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2007年4月

2007.04.30

変わらぬ文献検索手段

日本史の論文は毎年膨大な数が積み重ねられています。刊行雑誌数も右肩上がりなので、少なくとも数年はその傾向が続きそうです。
これについては、業界の活性化ということで喜ばしいことではありますが(逆に世間の関心は続落傾向な懸念もありますが…)、最新の成果へのアクセスが相対的に難しくなっているのも確かです。

最近は国会図書館の検索がかなり精度を増しているので、利用されている方も多いと思います。しかし著者とタイトルで当たりを付けて検索しないと使えないので、結局のところ、ある程度の基礎情報を把握していないと役には立ちません。

ではどうしているのか。私を含めて、おそらくほとんどの方は未だにアナログな手段で情報を入手しているのが現状ではなかろうかと思うわけです。例えば『史学雑誌』の目録や「回顧と展望」は当然として、岩田書院が出している「地方史情報」とか、各雑誌の文献目録とか、その辺ですね。このような在り方は、少なくとも10~20年のスパンで見れば変わっていないのではなかろうかと。ちなみに私が公開している文献目録も、基本的にはこの手段で当たりを付けて、あとは実際に論文を読みながら参照している論文を探しています。

最近の動向としては、各大学が「リポジトリ」と呼ばれるサイトを立ち上げて(例えばうちの大学ではこちら)研究成果のネットでの公開作業を進めつつあります。それが普及すればネット上での検索が飛躍的に向上する可能性を秘めているわけですが、やはり紙媒体が圧倒的主流の業界にあっては、当面は検索手段も変わらないだろうなぁ、と思ったりもします。

当の私も、実のところ、まだ論文をネット上で公開することにはかなり抵抗感があります。著作権の問題というよりは…、うーん、それだけ私もこの業界の環境に安住しちゃってるということなんでしょうかねぇ(笑)。ただまあ、紙媒体の携行性の高さはやっぱりまだ捨てがたいというのはありますかね(印字すりゃいいだけじゃないか、というツッコミはさておき)。
それと、これはほとんどとってつけたような理由ですが(笑)、論文単位で公開するようになると、自分の関心のあるものしか読まなくなる可能性がさらに進んでしまうんじゃないかなぁ、という気もします。自分の関心のある分野とは違うけど、たまたま同じ冊子に載っていた論文を読んでみて勉強になることもありますしねぇ。

いや、この話、こちらを読んでふと思ったわけですが、日本史ではこういう動きはしばらく無いでしょうねぇ。よほど個人では論文検索すら難しくなるくらい氾濫するようになれば自発的に動きが出てくることは考えられますが、今のところなんとかなっているのも確かですしねぇ。
そういう意味では、「抜刷」文化が補完することの意味はやはり大きいんだなぁ、と思います。私はやや億劫がってしまうのですが…(すみません)。

2007.04.27

昭和の日

ご存じの通り(というか、どれだけ周知されてるのかよくわかりませんが)、今年から4月29日が「昭和の日」、5月4日が「みどりの日」になりました。

ま、その是非については、私は取り立てて持論があるわけじゃないのですが、わざわざ物議を醸すようなことしなけりゃいいのに、という老婆心も。でもその懸念を振り切ったわけですから、推進した方々は賛否両論受けて立つ!というところでしょうか。
賛否両論あって自由闊達に議論を交わす土壌のあることが、「国家」としての懐の深さとは言えますね。もちろん、異なる意見を持つ者の間でその立場を尊重し合い、その上で忌憚なく自由闊達な議論ができるのであれば、という前提で。

とはいえ、制定理由を見ると、どうも正々堂々と受けて立つ姿勢にあるようには見えない…。

姑息な理由を掲げるんじゃなくて、少なくとも推進した国会議員は、「昭和天皇の偉績を顕彰する日」と、なぜちゃんと言わないのですかねぇ。国会議員が国民に対して胸襟を開かないのは、我が国はまだ「国家」としての懐の深さが足りないからなんでしょうか? ずいぶん舐められたもんだ、という気もするんですが。

2007.04.24

そこのけそこのけ「改革」が通る

政府の教育再生会議は23日午前、第3分科会(教育再生)を首相官邸で開き、大学・大学院改革について、国立大学の大学院生に占める同大学の学部出身者(内部進学者)を最大3割程度に抑えることなどを柱とする素案を大筋で了承した。
―http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070423it02.htmより引用


これって憲法違反じゃないの?
しかしまぁこの手の発想は相変わらずやね。で、今までの「改革」で少しは「活性化」したんですかね?

