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2007年12月

2007.12.30

2007年総括

今年は、自分にとってはわりとがんばったかな、と思える一年になりました。

懸案の博論を出し、口頭報告もいくつかやって、論文等もいくつか発表することができました。初めて授業もやったり、と、来年以降に向けていろいろな経験を出来たと思います。これもまわりの皆さんの支えあってこそと思います。一年間、ありがとうございました。来年も宜しくお願いします。

とはいえ、将来への展望は未だ開けずという状況は変わらずで…(笑)。なかなか先が見えませんが、もう後戻りもできないので、挫けずに進んでいこうと思います。

一年の計は年明けにするものですが、来年の目標を挙げるとすれば…、なんとか論文執筆は今年のペースを維持できればなぁ、と思います。とりあえず来春以降は比較的余裕を持って研究ができそうなので、努力したいところです。

一方私生活といえば…、あまり状況は変わらなかったかなぁ(笑)。ま、そろそろ中年と呼ばれる年代になってきたので、健康にも多少は気を遣うべきかなぁ、という気もします。これはおそらく思うだけで終わりそうですけど、飲み過ぎないよう気をつけます…。

それでは、良いお年を。

2007.12.27

佐和山城跡

Sawayama01Sawayama023ヶ月かかりましたが(笑)、いよいよ滋賀シリーズも最後になりました。
最後は佐和山城跡(滋賀県彦根市)。お馴染み石田三成の居城です。鎌倉期に築城されたと言われておりますが、室町から戦国期にかけて守護六角氏の支配する城となっており、後に浅井氏の支配下となり、家臣の磯野員昌の居城となりました。織田信長の侵攻によって開城。その後秀吉政権にかけて様々な人が城主になっていますが、天正18年(1590)に石田三成が城主となりました。
関ヶ原合戦後は井伊直政が支配することとなりましたが、麓に彦根城を築いて移り、佐和山城は廃城となりました。
…というのは、まぁ有名な話ですね(笑)。佐和山城の大手は現在の彦根市街とは反対側にあたるのですが、私は市街地側の龍潭寺から登りました。このお寺、井伊氏の本拠地である井伊谷の龍潭寺(浜松市北区[旧引佐町])を彦根に移したものですね。今はひっそりとしていました。

というわけで、ほぼ最短コースで本丸まで登ったので、下の曲輪はあまりじっくりと見ることはできませんでした。しかも本丸でマムシに遭遇! 早々に引き揚げました(笑)。

Sawayama06Sawayama03左写真は堀切かな?という遺構。右写真は、本丸から見た市街地。彦根城がでんと構えています。

2007.12.26

西明寺

Saimyoji03滋賀県甲良町の西明寺。「湖東三山」の一つである天台寺院です。山号は龍応山。池寺の通称があります。寺伝では、伊吹山寺開山の三修上人が仁明天皇の勅願によって承和元年(834)に建立したとされています。平安・鎌倉期に最盛期を迎えたそうですが、元亀2年(1571)に丹羽長秀の攻撃を受け、伽藍の大半を焼失。あまりの猛火に満足して丹羽長秀の軍勢は最後を確認せず途中で引き揚げたため、本堂・三重塔・二天門は焼け残ったといわれます。
総門前には元応2年(1320)銘の町石笠塔婆があるそうです(山腹まで車で登ったので、写真なし)。二天門(写真、重要文化財)は応永14年(1407)の墨書銘があるとのこと。門内の増長・持国の二天には、正長2年(1429)の胎内棟札があるそうです。

Saimyoji08Saimyoji06左写真が本堂(国宝)。本尊は鎌倉期の薬師如来立像(重要文化財)。ほかに平安期の二天王立像や不動明王・二童子(いずれも重要文化財)などがあります。
右写真は三重塔(国宝)。この地域を出自とする名工の集団として名高い、甲良大工の作とされています。また、その山手に「嘉元二年(1304) 大工平景吉」銘のある石造宝塔(重要文化財)があるそうですが、確認できませんでした。

