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2007年3月

2007.03.30

「本能寺の変」論争の到達点

桐野作人『だれが信長を殺したのか-本能寺の変・新たな視点』(PHP新書452、PHP研究所、2007年)受贈。ありがとうございます。読了いたしました。

長らく構想を練っておられたとのことで、実に多彩な史料を豊富に用いられていて、飽きずに読み切ることができました。
近年ではどちらかというと、研究者の間では織豊期の政治史はやや低調な感がありますが、天正8年(1580)以降の信長政権と四国との政治情勢や、それに絡む三好氏の処遇の問題など、従来あまり注目されていない興味深い論点がまだ多く課題として残されているんだなぁ、と感じました。

史料的制約もあって、編纂物や軍記物の援用がどうしても多くなると思いますが、それを鵜呑みにせず出来うる限り史料批判が施されていて、安心して読み進められます。もっともそれらの史料批判の妥当性については、今後専門家の間で真摯な議論がされることにより、当該期の情勢がもっと精密に理解されるよう期待したいところです。

個人的には、上賀茂神社の天正10年(1582)6月の算用状が実に興味深かったです。上賀茂はこの時期の史料を特に多く所蔵しているのですが、まだまだこういう史料はほかの寺社の文書にはあるかもしれないなぁ…などという気もしました。

だれが信長を殺したのかだれが信長を殺したのか
桐野 作人


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2007.03.27

初めて若狭へ

Shitsumi先週末に学位授与式がありまして、学位記を抱えて実家へ帰っておりました。
その間、急遽、某合宿のため若狭の小浜へ。中世史では著名な所ですが、私は今回が初めてでした。写真は宿となった志積浦の風景。中世の刀祢の家だったとかで、中世文書を所有しておられる民宿に宿泊。魚がおいしゅうございました。
この合宿は毎年この時期に開催されていますが、私は3年ぶり(…と当日も公言してましたが、実は4年ぶりでした(笑)。前回の参加記事は過去ログ2003.3.30条参照)。久しぶりにお会いする方ばかりなので、なにやら挨拶ばかりしていたような気がします(笑)。一方で、初めてお会いする若手の方も多くて、随分様変わりしたなぁ…といった心境。あんまりさぼると居場所がなくなっていく気がしますね(いや、元々私に居場所があったかどうかはわからないんですが)。

1泊しかしなかったこともあって、あまりじっくりと巡見できなかったので、また改めて行ってみたいと思います。できれば蟹の季節に(笑)。

このほか、今回もヒマを見つけてはいろんな所で写真を撮ってきましたので、追々アップしたいと思います。

2007.03.21

民衆を思う。地域を思う。

ここへ来て随分寒いですね…。

先日、佐藤和彦さんの追悼集会に参加。シンポジウムでは佐藤さんの研究回顧や、関連する研究報告。
佐藤さんのご研究は言うまでもなく「民衆」がキーワードで、その点まったく「ブレ」が無かったことについては多くの方が仰せでした。
ただ、最後にある方がおっしゃったように、佐藤さんは歴史教育についても一貫して問題意識を感じておられました。「研究」を振り返るという趣旨であったにせよ、そこへの言及がほとんど無かったのは私もかなり違和感を感じていました。今の我々には、歴史教育への取り組み方をいかにすべきかが問われているわけですし…。まあこれは他人を批判するのではなく、私自身の反省材料としたいところです。
夕方からは偲ぶ会。当初は参加するつもりはなかったのですが、まさにまたとない機会なので、急遽参加することに。老若男女いろんな方がお見えで、まさに人徳が偲ばれます。

その翌日は、その佐藤さんも肝煎りであられた、うちの大学と学芸大との年に一度の「合同ゼミ」。こちらでも書いたように、去年のこの会にお見えになった佐藤さんに、「今年中に博論を書く」と宣言したのですが、それを果たすことが出来てほっとしています。しかしお見せすることができないのは返す返すも残念です。

