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2007.10.21

菅浦

Sugaura08中世で最も有名な「村」と言ってもよいほどよく知られた菅浦(滋賀県西浅井町)。正しくは「すがのうら」と読みますが、私はつい習慣的に「すがうら」と読んでいます。
地域に伝来した「菅浦文書」(重要文化財、現在は滋賀大学経済学部附属史料館に寄託)により、中世後期村落史研究の中心的フィールドとなった所です。琵琶湖の北端に近い所の、半島の突端にあります。

以下、事前に作成したレジュメから抜粋。

鎌倉期の菅浦は、蔵人所を本所として(鎌倉末期以降は内蔵寮領)、その供御人となっていた一方、山門檀那院・花王院や、山門末寺の竹生島が領家となって支配。惣荘は、場合に応じて訴訟先の使い分けを行っていた。南北朝期は梶井宮が領家となっていた形跡がみられるが、山門領として維持。一方本所は、室町期に日野家になったとみられ、一方では内蔵頭を世襲した山科家も影響力を持つ。一方、隣郷の大浦(現西浅井町)は寺門円満院領で、室町期には日野家領。

菅浦惣荘は20人の乙名によって代表され、乙名は菅浦の全在家の中から臈次階梯の原理によって選出され、家格・身分などの階層的な区別はない。彼らが中心となって構成される共同体が15世紀初頭に形成。
=平等性原理の貫徹した「惣」

★大浦との紛争
「菅浦文書」には、13世紀末から15世紀半ばまで、およそ150年間にわたって繰り返された菅浦と大浦との相論に関係する史料が多く残されている。相論の内容は様々であるが、とりわけ堺目にあたる日指・諸河地域の帰属をめぐって激しく争っており、文安2年(1445)に始まった紛争が最も熾烈なものとなった。

★15世紀後半以降:「惣村」の成立
日指・諸河をめぐる相論に菅浦は勝利し、領有。年貢は地下請となったが、日野家の代官・松平益親(大浦荘の地頭を兼務)が年貢納入および減免に関与し、事実上の代官請も成立。

寛正2年(1461)、大浦で菅浦の地下人が殺害された事件を機に、大浦へ報復して住民を殺害。大浦と訴訟になり、日野家で湯起請を行った結果、菅浦敗訴。これをうけて大浦方として松平益親は菅浦討伐に乗り出す。菅浦は塩津(現西浅井町)の熊谷氏に仲介を要請して降参し、討伐は免れる。
これを教訓として、過分な報復を戒める置文を作成。また、日野家や松平氏による支配からの脱却を画策。文明期に日野家の支配から脱し、同時に年貢半減も実現する。ただし山科家や山門との関係は継続していた。
戦国期になると、日野家からの脱却の際に協力を仰いだ熊谷氏の影響力を受け、年貢半減も否定される。そして徐々に浅井氏の影響を受けるようになり、自治組織としての惣村の機能は衰退に向かう。

参考文献(主要なもの):
田中克行『中世の惣村と文書』(山川出版社、1998年)
蔵持重裕『中世 村の歴史語り―湖国「共和国」の形成史―』(吉川弘文館、2002年)

Sugaura01Sugaura06とまあ、中世やってれば知らぬ者はないというぐらい有名な所ですが、実は私は今回が初めてでした。竹生島もとても近くに望めて、興味深かったです。写真は、惣村の入口に建つ四足門で、左が村の西側、右が東側に建っています。

Sugaura11Sugaura13左写真が鎮守の須賀神社。湧き水のある所に建てられた形跡が窺えました。右写真は参道にあった供養塔。中世っぽい?

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コメント

『惣』というのは、自治組織なんですか。
和歌山市に住んでいるのですが、鉄砲集団雑賀党のことを書いている本なんかを読んでいると、『惣』という言葉が出てきます。
 
戦国時代の和歌山市、戦国大名が存在しなかったわけですから、自治組織の発達した地域だったのかもしれないと、ふと考えました。
 
ポチッとしてから、帰ります。

投稿 エカワ | 2007.10.21 22:38

>エカワさん
コメントありがとうございます。
「惣」というのは字の通り「すべて」という意味ですが、それが転化して、すべての構成員が運営に参加する自立的組織、という意味で使われています。

紀州も紀ノ川沿いなどは「惣」の発達した地域として有名ですね。確かに戦国時代では、大名の権力が強くない所に比較的多く分布している、という傾向はあるかもしれません。

また時折お越しくだされば幸いです。

投稿 かわと | 2007.10.22 00:43

菅浦、1度は行ってみたいです。

投稿 御座候 | 2007.10.22 11:39

>御座候さん
お、まだでしたか。やはり一度は行っておきたいですよね。

投稿 かわと | 2007.10.22 19:30

こんばんは。
菅浦、中世の文献を見ていたら、必ずどこかででてきますよね。

ところで、かわとさんたちは、近江路を探査した際に、どういう所で泊られましたでしょうか?民俗調査の場合は、調査地にある民家で泊らせてもらったりするそうですけど。(男だけでは泊れないホテルに、男だけで泊った強者もいるらしいです。)

史学系の泊りがけの調査をしたことがないので、後学のために教えていただけると幸いです。

投稿 たけうち | 2007.10.24 22:07

>たけうちさん
今回は単純に旅行だったのですが、安くあげるために国民宿舎や休暇村に宿泊しました。

滋賀は宿が少ないんですよねぇ。自身の経験ではありませんが、聞いたところによると、調査等で連泊する際は民宿になることが多いようです。やはり当たり外れが大きいそうですけど。

投稿 かわと | 2007.10.24 22:53

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