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2007年9月

2007.09.30

番場蓮華寺

Banba7Banba4先日行った滋賀旅行でまわった所のいくつかを紹介していきたいと思います。

最初は米原市の蓮華寺。お寺のある番場は中山道の宿場町でしたが、今はひっそりとしていました。

蓮華寺は浄土宗の寺院です。聖徳太子建立の伝承があり、かつては法隆寺という名前だったそうですが、在地領主土肥元頼の帰依を受けた一向俊聖(いっこうしゅんしょう)が再興、蓮華寺となったとのことです。左写真が本堂。
現在は浄土宗ですが、かつては一向俊聖が形成した教団で、浄土教の影響を受けた一向宗(≠真宗)と呼ばれる宗派に属していました。この一向宗は時宗の一派ともされますが、直接一遍とは関係がないため、その定義については諸説あるようです。一向宗は近世において時宗に組み込まれたものの、戦時中に浄土宗に鞍替えしており、そのため現在は浄土宗となっている、とのこと。

本堂の右手奥に、六波羅探題北方・北条仲時一行の墓があります(右写真)。元弘3年(1333)、後醍醐方の足利高氏(尊氏)に京都で敗れた北条仲時は、光厳天皇・花園上皇を伴って鎌倉へ逃げる途中、京極高氏(佐々木導誉)に行く手を阻まれ、手兵432人が蓮華寺で自刃。その過去帳「陸波羅探題南北過去帳」(重要文化財)も残されています。光厳院と花園院は自決せず、京都へ連行され、光厳院は廃位となりました。『梅松論』によれば、集団自決の直前、被官は天皇・上皇の殺害も主張したが、仲時はそれに反対したため、殺されずに済んだとのこと。
この過去帳も拝見しましたが、正直言って保存状態がやや不安というか…。なんとかなりませんかねぇ、あれは。

Banba3Banba6左写真は、弘安7年(1284)銘の梵鐘(重要文化財)。一向上人による再興の時のものとされています。右写真は鎌倉末期のものとされる宝篋印塔。再興にかかわった土肥元頼の墓とも言われています。

2007.09.26

「教育再生」のゆくえ

このところ政治方面ではいろいろありましたが、気になるのは「教育再生」(ってか、教育がいつ死んだのかよくわかりませんが)問題。このところなんだかやや迷走気味ですが、頭目が変わってこれからどうなるんでしょうかねえ。

ちなみに、ここ数年、ドクターの入学者数がかなり減っている傾向にあるようです。大学によっては、定員を大幅に下回っているところもあります(かくいう私の所属大学も…)。いわゆる「重点化」で大学院の定員増がなされたわけですが、当然ながらその先の将来が不透明なため、一般企業への就職状況の好転も相まって思いっきり大学院が敬遠されはじめています。
このような傾向は、個々の将来設計を考えれば、当たり前の話です。引く手あまたの就職先を蹴ってまで、職が得られるかどうかわからない(しかも経済負担も大きい)大学院進学を選択する余地は、よほどの覚悟が無いとまずあり得ない選択です。

そこで問題なのは、本当は研究を目指したいのに、進学を断念する人が増加することです。おそらく既にそういう人は少なくないでしょう。事実、私のまわりにも居ます。
その結果、このままでは、とりわけあまり存在意義に対する理解の進んでいない文系は、研究人口の減少が今後深刻になる可能性が出てきます。そうすれば「ポスドク」問題の自然解消に向かうではないか、という考えもあるでしょうけれども、やはり研究の進歩という観点からすれば、そんなに楽観できる話でもないように思います。研究人口の減少が進めば、今後いろんな面で弊害が出てくる可能性があります。

といっても、ドクター進学については、なかなか勧められないのも現実なわけで…(笑)。

「教育再生会議」は、これから大学・大学院の将来について議論する段取りになっていたかと思います。個人的には、イデオロギー先行が目立つこの会議そのものにあまり期待するものは無いのですが、世間に対する影響力は大きいので、今後の議論の展開によっては大学院の諸問題が輿論の俎上に登ることを少しは期待していたものの…。それすら期待薄となってきたわけですが、はてさてどうなるでしょうか。

現在の「ポスドク」問題も重要ですが(私はそのまっただ中にいるわけで…(笑))、その後、研究分野によっては深刻な「後継者不足」が予想される事態になりつつあります。これからはそこまで見据えた議論もする必要があるようにも…と感じている次第です。