話は変わって、ちょっとした合間に読むために本屋で物色したところ、目に留まった本間義人『地域再生の条件』(岩波新書新赤1059、岩波書店、2007年)を購入して読了。歴史系以外の本を読むのは随分久しぶりです。
地域活性化を巡る国策の誤りを糾弾し、地域の「自律」と「自立」による独自の取り組みによる成功例を紹介しながら、その在り方を推奨するような趣旨でした。その点において一貫しているのではありますが、それだけ、という感じも。
国の失策もすべて「役人の机上の空論」で片づけるのではなく、それがいつまでも続く政治・自治の怠慢や、それを許す有権者の怠慢も同時に反省を促すべきで(特に地方議会の機能不全は頭が痛い)、その自覚が共有されてこそ、地域の「自律」と「自立」が可能となると考えるべきでしょう。このような趣旨の指摘はありましたが、国への糾弾の鋭さに比べると、どうも躊躇いが感じられました。

また地域活性化の処方箋として、地域性を活かした独自の取り組みを推奨しておられるようですが、それこそ「地域」というのは星の数ほどあるわけで、一方で独自性が星の数ほどあるかといえば、そうとも言い切れない。
「地域それぞれで工夫して」ということを提唱することが、処方箋たりうるのかといえば、どうでしょうかねえ。そんなの当たり前だし、と思うんですが。その当たり前なことが今まで出来ていなかったということであれば、そうなのかもしれませんが。NPOの取り組みなどの具体例は指摘されていましたが、もっと根本的な原因分析と対策を明確にして欲しかったなあ、というのが率直な感想でした。

地域再生の条件地域再生の条件
本間 義人


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2007.03.19

佐竹関係(4) 馬坂城跡

16masaka18masaka最後は馬坂(まさか)城跡。佐竹昌義がはじめてこの地に入った際、築いた城だとされています。
現地看板によれば、「台地の先端部の約6000平方メートルの敷地を、三つの空堀で分断して曲輪を設けた平山城で、北を鶴が池、西南を山田川に囲まれた自然の要害であった」とのこと。

佐竹氏は後に太田城へ移り、馬坂城には分家の稲木氏や天神林氏が入った頃もあったそうですが、慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田転封によって廃城となりました。

現在の本丸(写真右)は、今は畑に変わっていて、ぽつんと碑と案内板が建っています。

22masaka26masaka城跡は鬱蒼としていて遺構がわかりにくいのですが、確かに城があったような雰囲気はありました。なぜか縄張り内に塚のようなこんもりした箇所が遺されています。物見として使用されたのでしょうか。

2007.03.15

佐竹関係(3) 佐竹寺

Satakeji3Satakeji4太田城から車で10分ほど離れた所にある佐竹寺。寛和元年(985)に、花山天皇の勅願によって元密上人が開山したとの伝承があります。治承元年(1177)に佐竹昌義が寺領を寄進して再興し、佐竹氏の祈願寺になったとされています。
天文12年(1543)に戦火によって焼失したそうですが、天文15年(1546)に佐竹義昭によって再興。本堂(重要文化財)はこの時のものとされているようで、様式としては安土桃山期の先駆けとして位置づけられるものだそうです。
寺の位置としては太田城(佐竹城)の鬼門除けの役割を担ったと伝わっており、本堂も北向きなんだそうです。

Satakeji6本堂の中はこんな感じ。千社札がびっしり張り付いています。現地案内板によると、「本堂は茅葺、寄棟造りで、主屋の周囲にこけら葺のもこし(裳階)をめぐらし、正面中央に唐破風をあげている。正面の火頭窓や柱や組物など桃山時代建築の先駆として注目すべき遺構をもっている」。
ちなみに、その後17世紀に少し手が入れられているようです。

