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2008年4月

2008.04.29

対馬(9) 椎根の石屋根倉庫

Ishiyane_4Ishiyane_1豆酘から西岸を北上、といっても、海沿いの道は切れているのでほとんど山道ですが(笑)。
厳原町椎根へ。ここには対馬の伝統的な建物である石屋根倉庫がいくつか遺っています。

元々食料や日用品を保管するために建てられた倉庫で、対馬の各地にみられたそうですが、今ではほとんど見られなくなったそうです。
屋根に乗っている平べったい石(板石、「島山石」と呼ばれるそうです)は、対馬特有の石質で、石を屋根に置くことによって北西の強い季節風や雨露から守るために考案されたものだとされています。
起源がいつまで遡るのかはわかっていないようですが、少なくとも近世にはあったかも?

Sasu

2008.04.28

締切、観戦、沈酔

この一週間はいろいろとありました。ただ、〆切に追われているので、細々とした話はまた機会があれば…。
それにしても、先週は酒量が半端ではなかったです。少々反省。

旧知のIさんより、加能史料編纂委員会編『加賀・能登歴史の扉』石川史書刊行会、2007年)受贈。ありがとうございます。
刊行中の『加能史料』の会報に新稿を加えたものとのこと。ふとしたきっかけから私も加賀で論文を書いたこともあって、それぞれのお話に興味津々です。
戦国期はまだ刊行途中ですが、この地域はわりと史料も豊富で、卒論・修論などのネタ探しにはおすすめです。

そして今季初観戦。ひでえ結末でしたが、まあそれなりに楽しめました。
観客の少ない雰囲気はなんだか懐かしかったです。不人気チーム同士のカードならでは(笑)。
ただ、またしばらくは行けないなぁ。去年もそれまでに比べてだいぶ減りましたが、今年はさらに観戦機会が激減しそうです。

〆切原稿を一つクリア。あと二つ。苦悶。
さらにまた書類が降ってくる。年度初めの恒例とはいえ、ほんと書類(論文ではない)を書くのは辛い作業です。秘書が欲しい。給料払えないけど(笑)。

この間、いくつか御本や抜き刷りをお送りくださっていますが、お礼が遅れております。申し訳ありません。もう少ししたら(歴研大会の頃?)一本活字が出来上がりますので、それまでお待ち下されたく…。

2008.04.22

対馬(8) 多久頭魂神社

TakuzutamaTakuzutama_9豆酘地区にある多久頭魂(たくづだま)神社。この地域独特の信仰である「天道信仰」にゆかりのある神社で、神体である天道山の遥拝所としての機能を持つとともに、この信仰にまつわる神事を行う場としての性格を持っています。元々は観音堂であったものが、神社になったそうです。
代表的な神事が、稲の原生種といわれる赤米の穀霊をカミとして祀る「赤米神事」です(詳しくはこちら)。神事では赤米で作った餅を「テンドウ」と呼ぶんだそうです。

Takuzutama_8こちらには中世にまつわる文化財が伝わっています。その一つがこの梵鐘(重要文化財)。銘によると、康永3年(1344)に肥前松浦の鋳物大工覚円・小工季興によって作られたもので、檀那は沙弥妙善などの名があり、宗氏と関係のある豆酘郡司ではないかとされているようです。ほかに、「奉行僧」として「肥州南久屋宝泉寺住侶明俊」など、松浦地域の人物が深く関わっており、当該期のこの地域のネットワークを探る上で貴重な資料です。

ほかに金鼓(重要文化財)があり、高麗から招来されたものです。日本へ入ってきた際に銘が刻まれており、その銘によると、正平12年(1357)にもたらされたことがわかっています。
さらには大蔵経も所蔵されていて、今回はその一部を特別に見せていただきました。高麗版によるもので、1230年代頃の版木によるものだとされています。ちなみに、上記金鼓と同時にもたらされた可能性が高いようです。これについては、当時の宗氏の当主である宗経茂による高麗との通交が関係しているとも推測されているそうです。もっとも、“合法的”かどうかでも議論のあるところでしょうけど…。

