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2007年10月

2007.10.31

葛川 地主神社

Jishu01朽木から鯖街道を南下、葛川(大津市)へ。想像以上に奥深い地域でした。葛川も隣郷と紛争を繰り返していましたが、こりゃ確かに生きていくのは大変だろうなぁ…などと思ったり。
さて葛川といえば明王院ですが、改修中のためまったく立ち入ることができず、隣にある地主神社へ。まあ中世の建築物が遺るのはこちらの方だし、まあいいか、ってことで。この神社は、明王院の鎮守として建立したとされております。

Jishu07Jishu06左写真は本殿(重要文化財)、右写真は幣殿(重要文化財)。ともに文亀2年(1502)築とされています。本殿は「春日造」という建築様式で、滋賀県内でも極めて珍しい様式なんだそうです。

Jishu05こちらは境内にあった宝塔。康永4年(1345)の作だそうです。

2007.10.28

朽木

Kutsuki03菅浦から大浦、海津、今津を車窓見学?して、若狭街道(九里半街道)経由で朽木(滋賀県高島市[旧朽木村])へ。延々山道を走ってようやく辿り着きましたが、朽木周辺になると急にぱっと開けていて、なかなか感慨深い景観でした。

写真は朽木氏の陣屋跡です。現地看板によると、近世の遺構の下から中世の遺物が見られるそうで、中世以来の朽木氏の館があった場所とされております。今は公園みたいになっていて、雰囲気はあまりなかったですけど。あと、古民家が移築されていました。

Kutsuki06Kutsuki08左写真は邇々杵(ににぎ)神社の神宮寺多宝塔。この中に鎌倉期の仏像が安置されているそうですが、当然ながら見られず…。境内には室町期の石灯籠があるということだったんですが、見つからず。おかしいなぁ?

右写真は興聖寺にある旧秀隣寺庭園(国名勝)。享禄元年(1528)に将軍足利義晴が朽木稙綱のもとへ逃れた際、細川高国らが義晴のために作庭したものとされています。写真にかすかに見える石橋は、浅井亮政が寄進したとか(ほんまかいな?)。今も借景がなかなか見事です。
この地には、中世は元々秀隣寺という寺院があったようですが、近世に入って朽木の別の場所に移され、かわって興聖寺が移ってきたそうです。この興聖寺は代々朽木氏の菩提寺で、本尊の釈迦如来坐像(重要文化財)を拝観することもできました。

朽木氏の墓所もありましたが、以上の経緯から、墓は近世以降のものしかなかったようです(私は未確認)。中世の墓ははじめに寺が建てられた所にあるのでしょうか。よくわからないです。なんせこのお寺、少し入り組んだ所にある割には、駐車場を含めて案内板が全然無いのがちょっとなあ。まあ観光客の来訪はあまり歓迎されていないのかもしれませんが。

少し高い所から里全体を見渡せるような場所があればいいんですが、残念ながらそういう所はなさそうでしたね。
昼食で立ち寄った道の駅、鯖は意外と(と言ったら失礼か)結構おいしかったです。

2007.10.26

中世後期のありがたい一冊

先日の日本史研で、中世後期研究会編『室町・戦国期研究を読みなおす』(思文閣出版、2007年)購入。
まだ全部読んではいませんが、この時代を勉強している者としては非常にありがたい一冊です。

私も以前自分の研究に引きつけて研究史整理を書いたことがありますが(なんのことはない、博論の序章代わりだったわけですけど…)、戦後も時が過ぎ、研究の蓄積が厖大になってきたので、その整理をするのは簡単ではありません。一つの分野を学ぶのに、それこそ100に達するような数の文献を読まないといけない…というのもザラです。

それだけに、それを限られた枚数で整理して、今後の課題を炙り出すというのは容易なことではありません。執筆者の皆さんのご尽力には頭が下がる次第です。

下世話な話ですが、授業の準備に大いに活用させてもらっています(笑)。ところで、13の論考からなっていますが、この数字、授業する側として考えると、上手くできてるなあ…などと思ったり。内容的にも価格的にも、日本史専攻の学生相手じゃないとちょっと難しいかなとは思いますが、今後、当該期研究の入門書として広く読まれることを期待したいと思います。

室町時代に関しては、最近若い世代で研究が活発になってきましたね。ただ東京では交流活動はまだ低調というか…(というか、私が輪に入っていないだけかもしれませんが(笑))。私もそろそろアクションをしようかと、有志を得て現在模索中です。