2007.03.13

佐竹関係(2) 太田城跡

13otajo14otajo茨城県常陸太田市の中心部にある太田城跡。平安末期に藤原秀郷の子孫である太田通延が築いた館にはじまるとされています。
その後、源義光の孫・昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現:常陸太田市)に土着して佐竹氏を名乗り、その本拠を馬坂城に置いたとされています。そして昌義の子・隆義の代に太田城に移ったそうです。
佐竹氏は治承4年(1180)における金砂(現:常陸太田市[旧金砂郷町])での合戦など鎌倉方の猛攻に屈し、その後は細々と生きながらえていました。
南北朝期に佐竹貞義が常陸守護になると、国内の南朝勢力を逐って勢力を確立してゆきましたが、15世紀前半に山内上杉氏から養子で入った佐竹義憲(義人)の代になると、それに反撥した庶家の山入氏らとの間で紛争が起こるなどしています。このように秋田に転封になるまで紆余曲折がありながらも、太田城が本拠となりました。
(※斜体字部分は関周一さんのご指摘を基に修正しました)

…とはいうものの、今や完全に城跡は市街地化していて、遺構はまるで残っていません。佐竹氏の転封後は廃城となり、18世紀初頭に水戸藩家老の中山信敏が屋敷を構えたそうで、その後宅地化していったようです。
本丸跡とされる所は小学校となっていて、敷地内に「舞鶴城趾」の碑があります(左写真)。本丸跡の写真といっても…、実態は単なる小学校の校庭の写真です(笑)(右写真)。

18otajo小学校の一角に、当時の遺構と言われる土塁?のようなものがありましたが、うーん、全然わからんです。

余談ですが、ホタテは「秋田貝」とも呼ばれますが、佐竹氏の家紋(「月印五本骨軍扇」と言うらしい。満月の描かれた扇)に似ているからだそうです。でも、私は秋田貝って言う人に出会ったことは今のところありませんが。

2007.03.12

「裏金」問題とドラフト改革

にわかに降って出た西武のスカウト活動にかかる「裏金」問題ですが、その根絶が欠かせないという話は当然として、なぜ今この話が出てきたのか、が私としては気になるところです。

ざっとネットで検索をかけた限りではあんまり突っ込んだ分析をしているところが見つからなかったのですが…、あげつらうのもなんですが、検索をかけて一番最初に出てきた朝日の記事によると、


「ドラフト改革、論議裏切る不祥事 西武の裏金問題」
 9日に発覚した西武の不祥事は、球界でドラフト改革を論議している最中のことだった。 (中略)
 ドラフトは05年から、高校生と大学・社会人を分離し、大学・社会人には選手が球団を選べる希望入団枠を設ける方式で行っている。2年の暫定期間が終わり、今秋から見直すべきかどうかを話し合っていた。
 希望入団枠については廃止を訴える球団の方が多かったが、巨人の清武代表は「現行のドラフトに大きな問題はない」と主張した。
 05年6月には12球団から新人選手獲得に関する「倫理行動宣言」が出されており、2月のドラフト制度検討委員会では、12球団のスカウトらを集めた上で、「倫理行動宣言以降、不正のうわさも聞かれなくなった」(長谷川・コミッショナー事務局長)という結論で落ち着いていた。
 NPBは13日の選手会との折衝では、希望入団枠を残す案を示す予定。これに対し、希望入団枠廃止を訴えている選手会の松原事務局長は「NPBからは不正はしていないとずっと説明されてきたのに、こうやって出てきた。不正が起きる可能性を持つ希望入団枠は廃止すべきだ」と話す。
こちらより引用

今進んでいるドラフト会議改革の論議にまで言及しながら、「論議裏切る」というのは今一歩踏み込みが足りない感じ。
今回の騒動、第三者がリークしたのではなく、西武が自ら発表したようですから、この論議が進んでいる最中という時期であったこととの関係を考える必要があるのではないでしょうか。要するに、これは論議の行方が変わることを狙って、あえて西武が自らの不祥事をこのタイミングで暴露したと見るべきでしょう。

この改革論議、完全に密室で行われていて、外部にはほとんど内容が漏れてきません。その閉鎖性もさることながら、巨人が言っているように、「現行で問題ない」というのがどうも大勢を占めている気配のようです。
おそらく西武は、むしろその流れを問題視したと見え、はっきり言えば、「完全ウェーバー制」の導入に向かうよう世論を誘導しようと考えたように思います。

