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2007年2月

2007.02.28

関東武士の故地へ

Sugaya先日、埼玉県嵐山町にある埼玉県立嵐山史跡の博物館に行ってきました。元々は資料館だった所ですが、今は博物館となっています。
この博物館、畠山重忠の居館跡とされる菅谷館跡に建っています。写真はその館跡にある畠山重忠像(考証怪しめ…)。遺構自体はとても鎌倉初期のものとは思えず、たぶん戦国期に後北条氏が整備したのでしょう。

写真を撮ってきたので、後日改めて紹介したいと思います。ちなみに、カメラをついに新調しました。今回がそのデビュー戦。やっぱり携帯とは比べものにならないですね。しょぼい腕前でもそれなりに見られる写真を写すことができます。

埼玉県の北西部(武蔵国比企郡・児玉郡・秩父郡辺り)は、知る人ぞ知る中世武士の一大拠点です。今回はそこへ行ってきたわけですが、中世武士ゆかりの寺院が今もかなり残っているようです。残念ながら車が無いと行けない所も多いので、また機会があれば今度は車で総ざらえしてみたいところです。
それを受けて、展示もこれらの寺院ゆかりの遺物や、経筒などが展示されていました。文書は残念ながら見るべきものはないですが、鎌倉期の武士の暮らしと信仰を知る上で勉強になります。
ただ、紹介されていた寺院の説明がほとんど無かったのは残念。せめて現在の所在地ぐらいは注記してほしかったです。

ちなみにこの展示、うさたろうさんのブログで知りました(笑)。

2007.02.23

「歴史家」求ム

HASUさんより、大阪大学21世紀COEプログラム「インターフェイスの人文学」研究報告書2004-2006『世界システムと海域アジア交通』(同COE事務局、2007年)受贈。ありがとうございます。

同書の代表者であるMさんによる歴史学界への「苦言」、実に興味深く拝読いたしました。近年ではとりわけ歴史教育へどのようにコミットしてゆくかという視点での、社会貢献の可能性が議論されています(特に日本史は)。
ただしそれだけではなく、本来の学術分野としての歴史学としてトータルでどのような社会貢献を果たしてゆくのか。普段は特に意識せず忘れがちなものなので、改めて自覚させられた次第です。

西欧(特にフランス中心)では、「世界システム」論として歴史学者が積極的に発言しており、それが一定の社会的影響力を持っているわけですが、確かに日本は水準的に世界最高レベルにあるのに、このような提言に積極的な学者はかなり少ないような気がします。雑務に追われるようなシステムを作った研究行政に問題がある、という感もありますが…、ま、それだけのせいにするのはやめましょう。

歴史学の社会的役割というのは、大きく分けて二つあるように思います。一つは歴史的事実の発掘により、過去の人間社会を具体的に明らかにすること。まぁこれは日常的な作業といえるでしょう。
もう一つには、その作業によって構築した人間社会像を踏まえて、積極的に現代社会に提言をする、いわば「歴史家」のような仕事だと思います。かつては日本にも「歴史家」はたくさんいらっしゃいましたが、最近では残念ながら影が薄いような気がします。むしろその立場は、同時代的問題を探求するという点で一般に受け入れられやすい、社会学に取って代わられつつあるような気もします。

もちろん社会学の役割も大事ですが、歴史学は「時間」を縦横無尽に移動することができる特技を持っています。遠慮がちにではなく、その特技のすばらしさをより積極的にアピールする必要があるかもしれません。
もっとも今の私にはまったくの力不足ですが…。さしあたっては、こういうことはつい忘れがちなので、なるべく自覚し続けるようにしたいと思います。

2007.02.19

独裁者リスト

おそらくあまり日本人には馴染みのない(お恥ずかしいことに私も知らなかったのですが…)、この前亡くなったトルクメニスタンのニヤゾフ大統領、びっくりするぐらいの独裁者ぶりだったようですねえ。我々には近隣の国の人についてはよく情報が入ってくるわけですが、少し離れると極端に情報をほとんど耳にしなくなってしまうので、同時代に生きながら、意識しないと知らないままで終わってしまうものがいかに多いかを感じます。

