学校での「必修」がどのような意味合いを持っているのかが曖昧なんじゃないでしょうか。かつて、「世界史が必要だから」という理由で日本史が必修から外された時点で(今はどうなっているかを知りませんが)、私なんかはそのように感じたわけで(笑)。

既に受験予備校化している高校では、おそらくはそれも学校と生徒との利害の一致によるわけですから、「要領を守ってもらわないと困る」と言ったところで、そう簡単には変わらないのではないかと。建前的にも高校は義務教育ではないので、生徒が「これを教えて欲しい」という要求をしている場合、それに応えざるを得ないんじゃないでしょうか。それが大学受験に規定されていることは問題視する必要はありますけど、遵守していない高校を叩いたところで、ほとぼりが冷めたら元の木阿弥になることは必至で、解決するとは言えないと思います。

しかしこのネタ、この時期になんで出てきたんでしょうかねぇ?などと勘ぐってしまいます(笑)。「教育バウチャー」や教員免許更新制度の導入などによる「競争原理」導入の気運には、明らかに冷や水を浴びせるネタではあります。はてさて?

2006.10.24

秋の学会シーズン

二ヶ月ほどほとんど史跡紹介に費やしてしまい、すっかり史跡探訪記と化してしまいました。こちらのネタはやっと終わりましたので、通常モードに戻ります。

10~11月にかけてはほぼ毎週のように週末はどこかで規模の大きい学会がありますが、業界の皆さんの計画状況はいかがでしょうか。
もちろん全国各地で行われていますから、全部行けるはずもないので、そこには取捨選択が働いてしまうのは致し方ないところです。私は、結局遠出するのは日本史研究会だけになりそうです(もっとも、まだ行くかどうか決めかねていますが…)。今年は10月末(今週末)に移ったため、ほかのいろんな学会も玉突き現象を起こしたようで、去年と比べてもだいぶスケジュールが変わっているようですね。

遠出は日本史研ぐらいですが、来月からは4週連続で週末に研究会(うち一つ報告…)。一週空けてまた研究会。その翌週は、もうクリスマスイブ(現実を思い知る日)。今年も、あっという間に年末が来てしまいそうです…。

2006.10.23

塩田荘(7) 生島足島神社

Ikushimatarushima01最後は生島足島(いくしまたるしま)神社です。塩田荘でも中心的な集落の一つである、下之郷に鎮座。信濃国二宮とされており、おそらくは荘鎮守ではないかと推察されます。社殿の中にある内殿がかつての本殿で、天文年間(16世紀半ば)の築とされています。境内には、諏訪社の摂社や神楽殿などもあります。中世には「下之郷大明神」「諏方法性大明神」などと呼ばれていたようです。

この神社には主に永禄10年(1567)の武田氏家臣の起請文が大量に残されており、一括して重要文化財に指定されています。この時期に信玄が一斉に起請文を書かせた理由には、対上杉戦の激化や、長子武田義信との関係悪化(永禄10年に義信は死去)、それに伴って永禄8年(1565)に塩田城主でもあった飯富虎昌が刑死したことなどが推測されています。

現在は文書の複製が施設で展示されていて、図録も刊行されています。
起請文を提出した人は武田氏直臣や信濃の国衆、西上野の国衆などが中心となっていますが、塩田周辺と思われる人々には、依田・望月・伴野・海野・祢津・室賀・浦野氏などがいます。また「海野衆」として、真田右馬助綱吉・下屋与三右衛門尉棟吉(ヵ)・常田七右衛門尉綱富・神尾惣左衛門房友・奈良本新八郎棟広・尾山右衛門尉守重・金井彦右衛門房次・石井右京亮棟喜・桜井駿河守棟昌・桜井平内左衛門尉綱吉・小草野若狭守隆吉・海野左馬亮幸光といった名が見られます。
いずれも滋野一族の土豪と考えられており、戦国期にも「衆」として一揆結合が見られるのは、信濃の在地事情が見えてくるようで興味深いです。ちなみに真田綱吉は、真田幸隆の兄という説があるそうです(信憑性はよくわかりませんが)。

2006.10.22

塩田荘(6) 安楽寺

Anrakuji02Anrakuji01こちらも別所温泉の温泉街にある安楽寺です。数ある塩田の神社仏閣の中でも、最も有名なお寺です。
なんといっても、写真左の八角三重塔(国宝)。「禅宗様」と呼ばれる建築様式で、八角形をしている三重塔は全国でもここにしかありません。建築史においても極めて貴重な建築物です。