2007.04.20

荻原重秀の初の伝記?

村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯-新井白石が嫉妬した天才経済官僚』(集英社新書385、集英社、2007年)読了。
荻原重秀といえば、元禄期の貨幣改鋳で混乱をもたらしたとして、好印象で描かれたことのない人ですね。確かに私も、この人に対するイメージはよくありませんでした。ところが実は、そのイメージはすべて、実際に荻原を蹴落として幕府中枢に座った新井白石が著作を通じて作り出したものらしい。その描写は思い込みが多く、実像にはほど遠いものだったことが、実際に史料を用いながら述べられています。
元々小説として書くつもりだったと述べられているように、内容としては伝記的な形です。事実関係自体は知らないことがほとんどなので、文章も読みやすく、面白かったです。ただ、最後の著者の「推測」は、どうでしょうかねぇ? 私は、さすがにそれはどうかなぁ、というのが正直な感想でした。

さて、問題は貨幣改鋳の話。一般には、改鋳によって素材価値が下落したため物価騰貴を招いたと評されているわけですが、物価騰貴の原因が貨幣改鋳そのものには無かった可能性が高い点については、私も了解できました。
一番興味深かったのは、荻原が「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」と述べたという点です(p117。ただし実際は太宰春台著とされる『三王外記』が出典で、太宰の思考による影響も考えられるため要検討)。
著者はこれをもって荻原が「貨幣国定説」を見出していたとし、名目貨幣の発見の画期性を強調しておられます。まあケインズとの比較という観点が主なので、それもわからんでもないですし、理論そのものが「発見」されたのは、確かにこの時だとすることも、可能かもしれません。
ただし素材価値が価格に左右されない名目貨幣そのものについては、中世以前においては一般的な存在だったと思います。むしろ近世に入って貨幣の在り方が変わり、素材価値に貨幣価値が左右される状況の現出したことが、近世貨幣(というか、第一次大戦までの貨幣)の弱点となったと思われます。

読みながらつらつらと考えたんですが、どうもこの転換が起こったのは、やはり16世紀にありそうです。一番重要なのは、元々商品だった金・銀が貨幣になったことではないかな、と。それに加え、銭・米も加えて貨幣の役割を担うモノが複数存在することになったことも問題です。ここで「相場」が登場し(実際、この言葉自体16世紀に誕生したようです)、近世社会は貨幣そのものが持つ商品としての性格に悩まされることになった…。

実際に貨幣が商品としての性格を完全に放棄したのは、1971年のアメリカの金本位制放棄であったことは、経済史では有名な話ですね。貨幣史的には、ここまでを一体的に見通すのが目標になるんだろうなぁ(私にはできそうにないけど)。

著者自身は歴史教育がご専門のようですが、丹念に史料を博捜されており、論理にブレはないように思います。もっとも、私は使用された史料について一々その背景を理解しているわけではないので、その辺については近世史の専門家から見るとどう映るかはわかりませんが。
なお、ついでながら、一般的に「いい人」と思われている新井白石のイメージも一変するかもしれません(笑)。

4087203859勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚 (集英社新書 385D)
村井 淳志
集英社 2007-03

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2007.04.16

意外と刺戟のない毎日

環境が変わって半月経ちました。が…、思ったより単調で、かえってネタが無くなってしまいました(笑)。
「勤務」といっても、結局は自分の作業以外にすることがないんで、日常に起伏がないのかもしれません。

ところで、何人かの方から抜き刷りを送ってくださいました。ありがとうございます。お礼が遅れていますが、もう少ししたら私の拙い原稿が出来上がりますので、それまでもうしばらくお待ちのほどを…(と、またもここで書いて意味があるかどうか不明な業務連絡)。

さて。すったもんだしてますが、今週やっと今季初観戦の予定(先月末の仙台行きも頭をよぎったんですが、とてもとてもそんな状況ではなかったっす)。某チーム、頑張ってますが、ここ数年はいつもGWまでは調子がいいので、まだ安心できません(笑)。結局、交流戦が鬼門なんだよなぁ…(去年は確か交流戦最下位じゃなかったか…?)。
「公然の秘密」が次々暴かれていますが、それはそれ。観戦にあたっては、あんまり考えないことにします。

