対馬(5) 対馬藩の賢人たち

対馬藩の有名人たちのお墓シリーズです。
まずは厳原の港を眺める高台にある西山寺。元は永正9年(1512)に宗貞国の妻の菩提寺となりましたが、享保17年(1732)に別の所にあった以酊庵(いていあん)が移転してきたために西山寺は一旦別の所に移転し、明治になって再び西山寺が移ってきて今に至ります。
そしてこの以酊庵を創建したのが、景轍玄蘇(けいてつげんそ)。写真は彼の墓です。彼は16世紀末の外交僧として知られており、天正8年(1580)に対馬へ渡来。秀吉の朝鮮出兵の際にも外交僧として活躍し、文禄4年(1595)には明の万暦帝から「日本国光禅師」の称号を受けています。西山寺には、彼の木像が本堂に安置されています。本尊は銅造の高麗仏。ユースホステルにもなっているそうで、対馬へ調査に来る方々もよく利用されるとか?(私はここには泊まりませんでしたが)
次は長寿院。こちらに眠るのは雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)。出自は諸説ありますが、近江国雨森(現:滋賀県高月町)の土豪の一族とされています。木下順庵の弟子となり、新井白石や室鳩巣らと並び称される儒学者となりました。
元禄元年(1688)に対馬藩の儒者となり、外交文書の起草などにも関わる重職を勤めました。釜山にも渡航して朝鮮語の習得も果たし、対馬での通訳養成にも寄与したといわれています。きっての対朝鮮穏健派でもあり、通信使の待遇をめぐって、幕府で実権を握り、通信使の待遇簡略化をはかる新井白石と激しく論争をしたことでも知られています。宝暦5年(1755)、対馬府中で没。享年88歳だったそうです。
そしてこちらは修善寺。こちらに墓があるのは陶山訥庵(すやま・とつあん)。この人も雨森芳洲と同じく木下順庵の弟子となった儒学者で、対馬藩の農政に寄与した人とされています。徳川綱吉による「生類憐れみの令」の政策下、元禄12年(1699)に対馬藩の郡奉行になると、農業振興の観点から獣害対策としてイノシシ退治を推進した信念の人として知られています。今でも長崎県では偉人として結構有名な人のようです(正直言って私はあまり知らなかったのですが…)。
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コメント
こんにちは、たけうち@面接前日です。
かわとさん、対馬へ行かれたのですね。対馬といえば、映画の大島渚監督が対馬藩士の家筋にあたることと、宗氏のことしか存じ上げないですが、こうして見ている限り、豊富な歴史が息づいているんだなと感じました。
私も行きたいのですが…その前に就職決めないと(^^;
投稿: たけうち | 2008.04.12 11:41
>たけうちさん
私は大島渚といえば京都の人という印象でしたが、対馬にゆかりがおありなんですか。
私も行くまでは正直言ってよく知らなかったのですが、興味深い史跡がたくさんありました。これからしばらく続きますので(笑)、宜しくおつき合い下さい。
投稿: かわと | 2008.04.14 00:58