記事検索

  • Googleによる全文検索

    ウェブ全体から検索
    サイト内検索

読んだ本・読みたい本

無料ブログはココログ

Tools

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2007年5月

2007.05.26

はしか騒動

いやはや猛威衰えずというか。

早稲田、法政、明治、中央、日大、専修、などなど…。みんな休校になってしまいました。再開した上智を除けば、いわゆる「大手」で残っているのは慶応と立教などくらいです。
休校になっていない大学でも、罹患した学生が確認されているそうで、まだこれから増えるかもしれません。

そうなると気になるのが、東大駒場のゆくえ。今のところ休校にはなっていませんが、予断を許さないところ。歴研のHPを見ると、来週に迫った大会について、延期になったり会場変更になったりする可能性がある旨の告知がなされています。いやはや前代未聞の事態。

とくに遠方からお越しの予定の方は、東大のHPもまめにチェックするなど、今後の情報にお気を付けください。

それにしても、こんなに大騒ぎになっているのは大学だけなんですかね? 高校などでも閉鎖になったところはあるようですが、これほどの規模になっている印象はあまりないんですが…。単に報道されていないだけなんでしょうかね?

<追記>
今日、ついに慶応も休校になったそうです。あな恐ろしや。

2007.05.24

関戸合戦をまなぶ

多摩センターにある「パルテノン多摩」で開催されていた「関戸合戦~多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景~」の企画展を見に行きました。
こぢんまりとした博物館ですが、展示も図録もかなり気合いが入っていて、マニアック心をくすぐられました(笑)。面白かったです。

関戸合戦とは、元弘3年(1333)、上野国新田で挙兵した新田義貞の鎌倉攻めの際に起こった合戦の一つです。
義貞は久米川の陣を出て鎌倉街道を南下。同年5月15日に多摩川左岸の分倍河原合戦で幕府軍に勝利し、翌16日に渡河した先の関戸において北条泰家(北条高時の弟らしいです)軍との間で起こった戦で、顛末は『太平記』に記されています。
分倍河原では幕府軍が一旦新田軍を押し返したそうですが、この関戸では打ち負かされ、鎌倉へ逃げ戻ることとなりました。ここを落とした新田軍は一気に鎌倉へ攻め上ってゆきます。

19sekido18sekidoせっかくなので、その後関戸(現東京都多摩市)へ行きました。京王聖蹟桜ヶ丘駅から鎌倉街道を南側へ進んだ所にあります。現在の旧鎌倉街道は写真のような感じ。道沿いに「古戦場跡」の碑と祠がありました。
多摩川右岸から町田・鎌倉方面に、谷間を登る緩やかな上り坂になった所にあたり、川と道が交叉する流通の要衝であるとともに、狭隘な谷間の入口に当たる軍事の要衝であることもわかります。

20sekido22sekido写真左は道沿いにある「無名戦士の墓」。中世のものとおぼしき宝塔の一部です(積み方は適当)。写真右は関戸集落の中にある観音寺の板碑。ここでは関戸合戦を供養する法要が行われているそうです(大戦後に始まったそうですが)。

29sekidoこちらは関戸の鎮守・熊野神社境内にある「霞ノ関南木戸柵跡」。建暦3年(1213)に関戸の南北に置かれた関所の跡とされ、こちらは南側に当たります(北側は未発掘)。

「霞の関」というのは、鎌倉末期頃成立とされる『宴曲抄』のなかで鎌倉街道上道の一つとして詠まれたものだそうです。このほか、歌枕としてよく使われたそうですが、比定地はほかに現在の埼玉県狭山市と東京都千代田区(ともに現地名は「霞ヶ関」)にあり、見解がわかれています。ただし『宴曲抄』の記載の順序を考えた場合、関戸が最もふさわしいとされています。

山の上が宅地化されてしまい(京王が最も力を入れた桜ヶ丘団地)、なかなか当時の風景をイメージするのが難しいのですが、谷間の集落といった印象はなんとか留めていた感じがします。致し方ないことではありますが、地域の歴史を守ることの難しさを感じたりいたしました。また、地域の方の大変な努力を学ぶこともできました。これからも受け継がれてゆくことを願います。


ちなみに以下は余談ですが、ブログ化後500回目の記事となりました。最近はずいぶんペースがあがりました(笑)。1000回に到達できるようがんばります。

2007.05.23

はしかにご注意を

…というくだりの注意書きをよく見かけるようになりました。私の所属大学では、感染者は出ているようですが、閉鎖するほど広がってはいないのか、今のところ特に何も対応する様子はありません。
確か弟は幼少の頃罹っていたと思いますが、私は罹った記憶がありません(風疹はありますが)。多分予防接種もしているはずなので、自分自身が感染するとはあまり思っていないのですが(油断は禁物?)。

