記事検索

  • Googleによる全文検索

    ウェブ全体から検索
    サイト内検索
無料ブログはココログ

Tools

« 羽賀寺 | トップページ | 太山寺 »

2007.04.11

升について

再びブログ「膏肓記」の記事へのコメントです。

上賀茂神社の算用状の中にある「金伏」ですが、やはり升の呼称でした。
寶月圭吾『中世量制史の研究』(吉川弘文館、1961年)によると、金伏升は平安末期から見られるそうで、大きさに関わる特定の升に対する固有の呼称ではなく、一般に升の口縁に鉄板を張り付けた升に対して呼んだものだったとされています。
時代的には、室町期にもっともよく見られるそうです。ほかに、鉄板ではなく竹を張り付けた升が「竹伏升」と呼ばれていたとのこと。
ただ、算用状の注記の仕方をみるに、「判升」と異なる升として注記されているようなので、この辺の理解は少し検討の余地があるかもしれませんね。

一方「判升」は権力者が判を据えることによってその大きさを公定した升で、室町期に発達し、戦国期になると各大名が分国統治の一環として領国内でそれぞれ設定していったとされています。織田政権の場合、村井貞勝の判が押された升が使われていたようで、豊臣政権になると、前田玄以がその役割を担ったようです。
ちなみに寶月さんは織田政権の「判升」について、「十合枡、即ち京枡」であったとしておられまして、京升と同じであり、織田政権期には既に京升が公定升として浮上し、豊臣政権においてその地位を確定させたものと考えられるようです。ちなみに京升の初見は天正5年(1577)の「尋憲記」の記事としておられますが、今ではどうでしょうかね。少し遡れる可能性もありますね。

私はこれまで升についてはあまり考えてこなかったのですが、こうしてみると、私の関心分野である貨幣流通の問題を考える上でもかなり重要な要素を孕んでいることがわかりました。
戦国期段階では、それぞれの大名領国においては大名権力が独自に升を設定していることを前提とするならば(とりあえず荘園はここでは考えないことにします)、異なる領国間での米の取引はそれほど容易ではなかったものと考えられます。

永禄後半に西日本で米が一斉に貨幣として使用されるようになるという説が有力であることは既に触れましたが、その論拠として「銭貨流通の混乱」を見る場合、上記の点を勘案すれば、果たして米がそれに代替するほど統一的な価値を共有できるモノであったかどうかが問題になってきますね。この辺は専門家でも課題として認識している方がおられるようなので、いずれ議論になるでしょう。

この本欲しいんですが、現在は古書相場でも4万円くらいするので、手が出ません…。残念ながら復刊の可能性もほぼ無いようで、困ったものです。

« 羽賀寺 | トップページ | 太山寺 »

コメント

かわとさん、こんにちは。

再び詳しい解説有難うございます。

「金伏」はやっぱり升の種類だったんですね。
口縁に金の鉄板を張りつけたのが名前の由来だったんですか。織田政権時代、村井貞勝が定めた判升と金伏とは公認、非公認の関係にあったのでしょうかね。
いずれにしろ、統一政権公認の京升が織田政権にまで遡り、村井から前田玄以に継承されたというのはよく理解できます。升以外の面でも両者はいろいろ継承関係にありますね。

寶月圭吾氏といえば、最近、何気にかなり古い著作を買った記憶があるのですが、題名は何だったかな? 探してみないと。
そうそう、上賀茂社の算用状、そのうち持っていきます。

>桐野さん
古い本となると、『中世灌漑史の研究』でしょうか。私が先日うっかりだぶって買ってしまった本です(笑)。

算用状、見せていただけるのでしょうか。是非ともお願いいたします。

お久しぶりです。こんばんは。
この上賀茂神社の算用状ですが、どっかで見たことあるよなーと思いつつ何ヶ月も経ってしまったのですが、今日たまたま思い出しました。

下坂守「算用状と覚書を読む」(『上賀茂のもり・やしろ・まつり』(思文閣出版,2006)所収)

書名に「賀茂」とありながらなぜ思い出せないのでしょう・・・最近記憶力がおかしいです(涙)
さて、下坂氏は「金伏とは枡の種類」であると明記しています。
「金伏/壱斗二升」のように枡ごとに米の量が書いてあるのは、たくさん種類があるから・・・のようです。
どうしてそうなったかというと、領主が年貢を受け取るときは大きな枡、その米を支出するときは小さな枡が使われたからだと書いてあります(せこい話ですが・・・)。
となると、織田政権の頃は枡の統一がほとんど出来ていなかったということなんでしょうかね。

>板倉さん
私なんぞは、読んだはずなのにご指摘があるまでまったく忘れていました(笑)。早速読み返してみました。

一般的に算用状には収支が細かい額まで書かれるのが普通ですから、升の違いが記されている点は珍しいにしても、額が書いてあること自体はほかの算用状と変わらないと思います。升の大小の使い分け話は、当然といえば当然ですが、わかりやすいですね(笑)。

升の統一については、先に触れた寶月さんが詳しいですが、16世紀に入って大名は個々の領国で統一を進めたようです。ただ織田政権から豊臣政権にかけて全国政権の様相が見えてくると、それぞれの領国ごとの差異をただす必要がでてきた、といったところでしょうか。
寶月さんは1570年代に織田政権は升の統一に乗り出したと理解されているようですが、最終的な達成はやはり秀吉の時代になってからのようですね。

あと、「御屋形様」については下坂さんも不明とされていますね。該当しうるのはやはり細川昭元ぐらいなんですが、いかにも小物なイメージがありますからねぇ…。断定するには躊躇するのももっともな話です。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/20022/14648186

この記事へのトラックバック一覧です: 升について:

« 羽賀寺 | トップページ | 太山寺 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

Amazon

最近のトラックバック