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2008年3月

2008.03.31

さらば一橋

バレバレながらも(笑)一応はっきりと名前は出してませんでしたが、いろんな形で5年間所属していた一橋大学とは、ひとまず今日で関係が無くなることになります。長かったというより、むしろあっという間という感覚の方が近いかな。もっとも、まだしばらくは毎週通うので、「別れ」の実感はありませんが。

さて、来年度(明日)からは別の大学に拠点を構えることになりました(就職したわけではないんですが…)。やることは変わりませんが、心機一転としたいところ。でも、しばらくは環境面ではあまり向上しないかもなぁ。ぼちぼちとやっていきます。
別の大学とあってまだ勝手がよくわからないんですが、未だ先方からこれといった連絡もなし。明日別に行かなくてもいいのかなぁ? ようわからんが、大丈夫なんだろうか…?

さて、名刺作らないと…。

2008.03.29

三浦の中世関連史跡

Miura神奈川県三浦市の、その他の中世関連史跡。
まずは三浦義村の墓。一度海に落ちたものを拾い上げたんだそうです。
三浦義村は鎌倉初期の三浦氏の惣領で、絶大な権力を誇った御家人として知られていますね。源実朝の暗殺への関与が噂されていることでも有名です。
墓のある三浦半島東岸(東京湾側)岩浦地区は義村が拠った地とされていて、近くにある福寿寺が菩提寺とされています(位牌もあるそうです)。

Miura_4Miura_6こちらは法昌寺にある、この地域でよく見られる「やぐら」と呼ばれる遺構。鎌倉期の供養塔の一種で、横穴のような場に五輪塔などが彫り込まれています。三浦氏に関係するものではないかとされていますが、詳しくはよくわかっていないようです。

三浦半島は他地域に比較して、中世の石造物がほとんど遺っていない印象を受けました。それは当時における供養の在り方の違いによるのか、気候や石材による影響なのか、その辺はよくわかりませんが、両方あるんでしょうかね。

三浦シリーズはこれにて終了。

2008.03.28

移動距離数千キロ

SendaiSendai2先週末は初めて仙台に行きました。
といっても調査で行ったのでくまなく観光するわけにはいかなかったんですが、合間を縫って仙台城跡と仙台市博物館へ。お馴染みの伊達政宗像にやっと出会えました。
今回の調査では、仙台藩についてたいへん勉強させてもらいました。わからないことはまだまだ多いそうですが、今後は私も性根を入れて勉強していきたいところ。

Sasuna_1そしてその後は対馬へ。こちらも巡見調査。知られた史跡はほぼ総なめといった感で、非常に充実した時を過ごすことができました。
こちらは私がしばらく研究対象として手を出すことはないと思いますが…、史料も豊富なので、これからのさらなる研究の進展に期待したいところですね。

対馬へ行く前は開花もしていなかった桜が、帰ってくるともう満開になっていてびっくりしました(笑)。今年の桜は随分とせわしないですね。

そんなこんなで、この一週間で半端じゃないほどの距離を移動しました(笑)。刺戟に満ちた日々でありがたいことです。
しかしこの週末は新年度の準備に追われそうで、非常に地味な日々が…。

2008.03.20

新井城跡

Aburatsubo_1Aburatsubo_3三崎城から半島の西側(相模湾側)を少し北上するとあるのが新井城跡(神奈川県三浦市)。今は「油壺」と呼ばれている所にあります。
ここは三浦氏の本拠とされる城で、永正13年(1516)に三浦義同が最後まで抵抗し、ここで滅びました。
三浦方は多くが自刃したり、城の下にある「油壺湾」へ身を投げたとされ、海が一面に血で染まって油を流したような様子に見えたことから、「油壺」と呼ばれるようになったそうです。ちなみに右写真がその油壺湾。
左写真は一応城跡とされているところですが…。今は東大の施設があって立ち入り禁止で、よくわかりません。一応それらしきものを撮りましたが…、遺構かどうかはよくわかりませんねぇ。

Aburatsubo_6Aburatsubo_7近くには、三浦義同の墓があります。年代は近世以降だと思いますが。その傍らには五輪塔の残骸もありました。夏は海水浴客で賑わう所なんでしょうけど、季節外れでひっそりとしていました。