"Parade"っていう雑誌があるそうですが、そこで毎年「独裁者リスト」ってのを作ってるそうです。
今年のリストはこちら

1) Omar al-Bashir, Sudan
2) Kim Jong-il, North Korea
3) Sayyid Ali KhamEnei, Iran
4) Hu Jintao, China
5) King Abdullah, Saudi Arabia
6) Than Shwe, Burma (Myanmar)
7) Robert Mugabe, Zimbabwe
8) Islam Karimov, Uzbekistan
9) Muammar al-Qaddafi, Libya
10) Bashar al-Assad, Syria
11) Teodoro Obiang Nguema, Equatorial Guinea
12) King Mswati III, Swaziland
13) Isayas Afewerki, Eritrea
14) Aleksandr Lukashenko, Belarus
15) Pervez Musharraf, Pakistan
16) Choummaly Sayasone, Laos
17) Meles Zenawi, Ethiopia
18) Hosni Mubarak, Egypt
19) Paul Biya, Cameroon
20) Vladimir Putin, Russia

皆さんどれぐらいご存じでしょう? かつては、ニヤゾフ氏も当然ながら常連だったみたいです。
キューバのカストロ議長はもう入ってないんですね。
ただ、このランキング、アメリカの雑誌によるものであるということを意識する必要がありますが。それにしても中国の嫌われっぷりは相変わらずですね…(笑)。

2007.02.18

「風林火山」…えーと何回目だっけ?

なんか、段々つまんなくなってきたような…。

ネタ探すのに苦労してるんでしょうけど。奉行衆の反抗の話、使いませんでしたね。ちょっとがっかり。

「海ノ口城」、ここを使ってましたね。私が撮った写真そのまんまの風景が映ったので、わかりました(笑)。ちなみに本物はこちら

2007.02.17

お得な二次募集情報

私の所属研究科が、博士後期課程編入学の二次募集をやってます。
編入学の場合、従来は一次試験で筆記試験(英語と専門)があるんですが、二次募集だと一次試験は書類審査だけみたいです。随分思い切ったなぁ。
〆切は3月9日。この情報をここで書いて役に立つかどうかはわかりませんが、参考になる人がいれば幸いです。

ドクターは元々毎年のように定員割れしていましたが、二次募集をやるのは、少なくとも私が入学してからは初めてのような気がします。いよいよ学生確保が厳しくなってきたのかなぁ(文科省にも睨まれてるだろうし)。危うきには近寄らない君子が増えた、ということかもしれんけど…。そうだとすれば、寂しい話だことで。
募集要項等はこちらからどうぞ。

2007.02.15

14世紀「デフレ」の見解に物申す

さて、「その時歴史は動いた」、見ましたよ。
「デフレ」の原因、なるほどそう来たか、と。典拠となったとおぼしき論考を見つけました。

松延康隆「銭と貨幣の観念―鎌倉期における貨幣機能の変化について―」(『列島の文化史』6、1989年)です。売券の比較検討によって、同じ土地の価格が14世紀前半に軒並み下落しており、これが銭貨不足によるものと指摘されています。
ただし。松延さんはその原因として、(1)銅銭輸入量の減少、(2)銭貨需要の増大の二つを仮説として呈示されていますが、(1)の可能性は否定されています。当然です。14世紀前半では、対外関係の変化による輸入量減少は考えられないからです。
原因は明白。当該期は年貢が現物納から代銭納へとシフトする過程にある時期で、日本中で急速に銭貨による貨幣経済が浸透し、銭貨需要が増大してゆく時期にあたります。ですからデフレを想定するならば、対外関係と連動する形での輸入量減少が銭建てでの物価下落を招いているのではなくて、それを上回る銭貨需要が作用していると考えるべきでしょう。

番組HPは不親切で、根拠となった「東寺百合文書」の売券について詳しい解説が無いので、番組で使用したと思われる売券を紹介しておきます。おそらくミ函49号の、「山城国紀伊郡社里三十一坪田地手継注文」のようです。建治2年(1276)では田2反半が25貫文であったものの、貞治3年(1364)には7貫文、同年にもう一度売却され、5貫文となっています(同年で価格が下がっているのはどう考えるのでしょう?)。
この事例だけでは、14世紀後半にこのような下落があったものという印象を抱きますが、既に述べたように、明の建国よりもずっと早く始まっていることから、明の海禁と連動するものではまったくありません