Tsutsukongoin_1同じく豆酘地区にある金剛院では、中世文書を拝見させていただきました。宗氏歴代の判物が中心のようでした。

余談ながら、豆酘については平泉澄のアジール論の舞台となったり、民俗面では宮本常一に注目されるといった、研究面での「ホットスポット」のようです。ただ、今は静かな漁村といった風情でしょうか。厳原の中心街からも遠く、少し寂しい雰囲気でした。

Tsutsu※念のため申し添えますと、文書類については事前に許可をいただいて特別に見せていただきました。公開はしていません(梵鐘は境内で見られます)。

2008.04.21

ミニシンポ準備会

参加者のみなさまお疲れさまでした。
ホスト側の事前の説明不足にもかかわらず、報告者のみなさんが意図を汲んでくださったおかげで、楽しみに本番を迎えることができそうです。

あとは司会の力量次第か…。そこが一番の不安材料。

これから月末にかけては原稿やら書類やらに追われるのでしばらく沈没です。
一方、連休はなんも予定なし。腰を落ち着けて今後のための準備作業でもやろうかなぁ、と思いつつ、結局ぐうたらで終わるんだろうなぁ。

やはりネット中継充実化は、私にとっては毒だったかも(笑)。
沈没しつつも、今週いよいよ今年初の生観戦のつもり。

2008.04.18

対馬(7) 豆酘の石塔群

TsutsunaiinTsutsunaiin_1_3厳原から車で延々と続く山道をおよそ1時間。最南端の厳原町豆酘(つつ)へ。
内院地区にある石塔群。対馬には中世の石塔群はほとんど遺っていないので、非常に珍しい。
五輪塔のうち一つには応安7年(1374)の銘があるそうですが、肉眼で確認することは難しかったです。ほかにも暦応の年号の入ったものがあると伝わっていますが、これは今もはっきりしていないらしい。少弐氏が関係するとか、南北朝期頃から現れるとされる天道法師信仰(後述)に関わっているもの、などと推測されています。

Tsutsunaiin_5こちらは少し離れたところにある宝篋印塔。対馬島外の石材を用いて築かれたものだそうで、南北朝期の頃のものか。元々は別の所にあったのを、現代になって移設したそうです。

いずれも小学校の敷地内にあるので、入るのはやや抵抗感が…(笑)。案内看板もなにもないので、事前に場所を知っている人でないと見つけるのは非常に困難に思えました。

Tsutsutendo_3こちらは浅藻地区の山に入ったところにある天道法師塔。対馬の南部地域は天道法師信仰という独特の信仰があり、その神体である天道山(龍良山)を遥拝する施設と言われています。天道法師信仰については、こちらを参照。

Tsutsu

2008.04.14

対馬(6) 清水山城跡

Shimizuyama_9Shimizuyama_16厳原八幡宮の裏山に築かれた清水山城跡。現地看板によると、

「城下町厳原市街を見下ろす清水山に、中世風の山城の遺構が残っている。天正19年(1591)、豊臣秀吉が朝鮮出兵に先立って築城させたもので、肥前の名護屋、壱岐の勝本、この清水山、そして上対馬の撃方山(うちかたやま)と結んだ兵站線の駅城である。馬背状を呈した稜線上に、山頂から、本丸、二の丸、三の丸と、地形に即して階段状に連なっている。規模は必ずしも大きくないが、歴史的には文禄・慶長の役の遺跡として、構造上からは、遺例に乏しい文禄ごろの城跡として、日本中世史上、貴重な史跡である。」

とのことです。国指定史跡になっています。
規模はそれほど大きくない感じですが、立派な石垣が遺っていて、秀吉の威光と朝鮮出兵への並々ならぬ意欲が窺えます。ただ、ここは居城というより、「駅城」とある通り、詰めの城のような印象です。