末筆ですが、執筆者のお一人のYさんから抜き刷りを頂戴いたしました。ありがとうございます。私の方からは…、ちと事情がありまして、来月までお待ち下さい(ってご覧になっているかどうか定かではありませんが)。すみません。

2007.10.24

非日常的日常

今月からいよいよ授業が始まっているわけですが、その準備に追われて、なかなか自分の仕事に手が回りませんね。…まあある程度覚悟はしていたのですが。
私程度のコマ数でひいこら言ってるのは、まだまだ甘いですね…。とはいえ何事も初めてのことなので、準備についても、時間的な余裕が無いというよりは、精神的な余裕に欠けてしまっています。

もう年内はこんな感じだろうと半ば諦めていますが、ただ授業準備も徒労というわけではなく、自分なりに勉強になっています。その点では、いい機会だとは思っております。

さて。

先日、太田道灌の展示があるということで、何年ぶりかで江戸博へ行って参りました。ついでに?夏目漱石の企画展をやっていたので、寄っていくことに(招待券を下さったYさんありがとうございました)。凄い人でびっくりしました。漱石の人気はやっぱりすごいですね。
常設展のスペースに行くと、「外人さん」が大変多いのが目に付きました。東京観光のルートに入っているためだろうとは思うんですが、なるほど、ここの博物館の役割ってのはほかとは少し違うな、と感じ入りました。

偶然にもこの日は太田道灌のミュージアムトークがあり、学芸員のSさんのお話を伺うことができました。なかなか興味深いお話も聞けて良かったです。

その後は両国駅前でちゃんこを食って、そして飲んで(笑)。さすが両国というか、ほかの駅前とは違ってちゃんこ屋ばかり。都内に住んでいながら、この独特な雰囲気にひたっていると、なんだか小旅行をしたような気分になりました。

この秋は、関東の博物館は一斉に中世の企画展をやっているようで、喜ばしい限りです。全部行くのは難しいですが、ここは行きたいなぁと思っています。

以上近況でした。

2007.10.21

菅浦

Sugaura08中世で最も有名な「村」と言ってもよいほどよく知られた菅浦(滋賀県西浅井町)。正しくは「すがのうら」と読みますが、私はつい習慣的に「すがうら」と読んでいます。
地域に伝来した「菅浦文書」(重要文化財、現在は滋賀大学経済学部附属史料館に寄託)により、中世後期村落史研究の中心的フィールドとなった所です。琵琶湖の北端に近い所の、半島の突端にあります。

以下、事前に作成したレジュメから抜粋。

鎌倉期の菅浦は、蔵人所を本所として(鎌倉末期以降は内蔵寮領)、その供御人となっていた一方、山門檀那院・花王院や、山門末寺の竹生島が領家となって支配。惣荘は、場合に応じて訴訟先の使い分けを行っていた。南北朝期は梶井宮が領家となっていた形跡がみられるが、山門領として維持。一方本所は、室町期に日野家になったとみられ、一方では内蔵頭を世襲した山科家も影響力を持つ。一方、隣郷の大浦(現西浅井町)は寺門円満院領で、室町期には日野家領。

菅浦惣荘は20人の乙名によって代表され、乙名は菅浦の全在家の中から臈次階梯の原理によって選出され、家格・身分などの階層的な区別はない。彼らが中心となって構成される共同体が15世紀初頭に形成。
=平等性原理の貫徹した「惣」

★大浦との紛争
「菅浦文書」には、13世紀末から15世紀半ばまで、およそ150年間にわたって繰り返された菅浦と大浦との相論に関係する史料が多く残されている。相論の内容は様々であるが、とりわけ堺目にあたる日指・諸河地域の帰属をめぐって激しく争っており、文安2年(1445)に始まった紛争が最も熾烈なものとなった。

★15世紀後半以降:「惣村」の成立
日指・諸河をめぐる相論に菅浦は勝利し、領有。年貢は地下請となったが、日野家の代官・松平益親(大浦荘の地頭を兼務)が年貢納入および減免に関与し、事実上の代官請も成立。

寛正2年(1461)、大浦で菅浦の地下人が殺害された事件を機に、大浦へ報復して住民を殺害。大浦と訴訟になり、日野家で湯起請を行った結果、菅浦敗訴。これをうけて大浦方として松平益親は菅浦討伐に乗り出す。菅浦は塩津(現西浅井町)の熊谷氏に仲介を要請して降参し、討伐は免れる。
これを教訓として、過分な報復を戒める置文を作成。また、日野家や松平氏による支配からの脱却を画策。文明期に日野家の支配から脱し、同時に年貢半減も実現する。ただし山科家や山門との関係は継続していた。
戦国期になると、日野家からの脱却の際に協力を仰いだ熊谷氏の影響力を受け、年貢半減も否定される。そして徐々に浅井氏の影響を受けるようになり、自治組織としての惣村の機能は衰退に向かう。