ついでながら、先に触れた百瀬今朝雄さんの米価変動の論考によると、15世紀前半は短期的な上下はあるものの、長期的にはほとんど米価は変わっていません。つまり、明銭の輸入が米価変動に及ぼした影響はおそらくほとんど無かったものと考えられます。まぁこれは結果論ということになるかもしれませんが、明銭輸入がデフレの解消をもたらすことはなかった、ということになろうかと思います。

もっとも私はそれでもなお、これらの現象を「デフレ」としてのみ理解することには問題があると思います。14~15世紀は、ちょうど銭貨がほぼ唯一としての貨幣の地位を得る短い時期に当たりますが、物価変動というのは単純に貨幣と商品との関係によって発生するものではないのは当然なわけで、それだけを見る経済学的指標にのみ囚われるのは問題であると考えるからです。当該期に銭貨需要が高揚したことは事実だと思いますし、それが物価下落の要因の一つになっていることも否定しませんが、それだけでは解決できない問題もある、ということで。この辺は難しい問題なんですが。

ちなみに応永11年(1404)に「1万5000貫」の銅銭が日本にもたらされたとの話がありましたが、これはおそらく永楽通宝ではありません。永楽通宝の鋳造は1411年(応永18年)からで、義満が死んでからとされているからです。多分この時にもらったのは洪武通宝じゃないかと想像されるのですが、よくわかりません。で、永楽通宝鋳造期には既に日明間で断交しているわけで、永楽通宝が“正規の”ルートで日本に入って来たのは義教による再開後の1,2回の間だけだった可能性が高いです(義教期は既に宣徳帝の治世ですが、宣徳通宝の初鋳は1434年)。そう考えると、永楽銭は遣明船随行の商人を中心に、ほとんどイレギュラーな形で日本に入ってきたと考えた方が良さそうとさえ思えます。
で、北山第の造営に「100万貫」っていう話を事実として出したら、かえって日明貿易がちっぽけに見えてしまいませんか?(笑) 実のところ、明銭輸入の経済効果ってのは、だいたいこんなもんだと思います。
Sさんは限られた時間で随分的確に解説されていましたが、物価下落の話が全く出てきませんでしたね。やはり番組の見解には否定的であったのか、言質を取られまいと、あえて触れないようにしていた感すらしました(笑)。

しかしこの手の番組、どうして最後は暴走するんでしょうか…(笑)。永楽銭の解説がひどくてぶったまげましたよ(笑)。まあ、私にとっちゃ専門だから余計気になっただけなんでしょうけど。これは細かい話なので割愛。

ちなみに「日本国王良懐」については、むかーし書いた駄文が日の目を見る時が来たようです(笑)→こちら

2007.02.12

博士学位取るのに時間がかかる?

博士号は文系の方が理系より難しい――。博士課程の修業年限内に学生が博士学位をどれだけ取得できたかを文部科学省が初めて調べたところ、文系の学生の取得率は理系の3分の1以下であることがわかった。博士号については「理高文低」と言われてきたが、それを裏づけた格好だ。文科省は「文系は低すぎる。対策を考えてほしい」と話している。(中略) 大学が学生に博士号を与える条件は、「自立した研究ができる能力」があること。理系の各分野ではこうした考えが浸透しているが、文系の分野では約120年前の制度発足以来、「功成り名を遂げた人」に与える意識が根強く、理高文低の一因となっている。 文科省は05年9月の中央教育審議会(文科相の諮問機関)の答申を受け、大学院教育について学問研究とともに人材育成面にも力点を置く方針を打ち出し、その一環で修業年限内の学位授与を促している。同省の担当者は、文系の現状について「ちょっと低すぎる」とし、「どの程度の授与率が適当か、各大学院で考えてほしい」と話している。 ―http://www.asahi.com/life/update/0212/003.htmlより引用