2007.04.13

太山寺

Taisanji19Taisanji13先に書いた小浜旅行の後、鯖街道をバスで通り、近江今津から実家へ帰りました。関西へ出るには、小浜線使うよりこっちの方が早いんですね。
車窓で湖西の景色をなんとなく眺めていましたが、この辺も面白そうですねえ。個人的には湖東の広々とした風景が好きなんですが、こっちもなかなか趣があります。

さて、本題。帰省中、太山寺へ行きました。実家から比較的近場にあるんですが、行ったのは小学校の遠足以来のような…。随分久しぶりです。

太山寺(大山寺)は、旧播磨国明石郡の伊川谷(いかわだに)と呼ばれる谷の一番奥にあります(現神戸市西区)。寺伝によれば、藤原鎌足の子の定恵の開山で、霊亀2年(716)に藤原宇合の建立とされています。播州では書写山円教寺と並ぶ天台宗の古刹です。多くの中世文書を伝えており、中には元弘3年(1333)の護良親王令旨も遺されています。この頃は、多くの衆徒を抱えた大寺院だったことがわかります。今も5つの子院を抱えているそうです。子院の庭園は国名勝に指定された所もあるんですが、私が行った時は公開してませんでした。

写真は本堂。国宝です。弘安8年(1285)に旧本堂が火災で焼失した後、永仁年間(13世紀末)に再建されたものだそうです。和唐折衷様式と呼ばれるとか。左側にある阿弥陀堂には、鎌倉期のもので定朝様とされる阿弥陀如来像(重要文化財)があります。

Taisanji01Taisanji14こちらの写真左は仁王門(重要文化財)。鎌倉期のものとされ、元は別の所にあったものを移築したものだそうです。現地案内板によると、「建築当初は三間一戸二層の堂々たる門でしたが、移築の際に上層部を撤去し、軒周りも縮小して現在の形になっていることが、昭和28年の解体修理工事で確認されました。」とのことです。移築は室町期後期とされています。
写真右は三重塔。貞享5年(1688)築とされています。

太山寺のある伊川流域(伊川谷)は、中世は伊川荘(のち上下に分かれます)と呼ばれた荘園で、太山寺のある伊川上荘は西園寺家領でした。太山寺はこの荘園の荘鎮守を組み込み、寺自体が荘鎮守の役割を担ったとされています。地頭や荘官、百姓等からの寄進状も多く遺されており、彼らの寄進によって経営が維持されていたことが明らかになっています。
谷の最も奥に所在し、荘園の重要な水利であったと思われる伊川が脇を流れるなど、荘園経営の上で極めて重要な役割を担った寺院であった様子が窺えます。私が行った際にはなんだか川の護岸工事をやっていましたが、風情が失われてちょっと残念。
ちなみに、「太山寺文書」は『兵庫県史』史料編中世2に入っているようですが…残念ながら品切れ(泣)。まめに地元の古本屋で探してはいるのですが。

参考文献:
苅米一志「荘園社会における寺社と宗教構造-播磨国伊川上荘を素材として」(同『荘園社会における宗教構造』校倉書房、2004年)

2007.04.11

升について

再びブログ「膏肓記」の記事へのコメントです。

上賀茂神社の算用状の中にある「金伏」ですが、やはり升の呼称でした。
寶月圭吾『中世量制史の研究』(吉川弘文館、1961年)によると、金伏升は平安末期から見られるそうで、大きさに関わる特定の升に対する固有の呼称ではなく、一般に升の口縁に鉄板を張り付けた升に対して呼んだものだったとされています。
時代的には、室町期にもっともよく見られるそうです。ほかに、鉄板ではなく竹を張り付けた升が「竹伏升」と呼ばれていたとのこと。
ただ、算用状の注記の仕方をみるに、「判升」と異なる升として注記されているようなので、この辺の理解は少し検討の余地があるかもしれませんね。