もう一つの湖東三山である百済寺(ひゃくさいじ、滋賀県東近江市[旧愛東町])には、今回は行きませんでした。またの機会に。

2007.12.21

金剛輪寺

Kongorinji03Kongorinji09滋賀県愛荘町(旧秦荘町)の金剛輪寺(こんごうりんじ)。「湖東三山」と呼ばれる古刹の一つです。天台寺院で、山号は松峰(しょうほう)山。松尾寺の別名も持っています。

聖武天皇の勅願により行基が開山したという伝承を持っていますが、この地域に勢力を持っていた渡来系の依智(えち)秦氏が建立したのではないかとされています。9世紀半ばに円仁の中興にかかり、天台宗に。中世には佐々木氏の崇敬を受けて大伽藍を誇ったものの、織田信長の焼き討ちに遭いました。ただ、本堂・塔・門や諸仏は兵火を免れています。

左写真は二天門(重要文化財)で、戦国期頃の築。右写真が本堂(国宝)。弘安11年(1288)の築とされています。文永・弘安の役の戦勝を祝して守護佐々木頼綱が築いたといわれています。本堂内陣の本尊聖観音は秘仏。厨子の前に聖観音立像があり、その左右に毘沙門天立像と不動明王立像(ともに重要文化財)が並んでいます。さらにそれぞれ前方に2体ずつの四天王立像と阿弥陀如来坐像(いずれも重要文化財)が安置。いずれも鎌倉期のものとされています。さらに裏堂には、平安期の十一面観音立像(重要文化財)、鎌倉期の慈恵大師坐像(重要文化財)があります。

Kongorinji08Kongorinji13左写真は三重塔(アングルが悪いですが…)。朽損していたところ、1978年に復元。右写真は中世のものと思われる宝塔です。

隣接して、愛荘町歴史文化資料館があり、ここで中世の梵鐘も展示されています。境内で実際に吊されているのはレプリカだそうで、それを知らずに写真撮ったり衝いてみたりしたんですが(笑)。

2007.12.20

年内の授業終了

この件についてはこれまであまり触れてませんでしたが(まあここを見ている学生はたぶんいないでしょうけど→いたらコメントどうぞ(笑))、今年の授業が終了しました。

正直言って事前には履修者は10人ぐらいじゃないかと踏んでいて、数人だったら論文の輪読でもやろうかなぁと本気で思ってシラバスにも書いていたんですが、意に反してその10倍が集まった次第で…(笑)。時間割のアヤもあるでしょうけど、出席者数も当初からおおむね一定していて、意外な反響に少々驚きました。

ある程度予想はしていましたが、やはり思ったことの半分も話せませんね。シラバスには大々的にネタを並べたものの、全然消化できていません。「話が違うじゃねーか」と思った受講生の方には申し訳ない限りですが。

まだまだ慣れないですが、実際に講義をやってみていろいろと学ぶべきことがありました。やっぱやってみないとわからないことっていろいろとありますね。ともかくも、授業ってのは大変ですね。私も学生の頃はのほほんと授業を聞いていましたが、もっとありがたがって聞いておくべきだったなぁ(笑)。

さて今年もあと二週間10日。この間になんとしても〆切原稿を終わらせる所存です。遅れてすみません…。年明けは授業準備に取られることを考えれば、今回も正月なんてあってなきがごとしです。

2007.12.16

真壁の史跡

Makabe1Makabe2Makabe3_2先日、茨城県桜川市(旧真壁町)の桜川市歴史民俗資料館で展示されていた中世文書を見に行きました。目玉は二つの文書群でした。
まずは「加茂部文書」。同市内(旧岩瀬町)にある鴨大神御子神主玉神社(長い…(笑)。読みは「かものおおかみのみこかみぬしたまじんじゃ」らしい)の宮司家に伝来した中世文書群で、中世前期の官宣旨案が含まれていました。ほかに永享12年(1440)3月4日の足利持氏の子・安王丸代官景助なる人物の奉書案がありましたが…、なんだか怪しげ(笑)。
もう一つは「真壁長岡古宇田文書」。長岡氏は常陸平氏一族の真壁氏の一族で、長岡郷(現桜川市[旧真壁町])を本拠とした一族だそうです。中世文書は全部で35点。生の中世文書を見るのはやはり楽しい。