対策? 答えは一つ。職を増やせってことでしょ。

もっとも博士課程後となると文理で違いがあるかどうかはわかりませんが、少なくとも人文系では、急いで博士課程を終えたところで、その先がどうにもならんのが現状で、これでは話にならんわけで…。ここまで来ると奨学金(=ローン)にお世話になっている人が多いなか、履歴書に穴が空くと免除への道が閉ざされるわ、そうでなくとも早速返還の催促は来るわで、むしろ早く学位を取ることでこそ蒙る不利益が甚大。なら休学してでも学籍を維持することになります。
もちろん、純粋に研究面で学位のハードルが高いのも事実ではありますが、記事にあるように、まさに単なる「一因」でしかない。授与率の低さは、まさに生活に関わる切実な問題が影響しているわけです。文系はポスドクを救済する体勢に著しく乏しく、実際に学位を取ったはいいが、その後は研究とは無関係のバイトをしてでも食いつながねばならないのが現実。年齢的にも一般企業への就職の道はほぼ閉ざされていますから、八方塞がりです。

文科省は大学に対策を要求するよりも(ってか、乱発せえって号令かけるようなもんじゃないのか?)、財務省に掛け合った方がより効果的とさえ思えるわけですが、いかがでしょうかね。

2007.02.08

足利義満、登場

捏造疑惑とまで言いませんが、こちらも時折ネタの信憑性が物議を醸すNHK「その時歴史は動いた」ですが(なんか今日の武田信玄ネタはちらちら見ましたが、正直言ってひどそうな内容でしたね)、次回は足利義満の日明外交だそうで。
義満ネタなんて珍しい。しかも日明関係と来れば、見たくなりました(笑)。ゲストはあのSさん。で、早速HPを覗いてみたんですが…。

義満は国交回復して明国と貿易を行い、銅銭を輸入しようと考えていた。当時、中国の銭が日本の通貨として使用されていたが、明は民間貿易を禁止したため、市場に通貨が不足し、現代でいうデフレ経済の状況に陥っていたのである。 ―http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2007_02.html#02より引用

通貨不足でデフレ? あれ?そんな話あったっけ?
こりゃさすがにまずいと思って(笑)関連書籍に当たってみたんですが…、どうもそんなことを書いてある本に辿り着けません。Sさんの近著を繰っても言及してある箇所が見あたらなかったんですが…。見落としでなければ、Sさんの新説なのか、制作側の新説なのか…? ご存じの方、是非ご教示ください。
…と思っていると、それなりに根拠となっていると思しきものがありました。百瀬今朝雄「室町時代における米価表―東寺関係の場合―」(『史学雑誌』66-1、1957年)によると、おおむね1380~90年代は比較的米価が安かったようです。百瀬さんご自身も仰せのごとく、米価変動の背景にはいろんな要因を考えるべきなので、単にデフレになったと言い切れるわけではありませんが。

実のところ、私は14世紀後半に銭不足だったかというと正直疑問ですが。
いろいろ理由はありますが、義満の奢侈で幕府財政が膨らんだことを対明交易の契機とするのが通説であることや(中には大内氏対策という政治的側面もあったでしょう)、明銭流入後も北宋銭が圧倒的な流通量を占め続けたことからすれば、この時期に突然銭不足に陥ったとは考えにくい。この辺をどう考えるのかといったところでしょうか(小葉田淳「勘合貿易と倭寇」、『岩波講座日本歴史』7、岩波書店、1963年参照)。明銭が主流にはならなかったことは、Sさんもそう書いてあるんだけどなあ…。うーむ。

まあ、あとは見た後に書く気になったらということで。

どーでもいいですが、放映日、2月14日ですね。ほんとどーでもいいですが…。

<追記(2007.2.15)>
引用元URLを変更しました。

2007.02.05

「風林火山」序盤の感想

なんだかんだ言って、これまでは全部見ました。
鑑賞に堪える…なんて言うと偉そうですが、予想外の収穫というか、結構面白く見てます。

一応それを前提として…。

とはいうものの、違和感がないわけではないです。
一番気になるのが、世間が狭すぎること。勘助の親類縁者、及び「知り合いの知り合い」のレベルで、甲・駿の主要人物のほとんどが繋がってしまうのは、やっぱりいくらなんでも強引すぎる感があります。
とりわけ、太原崇孚(雪斎)まで縁者になってしまうことからすれば、庵原氏を縁者に設定したのはどうだったかなぁ…。ほかに描き方は考えられなかったのだろうか。もっとも、花倉の乱の時期は知名度も低いし、主要人物の人間関係も複雑なので、それを限られた時間で描ききっているための設定だということは理解できるし、それはある程度成功している、とは思いますが。