安楽寺の創建年代ははっきりしていませんが、常楽寺と同じく、天長年間(9世紀前半)の創建とも言われています。しかし臨済宗寺院であった由緒から、実際には史料上もはっきりする13世紀半ばに入宋僧の樵谷惟仙(しょうこくいせん)が安楽寺に入ったことにより、実質的な創建となったのではないかと思われます。

帰国時に一緒になった関係で、樵谷惟仙は鎌倉の建長寺を創建した渡来僧の蘭渓道隆と親交があり、頻繁に書状の遣り取りがされていたことがわかっています。いずれにせよ北条氏の篤い保護を受けたことが想像されますが、室町期には衰退したようで、天正16年(1588)頃に高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興されましたが、それ以後は曹洞宗になっています。なお塩田北条氏の創建とする説もあるようですが、北条義政が塩田に入る前に創建していることは確実で、正しくありません。
写真右は嘉暦4年(1329)につくられたとされる、樵谷惟仙と二世幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)の木像です(重要文化財)。相変わらず写りが悪くてすみません…。

ちなみに…気づいた方もいらっしゃると思いますが、三重塔と言いつつ、層が4つあることがわかります。これは建築史でも「四重」とすべきではないかという説もあるようですが、一応三重とするのが通説になっているようです(こちら参照)。

2006.10.20

塩田荘(5) 常楽寺

Jorakuji01Jorakuji02今は別所温泉の温泉街の中にある常楽寺。寺伝によれば、天長2年(825)建立。木曽義仲の争乱によって寿永元年(1182)に焼失し、石塔だけが残されたとされています。源頼朝により復興との説や、建長4年(1252)に「塩田陸奥守」により復興されたとの説もありますが、少なくとも後者は該当する人物がおらず、不審な点が残ります(北条重時を想定しているのでしょうか?)。
少し離れた所にある観音堂は珍しく堂舎が北を向いていることから、「北向観音」と呼ばれています(こちらは行かず)。また、正応5年(1292)に常楽寺で筆写された経典が金沢文庫に所蔵されているそうです。
写真右は境内で見つけた板碑。右側の板碑には年号が刻まれていたんですが、肉眼では判読が困難でした。「嘉慶二年」(1388)かなぁ?(三年だったかも。記憶曖昧)という話になりましたが…。
Jorakuji06Jorakuji04ここのメインは写真左の真ん中にそびえる石造多宝塔(重要文化財)。銘文により、弘長2年(1262)に建立されたことがわかっています。なお左右の宝塔も中世のものと思われますが、後世の発掘によって安置されたものです。
右の写真はこの石宝塔の前にある、石塔群。おそらくほとんどのものが中世のものと推定されています。これも発掘によって発見されたものを復元したものですが。これだけ大量に並んでいるのは初めて見ました。
これらの石塔が背の高い木々に囲まれてたたずむ姿は、なかなか趣があります。

2006.10.17

塩田荘(4) 塩野神社

Shiono03中禅寺のそばにある塩野神社。『延喜式』にも見られる式内社です。『日本三大実録』の貞観15年(873)の記述にも「信濃国塩野神」とあります。塩田荘の水源の地に鎮座しています。永禄11年(1568)の武田信玄の祈願状や、天正15年(1587)の真田昌幸の寄進状もあるそうです。
こちらに武田信玄の方の文書写真が掲載されています。読んでみましょう。
   定
  信州塩田郷 諏方社領拾
  貫之外、従来秋拾貫加増候、則
  相当ニ可勤祭例、然而今度於
  越国境築新地時節、無風雨・
  兵革之災、普請令出来者、
  重而可有寄附御社領之旨、
  御下知候者也、仍如件、
永禄十一年戊辰 卯月廿一日(朱印)跡部美作守(勝忠)奉之
               塩野
                神主殿

ん? この時期には諏訪社領だったんでしょうか?
現地看板によれば、かつては神宮寺もあり、荘内の水源地として篤い信仰を集めたことが窺えます。また、文明年間の棟札もあるとか。
現在の拝殿は寛保3年(1743)、本殿は寛延3年(1750)建立とされています。「楼門造り」と呼ばれる珍しい二階建てです。