この「劇薬」の服用がどのような結果をもたらすかはまだ不透明ですが、個人的には当然ながら「完全ウェーバー」が今は最善だと思うので、潮目が変わる可能性を期待したいところです。
今年のドラフトに参加できないことも覚悟してまで暴露したというのは、やはり現行の維持に危機感を持っている球団も少なくないということなんでしょうねえ。それにしても、一番危機感を持つべき巨人のおトボケぶりはいかんともしがたい。

2007.03.11

トラックバックについて(再)

トラックバックについて以前書いたことがありますが(→こちら)、スパムは論外なのはもちろん、個人ブログからのものでも、記事と内容の合わないものは通知なく片っ端から削除いたしますので、ご了承ください。
最近やや増えてきたので、改めてお願いということで。

以下は一般論ですが、残念ながら現状ではトラックバック機能が十全に活かされているようには見えないですね。いろんなブログが共通の論題について意見を交わすのが趣旨だと思うんですが、やはりややシステム的に煩雑な気がしないでもない(具体的にどれが、と言われるとすぐには答えられないのではありますが…)。

ブログの持つ特性として大きな意味を持つ機能だと思うので、良い形での展開を期待したいところです(他力本願(笑))。

2007.03.09

佐竹関係(1) 正宗寺

06shoshuji11shoshuji先日行ってきた、茨城県常陸太田市の佐竹氏関係史跡シリーズです。

最初は正宗寺。寺伝によれば、夢窓疎石再興の正法寺という寺院の塔頭として、佐竹貞義の子が営んだ庵が始まりとされています。佐竹氏の菩提寺とされており、境内には佐竹氏歴代の墓とされる宝塔群が残っています。慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ転封となりましたが、その際、歴代の墓石は残されたのではないか、と推測されているそうです。その後は徳川家光から禄を受けたり、水戸藩主からも尊崇を受けた、と言われております。

07shoshujiちなみに境内には、徳川光圀に仕え、修史事業のため各地を渡り歩いた佐々宗淳(さっさ・むねきよ)の墓もあります。要するに、「水戸黄門」での「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとなった人ですね。実在の宗淳の方も通称は「介三郎」、「十竹」の号があります。
佐々成政の縁者ということになっているそうですが、真偽のほどはどうなんでしょうね。元禄11年(1698)没。
墓碑の選文は「格さん」のモデルになった儒学者の安積覚(あさか・さとる、通称「覚兵衛」、号は「澹泊」)によるそうです。

2007.03.08

史料編纂所の閉鎖

既にご存じの方も多いと思いますが、東大の史料編纂所が耐震強度不足のため改修工事をするとのことで、しばらく閉鎖とのこと。
ここ数年は所蔵史料のデジタル化が進められているので、ネット上で見られる史料も多くなりましたが、それでも見られない史料も少なくないので、いつまでかかるかがやはり気がかりです。

個人的には一つネタを構想していたんですが、ここの写真帳を見ないと進められないので、このネタは無期限のペンディングに…。私のどーでもいいネタはともかく、中世史においてはやはり全体的な研究の進捗に影響が出そうですね。もっとも代替手段が今後検討されるようですので、それに期待することにいたしましょう。

以上、さして役に立つかどうかよくわからない情報提供でした。

2007.03.07

「風林火山」、先行き不安

あーあ、やっぱり初回で出した「ムラ」色が全然活きてないですね。むしろ違和感を出す装置となってしまっている。

晴信が飢饉の中で戦争に百姓を駆り出すことに憤慨するのは、明らかに論理矛盾。そもそも食うために戦争をするっていう設定だったんだから、この態度の方が百姓にとって迷惑となるべきものということになるのではないかと。
じゃぁ豊作だったら戦争してもいいというのか…? それこそとんでもない話だと思いますが。