ちなみに天文5年(1536)の情勢として、比較的信頼できる史料として認識されている「勝山記(妙法寺記)」(『山梨県史』資料編6所収、読みやすさを考慮して適宜改行を入れています)によると、

(前略)正月十四日夜大風吹候て、皆々家ヲソンサシ申候、
此年弐月十一日、小林和泉殿死去被食候、
此年四月十日駿河ノ屋形御兄弟(今川氏輝・彦五郎)死去被食候、去程ニ其ノ年ノ六月八日花蔵殿(玄広恵探)・福島一門皆ナ相模ノ氏縄(北条氏綱)ノ人数カセメコロシ申候、去程善得寺殿(今川義元)屋形ニナヲリ被食候、
此年五月ヨリ七月マテ雨フリ候て、言悟(ママ)道断餓死至シ候、殊更疫病ハヤリ申候、
此年六月当国ノ府中ニテ、前島一門皆上意(武田信虎)ニソムキ腹ヲ切リ申候、去程ニ一国ノ奉行衆悉ク他国へ越被申候、(後略)

これによると、花倉の乱の勝利は北条氏綱の主導によってもたらされたと書かれているわけですが、ドラマでは援軍を送ったとはしていたものの、かなり薄められていましたね。
ややネタバレ気味ですが、今後の前島誅殺と家臣の離反をどう描くかが見物になってきますね。
ついでに、やや信憑性が劣るとされる「甲陽日記」(同上書所収、駒井政武筆との説から「高白斎記」とも呼ばれますが、駒井筆者説は疑問符が付くらしい)によると、
(前略)二月(後奈良天皇)御即位、三月武田晴信公元服、十六歳、(足利)義晴ノ諱ノ晴ノ字ヲ賜フ、十七日今川氏照(輝、以下同じ)・同彦五郎同時ニ死ス、同五月廿四日夜氏照ノ老母(寿桂尼)、福島越前守宿所ヘ行、花蔵(玄広恵探)ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福島等久能へ引籠ル、六月十四日花蔵生害、

とあります。やや異同があるわけですが、どうなんでしょうかね。「甲陽日記」だと、寿桂尼は花倉方に荷担したとも読めますが、まあこれは疑問でしょう。

さて、「勝山記」にもありますが、この時期は毎年のように災害があったと記されています。で、第一回でやや大袈裟気味に描いていた「村」ですが…。結局、竜頭蛇尾になっちゃいましたね。まあ仕方ありません。あれだけ飢饉やらなんやらと言っていたのに、結局今のところ舞台装置として活かされている形跡はないですね。
百姓が「下克上」とか「一揆」とか言っていましたが、ちょっとどうかなぁ。特に「一揆」はいただけない。「蜂起」の方が良かったと思うんですが。
ただ当時においては、百姓は武装蜂起よりも逃散を選択するケースが多かったので、そちらの可能性を強調した方が良かったように思います。ま、インパクトが小さくはなりますが、そもそも「村」を描き切れてないんだから、大して拘る必要もないように思うわけで。

ま、そんなこんなで。なんだかんだ言っても、引き続きこれからも見たいと思います。私もまた、ミツの退場は残念です(笑)。貫地谷しほりさんの今後のご活躍をお祈りします。でも、ブログ見たらちょっと引いたけど(笑)。

2007.02.02

「すべて」もの

…といえば、知る人ぞ知る新人物往来社のシリーズですが、最近「武田信虎」と「武田勝頼」が刊行されたそうです。
商魂たくまし…、いや(笑)、正直、武田信虎で一冊書けるなんて凄いなぁと思います。興味のある方は一冊いかがでしょうか(なお、特に著者諸氏と利害関係はありません)。どうでもいい話ですが、先日、信虎と私は干支が同じであることが判明しました(笑)←年の差480歳。ついでに斎藤道三も。

過去、たくさんのラインアップがありますが、先日神保町の某書店ワゴンにて、結構たくさん並んでました。そのうち、加地宏江『伊勢北畠一族』(新人物往来社、1994年)購入(1000円)。このシリーズで一番の稀少本は今谷明さんの三好氏のものですが、これもなかなかお目にかかれないので、ラッキーでした。

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