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2007.04.02

16世紀の銭貨と石高のこと

ここではあんまり書きませんが、実は、私は16世紀を中心とした日本の貨幣流通史を専門にしております(笑)。
その16世紀の貨幣について、こちらの記事へのコメントです。

黒田明伸さんによる1570年代の中国から日本への銅銭供給の杜絶と、それに伴う「鐚銭問題」の件ですが、その後同氏の『貨幣システムの世界史』(岩波書店、2003年)では少し遡らせて、1568年(日本では永禄11年)を重要な画期に置いています。これは、この年の頃に西日本では一斉に銭遣いから米遣いに転換するという、浦長瀬隆さんの有名な説を受けてのものと考えられます(同『中近世日本貨幣流通史』、勁草書房、2001年)。

黒田さんはこの「米遣い」への転換について、「宋銭を失ったことの受動的対応ととらえた方が整合的に理解できる」(同氏同上書p132-33)とし、1570~80年代の日本の史料に「ビタ」が頻出することについて、宋銭流通を補完するための粗悪銭流通の盛行を見ております。

ところが問題は、この「ビタ」が果たして粗悪銭であったか、という点です。主に1580~90年代の東海から関東にかけての史料においても「ビタ」の語がしばしば見られるのですが、おおむね「ビタ」は精銭に対置した存在として理解されているようであり、もっといえば、「ビタ」に対置された精銭はとりわけ知行高(貫高)の単位として用いられるものに過ぎず、実体を伴わないあくまで概念上(帳簿上)の存在であったことが考えられます(関東の場合はおおむね永楽銭が対置されているので、少し事情は異なりますが)。
これをもって、通用銭から宋銭が消滅し、粗悪銭(ビタ)が流通していた、と理解することはあるいは可能です。しかし本当に少し前まで流通の大多数を占めていた宋銭が一斉に消滅したと言えるのか? 黒田さんは「宋銭を失った」という表現からも、市場から退場していったという理解をされているような感があるのですが、おそらく実態は違っていて、「ビタ」に宋銭が包含された可能性が高いように思います。

渡来銭そのものは17世紀にも流通を続けており、とりわけ東南アジアで中国銭が好まれていたこともあって、17世紀半ばに長崎で鋳造された貿易銭は、ほとんどが宋銭の模造銭でした。仮に東アジア経済圏という枠組のなかにあると考えた場合、宋銭への需要そのものは消滅していないわけで、少なくとも17世紀までは、寛永通宝を鋳造するようになったとはいえ、日本においてもその埒外にあったとは言い切れない面もあります。16世紀後半の日本で、宋銭が急速に姿を消していったわけではなく、「ビタ」という呼称に変化したものと捉るべきではないか、と考えています。

元々史料上の「ビタ」という表現は、粗悪銭について細かに比率を設定した信長の撰銭令においてさえも見られず、粗悪銭と同義で用いられた形跡は窺えません。今でこそ「鐚」(国字)という字が宛てられ、「びた一文」などという言葉もある通り、「ビタ=鐚=粗悪銭」という図式で捉えがちですが、この言葉に銭貨への蔑視が含意されているとしても、市場においてはそのまま粗悪銭を指すものと見るべきではないように思っております。(ちなみに戦国期段階では「鐚」の字は見られず、「ひた」「ヒタ」とのみ表記されています。)

16世紀後半における中国からの銭貨供給杜絶は事実と考えるべきと思いますが(具体的にいつからかは別として)、それによって日本が対応するすべなく銭貨使用そのものを放棄したともイメージされがちなんですが、果たしてそうだろうか…?という疑問もあります。黒田さんは中国において、地域における私鋳などによる補填が独自に講じられ、その銭貨を共有する範囲を「支払協同体」と位置づけましたが、日本でもそうだった可能性はないのか…、という疑問が、私のこの問題について考えた出発点でもあります。まぁこれについては、追々しかるべきところにて…(笑)。

…以上の点について、まだ詰め切れていないので気軽にブログで書いていますが(笑)、今後きっちり詰めていきたいと思っております。

次に石高制との関係ですが、銭貨流通の混乱との関係を最も明確に打ち出されているのが、本多博之さんです(同『戦国織豊期の貨幣と石高制』、吉川弘文館、2006年)。本多さんの御説については別に述べる機会があるのでここであまり突っ込みませんが、私自身は、「まあその可能性はあるかなぁ」という程度には思います。もっとも逆に言えば、従来考えられているように、秀吉政権の軍事中心的性格による兵粮米重視によるという視点もまた、同じくらい無視できないんじゃないかなぁ…という気もします(これはむかし書評で書いたことがあります)。
あと、やはり徳川政権(幕府)が関東移封後に、永高という特殊事例を一部に残しながらも、石高制を基本とした検地を行ったことが、近世への移行過程を考える上ではかなり重要のように思います。この点において、秀吉政権の継承と単純に考えることには、ややひっかかるところがあります。もっともこれについては勉強不足なので、今後勉強してゆきたいと思っております。