2007.09.24

苦楽の秋

Shiga暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったもので。彼岸の中日からとても過ごしやすくなってありがたい限りです。
いやはや、なんとか〆切仕事のめどが立ちました。うち一つは〆切を一ヶ月勘違いしていたので、その精神的重圧がきつかったです。

といっても、まだ心は晴れません。授業の準備が全然手つかず…。不安ばかりが先に立つのですが、それもこれも、見合った準備を全然していないため。この半月ほどは、精神的にもやや不安定な感がしています(自覚しているだけましかもしれませんが)。ケセラセラと行きたいところではありますが…。

一方でこの半月にかけては、いろんなことがありました。そのうちの一つが、恒例のゼミ旅行。今年は滋賀県方面とあいなったわけですが、私の好みでルート設定をさせてもらったため、行くところがマニアックに(笑)。同行者にご満足いただけたかどうかは心許ないですが、私は大変充実した旅となりました。訪問地はまた追々ブログで連載していきたいと思います。…なんだかすっかり史跡紹介がメインになってしまってますが(笑)。
ちなみに写真は小谷城跡(滋賀県湖北町)から見た琵琶湖と竹生島です。

2007.09.23

因島 金蓮寺

39innoshima40innoshima生口島から因島へ。このシリーズの最後は、因島のほぼ中央部にある金蓮寺(こんれんじ:現尾道市、旧因島市)。ここには因島村上氏のものとされる中世の供養塔群があります。といっても、島内各地から集められたものだそうで、元々ここにあったものではないようです。

金蓮寺は因島村上氏の菩提寺とされ、かつては別の場所にあったそうで、後世に今の場所に移っています。「三島(さんとう)村上氏」の一つとして知られる因島村上氏は、南北朝期頃から因島を中心に勢力を張った国人として史料に見られるようになり、因島の南側にあり、東寺領荘園だった伊予国弓削島荘(現愛媛県上島町[旧弓削町])の押領も果たしています。戦国期には小早川氏の麾下となって、その水軍勢力の中核を担ったようです。

37innoshima金蓮寺から眺めるとこんな感じ。左側に「水軍城」が見えます。

時間があれば尾道にもと思ったのですが、時間切れのため断念。

2007.09.22

生口島の史跡

25ikuchikojoji28ikuchikojoji大三島から多々羅大橋を渡ると、広島県の生口島(いくちじま:現尾道市・旧瀬戸田町)へ。国も伊予から安芸へ変わります。

その生口島の北西に当たる場所に、要港の瀬戸田があります。瀬戸田は室町期の著名な史料「兵庫北関入船納帳」において、芸予では最も多く登場するとされています。その集落の高台にあるのが向上寺。左写真はその三重塔(国宝)と、背後に瀬戸田港。ここはまったく観光地化されてなくて(近くの耕三寺は観光地化してましたが)、案内もほとんど無くて登る道を探すのに手間取りました。
向上寺は応永10年(1403)に三原仏通寺の末寺として建立されたといわれ、創建には沼田小早川氏や、小早川氏一族の生口氏が関わっているものと考えられています。三重塔は、永享4年(1432)の築で、この築造には生口氏のほかに海運業者が経済援助を行ったとされており、海運との関わりの深さを窺うことができます。
また右写真は境内にある、天文17年(1548)に造られた梵鐘。

29ikuchikomyobo32ikuchikomyoboこちらは、向上寺からちょうど島の反対側の辺りにある光明坊。左写真の十三重塔(重要文化財)は永仁2年(1294)の築を示す銘が刻まれています。右写真はその傍らにある石槽。お湯を入れて風呂桶にしたそうですが…。鎌倉期のものとされていますが、ぱっと見ではその辺のところはよくわかりません。

参考文献:
山内譲「中世港町瀬戸田の景観」(『芸備地方史研究』255、2007年)

2007.09.14

大山祇神社

17oyamazumi19oyamazumi芸予では一番有名なところと言っても過言ではない、ご存じ大三島の大山祇(おおやまづみ)神社(愛媛県今治市[旧大三島町])。伊予一宮で、古代豪族の越智氏の氏神でもあり、代々越智氏一族が神主(大祝[おおほうり])を継承しています。右写真は拝殿(重要文化財)。

なんといっても、国宝指定された刀剣・武具類の8割がこの神社所蔵ということで、宝物殿は圧巻。私は二度目ですが、じっくり見て回るとやはり疲れてしまいます(笑)。院政期から鎌倉初期にかけて、源義家・平重盛・源義経など、武家の棟梁クラスが伊予守に補任されるケースの多かったことが影響してか、この時期に奉納された武具が多くなっています。