細かい話ですが、旧暦と新暦の季節のズレが頭に入っていないのではないか、と大変気になります。12月の諏訪を信虎が訪れたシーン、雨が土砂降りでしたが、新暦では1月上旬~中旬頃に当たるようです(こちらで確認)。一年で最も雪の降るシーズンなわけですが、なぜ雨のシーンにしたのかが理解できません(雪だと諏訪へは行けないという考えからか? でもあえて雨を降らせた理由がそれではわからない)。もっとも16世紀の日本は比較的温暖だったと言われていたかと思いますが(記憶曖昧)、「記録的な暖冬」を演出したのでしょうか。

家中の描き方も古くさいしなあ。まあこれは原作に忠実にということかもしれません。しかし、井上靖が書いた時代の戦国期像と今のそれとは明らかに違っているわけで、それに目を向けず何が何でも原作に固執することが果たして本当に「忠実」と言えるのかどうか、私は疑わしいのですが。

そもそもここ数回は個々の描写が全然整合的に繋がってなくて、ドラマとしてかなり問題じゃないかとすら思えます。雰囲気は硬派を貫いていて好感が持てるんだけどなぁ…。軟派だったらとっくに見るのをやめていたところです(笑)。

2007.03.06

私の啓蟄

今月はいろいろとイベントが目白押しで、やや多忙。自分の仕事はややうっちゃり気味ですが(酒量も増えたので…(笑))、私にも(多分)居場所があることを感じることができるので、精神的には充実しております。

先日、専門と関係の深い研究会に出席。このところ対象とする地域も時代も随分狭くなっていたので(=蛸壺化の不安)、それぞれが異なるテーマの報告を拝聴し、戒めの機会となりました。
具体的には、近世後期の銭貨流通についてと、15~18世紀ベトナムの銭貨流通について。
前者について言えば、近世の銭貨流通秩序が必ずしも「全国」統一的とは言えないようで、これは大いなる刺戟となりました。私の近世に対する画一化した視点の浅薄さを反省させられたというか…。この点については、今後に是非活かしたい視点です。
後者については、なかなか政治史的な面について知らないことが多かったのですが、丁寧なご説明でわかりやすかったです。ただ、あまりにわかりやすすぎて、果たしてそんなに簡単なものだったのかなぁ…と思わないでもなかったですが。同席した専門家H氏の手ほどきを受けながら、私なりに当地について勉強してみたいことが整理して理解できました。果たせるかどうかはわからんけど…。特に、15世紀前半に撰銭禁令がすでにあったというのは興味深かったですねぇ。

ちなみに、↓は、実は未読でした…。不勉強を反省。早速読ませていただきたいと思います。

江戸の銭と庶民の暮らし江戸の銭と庶民の暮らし
吉原 健一郎


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翌日にも私にとって極めて重要なテーマでの会合があったんですが、先約があったので断念。ま、ちと仕事上の事情があって、かえって拝聴しない方がいいかなという思いもありましたが。
で、その先約は茨城への合宿。アンコウ鍋美味かったです。佐竹氏関係の史跡を廻ってきました。詳細はまた後程。それにしても、常陸も北の方へ行くと極端に中世史跡が少なくなりますねえ。どこへ行っても徳川光圀・綱条の影響が。「歴史原理主義」(語弊ありすぎか(笑))水戸藩恐るべし。水戸黄門が少し嫌いになりました(笑)。

これからもしばらくは様々なイベントが続きます。幸い今年もまだ花粉症に襲われずに済みそうですが、体調には気を付けたいところです。
なお、一部ご昵懇の方々にご心配をおかけしましたが、来年度の食い扶持はなんとか確保できました。いよいよ居酒屋バイトへ逆戻りかなぁと覚悟していたのですが、なんとか首が繋がりました。とはいうものの、今年はまさに背水の陣だなぁ、ということで、奮起いたしますです。

鉢形城跡

38hachigata37hachigata嵐山から足を伸ばし、埼玉県寄居町の鉢形城跡へ。
現地の案内板によると、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に位置しています。文明8年(1476)に山内上杉氏家臣の長尾景春によって築城されたと伝わっているそうです。後は藤田氏が支配していたようですが、同氏に婿の形で入った北条氏康の子である北条氏邦が今に残る形に整備しました。いわゆる後北条氏の代表的な「支城」の一つで、広大な後北条氏領国にあって、武蔵北部から上野国の支配拠点となった城です。

42hachigata近年、二の丸以下の郭で発掘調査が行われたようで、現在はその発掘地が整備されています。資料館もありましたが、訪れた時間が遅く、残念ながら観覧することはできませんでした。
しかし、この大砲ははっきり言って景観破壊です(笑)。なんでこんなのを置いているのでしょうか…?