2006.10.15

塩田荘(3) 中禅寺

Chuzenji06Chuzenji01館跡から少し西へ行くとあるのが中禅寺。本堂でもある右写真の薬師堂(重要文化財)は平安末期か鎌倉前期頃の建築とされ、現存する長野県最古の木造建築です。茅葺きで風情があります。ここで紹介した金剛力士像は、仁王門に安置されています。

空海開創などの伝承もあるようですが、塩田荘では最も奥まった所にあり、荘内の水源地域でもあることから、水源となっている山に対する信仰から建立されたとも考えられているようです。そっちの方がリアリティがあるかな。「学海」を構成するほかの寺院とは違い、庶民信仰から発展した雰囲気を強く感じさせるお寺です。
Chuzenji04こちらは境内にある五輪塔。建立の経緯は不明ですが、鎌倉期のものとされております。

2006.10.13

塩田荘(2) 塩田城跡

Shiodajo01Shiodajo02城跡はどうしてもしょぼいカメラだときつい…。
塩田北条氏の居館跡とされる塩田城跡です。ただし実際の居館跡部分はもう少し下った集落部分にあるとされ、山城部分からなる城跡は戦国期の遺構と推定されています。くわしくはこちら
室町期には村上氏が支配したようで、15世紀後半には配下の福沢氏が居城としました。天文22年(1553)に武田氏によって落城し、替わって家臣の飯富氏などが入り、武田氏滅亡まではここがこの地域の拠点となったそうです。
石垣遺構や北条国時の墓もあるようなんですが、現在は私有地になっているようで、立ち入り禁止となって上に登ることはできなくなっています。県指定史跡にもなっているだけに、この状況はいただけない。できれば改善してほしいものです。

2006.10.12

塩田荘(1) 前山寺

Zensanji02Zensanji05最初は前山寺(ぜんさんじ)。空海開創と伝わる真言寺院です。元弘元年(1331)に空海の出身地である讃岐国善通寺(現香川県善通寺市)より訪れた長秀上人が再興したとされており、実際の所はこの時期の開山ではないかとも思われます。ただし塩田北条氏が住んだ塩田館の鬼門(北東)にあたることから、前身となる堂舎は、鎌倉期にはすでにこの地にあったのかもしれません(なお、北条氏の祈願寺説もあります)。ちなみに館の西側には北条義政の菩提寺仙乗寺(現在は龍光院という別の寺院があります)があり、館を挟む形で坊舎が建っていたと考えられます。

写真右は室町初期建立とされる三重塔(重要文化財)。建築物としては未完成なんだそうで、「未完成の完成物」と呼ばれているとか。その建立の経緯を含めて、中世後期の事情は不明。天正8年(1580)に武田勝頼が発給した寺領安堵の朱印状が遺っているようです(『信濃史料』で確認。原本は未確認)。
ちなみに「くるみおはぎ」が名物らしいです。

2006.10.11

塩田荘の歴史

Shioda塩田荘シリーズを紹介する前に、巡見前に作成した塩田荘の歴史をまとめたレジュメを掲載いたします。

信濃国小県(ちいさがた)郡に所在(現上田市)。信濃国造の所在地に比定される地であり、古代には国府・国分寺も置かれ、「塩田平」と呼ばれるように肥沃な耕地を有する。信濃国における要地とされる。

▼初見および伝領
『吉記』承安4年(1174)9月条に、後白河院が「信濃国塩田郷」の年貢である布1000反を本家に進貢すべき旨を命じた記述がある。
『吾妻鏡』によると、文治2年(1186)には最勝光院領として挙がっており、本家は最勝光院であるとされる(最勝光院は前年の承安3年に建立、後白河院后である建春門院御願により建立)。それ以前は王家領か。
『源平盛衰記』によると、養和元年(1181)に小県郡依田城(現上田市[旧丸子町])で挙兵した木曽義仲の麾下に塩田八郎高光なる者のいたことがわかる。(荘官か?)