その後昼食を取り、近くの真壁城跡へ(写真)。現在は国史跡に指定されており、発掘作業が進められていました。
言わずと知れた真壁氏の城館です。真壁氏は常陸平氏の大掾(だいじょう)氏の一族で、大掾多気直幹の子である長幹が真壁郡真壁郷に住んで真壁氏を名乗ったとされています。中世を通して常陸の在地領主として生き抜いた存在として、研究面でも注目され続けた一族です。戦国期には佐竹氏と後北条氏との間で巧みに生き残りましたが、結果的には関ヶ原合戦の後、佐竹氏とともに秋田へ移住しました。
かなり大規模な城館遺跡です。遺構自体は17世紀にかかるかもしれません。なお真壁氏移封後は、浅野長重(長政の子)が数年の間居城としていました。その後は稲葉正勝の居城となりましたが、寛永5年(1628)に転封となり、廃城となったそうです。

Makabe4こちらは城の近くにある真壁氏の墓所。五輪塔の規模が大きく、立派でした。

Makabe6荘園となっている地域(真壁荘)の本木という所(桜川市[旧大和村])に、大規模な中世居館遺跡があります。その先に見えるのは筑波山。…天気が良ければ絶好の眺望だったんでしょうけどねぇ。
Makabe5Odajoそして石造物たち。左写真は祥光寺(同市[旧大和村])にある多宝塔。建仁2年(1202)の年号が確認できました。
右写真は真壁氏のライバル?小田氏の本拠であった小田城跡(つくば市)にある五輪塔。小田城といえば北畠親房が『神皇正統記』を書いた所として有名ですが、ここへ来た時はもう日が暮れていたので、この写真だけ撮りました。ぱっと見ではよくわからないと思いますが、かなり巨大で、高さは2mを越えています。

2007.12.15

速報 岩波文庫『吾妻鏡』復刊

竜粛訳注『吾妻鏡』(岩波文庫)の既刊分(全8巻中5巻まで)が2月に復刊するそうです(詳細はこちらこちら)。
私も復刊希望に昔投票していましたが、ずっと品切れだったので、実にありがたいことです。

…もっとも、完結していないのが玉に瑕ですが。どうにかなりませんかねぇ?

ちなみに現代語訳版も売れ行きが良いそうですね。

2007.12.14

石塔寺

Ishidoji03Ishidoji10滋賀県東近江市(旧蒲生町)の石塔寺(いしどうじ)へ。天台寺院で、山号は阿育王(あしょかおう)山。聖徳太子建立の伝承がありますが、詳しい来歴は不明です。伽藍は織田信長の焼き討ちによって焼失し、近世初期に一部復興したそうです。

左写真のように、門前から延びる石段の左右に、石仏や五輪塔が並んでいます。そして、石段を登り切ると、まさに夥しい数の石塔が並んでいます。圧巻。

Ishidoji06そしてその中央にそびえ立っているのが、この巨大な三重石塔(重要文化財)。奈良前期のものと伝えられており(実際はもう少し降るかも?)、日本最古の石塔だそうです。『日本書紀』に蒲生郡に百済人が居住したとの記述があり、その関連が推測されています。

Ishidoji14
Ishidoji15三重石塔の東側土壇上には、嘉元2年(1304)と貞和5年(1349)の銘がある五輪塔(いずれも重要文化財、左写真)、その横には正安4年(1302)銘の宝塔(重要文化財、右写真)があります。

写真を掲載しきれませんが、何万もの石塔が並んでいるとのことで、おそらく日本でここぐらいじゃないかという凄い光景が広がっています。司馬遼太郎も感動したと書いているそうで、あまり知名度はありませんが、一度は行っておく価値があると思います。ちなみに麓に集落が広がっていますが、ここが近江商人を輩出した地の一つである「石塔」なのでしょうか…?