45hachigata46hachigataこちらは本丸。打って変わって鬱蒼としていて、「中世城郭らしさ」が残っています(笑)。中世城郭としては広大ではありますが、後北条氏の支城にしては随分こぢんまりしている感を受けました。激しい上野国争奪戦を見越した、あくまで戦争を第一に考えた構造ということになるのでしょうか。

鉢形城は、天正18年(1590)に前田利家・上杉景勝らからなる豊臣軍の猛攻を受け、開城。廃城となりました。

39hachigata城跡から荒川を望むとこんな感じ。対岸には寄居の町並みが広がっています。

2007.03.05

源義賢の遺跡

24okura22okura向徳寺から少し歩くとある大蔵館跡の土塁。平安末期に源義賢によって築かれた館跡とされています。
源義賢は為義の次男(義朝の弟)で、木曽冠者こと源義仲の父に当たり、義仲もこの付近(鎌形八幡宮)で生まれたとされています。「帯刀先生(たちわきせんじょう)」の官職に就いていたことから、この通称でも呼び習わされています。
京都を追われ、上野国を経て武蔵国へ下向した後、秩父氏の娘を娶って在地化したと伝えられています。武蔵下着の後、その館が「大蔵」にあったとのことから、この地が比定されています(現東京都世田谷区の大蔵とする異説もあり)。「大蔵館」の記述は『平治物語』にあるようです(未確認)。兄の義朝と激しく対立したことはつとに知られる通りであり、久寿2年(1155)、義朝の子の「悪源太」こと源義平に討たれました。
ちなみにこちらによると、「悪左府」こと藤原頼長の夜のお相手をしたこともあるらしい(笑)。

大蔵館跡はかなり広大な敷地であったことが推定されていますが、どうやら後世に何者かが拡張したのではないかと考えられており、義賢時代はそれほど広大でもなかったようです。鎌倉街道沿いに位置し、この地域の街道筋を押さえる意図が窺える点は興味深いところです。今は板碑?のようなものもありました(右写真)。

26yoshikata27yoshikata近くには義賢の墓とされる五輪塔も残されています(ピントが檻に合ってしまった…)。鎌倉期のものと考えられており、埼玉県内では最も古い五輪塔とされています。ただし現存しているのは「火輪」(笠の形のような部分)と「水輪」(火輪の下の丸い部分)のみだそうで、ほかのものは後に「復元」されたものです。

2007.03.03

向徳寺板碑群

15kotokuji菅谷館から川を渡った対岸にある向徳寺。
珍しい時宗寺院です。ただし中世に一度廃絶しており、近世になって復興したそうです。
本尊は善光寺式銅造阿弥陀三尊像(重要文化財)というものだそうですが、見られませんでした…(ってか、知らなかった)。宝治3年(1249)に「武州小代(しょうだい)」(現:埼玉県東松山市)で鋳造されたという銘があるそうです。
18kotokuji17kotokuji16kotokuji
ここの寺院の目玉はたくさんの板碑です。昔は横一列に並んでいたようなんですが、今は厳重に管理されております。今の並びはだいたい↑の写真の並びのような感じです。
一番古いのは右写真の右奥にあるもので、1250年頃のものと推定されています。真ん中の一番大きい板碑は康永3年(1344)のもの。ほかも大体は14~15世紀にかけてのものだそうです。