それにしても早稲田の閉鎖はかなりこたえました(笑)。
みなさんのサポートのお蔭で今のところ事なきを得ていますが、新たに取った所も閉鎖になったら…と戦々恐々としています。ってか、某大会が無事開催できるのかすら懸念される事態かもしれませんね。

今年に入って、東大史料編纂所を会場として取っていたら突然閉鎖になったり、今回の件といい、トラブル続きです。よほど普段の行いが悪いのでしょうか…。

2007.05.20

塩山向嶽寺

64kogakuji67kogakuji山梨県甲州市(旧塩山市)にある向嶽寺。山号「塩山」がこの地の地名となりました。

南北朝期の、相模国中村(現神奈川県中井町)出身の禅僧抜隊得勝(ばっすいとくしょう)を開山とする禅宗寺院です。彼は永和4年(1378)に甲斐国高森(現甲州市[旧塩山市])に移り住み、守護武田信成の寄進を受けて康暦2年(1380)に、この地に寺院を開いたとされています。「臨済宗向嶽寺派」の総本山という位置づけなんだそうです。その後武田晴信が朝廷に働きかけ、抜隊得勝に追号として「慧光大円禅師」の称号が与えられています。

写真左は今遺る最も古い建築物(中世末期か)である中門(重要文化財)。その横に広がる築地塀もかなり古いもののようです。写真右は本堂(仏殿兼開山堂、天明7年[1787]再建)。その裏に見える山は「塩ノ山」と呼ばれ、山号(つまり地名)の由来になっています。

65kogakuji66kogakuji境内はこんな感じ。結構広い敷地を持っており、横には子院もありました。寺宝として絹本著色達磨図(国宝)など中世の画像類をいくつか所蔵していることでも知られていますが、残念ながらそれは見られませんでした。

事実かどうかははっきりしませんが、武田氏滅亡の折、徳川家康がこのお寺の境内から武田氏の家宝「楯無鎧」や「御旗」を掘り出したと伝わっています。今は、鎧は塩山駅近くの菅田天神社、御旗は雲峰寺(いずれも甲州市)に所蔵されています。雲峰寺は行きたかったんですが、時間が無くて今回は行けませんでした。再来を期す。

2007.05.18

信玄堤

Shingent1Shingent3_1先日の山梨巡見ネタですが、訪問順を前後して、まずは信玄堤(現山梨県甲斐市[旧竜王町])。甲府盆地の西側を流れる釜無川・御勅使(みだい)川の合流点に武田晴信(信玄)が築いた、かの有名な堤防遺構です。といっても、現在は当時の遺構があるわけではなく、最近になって復元されたもののようですが。
写真左は、上記の二つの川の合流点です。御勅使川(左側)も上流で流路が変えられているようですが、合流点にぶつかる流れを、釜無川左岸(写真の中の右側)にあった巨大な岩(高岩、写真右)で受け止めさせるために、上流から手を加えたそうです。
Shingent2そしてその下流に据えられた「聖牛」と呼ばれる施設でさらに流れを抑えさせていました。また河岸に沿ってケヤキを植えることで、防御林の役目も負わせたそうです。

信玄堤自体はここだけではなく、甲斐国内のいくつかの箇所にもあり、晴信による治水への意気込みの強さを感じさせます。家督を奪取して間もない天文11年(1542)に大洪水に見舞われたことで、決心させたと言われているそうですが。最も著名なここの堤防は、永禄3年(1560)頃には完成していたとされています。
なおその後近世になって改修が加えられており、現在の姿は、ほとんどが明治時代の大規模改修によるものだそうです。往時の姿はほとんど無いわけですが、数百年にわたって、治水の重要拠点として意識され続けていたことがわかります。

Shingent4この写真は堤のそばにある三社神社の大鳥居。この神社は築堤に際して勧請された神社と考えられています。石造の鳥居は承応元年(1652)に修理された旨の銘があり、造られたのはそれ以前、16世紀後半頃(信玄の頃)ではないかということです。

2007.05.16

今年3回目の名古屋

どたばたしていて遅くなりましたが、先週末は名古屋へ報告をしに参りました。
討論では私自身非常に勉強になりました。建設的な議論をしてくださったみなさまに感謝申し上げます。
質問は7割方が私宛でしたが…。史料をあんまり出さないで考え方を伝えるというスタンスだったこともあるんですが、結果として大雑把な内容になったので、いろいろわからないことだらけになってしまったかもしれずで…。この辺は反省材料です。

