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2007.05.24

関戸合戦をまなぶ

多摩センターにある「パルテノン多摩」で開催されていた「関戸合戦~多摩市関戸に残る中世の伝承とその背景~」の企画展を見に行きました。
こぢんまりとした博物館ですが、展示も図録もかなり気合いが入っていて、マニアック心をくすぐられました(笑)。面白かったです。

関戸合戦とは、元弘3年(1333)、上野国新田で挙兵した新田義貞の鎌倉攻めの際に起こった合戦の一つです。
義貞は久米川の陣を出て鎌倉街道を南下。同年5月15日に多摩川左岸の分倍河原合戦で幕府軍に勝利し、翌16日に渡河した先の関戸において北条泰家(北条高時の弟らしいです)軍との間で起こった戦で、顛末は『太平記』に記されています。
分倍河原では幕府軍が一旦新田軍を押し返したそうですが、この関戸では打ち負かされ、鎌倉へ逃げ戻ることとなりました。ここを落とした新田軍は一気に鎌倉へ攻め上ってゆきます。

19sekido18sekidoせっかくなので、その後関戸(現東京都多摩市)へ行きました。京王聖蹟桜ヶ丘駅から鎌倉街道を南側へ進んだ所にあります。現在の旧鎌倉街道は写真のような感じ。道沿いに「古戦場跡」の碑と祠がありました。
多摩川右岸から町田・鎌倉方面に、谷間を登る緩やかな上り坂になった所にあたり、川と道が交叉する流通の要衝であるとともに、狭隘な谷間の入口に当たる軍事の要衝であることもわかります。

20sekido22sekido写真左は道沿いにある「無名戦士の墓」。中世のものとおぼしき宝塔の一部です(積み方は適当)。写真右は関戸集落の中にある観音寺の板碑。ここでは関戸合戦を供養する法要が行われているそうです(大戦後に始まったそうですが)。

29sekidoこちらは関戸の鎮守・熊野神社境内にある「霞ノ関南木戸柵跡」。建暦3年(1213)に関戸の南北に置かれた関所の跡とされ、こちらは南側に当たります(北側は未発掘)。

「霞の関」というのは、鎌倉末期頃成立とされる『宴曲抄』のなかで鎌倉街道上道の一つとして詠まれたものだそうです。このほか、歌枕としてよく使われたそうですが、比定地はほかに現在の埼玉県狭山市と東京都千代田区(ともに現地名は「霞ヶ関」)にあり、見解がわかれています。ただし『宴曲抄』の記載の順序を考えた場合、関戸が最もふさわしいとされています。

山の上が宅地化されてしまい(京王が最も力を入れた桜ヶ丘団地)、なかなか当時の風景をイメージするのが難しいのですが、谷間の集落といった印象はなんとか留めていた感じがします。致し方ないことではありますが、地域の歴史を守ることの難しさを感じたりいたしました。また、地域の方の大変な努力を学ぶこともできました。これからも受け継がれてゆくことを願います。


ちなみに以下は余談ですが、ブログ化後500回目の記事となりました。最近はずいぶんペースがあがりました(笑)。1000回に到達できるようがんばります。

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コメント

分倍河原は鎌倉街道上道(かみつみち)を伝って、武蔵国府(府中)から関戸に抜ける際の渡河点にあたります。現在は南の関戸側を多摩川が流れていますが、当時は府中側を流れていまして、府中から多摩川を渡って、分倍河原に出るそうです。

したがって、鎌倉を押さえている側からすれば、上野から南下し武蔵へと進軍してきた敵軍を迎え撃つ上で極めて重要な防衛線となるわけです。分倍河原で2度も大きな会戦が行われたのは決して偶然ではないでしょうね。

>御座候さん
なるほど、むかしは多摩川を渡った先が分倍河原だったわけですか。
なるほど、その辺が頭に入っていなかったので、少し変な理解になっていましたか。

関戸は以後も要衝だったようですね。戦国期には市があった様子を示す史料も展示されていました。近年話題の、「川」と「道」の接点ですね。

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