一方「判升」は権力者が判を据えることによってその大きさを公定した升で、室町期に発達し、戦国期になると各大名が分国統治の一環として領国内でそれぞれ設定していったとされています。織田政権の場合、村井貞勝の判が押された升が使われていたようで、豊臣政権になると、前田玄以がその役割を担ったようです。
ちなみに寶月さんは織田政権の「判升」について、「十合枡、即ち京枡」であったとしておられまして、京升と同じであり、織田政権期には既に京升が公定升として浮上し、豊臣政権においてその地位を確定させたものと考えられるようです。ちなみに京升の初見は天正5年(1577)の「尋憲記」の記事としておられますが、今ではどうでしょうかね。少し遡れる可能性もありますね。

私はこれまで升についてはあまり考えてこなかったのですが、こうしてみると、私の関心分野である貨幣流通の問題を考える上でもかなり重要な要素を孕んでいることがわかりました。
戦国期段階では、それぞれの大名領国においては大名権力が独自に升を設定していることを前提とするならば(とりあえず荘園はここでは考えないことにします)、異なる領国間での米の取引はそれほど容易ではなかったものと考えられます。

永禄後半に西日本で米が一斉に貨幣として使用されるようになるという説が有力であることは既に触れましたが、その論拠として「銭貨流通の混乱」を見る場合、上記の点を勘案すれば、果たして米がそれに代替するほど統一的な価値を共有できるモノであったかどうかが問題になってきますね。この辺は専門家でも課題として認識している方がおられるようなので、いずれ議論になるでしょう。

この本欲しいんですが、現在は古書相場でも4万円くらいするので、手が出ません…。残念ながら復刊の可能性もほぼ無いようで、困ったものです。

2007.04.08

羽賀寺

06hagaji10hagaji小浜旅行の話が遅くなりました。
初日は夜遅くまで飲んでいたので翌日はやや寝不足気味。
そうこうしつつ、羽賀寺(はがじ)へ行きました。

羽賀寺は霊亀2年(716)に行基が創建したと伝えられており、建久元年(1190)には源頼朝が三重塔を建立したと言われています(今はその入口の扉と伝わるものが現存しています)。南北朝期に荒廃した後、延文4年(1359)に細川清氏の援助によって再建。その後も度々焼けたそうで、永享7年(1435)に被災した後、「奥州十三湊日之本将軍」と名乗る安倍(安藤)康季からの寄進によって再興されました。以後、安藤氏の祈願寺となります。
16世紀末期には、秋田(安藤)実季によって堂舎の修理も行われています。

写真右の本堂(観音堂とも。重要文化財)は文安4年(1447)に安倍康季が建立したものとされております。本尊の十一面観音立像も重文。その傍らには、元は小浜の別のお寺にあった仏像が置かれていました。廃仏毀釈の難を逃れるために移されたとのことです。本堂の中には、江戸時代に造られた安藤(秋田)愛季・実季の木像もありました。

このように、このお寺は奥州とも関わりが深く、中世の日本海流通を考える上で非常に重要な寺院です。文書は現在福井県立若狭歴史民俗資料館に寄託されていて、今回、一部を拝見することができました。小浜にある神宮寺で発掘されたという和同開珎も見せてもらいました。現物の和同開珎を見るのはいつ以来だったか。

今回行けたのはここまで。国宝を持つ明通寺とか、中世史では有名な太良荘など、ほかに行きたいところが少なくないのですが、またの機会に。

02shitsumiおまけ。宿の近くにあった中世の石塔群。

2007.04.06

新体験の一週間

新年度から「勤務」生活になりました。
ほぼ毎日朝から詰めるという経験はしたことがなかったので(この年で…)、これだけでも新しい経験なんですが、研究室が与えられたりとか、シラバス作ったりとか、なんか環境が激変した感覚です。

長い一週間だったなぁ…、と。

といっても秋まで授業はしないので、別に「仕事」はありません(笑)。結局は自宅ですることとあまり変わらないんですが、部屋には何もないので、気が散らなくていいかも。もっともちょっと調べたい時に困ったりするわけですが。
あと、これは当然といえば当然なんでしょうけれども、いきなり事務方の対応が「先生」扱いに変わって面食らいます(笑)。まぁ学生時代にぞんざいな対応をされていたわけではないですが…。なんだか面映ゆいというか、居心地が悪いというか…。
といっても浮かれてはいられない。この待遇も一年限り。来年路頭に迷わないよう、今年度はより一層気を引き締めてまいりたいと思います。さしあたりは、抱えている仕事の処理をなんとか…。来月の報告の準備がまだ全然手が付いておらぬ…。