最勝光院が嘉禄2年(1226)に焼亡した後は仙洞(院)の相伝所領となっていたと考えられるが、14世紀に後宇多院によって旧領が一括して東寺に寄進され、東寺領となる。しかし塩田荘の実効支配は既に失われており、鎌倉後期には地頭が一円的に実効支配を完成させていたと考えられる。中世後期には、奉公衆であり信濃源氏の末裔と称する国人領主村上氏がこの地域を支配した。

▼鎌倉期の塩田荘について
文治2年正月、源頼朝下文により、惟宗(島津)忠久が地頭に補任される(「島津家文書」)。しかし建仁3年(1203)に信濃守護でもあった比企能員の乱に連座したことにより改替された。信濃守護となった北条義時、のちに子の重時に地頭職が移ったと考えられ、守護が北条氏極楽寺流(赤橋流)に継承されると同時に、この一流が塩田荘に影響を持つようになった。
建治3年(1277)、執権北条時宗の連署北条義政(重時の子)が失脚・遁世し、塩田荘に籠居(『建治三年旧記』)。以後この一統は塩田北条氏と称されており、実質的な権益が継承されていったとされる。元亨3年(1323)に義政の子「塩田越後守」時治が砂金50両等を北条貞時十三回忌に寄進(『北条貞時十三回忌仏事記録』)。正中2年(1325)には、その弟国時が地頭になっていたことが確認されている(「守矢文書」)。
南北朝期以降は不詳。文明6年(1474)に、村上氏領として代官の福沢信胤が派遣されている(「諏方御符札之古書」)。この福沢氏が塩田城を支配したとされる。

▼「信州の学海」
幼少期を塩田で過ごした、南禅寺の開山である無関普門の塔銘に、「信州に却回して塩田に館す。すなわち信州の学海なり。およそ経論にわたるの学者、簦(かさ)を担いで笈(おい)を負いてみな至る」とある。彼が過ごした13世紀前半には既に多くの寺院が建ち並び、多くの学僧が去来していたとされている。荘内の安楽寺の開山である入宋僧樵谷惟仙は、建長寺開山である蘭渓道隆と交流があった。

▼参考文献
井原今朝男「信濃国・塩田荘」(『講座日本荘園史』5、吉川弘文館、1990年)
黒坂周平「塩田北条氏と信濃守護」(『信濃』25-12,26-2、1973・74年)
『長野県の歴史』(山川出版社、1997年) 主に中世(井原今朝男氏執筆)部分

(1)前山寺/(2)塩田城跡/(3)中禅寺/(4)塩野神社/(5)常楽寺/(6)安楽寺/(7)生島足島神社

博論提出

昨日提出いたしました。
ほっとしたのが正直なところですが、達成感は思ったよりあまり感じない。試問がこれから控えていることもありますが、こんなんでほんとにいいのかなぁ?と引け目になっているせいでもあります。

博論書いたらそこで研究にピリオドを打つわけではないので、不十分なところがあったり、課題が残っているのは当然のことかもしれませんが…。でも、もっとやれたんじゃないか、とも。嬉しさ半分、悔しさ半分、といったところでしょうか。
とりあえずは、現時点において出来うる限りのことはやったと自らに言い聞かせております。

2006.10.10

信州(12) 林城跡

Hayashijo01Hayashijo03
Hayashijo07筑摩神社から東へ車で15分ほどの所にある林城跡。小笠原氏は15世紀後半になるといくつかの家に分裂して内訌状態となりましたが、そのうち井川城(現松本市)を本拠とした一派(深志小笠原氏と呼ばれるそうで)の小笠原長棟が16世紀前半に築いた城です。周囲に支城を築いて堅固を誇ったようですが、長棟の子である小笠原長時が武田氏の攻撃を受けて没落。武田氏は深志城(今の松本城)を拠点としつつも、林城は利用されないまま廃城となったようです。
ほかの支城を含め、武田氏が入った後に少し手が入れられた可能性が考えられるものの、「竪堀の構造・配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、これらの城砦群は、小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である」(現地看板より)とのことです。こちらに縄張図が掲載されています。

次回からは塩田荘関連になります。

2006.10.09

信州(11) 筑摩神社

Tsukama04Tsukama02山を越え、松本市の筑摩(つかま)神社です。「国府八幡」との別名もあったことから、小県郡からこの地に国府が移ったものとされています。
この神社自体は、中世後期には既にあったようです。右写真の本殿(重要文化財)は永享11年(1439)に守護小笠原政康による建立とされています。小笠原氏は常に国人領主層の抵抗に遭い、強力な領国支配をまったく達成できませんでしたが、国府のある筑摩郡や南部の伊那郡をかろうじて支配していたようです。
Tsukama01こちらは拝殿。慶長15年(1610)に松本藩主石川康長によって建立されたそうです。