半年間ずっとこれが頭の片隅にある生活が続いていたのですが、とりあえずやり遂げてほっとしました。あとは間近に迫った某大会を乗り切れば、だいぶゆとりも出来るかな、と。

ところで先日神保町を歩いていたら、某書店に無造作に『千葉県の歴史』資料編中世2が。値段を見るとなんと1900円!ってことで即購入。ほんとは資金繰りが厳しいんで、あんまり買っちゃいけないのですが、つい…。先日も同じ書店で稲垣泰彦『日本中世社会史論』(東京大学出版会、1981年)を1800円で購入済。掘り出し物に出会えたのは嬉しいのですが。やっぱりあんまり神保町には近づかない方がいいのかもしれず(笑)。ほかは、授業で使えるかなと思って、朝日百科日本の歴史を何冊かバラで。

岡山のTさんから抜き刷り拝領。ありがとうございました。お返事は私の原稿が出来上がってからでお願いします。すみません。
そこでご質問があったのですが、神戸のラーメン屋情報を、とのこと。といっても私はもう神戸を離れて10年経つので、最近の人気店についてはまったく情報がありません…。今はどうかわからないのですが、神戸って比較的ラーメンは不毛の地のような気がします。

「おいしい」店かどうかは個々の好みがあると思いますが、昔はこちらの記事で書いた「第一旭」(JR三ノ宮駅東口から東へ1,2分。サンパルそば。おすすめは「Bラーメン」)か、「もっこす」(地下鉄大倉山駅下車、神戸市中央図書館そば。いくつか支店あり)ぐらいしかそこそこ名の知れた店は無かったので、行ったのもこれくらいですかねぇ。かつてもう一つの有名店として、三宮のセンタープラザ地下に「三馬力」という強烈なとんこつラーメンの店があったんですが、こちらはかなり昔に店を閉めてしまいました。
こういうページがあったので、ご参考まで。でも、なぜ神戸のラーメン情報を? 最近よく行かれるのでしょうか。
私も今度帰省したら、新しい店を探してみましょうかねぇ。

2007.05.11

「風林火山」絡みの巡見

Shinpu先日、山梨へ巡見に行きました。これで3年連続です(笑)。今回はゼミ企画にて。
今年は大河でも舞台になっているってこともありますし、まぁそういうわけで。ちなみに写真は新府城本丸跡(山梨県韮崎市)です。
一番のメインは山梨県立博物館で開催中だった大河ドラマ「風林火山」特別展「信玄・謙信、そして伝説の軍師」です。毎年(多分)、大河ドラマにちなんだ企画展が開催されるわけですが、今年は山梨県博を皮切りに、新潟県歴博大阪歴史博を巡回するそうです。

一番の目玉と思われるのが、「山本菅助」の名が入った唯一の一次史料(「市河文書」)が今回が初公開ということだそうです。あと、生島足島神社の起請文の一部が原本で展示されていました。
もっとも、山本勘助が主人公であるものの、勘助にまつわる展示はほとんどありませんでした(仕方がありませんが)。しかも武田関係も比較的少ないような感がして、文献史料は大半が「上杉家文書」だったような気がしました(あくまで印象では)。なんか上杉の展示を見に来たような感覚が…。

最後は最近話題の?紀州本「川中島合戦図屏風」関連の展示がされており、その制作と深く関わっている「宇佐美家文書」も展示されていました。もしや…と思って後で図録を買ってみると、解説を書いておられるのは…、なるほど、と(笑)。
この展示について事前に理解しておくためには、↓を読まれると良いのではないかと思います。

異説もうひとつの川中島合戦―紀州本「川中島合戦図屏風」の発見異説もうひとつの川中島合戦―紀州本「川中島合戦図屏風」の発見
高橋 修


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「宇佐美定行」が架空の人物であることは仄聞しておりましたが、なるほどこの人物が「登場」した背景はなかなか面白いものですね。実のところ、「甲陽軍鑑」と並んで、これが一番テーマに副った展示だったかもしれないなぁ、という気もしました。

ほかにいくつか史跡を回りました。明日から名古屋へ参りますので、例によって後日紹介したいと思います。
名古屋ではどうぞお手柔らかに…。

2007.05.09

古典的名著の相次ぐ刊行

いよいよ「網野善彦著作集」(岩波書店)と「永原慶二著作選集」(吉川弘文館)の刊行が始まるようです。
意外にも網野さんの著作集は一冊当たりが随分安いですね。できれば揃えたいとは思うものの、うーむちょっと難しいかなぁ。
永原さんの方は、既に持っている著作が多いので、バラで買うことになりますかねぇ。