そんなこんなで?昼休みに生協へ行くと山積みになっていた水林彪『天皇制史論』(岩波書店、2006年)購入。まだ全然読んでませんが、読み応えがありそうです。山積みになっていたのは、多分教科書指定されていたからかと(なぜ指定されているかは知る人ぞ知る)
原動力となったのは、やはりかの都立大学の問題とのこと(あ、そういえば明後日投票日でしたねえ)。直接結びつくわけではありませんが、簡単に言えば、「権力」の存在をとことん突き詰める必要がある、といったところでしょうか…と私は理解しました(なので、間違っているかもしれません)。
最近、国家がなんちゃらという宰相の発言が物議を醸していますが、気になるのが、なぜか天皇の問題がほとんど話題にならないことですね。論壇ではややタブー化しているのが気がかりです。「代替わり」になったら自然と沸き起こるといえば、そうなんですが。

あと一冊、中山康樹『クワタを聴け!』(集英社新書380、集英社、2007年)購入。これは完全な趣味(笑)。クワタといえば元巨人じゃなくてサザンだよねえ?(あたりまえだ)と思って手に取ってみると、今までの全曲にコメントを付けていて、面白そうだったので。内容については賛否あるでしょうけれども、400近い曲に全部寸評を書くという努力に私は素直に感服しました(笑)。

天皇制史論―本質・起源・展開天皇制史論―本質・起源・展開
水林 彪


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クワタを聴け!クワタを聴け!
中山 康樹


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2007.04.02

16世紀の銭貨と石高のこと

ここではあんまり書きませんが、実は、私は16世紀を中心とした日本の貨幣流通史を専門にしております(笑)。
その16世紀の貨幣について、こちらの記事へのコメントです。

黒田明伸さんによる1570年代の中国から日本への銅銭供給の杜絶と、それに伴う「鐚銭問題」の件ですが、その後同氏の『貨幣システムの世界史』(岩波書店、2003年)では少し遡らせて、1568年(日本では永禄11年)を重要な画期に置いています。これは、この年の頃に西日本では一斉に銭遣いから米遣いに転換するという、浦長瀬隆さんの有名な説を受けてのものと考えられます(同『中近世日本貨幣流通史』、勁草書房、2001年)。

黒田さんはこの「米遣い」への転換について、「宋銭を失ったことの受動的対応ととらえた方が整合的に理解できる」(同氏同上書p132-33)とし、1570~80年代の日本の史料に「ビタ」が頻出することについて、宋銭流通を補完するための粗悪銭流通の盛行を見ております。

ところが問題は、この「ビタ」が果たして粗悪銭であったか、という点です。主に1580~90年代の東海から関東にかけての史料においても「ビタ」の語がしばしば見られるのですが、おおむね「ビタ」は精銭に対置した存在として理解されているようであり、もっといえば、「ビタ」に対置された精銭はとりわけ知行高(貫高)の単位として用いられるものに過ぎず、実体を伴わないあくまで概念上(帳簿上)の存在であったことが考えられます(関東の場合はおおむね永楽銭が対置されているので、少し事情は異なりますが)。
これをもって、通用銭から宋銭が消滅し、粗悪銭(ビタ)が流通していた、と理解することはあるいは可能です。しかし本当に少し前まで流通の大多数を占めていた宋銭が一斉に消滅したと言えるのか? 黒田さんは「宋銭を失った」という表現からも、市場から退場していったという理解をされているような感があるのですが、おそらく実態は違っていて、「ビタ」に宋銭が包含された可能性が高いように思います。

渡来銭そのものは17世紀にも流通を続けており、とりわけ東南アジアで中国銭が好まれていたこともあって、17世紀半ばに長崎で鋳造された貿易銭は、ほとんどが宋銭の模造銭でした。仮に東アジア経済圏という枠組のなかにあると考えた場合、宋銭への需要そのものは消滅していないわけで、少なくとも17世紀までは、寛永通宝を鋳造するようになったとはいえ、日本においてもその埒外にあったとは言い切れない面もあります。16世紀後半の日本で、宋銭が急速に姿を消していったわけではなく、「ビタ」という呼称に変化したものと捉るべきではないか、と考えています。