2006.10.08

消える町のシンボル

20061008b東京都国立市にあるJR中央線国立駅の駅舎は、今年で築80年。都内の木造駅舎では山手線原宿駅に次いで二番目に古いそうです。
この駅舎が、中央線の高架化工事によって今週から解体されることになりました。この週末は見納めってことで、すごい人出のようです。私も今日の夕方買い物がてらに寄ってみたんですが、いつもと違う異様な雰囲気。日が暮れてもたくさんカメラを構える人がいました(ま、きれいな写真は適当に検索して探してください(笑))。

国立はほかの町とは違い、学園都市として計画的に開発された町でした。その開発に伴って大正15年(1926)に駅が新設されたこともあり、道路や町並みが駅を基点にして広がっています。そのため駅が空間的にも町の扇の要となる構造を持っているわけですが、それだけに開業当時からその姿を留めるこの駅舎は、まさに「町のシンボル」だったわけです。
保存に向けた協議も進められたようですが(それまでのやりとりはまぁいろいろとあったようですが、とりあえず触れません)、結果的には解体保存という形に落ち着きました。高架工事が終わっても、今ある場所に復元する可能性を残してはいますが、どうなるかは不透明。そのまま消える可能性もある。…とのことで、「見納め」的に多くの人が訪れたようです。

町造りにはいろんな考え方があるとは思います。しかし、長い時間をかけて共有された「シンボル」を持っている町は多くはないと思うので、消えてしまうのはやっぱりちょっともったいない…。お金は大事ですが、人間は時間をお金で買うことはできない。

<追記>
20061012b後日、こんな看板が建ってました。

信州(10) 村上氏館跡

Murakami01坂城町の満泉寺です。この境内が村上氏の館跡に比定されています。この寺院は村上氏の菩提寺とされ、山号も「村上山」です。村上氏の本拠である葛尾城の麓にあります。葛尾城は14世紀後半に村上義国(義次)が村上郷から本拠を坂城郷に移して築城したとされ、天文22年(1553)に武田晴信に攻撃を受けて落城しました。
満泉寺は永正元年(1504)に村上顕清が建立。葛尾落城とともに焼亡したそうですが、天正10年(1582)に村上国清が再興したとされます。しかし私が行った時は、再建中なのか本堂がそっくりそのままありませんでした(笑)。間が悪かったです。
Murakami02Murakami04左写真は門前にあった石仏。案内によれば、鎌倉期のものだそうです。右写真は少し離れた所にある村上義清墓。子孫・村上義豊や坂城(坂木)代官・長谷川利次らの寄進によって明暦3年(1657)に建立したものだそうです。

2006.10.07

信州(9) 智識寺

Chishikiji01Chishikiji02千曲市(旧上山田町)の智識寺。上山田温泉から車で5分ほどの距離。左写真の大御堂(重要文化財)は室町期に築かれたものとされており、十一面観音立像(重要文化財)が安置されています。
ひっそりとした寺院ですが、このように立派な御堂が建立された背景として、村上氏の庇護が推定されているようです。寺伝では源頼朝が祈願所としたという伝承もあり、時の領主から尊崇を受けたのかもしれません。苔むした茅葺き屋根など、なかなかの風情を感じます。

2006.10.06

「歴史家」人気の到来?

「日本版ポリティカルコンパス」というサイトがあるのをこちらで知ったので、私もやってみました。

政治的な右・左度(保守・リベラル度) -2.4

経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派)  -2.78

あなたの分類は リベラル左派 です。

だそうです。まあ自覚していたので驚きませんが。

新首相就任早々、国会はさながら近代史討論会になっている感がありますね。その内容についてはとやかく言いませんが、「歴史家」という単語が頻発しているところから、歴史学への注目が集まるのではないかという期待感が…。妄想かな(笑)。
首相におかれましては、昔とは違って「歴史家」の真摯な取り組みを評価してくださっているものと勝手に理解しておりますが、「歴史家」の下した結論をそのまま受容していただけるのかといえば、やっぱりそうでもないような気も…(もちろん一朝一夕に結論が定まるわけではありませんが、議論自体は既に積極的に進められており、一定度の達成を見ているわけでもあるようにも思うわけで)。

まぁそれはそれとして、ここで学界としては、個々の意見の中身はともかく、社会的役割を周知してもらうために「歴史家」がバンバン露出するという戦略を採るのも一手かなあとも思うわけですが、言うは易く行うは難し、ですかね…。政治は歴史をまとわなくとも成立する余地はあるんでしょうけど、歴史は政治をまとわずに成立する余地がまず無いからなあ。
個人的には歴史への関心が国民的に高まること自体は喜ばしいことですので、一緒に「考える」ような風潮が広がればいいですね。もちろんそこでは「大人の議論」に徹するという担保が必要ですが。そのためには、論壇が二項対立を煽るような流れになってしまうのはもっとも避けたいところですが…。