2007.12.10

今堀日吉神社

Imabori01Imabori02安土城は麓を素通りして(笑)、五箇荘を経由して今堀日吉神社(滋賀県東近江市[旧八日市市])へ。今の姿は普通の村の神社ですが、中世史では言うまでもないほど有名な神社です。業界では「ひえ」と呼ぶことが多いと思うんですが(私も)、正式は「ひよし」のようです。

以下、事前に作成したレジュメより。

近江国蒲生郡得珍(とくちん)保今堀郷(現東近江市今堀町)は、大正初年に『近江蒲生郡志』によって「今堀日吉神社文書」(現在は重要文化財、滋賀大学経済学部附属史料館に寄託)が紹介されて後、中世商業のみならず農業・村落・領主支配に関わる研究に活用され、その存在が広く知られるようになった。特に三浦周行氏による座の研究が注目され(同『法制史の研究』岩波書店、1919年)、脇田晴子氏の商業・流通史研究(同『日本中世商業発達史の研究』御茶の水書房、1969年)の基礎ともなってゆく。ほか多数の研究があるが、代表的な研究は仲村研『中世惣村史の研究―近江国得珍保今堀郷』(法政大学出版局、1984年)が挙げられる。

★『今堀日吉神社文書』について
同文書は今堀日吉神社の奥深くにあった「あけずの箱」に入っていたものを中川泉三氏が『郡志』編纂の際に発見したものと伝わっている。しかし明治期の覚書が含まれており、史料の存在そのものは、現地では知られていたものと思われる。計953点(滋賀大学では1180点となってますから、こちらが正確か)。年代は保元2年(1157)(偽文書)と文応元年(1260)から昭和期まで。仲村研氏の労力により、現在、同編『今堀日吉神社文書集成』(雄山閣出版、1981年)によって活字化されている。菅浦と異なり、今堀は惣荘の範囲(得珍保)と惣村(今堀郷)の範囲が一致しないため、下記の通りに分類される。
1.惣荘関係文書
  (1)商業関係文書 (2)農業関係文書(用水相論史料など) (3)領主支配関係文書
2.惣村関係文書
  (1)村掟 (2)対他郷関係文書 (3)神事関係文書 (4)検地関係文書

★得珍保について
得珍保は山門領、日吉十禅師社の料所とされた地で、計8郷からなり、さらに上下4郷ずつに分かれる。このうち下四郷(野々郷などいくつか異称がある)は灌漑が不完全で耕作が思うようにならず、伊勢へ繋がる街道筋(八風街道)という地の利を生かして、商業に従事する者が現れたとされている。彼らは「保内商人」と呼ばれる(別名「野々郷商人」)。下四郷はさらに七か村に分かれ、今堀はその一つであった。(残りは金屋・中野・今在家・小今在家・蛇溝・東破塚)
日吉十禅師社料所であった関係から、保内の各村に末社が勧請された。今堀日吉神社(十禅師社)もその一つ。

※伊勢山越商人は小幡・石塔・沓掛・保内の「四本商人」からなる。史料上では、「山越衆」とも呼ばれている。
 小幡は五箇商人(後述)でもあり、かなり強大な権益を有する商人集団であったと考えられている。
 →保内商人は四本商人を代表する立場にあり、関連文書が集積されたか。

保内商人は主に伊勢との流通に携わっていたが、16世紀になると若狭への街道である「九里半街道」(今津-小浜、現在は一部が「鯖街道」と呼ばれる)の特権を独占して富を得ていた五箇商人(湖東の田中江・小幡・薩摩・八坂(はっさか)、湖西の高島南市)に対抗して権益を主張するようになり、守護六角氏と結んでそれを実現させた。五箇商人からの権益奪取に際しては、15世紀に自らの正当性を示すため偽造した院宣を活用するなど、巧みな戦術を採っていたことが知られている。