このお寺の建立の経緯はよくわかりません(調べてないだけですが…)。本尊が小代で造られたことから、当地を出自とし、肥後国野原荘(現:熊本県荒尾市)へ西遷する御家人小代氏との関わりがあった可能性もありますが、あくまで勝手な推測ってことで…。なお小代氏については、こちらこちら参照。ちなみに、のちに備中国守護代になった庄氏は、小代氏の一族とされています。

2007.03.02

菅谷館跡

Sugaya1菅谷館跡の写真です。源頼朝に従い、初期の鎌倉幕府における有力御家人であった畠山重忠の居館跡とされています。
畠山氏は秩父平氏の一族でしたが、重忠は治承・寿永の乱で鎌倉方として功績を挙げて幕府の重鎮となってゆきます。しかし北条時政と対立。元久2年(1205)に武蔵国二俣川(現:横浜市旭区)で敗死しました。畠山氏はその後、足利氏の庶子が名跡を継承して、同氏の有力一門となって戦国期まで続いてゆきますが、重忠との直接の血縁はありません。

『吾妻鏡』によると、その二俣川への合戦に際して、重忠が「菅屋館」から出陣したとの記事があるそうで、これが根拠となっています。といっても、その後の史料にはほとんど出てこないようで、特に戦国期については不明な点が多いとか。わずかに万里集九が書いた関東の紀行文である『梅花無尽蔵』に、長享2年(1488)に山内・扇谷の両上杉氏が「須賀谷原」で合戦したとの記述があるそうです。
おそらく16世紀には後北条氏が支配したものと考えられ、現在に残る遺構は戦国期のかなり大規模なものです。

Sugaya2こちらは「二の郭」と「三の郭」を隔てる土塁と堀。
Sugaya3こちらが「本郭」。いわゆる本丸です。かなり広大で、鉢形城や八王子城にも比肩するほどの規模です。これだけの規模の城が、史料ではほとんど見られないというのは少々不思議でもあります。

搦手に当たる本丸の裏手は崖で、その下には荒川の支流である都幾川が流れていて、天然の要害となっています。
14tokigawaこちらは都幾川に架かる橋から館跡の方向を向いたものです。奥の茶色い建物(国立女性教育会館)の左手の森が館跡のある辺りです。この辺りは「ホタルの里」として管理されているそうです。確かに水はとても綺麗でした。

2007.03.01

バーゲンブック

先日、「読書通信社」という所からDMが来ました(こちらによると、八木書店と関係のある会社だそうで)。「バーゲンブック」と呼ばれる書籍の通信販売のものでした。私のところへは初めて来たんですが、ネットで検索をかけてみたりすると、随分以前からあるようですね。

バーゲンブックってのはいわゆる「ゾッキ本」ってことで、過剰在庫によって値引きされた書籍のことですが、たいていは版元の倒産などによって流れた在庫書籍で占められるようです。
ぱらぱらとめくっていると、中世の書籍はやはり既にたたんでしまった版元がかつて出版した書籍ばかりでした。

そういう経緯の本なので少々複雑ではありますが、それにしても安いのはやっぱり有り難い。それに、今や通常のルートでは新本の入手がほぼ不可能なわけなので、こういう機会を得られたのは喜ばしく思います。
で、結局買ったのは次の三冊。

『室町幕府引付史料集成』下(桑山浩然校訂、近藤出版社、1986年)
川添昭二『対外関係の史的展開』(文献出版、1996年)
藤田恒春『豊臣秀次の研究』(文献出版、2003年)

ほかにも欲しい本はあったんですが、予算の都合で断念しました。送料込みで合計1万円ちょっと。定価を考えたら破格です。特に『引付史料集成』が手に入ったのは喜ばしい。残念ながら上巻は既に在庫が無いようで、リストにはありませんでした。うちのおバカな図書館には上巻だけ入ってるようなので、まあいいか…(片方しか入ってないなんて、いったいどうなってんだ。まったく)。
これからも時々来てくれると嬉しいのですが、その時になると果たして買えるかどうか…。

引付史料集成の下巻はアマゾンにもリストがないので、とりあえず上巻を。

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