参考文献(主要なもの):
田中克行『中世の惣村と文書』(山川出版社、1998年)
蔵持重裕『中世 村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史―』(吉川弘文館、2002年)

Sugaura01Sugaura06とまあ、中世やってれば知らぬ者はないというぐらい有名な所ですが、実は私は今回が初めてでした。竹生島もとても近くに望めて、興味深かったです。写真は、惣村の入口に建つ四足門で、左が村の西側、右が東側に建っています。

Sugaura11Sugaura13左写真が鎮守の須賀神社。湧き水のある所に建てられた形跡が窺えました。右写真は参道にあった供養塔。中世っぽい?

2007.10.17

小谷城跡

Odani10Odani14Odani20ご存じ浅井氏の本拠であった小谷城跡(現滋賀県湖北町)。山城でありながら広大で、浅井氏の権勢を窺えますが、落城した物寂しさもあります。ちなみに中写真が本丸跡。といってもさらに奥に標高の高い曲輪があって、変わっています。高い所に隠居した浅井久政の屋敷だった「小丸」や、京極氏の屋敷があったとされる「京極丸」があります。山頂部分は「山王丸」。山王権現社が祀ってあったそうです。

Hikone06ところで、これは彦根城西の丸にある三重櫓(重要文化財)。真偽についてはよくわかりませんが、かつての小谷城の天主だったとされる建物です。

Odani26Odani04こちらの左写真は「赤尾屋敷跡」で、浅井長政が自刃した所と言われています。合掌。右写真は、小谷城跡から眺めた横山城跡です。手前に赤と白のストライプの入った鉄塔の建っている所ですが、わかりますでしょうか。実際には多少距離はありますが、こうしてみると目と鼻の先にあるように見えますね。ここを信長に取られた浅井長政の危機意識というのがよくわかります。

詳しくは、こちらをどうぞ。

2007.10.15

恒例の京都詣

今年も日本史研究会の大会へ行って参りました。これで3年連続となりました。
今年は全体会がもろに中世だったので、これは行かねばということだったわけですが、両日とも興味深く拝聴いたしました。

しかしやっぱりというか、立命大は京都駅から遠くてちょっと辛い。言っても詮無いことですが。一つ苦情を言えば、会場への交通案内については、土日ダイヤを勘案して出していただければ…と思いました。会場となる大学が公式に出している案内はおそらく平日ダイヤしか考えていないのでしょう。それに基づいた会場案内だったかと思うのですが、日曜は北大路駅から大学へ行くバスがほとんど無くて、閉口いたしました。ま、自分で調べておけ、と言われれば終わる話ではありますが…。
ただまあ、今年の書籍展示スペースは広くて快適でした。ありがたや。

土曜には懇親会にも出席。研究が近いこともあってこれまで頻繁にお見かけしながら、なかなかお話できずにいた方々にようやくご挨拶が叶い、安堵。それもこれも私の引っ込み思案な性格が招いた失態だったわけですが、ずっと気を揉んでいた事でもあり、すっきりした、というのが率直な感想です(笑)。それにしても、当然ながら若い力が次々と擡頭してきますねぇ…。うかうかしてられぬ。幹事役の皆さん、今年もお世話になりました。

日曜の終了後は、京都駅前で酒盛り、さらに新幹線の中でも酒盛り(笑)。帰ったらヘロヘロになりました…。いつも二日目はわりとさっさと帰ってきていたんですが、今年は結構飲んだなぁ…。でも楽しかったです(話題については憚り(笑))。


購入書籍は機会があればまた。これからしばらくは、授業モードです。

2007.10.10

川越へ

Kawagoe1先日の連休中、川越に行きました。街中を歩くのは初めてだったんですが、観光地としての盛況ぶりは凄いですね。人が多くてびっくりしました。写真は川越城の本丸御殿。

目的は川越市立博物館の企画展「後北条氏と河越城」。複製や写真パネルが結構多かったのはやや残念でしたが、本物の文書がたくさん展示されていて勉強になりました。この秋は関東各地の博物館で中世の企画展が目白押しで、個人的には嬉しい限り。できれば全部行けたらなぁと思うのですが。

Kawagoe2Kawagoe3こちらは城下町の喜多院にある中世の板碑。左側が暦応年間(1340年頃)、右側が延文年間(1360年頃)のものです。市博の常設展に同じものがあってどっちが本物か区別がつきませんでしたが(笑)、さすがにこっちが本物でしょうか。