従来、商業は「故実」を重視する傾向が強く、15世紀段階でいわば「文書主義」的な要素を持って文書を偽造して権益を主張する今堀の姿勢は比較的珍しい。一般に商工業者が文書をもって権益を主張するようになるのは16世紀に入ってからである。(桜井英治『日本中世の経済構造』岩波書店、1996年および蔵持重裕「日本中世の商業関係文書について」、東京外国語大学COE『史資料ハブ 地域文化研究』7、2006年参照)

★今堀の惣について
15世紀から村掟の史料がみられ、惣村としての機能が形成されていたことがわかる。村落内では「村人(むらうど)」と呼ばれる身分が存在し(村の居住者一般という意味ではない)、彼らが宮座=惣の構成員となっていた。一方、住民でありながら惣の構成員ではない者は「村人ニテ無物」とされている。
また「村人」は座次(ざなみ)が決まっており、その順序によって神事負担(「結鎮頭(けちのとう)」の懸米)が行われていた。このほか様々な決まりが、惣によって独自に決められている。

ま、菅浦と並んで、「惣村」の代表例として知られている今堀の地に鎮座する神社で、惣村関係文書を多く伝えたことで知られているわけですね。しかも「近江商人」の源流とも言うべき中世商人を多く輩出しており、その関係文書が大いに注目されてきました。
でも、今はなんか普通の田舎の集落、といった感じ。あまり開発はされず周囲の景観はわりと風情はあるんですが、神社の裏側が最近になって宅地化されていた感じだったのがやや残念か(よそ者が言っても詮無いことですが)。

Imabori03神社の向かいのお寺にあった石造物たち。中世っぽいんですが、どうでしょうかね?

2007.12.09

最新研究の二冊を頂戴す

新たに二冊のご著書をご恵贈いただきました。

まずは清水亮『鎌倉幕府御家人制の政治史的研究』(校倉書房、2007年)。ありがとうございます。私はまったくの門外漢ですが、大いに勉強させていただきたく思います。近年は中世前期の武士論がとても活発になっていて、私はなかなかついて行けないのですが…(笑)、拝読して少しでもキャッチアップできればと思います。

もう一冊は、鈴木公雄編『貨幣の地域史―中世から近世へ』(岩波書店、2007年)。執筆者のCさんとSさんの連名でお送りくださいました。ありがとうございます。こちらはもろに専門に被っているので、戦々恐々です(笑)。まだ巻頭のKさんのご論文を拝読しただけですが、早くも先行研究とは全然違う話が満載ではないですか…。抱えている原稿に大いに影響してしまう恐ろしい一冊となりそうです(原稿を待っておられる方には、ご迷惑をおかけするかも…すみません)。
それにしても、常に走り続けないと取り残されるハードな分野になってますね。なんだかハムスターな気分。ともあれ、大いに刺戟を受けたいと思います。

4751739107鎌倉幕府御家人制の政治史的研究 (歴史科学叢書)
清水 亮
校倉書房 2007-12

by G-Tools
4000224794貨幣の地域史―中世から近世へ
鈴木 公雄
岩波書店 2007-12

by G-Tools

2007.12.04

大島・奥津島神社

Okutsu01Okutsu02長命寺からちょうど山を挟んで反対側にある大島・奥津島神社(滋賀県近江八幡市)。今の地には元々奥津島神社がありましたが、織豊期に近江八幡城主となった豊臣秀次が大島神社と合祀し、今に至っています。

古代には神宮寺もあったとされ、長命寺とともに、「奥島」での修行の場として発展したとのことです。平安期の大国主尊坐像(重要文化財)などがあります。

この神社は宗像大社を模したとも言われてまして(なので、今も残る琵琶湖沖合の島は「沖島」と呼ばれています)、琵琶湖の湖上交通の守り神として信仰を集めたと思われます。今は埋め立てられていますが(一部は「西の湖」として残る)、南東側の対岸には、あの安土山があるといった地理関係になっています。

このほか、奥島の惣村の状況がわかる「大島・奥津島神社文書」(重要文化財)も残されています(滋賀大学経済学部附属史料館に寄託)。
写真は今の社殿ですが、新しめ。

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