一応私はお二方の孫弟子に当たります…といって特に意味はありませんが(笑)。

あと「復刊ドットコム」から、勝俣鎮夫『一揆』(新書黄194、岩波書店、1982年)が今月復刊されるとのメールが来ました。実は、私はこの本2冊持っているんですが(一冊はカバー有りだけど書き込みあり、一冊は書き込み無しだけどカバー無しバージョン)、せっかくなので新本で一冊持っておこうかなぁ、と思います。
岩波のサイトに確認しに行ったら、笠松宏至『徳政令』(新書黄218、岩波書店、1983年)も復刊するんですね。こっちは持ってないので、おさえておかねばなりません。

2007.05.06

悲惨…

●●●●●●●●●

GWにこの戦績ってどういうこっちゃ。そんなにファンが欲しくないのか。
なんでも先日の報道によれば、観客が3割も減っているとか。日程の巡り合わせとか招待客(タダ券)とかの兼ね合いもありそうですが(特に後者の影響か?)、これじゃあなあ。

月末の巨人戦のチケットを取ったんですが、それまでになんとかしてもらいたいもんです。趣味にうつつを抜かしてないで仕事せえ、っていうメッセージでしょうかねぇ。いやはや。

2007.05.03

東村山をあるく

Hmurayama2Hmurayama1機会を得て、東京都東村山市一帯の史跡巡りをしました。志村けんでお馴染みですが、田舎の雰囲気はほとんど無くて、今やすっかりベッドタウンとなっています。中世においては鎌倉街道が通る要衝で、新田義貞が鎌倉へ攻め上る途中、ここに陣を敷いたことが知られています。
始めに東村山ふるさと歴史館へ行き、続いて徳蔵寺へ(写真左)。ここには板碑保存館があって、周辺各地から集められた数多くの板碑が展示されています。お寺自体は元和年間(17世紀初頭)の開基とされる禅宗寺院です。
撮影禁止とは書いていなかったので、撮らせていただいたのですが…(写真右)、中でも最も有名なのがこの板碑で、元弘3年(1333)に飽間斎藤盛貞といという人たちが戦死した際に建てられた供養塔です(重要文化財)。
『太平記』によれば、この年上野の生品神社で挙兵した新田義貞が鎌倉街道を通って同年5月12日に久米川に布陣、15日に分倍河原(現東京都府中市)での合戦で勝利して鎌倉へ侵攻していったとされています。
この板碑は飽間斎藤盛貞が元弘3年5月15日に府中で討ち死にした旨が刻まれており、『太平記』の記述の正確さを証明する資料として貴重なものとされています。

Hmurayama3Hmurayama4そして、このお寺の西側にある八国山の麓に、その久米川での戦場を示す石碑が建っています(写真左)。石碑自体はつい最近のものだそうですが…。そして山を登ると、新田義貞が陣を置いた跡とされる「将軍塚」があります(写真右)。義貞が塚を築き、白旗を立てたと言われておりますが、実際は古墳だったという説もあるそうです。真偽不明。なおこの将軍塚は旧多摩郡と旧入間郡の境目にあり(立っている場所は入間郡側の埼玉県所沢市)、この地域が郡境の要衝として重視されていたことを示すものと考えられます。先の板碑は、もとはこの将軍塚の辺りにあったそうです。
Hmurayama5ちなみに近くの所沢市内にあたる住宅地の中に、武蔵国悲田処跡があります。今は案内の標識がぽつんとあるだけですが…。鎌倉街道を通る旅人の治療や供養をするため多摩・入間郡境に置かれたことが、『続日本紀』に記されているそうです。

Hmurayama6さて、メインと言っていいのはこちら。正福寺地蔵堂(国宝)。都内で唯一の国宝建築物だそうです。禅宗様の代表的建築物とされ、応永14年(1407)築とされています。こちらのサイトが詳しいのでご参照ください。正福寺は北条時宗によって建立されたと言われているそうで、今の本堂(新しいか)にはしっかり「三つ鱗」が刻まれていました。
ちなみに地蔵堂のそばには、14世紀半ば頃とされる板碑もありました。はじめからここにあったのか、移されたものなのかはわからないのですが。

ここで終了。おそらく全国に同志がいる「歩く中世史」(通称「ある中」(笑))を堪能いたしました。当然「ある中」はここでは終わらない。しこたま飲んで帰宅。ビールがうまかったです。

« 2007年4月 | トップページ | 2007年6月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

Amazon

最近のトラックバック