Kawagoe4これは道すがらあった板碑の残欠。「…州古尾谷庄」の字が読めるので、中世のもので間違いないでしょう。さすがに埼玉は板碑が多いですね。

2007.10.04

大原観音寺

Ohara1Ohara2米原市(旧山東町)の観音寺。横山城を挟んで石田郷の反対側に当たります。「大原観音寺」とも呼ばれる寺院です。
古代の伊吹山寺の系譜を引く「伊吹四箇寺」の一つで、正式名称は伊富貴山観音護国寺。元々は伊吹山中の山岳寺院でしたが、正元年間(1260年頃)に現在地(大原荘夫馬[ふま]郷)へ移転。大原荘の荘園鎮守となったとされています。山門の末寺で、在地領主の夫馬氏(大原氏一族か)が勧請したと考えられています。

大原荘は仁和寺御室領で、南北朝期以降は日吉社や石清水八幡宮が荘内に所領を持っていたとされています。観音寺は移転後も伊吹四箇寺の他の寺院との関わりを持っており、山岳信仰の性格を強く有していました。一時は坊が最大23あったとされ、現在も坊跡が残っています。現在の本堂(重要文化財)は正徳5年(1715)のもの(右写真、写真がゆがんでしまってすみません)。本尊は千手観音(秘仏)、鎌倉期の木造伝教大師坐像(重要文化財)があるとのことですが、見られず。
中世史では、「大原観音寺文書」で知られている所ですね(『史料纂集』で活字化)。

この地域の地頭であった大原氏は佐々木氏の一族で、荘内の「本市場」に館を構えたとされています。ただ観音寺は菩提寺ではないそうで。
中世後期になると、大原荘の一円支配を達成したと見られ、15世紀からは「公方」と呼ばれるようになります(例えば永享5年(1433)の「大原持綱反銭寄進状案」(『大原観音寺文書』156)参照)。大原氏は幕府奉公衆として段銭を京済していたとされ、守護六角氏からもある程度独立を果たしていたといい、観音寺にも独自の禁制を発布しています。

この寺院については、有名なエピソードがあります。それが、秀吉と三成出会いの伝承です。

石田三成(佐吉)が少年の頃に観音寺の小姓をしていたとされ、長浜城主であった羽柴秀吉が観音寺を訪ねた際、秀吉の喉が渇いているものと思った佐吉は初めに大きな茶碗にいっぱい注いだぬるい茶を出し、次に前より少し熱くして茶碗半分ぐらいを差し出した。秀吉がもう一杯を所望すると、小さな茶碗に熱い茶を少し注いで出した。この出し方に才気を感じた秀吉が、佐吉を近習として召し抱えた…。というお話です。
この逸話、実は初見が正徳6年(1716)成立の『武将感状記』というものだそうで、事実かどうかは…。ちなみにこの伝承、ほかの寺だったという異説もあるようです。

参考文献:
湯浅治久「「公方」大原氏と地域社会」(同『中世後期の地域と在地領主』吉川弘文館、2002年)

<2007.10.6追記>
地図を埋め込んでみました。「石田山公園」というのが横山城跡です。それにしても、なにかと便利になりましたねぇ。

拡大地図を表示

2007.10.03

石田三成生誕地

Ishida4長浜市の石田町。ここは石田三成の生誕地とされている所です。

石田氏は坂田郡石田郷に本拠を置く地侍の一族と見られますが、その出自は諸説入り交じっており、確定はしがたいようです。一族は京極氏や浅井氏の被官になっていたともされ、実際には、三成や一族は秀吉の横山城主あるいは長浜城主時代に被官化したのではないか、と。

上の写真は三成の出生地碑です。

Ishida2出生地碑のそばにある八幡神社境内に、天文14年(1545)や永禄5年(1562)の年紀のある五輪塔残欠などの供養塔が出土しています。意図的に打ち割られたものもあり、「掘ったら祟りがある」と伝承されていた場所に埋められていたらしい。石田氏の墓所だったとされています。
写真がそれとおぼしきもの。年紀については確認できませんでしたが、全体的に黒ずんでいます。火を受けたのでしょうか。確かに意図的に割ったような様子に見えましたが、わかりますかね?

Ishida5こちらは石田郷の東側にある横山城跡。元々浅井氏の城でしたが、織田信長の浅井攻めの際に秀吉が入ったことで知られています。ほんとは登る予定だったんですが、時間的に微妙だったのと、想定外の暑さによってパス。また機会があれば、涼しい時にでも…。

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