信州(8) 荒砥城跡

Arato04Arato05千曲市(旧上山田町)の荒砥城跡です。宿となった上山田温泉のすぐ裏山に当たります。この通り、かなり力の入った復元整備がされており、曲輪には建物も復元されています。
16世紀前半にこの地域の領主・山田氏が築いたとされていますが、16世紀半ば頃には屋代氏の居城となっていたことが知られています。屋代氏は上杉方として村上氏と連繋し、反武田の立場を取っていたようですが、武田氏滅亡後に徳川家康の影響が浸透してくると、徳川方に寝返って逆にこの荒砥城に立てこもって上杉氏と戦ったとか。この屋代氏は諸大名の勢力範囲の丁度中間点にあって、荒砥城を拠点として「境目の領主」として立ち回っていた様子が窺えます。結局屋代氏は上杉方にこの城を落とされ敗走。徳川氏家臣となりました。

Arato06天気最悪のためこんな景色。これはこれで風情がありますかねえ。なお左側の山が村上氏の本拠・葛尾城です。この地域は千曲川を挟んで山がせり出した地形になっているため、戦略上の重要拠点であったことがわかります。
なお、下の方にも曲輪が連なっていたとされていますが、今は妙な施設が…。あんまり関わり合いたくない感じだったので(笑)、素通り。

2006.10.05

信州(7) 国分寺・国分尼寺跡

Shinanokoku01Shinanokoku02上田市にある信濃国分寺(写真左)・国分尼寺跡(写真右)です。信濃国府ははじめこの辺りに置かれ、合わせて両寺が建立されたことがわかります。国府は後に筑摩郡(現松本市)に移り、しばらくして両寺も衰退したようです。ほかに瓦を焼いた竈跡もあり、資料館に遺物などの展示があります。ちなみに国府跡はまだ発見されていないみたいです。

Shinanokoku07国分寺は平安後期に近くの別の場所に再興したとされており、こちらは今に続いています。室町期建立とされる三重塔(写真)は重要文化財。ここは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、上田攻めのために進軍してきた徳川秀忠の本陣になったとされています。境内には鎌倉期の多宝塔があったようですが、見落とし。

2006.10.04

信州(6) 真田の史跡

Shinkoji3信綱寺(しんこうじ)にある、真田幸隆の子である真田信綱・昌輝の墓です。案内によると、中央が信綱、左が信綱妻、右が昌輝の墓だそうです。しかし右の昌輝の墓はいかにも新しい…。最近になってくっつけたのか、昔からあったけど造り直したのかはわかりません。信綱・昌輝兄弟は長篠合戦で戦死しました。このお寺には宝物殿もあって信綱発給の文書や信綱着用という「血染めの陣羽織」もあるそうですが、時間が無かったので見られませんでした。ってか、そんなのあったの知らなかった(笑)。
Chokokuji1こちらは長谷寺(ちょうこくじ)にある真田幸隆・昌幸の墓(写りが悪くてすみません…)。中央が幸隆、左が幸隆妻、右が昌幸。左に妻が来るというこの並べ方には何かの思惑があるんでしょうかねぇ? なお寺伝では、このお寺は天文16年(1547)に幸隆が建立したそうです。松代転封後も、真田氏の保護を受けたとされています。
Hinatabata2日向畑(ひなたばた)遺跡で発掘された、中世の墓石群です。中世後期のものと考えられ、真田氏との関係も推測されているようですが、背景についてはよくわかりません。

2006.10.03

信州(5) 真田本城跡

Sanadahonjo02Sanadahonjo04
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館跡から少し奥へ進んだ所にある真田本城跡です。真田氏の詰めの城とされている山城。今は車で上まで登れます。
写真にある、こんもりした山のような遺構の上が本丸と考えられる曲輪で、二枚目の写真は、別のアングルから見たものです。その下の写真は、本丸側から尾根沿いに広がる曲輪。あくまで私の感覚でいえば、典型的な中世山城の形式と言えるものです。