元々史料上の「ビタ」という表現は、粗悪銭について細かに比率を設定した信長の撰銭令においてさえも見られず、粗悪銭と同義で用いられた形跡は窺えません。今でこそ「鐚」(国字)という字が宛てられ、「びた一文」などという言葉もある通り、「ビタ=鐚=粗悪銭」という図式で捉えがちですが、この言葉に銭貨への蔑視が含意されているとしても、市場においてはそのまま粗悪銭を指すものと見るべきではないように思っております。(ちなみに戦国期段階では「鐚」の字は見られず、「ひた」「ヒタ」とのみ表記されています。)

16世紀後半における中国からの銭貨供給杜絶は事実と考えるべきと思いますが(具体的にいつからかは別として)、それによって日本が対応するすべなく銭貨使用そのものを放棄したともイメージされがちなんですが、果たしてそうだろうか…?という疑問もあります。黒田さんは中国において、地域における私鋳などによる補填が独自に講じられ、その銭貨を共有する範囲を「支払協同体」と位置づけましたが、日本でもそうだった可能性はないのか…、という疑問が、私のこの問題について考えた出発点でもあります。まぁこれについては、追々しかるべきところにて…(笑)。

…以上の点について、まだ詰め切れていないので気軽にブログで書いていますが(笑)、今後きっちり詰めていきたいと思っております。

次に石高制との関係ですが、銭貨流通の混乱との関係を最も明確に打ち出されているのが、本多博之さんです(同『戦国織豊期の貨幣と石高制』、吉川弘文館、2006年)。本多さんの御説については別に述べる機会があるのでここであまり突っ込みませんが、私自身は、「まあその可能性はあるかなぁ」という程度には思います。もっとも逆に言えば、従来考えられているように、秀吉政権の軍事中心的性格による兵粮米重視によるという視点もまた、同じくらい無視できないんじゃないかなぁ…という気もします(これはむかし書評で書いたことがあります)。
あと、やはり徳川政権(幕府)が関東移封後に、永高という特殊事例を一部に残しながらも、石高制を基本とした検地を行ったことが、近世への移行過程を考える上ではかなり重要のように思います。この点において、秀吉政権の継承と単純に考えることには、ややひっかかるところがあります。もっともこれについては勉強不足なので、今後勉強してゆきたいと思っております。

要領を得ない回答ですが、さしあたりこんなところで…。

2007.04.01

気比神宮

Kehi02Kehi05先日小浜へ行った際、電車の接続が最悪で敦賀で1時間半待ちになってしまったので、気比(けひ)神宮に寄ってきました。敦賀駅から風雨のきつい中(傘を駅で買ったのに、風で潰してしまう)、歩いて約15分。

気比社は越前国一宮。敦賀は日本海海運の要港として発展しましたが、その惣鎮守のような地位にある神社です。「北陸道惣鎮守」でもあるそうです。境内には摂社の角鹿(つぬが)神社があり、この名が敦賀の地名の語源になったとされています。
古く『古事記』や『日本書紀』にも登場するほどの由緒を持ち、現存する神社としては最古の部類に入るほどの歴史のある神社です。霊亀元年(715)には藤原武智麻呂が境内に神宮寺を築いたとされ、最も古い神宮寺とされています(今は現存していない模様)。

中世においても威容を誇ったようですが、南北朝期に南朝方に付いたため、以後は威勢が衰えたようです。戦国期に一度焼失しているとか。写真左の大鳥居(重要文化財)がおそらく?現在では最も古い建築物で、正保2年(1645)築。
写真右は拝殿・本殿。太平洋戦争で旧本殿(もと国宝)が焼失し、その後再建されたものだそうです。

Kehi07Kehi09写真左は本殿の北東側にある「古殿地」。現在は学校の敷地になっているので、「遥拝」のみできます(笑)。大宝2年(702)以前の社殿がここにあったと言い伝えられているそうです。「土公」と呼ばれ、祭神降臨の地とされるとか。なお「土公」は陰陽道に関係するものなんだとか。

写真右は、その背後に見える金ヶ崎城跡です。ちらっと石垣も見えました。さすがにここまでは行けず。再来を期すことといたしました。なお神社の近くに、城主だった大谷吉継の供養塔があるそうなんですが、傘を潰したため(笑)、行くのはあきらめました。

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