要領を得ない回答ですが、さしあたりこんなところで…。

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コメント

かわとさん、こんにちは。

わかりやすい学説整理有難うございます。

精銭が概念上のものだったとしたら、素人考えですが、現実での対応としてはビタでも代替可能ではないかとも感じました。

私鋳銭の補填による「支払協同体」なる考え方も面白いですね。中国にあれば、日本にもあったかもと考えたくなりますね。

秀吉が採用した統一的な軍役体系の基礎には石高制があることは論をまちませんが、当時の日本が軍営国家だったことを考えると、米穀を単位とした賦課がそのまま兵粮備蓄にもなるという効能も併せると、もっとも現実的な方法だったかもしれませんね。
とくに、秀吉の朝鮮侵略を頂点とする軍事拡張政策は、兵粮の拠点備蓄による諸大名への貸与という形になり、従来の軍役の性格(自弁制)を大きく変えるものになっており、その方面からの要請が石高制を成立させた要因のひとつだったのかもしれませんね。
一知半解ながら、そんなことを考えました。

いろいろヒントを与えていただき感謝です。

>桐野さん
紹介した黒田さんの御著書は、読み応えがあって面白いと思います。

石高制の問題は、研究史も分厚いですし、私はのんびり勉強していきたいと思います(笑)。またいろいろと教えていただければ幸甚です。

ご就職おめでとうございます。
教える仕事ということで、いろいろご苦労もあるとは思いますが、益々のご活躍を祈念しております。

>『貨幣システムの世界史』(岩波書店、2003年)

さて、私も学問の府では歴史ではなく経済理論などを専門に勉強していたのですが(笑)、それもあって、この書は非常に興味深かったですね。
特にマリア・テレジア銀貨が東アフリカで流通していた事例の分析は面白く、「中世日本において国家権力のお墨付きがない渡来銭がなぜ流通していたのか」という長年の疑問(古代における宋銭は外貨としての意味があったと思うのですが・・・)に対する一つの回答を得られたような気がします。

>黒田さんは「宋銭を失った」という表現からも、市場から退場していったという理解をされているような感があるのですが、

黒田氏の説ですと、貨幣については大量に生産され「回路」に供給され続けることが重要で、そうでないと流通せずに滞留してしまうということのようですから、銭貨供給途絶の影響が絶大であったという理解でいいと思います。

>黒田さんは中国において、地域における私鋳などによる補填が独自に講じられ、その銭貨を共有する範囲を「支払協同体」と位置づけましたが、日本でもそうだった可能性はないのか…

これは非常に面白い視点ですね。
ただ中国の事例は伝統的に地域市場が確立していて、有力商人たちが「地域間決済通貨」とは別に「現地通貨」を流通させたというわけですから、武士や寺院の権力が相対的に強い日本の場合はどうなのか、特に中世日本では銭貨需要の中心が土地取引であったことをどう捉えるかという問題がありそうな気がします。

>『戦国織豊期の貨幣と石高制』、吉川弘文館、2006年

本多氏の説も面白いですね。
銭貨が信用を失ったから、それまでも支払手段や価値尺度として機能していた米が取って代わったということだと思うのですが、ただ、豊臣政権の石高に応じた軍役システムの構築があまりにも堂々としていますので、私も今のところ「そういう要素もあるかなあ」という印象です(^^

>板倉さん
コメントありがとうございます。「就職」といっても、今のものは一年限りなので、安心はできません…。
黒田さんの御著書、お読みでしたか。私もこういう話ができるようになりたいものだ、などと憧れの眼差しで読んでました(笑)。

「支払協同体」の件ですが、確かに中国と日本とでは経済構造が異なりますので、単純に理論のみを当てはめることは問題だと思います。
ただ、私も何年かかけて考えてみたところ、日本の場合、16世紀においては地域の武家権力(大名)が「地域国家」的な支配体制を築いたことがポイントになりそうな感がしています。
そこで「地域市場」が形成される一方、当然ながら領国外での取引は行われていますので、その軋轢が貨幣流通の混乱をもたらしたのではないか…、といったところです。

最近は、こういう視点でいろいろ勉強をしております。またいろいろご教示くださればありがたく存じます。経済理論については素人の域を出ませんので…(笑)。

銭の一刺しを見た時、あまりに厚みがマチマチなのには驚きました。これじゃ精銭もビタもないわ、と思いました。

>御座候さん
実際、それだけバラバラなのに15世紀まで問題にならなかったことの方が、世界的に見ても不可思議な事態だったと言えるでしょうねえ。

久しぶりです。こんにちは。
銅銭については最近こんな報道がありましたね。件の黒田氏もコメントしています。

"鎌倉の大仏様「素材は中国銭」別府大グループが解明"
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806210064.html

中世における大量埋蔵銭の様態からして、「本当に貨幣として輸入されたのか?」と疑問に感じていましたので、以前から指摘されていたバラストとしての用途に加えて、銅製品の原材料としての需要があったとするなら私的にはスッキリしますけど、どうでしょう?

>板倉さん
お久しぶりです。
くだんの記事、ちょうどネタにしようと思っていたところでした(笑)。

コメントは別途ブログの記事にてさせていただきます。

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