Sanadahonjo05城跡から北西方向を見た景色。左が上田方面、右が菅平から草津へ抜けるルートへ。正面の山を越えると松代。といったような位置関係になります。違うところからは砥石城や上田市街、眺めが良いと塩田まで見えるようです。市街地まではなんとか見えましたが、天気が今ひとつだったので、写真には撮りませんでした。この地域が一望できる、物見には絶好のロケーションであったことが窺えます。当たり前ながら、城を築くのはどんな山でもいいとは限らないってことでしょうねぇ。

2006.10.02

信州(4) 真田氏館跡

上田の中心部から北へ向かい、砥石(戸石)城跡を横目に登ってゆくと、真田の地です(現上田市、旧真田町)。
Toishi1砥石城はこの標識の建っていたところまで。時間が無かったので上には登りませんでした…。
Sanada02真田を支配していたのが、ご存じ真田氏。その館跡です。

真田氏は、16世紀に入って突如として勃興する領主で、それ以前はどのような歴史を持っているのかがほとんどわからない一族です。系図や家譜などにある通り、小県郡最大の領主滋野氏の一族・海野氏の傍流であったことは確かではないかと思いますが、いつ分家したかは明確にはなっていません(少なくとも戦国期より以前でしょうか。系譜関係はわからないものの、15世紀前半にちらほら「真田」姓の人物が確認されています)。
Sanada04Sanada06写真左は曲輪部分。ゲートボール場になってます(笑)。こちらは以前発掘調査が行われたようで、発掘された遺物が近くの真田氏歴史館で展示されています(報告書もあり)。その結果、この館は早くても天文20年(1551)頃に築かれたとされており、それ以前の真田氏の姿をこの遺跡からは残念ながら窺うことはできないようです。ただし戦国期領主の館跡として、貴重な遺跡です。なお真田氏は天正10年(1582)の武田氏滅亡後に上田に本拠を移しており、その時点でこの館は廃棄されたようです。
写真右は主郭部分。神社になっており、発掘調査はされていない模様。

以下余談。
…ちなみに上田城には今回行きませんでした(笑)。上田は今でこそ真田で売っていますが、ご存じの通り、真田氏が実際に支配していたのは元和8年(1622)に松代へ転封となるまで。現在の上田城は後に藩主となった仙石氏によって整備されたものが多く、そして上田藩を最も長く支配していたのは、藤井松平氏でした。六文銭一辺倒な雰囲気にあって、市民の間で彼らの存在があまり振り返られていないのは、ちょっとかわいそうな(確かに地味かもしれんけど…。上田市立博物館は頑張って彼らを取り上げています。好感。)
さらについでながら、17世紀の上田を支配した仙石氏は宝永3年(1706)に但馬国出石藩(現兵庫県豊岡市[旧出石町])に転封になりましたが、その際上田の蕎麦を出石に持ち込み広め、それが名物になったと言われています。

2006.10.01

信州(3) 大法寺

Daihoji01Daihoji04青木村にある大法寺です。本堂に安置されている平安期のものと思われる木造十一面観音立像・木造普賢菩薩立像や、室町期頃とされる厨子・須弥壇がいずれも重要文化財に指定されています。
しかしここはなんといっても写真の国宝・三重塔。美しさに思わず振り返ることから「見返りの塔」と呼ばれています。
Daihoji06この塔の特徴は、一番下の層(初重)が特に大きいことにあるそうです。このような特徴を持つ三重塔は、現存するものでは奈良興福寺の三重塔しかないそうで、非常に珍しいとされます。

三重塔は墨書によって正慶2年(元弘3年、1333)頃に造営されたものであったことがわかっています。14世紀前半は堂舎の造営ラッシュだったそうで、この塔の造営もそのブームに乗ったものじゃないか、という話も。同じく墨書によれば、摂津の四天王寺から大工や番匠が来ていたそうで、畿内の先端技術をもって造営されたことが窺えます。なお造り自体は純朴で、派手な装飾がほとんどされていないのも特徴だそうです。

この寺院自体は、至徳3年(1386)に書かれたとする縁起(ただし現存するものは近世の写本)があるそうで、それによると大宝年間(8世紀初頭)に藤原鎌足の子である定恵が建立したとされていますが、これは定恵の没年(666年没)から史実とは符合しません。後に坂上田村麻呂の祈願で再興された、との伝承もあります。
実際は文献史料に乏しく、この三重塔の造営の背景も含め、寺院の歴史はほとんどわからないのが実情といったところ。

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