油壺一帯は“昭和”な風情の漂う観光地という感じで、その頃の開発で失われたものもあったかもしれません(憶測ですが)。あ、そうそう。この地域は関東大震災でかなり隆起して地形が変わったそうなので、その辺も考慮に入れないといけません。
いずれにせよ今の油壺は、“昭和”な風味がかえって寂しげでした。

2008.03.19

グータラ生活の周辺

運慶仏像の件、とりあえず海外流出は避けられたようでよかったですね。
でも、三越が買ったのかと思いきや、そうではないようで…。
それにしてもとんでもない金額だったなぁ。

まぁ、日本もバブリーな頃に海外の美術品を買い漁っているわけですから、そこらへんへの“感情”を忖度すれば、「日本に残って良かった」と手放しに喜ぶのも、少々複雑ではあります。

さて、全然盛り上がってない気がするのはさておき(笑)、明日はパ・リーグ開幕なんです。今年もご贔屓チームは西武ドーム(正式名称)で開幕戦。行くつもりだったんですが、やめることにしました。
寒いからとか、勝てそうにないから…(笑)とかいうのもありますが、最近の自分に対してご褒美をあげたいという気持ちになれないから。つまり、遊びに行く精神状態にない、といった所でしょうかねぇ。
この二週間ほどは結構余裕があったものの、結局ほとんどなにもしませんでした…。時間があるとかえってダメなのかなぁ。なんて言うと忙しい方々に怒られそうですが(笑)、そこそこの緊張感があった方が、私にとってはいい環境と言えそうです。
もうこれから今月いっぱいは雁字搦めなので、新年度の心機一転を期したいところ。

もう一点。最近、「羽賀寺」で検索をしてこのブログへ来られる方が散見されて、「ちりとてちん」にでも登場したんだろうか?などと思っていたんですが、そうじゃなくて、オバマさんを勝手に応援していらっしゃる方の絡みだったようですね(笑)。
なるほどね…。

2008.03.17

和田の里

Miurawada_3Miurawada三崎から少し北上して、京急三崎口駅からさらに北へ行った所にあるのが和田地域(神奈川県三浦市)。ここは三浦氏の一族である和田氏の名字の地とされている所です。
その和田一族の代表格といえば、和田義盛。写真は、その義盛が拠ったとされる和田城跡です。痕跡はほとんど遺ってませんが、なんとなく雰囲気はありますかねぇ? この辺りは、三浦でも有数の穀倉地帯だそうです。

Miurawada_4そして少し離れた所に、和田義盛の碑があります。こちらも居館跡とされている所です。

和田義盛は三浦義明の子である杉本義宗の子で、鎌倉からこの和田に移って本拠としました。鎌倉幕府草創期の有力御家人として有名ですが、北条義時と対立して戦乱となり、建暦3年(1213)に鎌倉の由比ヶ浜で討たれました(和田義盛の乱、和田合戦などと呼ばれていますね)。
この時和田一族は悉く滅ぼされましたが、わずかに甥の和田重茂は北条方についたため生き残って、その一族が越後国奥山荘(現:新潟県胎内市[旧中条町])の地頭職を安堵され、のちに土着して当地の有力な在地領主となりました。彼らを中心とする領主たちは、「揚北衆(あがきたしゅう)」として知られていますね。のちに和田氏の惣領家は中条氏を名乗ります。
奥山荘は研究面でたいへん有名な所ですが、さしあたりこちらが参考になります。

さらっと寄っただけなのであまり深入りできませんでしたが、こちらによるといろいろと関連史跡があるようですね。

2008.03.15

三崎城跡

MisakijoMisakijo_2三浦半島の先端へ。三崎の町の中心にある三崎城跡(神奈川県三浦市)です。三浦氏の重要拠点となった所です。
三浦氏は関東で根を張った桓武平氏の一族で、在庁官人として「三浦介」を名乗っていました。早くから源氏方として活躍しており、鎌倉幕府成立後は最有力の御家人として権力を持ったものの、宝治合戦で北条時頼に敗れ、没落。
以後は傍流が再興して南北朝期には相模守護になりますが、永享期以後は鎌倉公方との関係も徐々に悪化し、享徳の乱以後は扇谷上杉方として活動してゆきます。結果として扇谷上杉氏から養子を迎え、その子三浦義同(よしあつ、法名道寸)が永正13年(1516)に伊勢長氏(北条早雲)に敗れて、事実上滅亡しました(実際は義同の子が安房の里見氏に随い、正木氏となっています)。