21oyamazumiこちらは境内にある宝篋印塔。中央のものは重要文化財で、『一遍聖絵』の記述で一遍が大山祇神社へ参詣した記録のあることから、一遍が奉納したものと伝わっています。形式から見ると、13世紀に遡るもののようで、時期的にはおおよそ一致しています。

あとこの神社に関しては、「女武者」とか「瀬戸内海のジャンヌ・ダルク」とか呼ばれたりする鶴姫の伝承(こちらなど参照)を前面に押し出していて(最近下火気味ですが…)、境内脇には、鶴姫の銅像が建っていたりしました(そういや写真を撮っておけばよかったか)。ってか、鶴姫まつりってのやってるんですね。昔からやってましたっけ…?

2007.09.08

ツケがまわる

やはりというか、当然の結果というか、8月にさぼったせいで、仕事の海に溺れてしまいました。

しかも今週から来週にかけて公私にわたって重要なイベントが詰まっていて、まさに身動きが取れない状態。後悔先に立たず。あんなに暑い8月に仕事なんかできるか、と開き直っても、仕事は減らない…。こつこつとこなすしかありませんね。
しかしさすがに自分自身が心配なのが、授業準備が全然はかどらないこと。さすがにまずいなあ。授業テーマを変えようかなぁ…。ほんとはヴィジュアルを多用したりなどと考えたりしたんですが、素人にはレベルの高い構想でした。淡々と喋るだけになりかねんなあ。聞く側も至極つまらんのはわかるんですが…力量不足ですのでご寛恕を。

そんなこんなですが?来月の日本史研大会は、なんとか行けそうです。仕事の消化状況次第ではそれどころじゃなくなる可能性もかなりありますが。

2007.09.05

伊予・大島の石塔

08noshimaしまなみシリーズの続き。四国から来島海峡大橋を渡ると大島。写真は大島から見た能島です。この近くには村上水軍博物館があります(愛媛県今治市[旧宮窪町])。昔はこぢんまりとした資料館があっただけだったと思うんですが、随分立派な博物館ができていました。なぜかパンフレットの写真は、水軍が最も活躍した天正期ではなく、文禄期の羽柴秀俊(小早川秀秋)の検地書出でしたが…。

11oshimaそこから少し先の集落にある善福寺(旧宮窪町)には、中世の石塔が残されています。写真の宝篋印塔(重要文化財)は、嘉暦元年(1326)建立で、「嘉暦元年丙寅七月日願主養通」の銘が刻まれています(といっても、私は肉眼では確認できませんでしたが)。詳しい経緯は史料が無くよくわからないようですが、非常に綺麗に残っています。

10oshima12oshima傍らには中世のものと思われる別の宝篋印塔と五輪塔が並んでいました。観光地でもない集落にあるため人気もなく、なんかひっそりとしていた感がしました。

2007.09.04

初めての岩手と宮城

Honedera1Honedera2なかなか東北へ行く機会が無かったのですが、このたび初めて岩手と宮城に足を踏み入れました。

といっても調査に付いていったので、ほとんど観光はできませんでしたが…。運良く教育委員会の方に、岩手県一関市の骨寺村荘園遺跡を案内してもらいました。いい景色でした。 今は平泉と一緒に世界遺産登録を目指しているとのことで、熱心に運動をされているようです。先日、イコモス(国際記念物遺跡会議)の人がやってきて、見学していったそうですが…、はたして。

その後は近くの厳美渓に行ったんですが、団子とお茶が籠に乗って降りてくる所って、ここだったんですね。テレビでよく見るんですが、場所がどこだかよく覚えていなかったもんで(笑)。ほかの人が買ってるのを見ましたが、私は買わず。

調査地がこれまたすごい山奥で、車で30分近く走らないと何もないという所でした。何日もいるとその環境に慣れてしまい、東京へ帰ってきたら人の多さに閉口する始末。田舎暮らしは大変だと思うけど、のんびりしてて羨ましかったです。 連泊した気仙沼に近い海沿いのペンションでは、季節柄、サンマがたくさん出てきました。まあ美味かったですが、ほかのいろんな魚も食べたかったなぁ、という感も…。

宿の人がこれまた熱狂的な楽天ファンで、いろんな意味で某球団は惨敗だな、と思い知らされた次第です。口が裂けてもどこのファンかを言えなかったほど(笑)、それはすごい迫力でした。地域密着も言うのは簡単ですが、なかなか定着させるのは難しいでしょうから、この浸透ぶりには素直に感心しきりでした。

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