この三崎城は海のすぐそばにあり、まさに「水軍」(海賊衆)の城といった様相です。三浦氏は近くの新井城を本拠としていたようですが、この三崎城は重要な押さえの城でもあり、水運による経済掌握の上でも重要な役割を持っていたように思われます。
ちなみに、新井城と三崎城は別というのが一般的理解ですが、実際は一体のものだったという説もあるそうです(詳細はよくわかりませんが)。
築城年代は不明だそうですが、三浦氏滅亡後は後北条氏の「水軍」の拠点となり、弘治2年(1556)には里見氏と激しく戦いましたが、この時は里見氏に敗れたようです。和睦後再び後北条氏領となり、北条氏規が城主に。後北条氏滅亡後は有力な海賊衆であった向井氏の居城となったものの、いつの頃か廃城になったようです。

Misakijo_3Misakijo_7とまあ華々しい歴史を持っているものの、今は完全に市街地化しており、城跡には公共施設が建ち並んでいて雰囲気はあまり遺ってません。左写真は本丸跡。先に見える竹藪が往時の雰囲気を残していると言われていますが、果たして…?
右写真は三崎の港のそばにある本瑞寺。三浦氏滅亡後に建立された菩提寺とされています。かつてはこの場所は源頼朝の御所があったとされ、「桜の御所」と呼ばれていたそうです。ちなみに本堂の中に康永3年(1344)の銘が入った梵鐘が安置されています。

2008.03.14

浦賀城跡

Uraga_2Uraga_4三浦半島の史跡シリーズです。
まずはじめは浦賀城跡(神奈川県横須賀市)。ペリー来航で知られる浦賀ですが、戦国期には対岸の房総半島に対する拠点となっていたようです。
後北条氏が三浦半島を支配すると、対立する房総の里見氏との対抗上、浦賀に城が築かれたといわれています。現地看板によると、水軍の根城として山頂に空堀などの遺構が遺り、「下田山」「城山」とも呼ばれていたそうです。
Uraga_5Uraga_11左写真が、その空堀とおぼしき遺構。自然地形ではなく、人工のもののようには見えました。右写真は遠望。浦の入口にこんもりとしており、城としての立地条件を備えていた様子が窺えます。はっきりとはわかりませんが、おそらく中世段階では浦と道で繋がってはおらず、城には船を使わないと入れない構造になっていたように思えました。

2008.03.13

再び真壁へ

去年の年末に続いて、再び真壁へ行ってきました。
それにしても、つくばエクスプレスはほんと速いですねぇ。最速だと、都内のうちからよりつくばからの方が秋葉原に早く着けるとは…。

今回は単純な巡見ではなく、調査のお手伝い。真壁を流れる桜川の右岸は「谷戸田」型の農耕地域だったそうで(「谷津田」とも。詳しくはこちら)、その耕作状況の聞き取り。
いわば歴史系における現地調査の王道のような感じですが、私は経験が少ないので、たいへん勉強になりました。聞き取りのノウハウを磨いておくことが、調査を成功させる最大の要因ともいえるので、こういう経験ができることは私にとっても財産となります(そういう意味では、今回はほとんど役立たずだったわけですが…)。

ただ、それを自分の研究に活かすためには、自分自身の主体性も必要になってきますが。その際には“交渉力”が必要なわけで、引っ込み思案気味でその辺の能力がいまいちな私には、次なる障壁もまた明確になりました…。

↓この本欲しいんですが、すごい値段がついてますねぇ…。

4404023197景観にさぐる中世―変貌する村の姿と荘園史研究
服部 英雄
新人物往来社 1995-12

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2008.03.09

所沢の古本まつり二回目

前回に行ったのはいつだったかなぁ?などと思いながら行ったんですが、調べてみると前回はほぼ1年半も前だったんですね。思ったよりあいてたんだなぁ。

あまり買わないつもりだったんですが、やっぱり使ってしまう。ほかに欲しい本もたくさんあったんですが、さすがにそこまで散財する余裕もなく、断念。
それにしても、『岩波講座日本歴史』の近世1、やっぱりだぶってました…。しかも買ったのは同じ所沢で。破格値だったから懐はほとんど痛んでいませんが、やれやれ。

以下戦利品。
『日本絵巻大成4・信貴山縁起』(中央公論社、1977年)
→現時点で、アマゾンの最安のほぼ1割の値段だった。状態もよく、いい買い物でした。
鈴木良一『日本中世の農民問題』(校倉書房、1971年)
→安かったけど、箱はボロボロ。
『岩波講座日本歴史』10・近世2(岩波書店、1975年)
→2刷。なんと50円(笑)。

2008.03.08

“文化”のモノサシを持っているか

滋賀に続いて、今度は大阪です。
大阪のNさんからのメール。


いつもおせわになっているみなさまへ
    (このメールは転送自由です)

 大阪府では、橋下徹知事の方針で、歴史系・考古系の博物館の存続が危ぶまれる事態になっています。
 これまでも同様の事例は各地で生じていますが、いまこの流れを押し戻さないと、今後、全国的にいっそう広がる可能性が高いのではないかと憂慮されます。
 このたび、添付ファイルのような要望書が、14人の学識経験者の方々ならびに諸学会から提出されました。(私が事務局を担当しています大阪歴史学会が中心的に準備に携わってまいりました。)
 この要望書に賛同いただける研究者を全国に広く求めています。是非、お力添えいただきたく、お願い申し上げます。

 賛同いただける場合は、お名前、ご所属、肩書を明記の上、以下のメールアドレスに、要望書に賛同する旨をお伝え下さい。
    E-mail;d125u2◆live.jp
 賛同者の御芳名は、一覧にして大阪府へ提出するほか、「大阪府の博物館を支援する会」のホームページ(下記アドレス)や印刷物などに掲出させていただくことがあります。

 なお、趣旨には賛同ながら、ご所属・肩書を明示して一覧として公表されることが不都合な場合は、一般署名の形で参加いただきますようお願いします。
 署名簿も添付しました。

 よろしくお願いします。

 なお、研究者の個人賛同とは別に、一般の方々向けの署名活動も行っています。
 職場、研究室などで同僚、学生などのみなさんに署名いただければ幸いです。また、よくご存じの歴史愛好グループなどの方々がおられましたら、下記アドレスから署名用紙を印刷し、協力いただくよう働きかけていただければ、さらにありがたく存じます。
 大阪府の博物館を支援する会 http://osakahakubutukan.blog.shinobi.jp/

 橋本(ママ)知事の人気はなかなか高く、一筋縄ではゆきそうにありませんが、歴史や文化財の大切さは経済効率だけでは、はかれないはずです。
 全国の歴史研究者、歴史ファンの力をぶつけたいと思います。

…(かわと注:途中の「◆」は半角アットマーク)

大阪府の橋下徹知事がぶちあげた件に関わる運動かと思いますが、本気で廃止するつもりかどうかはともかく、カネだけでは計れない文化施設の意義というものは、しっかり勘案していただきたいものです。それでも「不要」となるならば、それはそれで仕方がないことでもありますが。ただしその場合、議論の中身は公表するのが筋かと。

2008.03.04

杉山城跡(2)

Sugiyamajo_25Sugiyamajo_27杉山城跡の写真の続きです。
左写真は本郭の南側にある虎口。現地看板によると、発掘によって礫を貯めた跡や井戸郭へと通じた木橋の礎石が見つかったそうです。今の遺構を見る限りでは通じる道もなく途切れている感じなので、橋を渡していたというのは納得。
右写真は本郭です。

Sugiyamajo_31Sugiyamajo_38左写真は、本郭から手前に東二の郭、奥に三の郭。
右写真は南三の郭の所にある馬出郭。

Sugiyamajo_43そしてこれが井戸跡。今でも水が出るそうです。

後で気がついたんですが、北側の郭に行くのを忘れていました。こちらにもしっかりした遺構が遺っているようです。
補足ですが、先に「大規模」と書いたものの、これだけの遺構の緻密さに比べると不自然なほど小さいようです。この城の造られた背景については、今後の研究の進展がまたれます。

2008.03.03

専門方面の耳学問

先週は2日間にわたって自らの専門に関する研究会に出席。
とても刺激的でした。でも、私は自分の専門に近ければ近いほど寡黙になるので(笑)、無愛想なやっちゃなぁと思われたかも。
今抱えている原稿を書く上でも参考になりました。というか、困ったことになりました(笑)。
なお、この研究会で対象となった書籍ですが、書評をする機会をいただいております。枚数的に大したことは書けないと思いますが、何か新しいことが書けるかどうか…。

岩波文庫の『吾妻鏡』、まとめて購入。また品切れになると次がいつになるかわからないので、早々に押さえておく。結構痛い出費ではありますが…。

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