Shimizuyama_5Shimizuyama_7城内の様子はこんな感じです。

Shimizuyama_3三の丸から見た厳原の市街地。
天気も良かったですが、非常に見晴らしがいいです。こうして港の「見張り」の役割も果たしていたのでしょうか。

厳原の史跡はここまで。これからは対馬の各地を巡ります。

Izuhara

2008.04.12

「海域アジア史」のすすめ

桃木至朗編『海域アジア史研究入門』(岩波書店、2008年)をやっと購入。
「一国史観」の問題が叫ばれて久しいわけですが、「国境」を越えた研究の一つの到達点といったところでしょうか。「入門」と題がついていますが、専門的にも研究史を理解する上で非常にありがたい一冊です。

この本の母体となった「海域アジア史研究会」には私も末席を汚しておりますが(本当の意味での末席)、最近はなかなか出席することもできず、忸怩たる思いでおります。もっとも、自分の研究も少し逸れていってしまった感もあるのですが…。
とはいえ、もちろん「海域アジア史」の理念は深く刻み込みたいと思っております(実現できているかはともかく)。
最近やや「内向き」ですが、どのようにすればコミットしてゆけるかは常に考え続けたいところです。

文献目録も非常に有用ですので、専門ではない方も是非一冊どうぞ。

2008.04.11

対馬(5) 対馬藩の賢人たち

Seizanji_2Seizanji_4対馬藩の有名人たちのお墓シリーズです。
まずは厳原の港を眺める高台にある西山寺。元は永正9年(1512)に宗貞国の妻の菩提寺となりましたが、享保17年(1732)に別の所にあった以酊庵(いていあん)が移転してきたために西山寺は一旦別の所に移転し、明治になって再び西山寺が移ってきて今に至ります。
そしてこの以酊庵を創建したのが、景轍玄蘇(けいてつげんそ)。写真は彼の墓です。彼は16世紀末の外交僧として知られており、天正8年(1580)に対馬へ渡来。秀吉の朝鮮出兵の際にも外交僧として活躍し、文禄4年(1595)には明の万暦帝から「日本国光禅師」の称号を受けています。西山寺には、彼の木像が本堂に安置されています。本尊は銅造の高麗仏。ユースホステルにもなっているそうで、対馬へ調査に来る方々もよく利用されるとか?(私はここには泊まりませんでしたが)

Amenomori_2次は長寿院。こちらに眠るのは雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)。出自は諸説ありますが、近江国雨森(現:滋賀県高月町)の土豪の一族とされています。木下順庵の弟子となり、新井白石や室鳩巣らと並び称される儒学者となりました。
元禄元年(1688)に対馬藩の儒者となり、外交文書の起草などにも関わる重職を勤めました。釜山にも渡航して朝鮮語の習得も果たし、対馬での通訳養成にも寄与したといわれています。きっての対朝鮮穏健派でもあり、通信使の待遇をめぐって、幕府で実権を握り、通信使の待遇簡略化をはかる新井白石と激しく論争をしたことでも知られています。宝暦5年(1755)、対馬府中で没。享年88歳だったそうです。

Totsuan_3そしてこちらは修善寺。こちらに墓があるのは陶山訥庵(すやま・とつあん)。この人も雨森芳洲と同じく木下順庵の弟子となった儒学者で、対馬藩の農政に寄与した人とされています。徳川綱吉による「生類憐れみの令」の政策下、元禄12年(1699)に対馬藩の郡奉行になると、農業振興の観点から獣害対策としてイノシシ退治を推進した信念の人として知られています。今でも長崎県では偉人として結構有名な人のようです(正直言って私はあまり知らなかったのですが…)。

Izuhara

2008.04.07

対馬(4) 厳原の町並み

Izuhara_1厳原の町並み。対馬府中の城下町として、対馬の中心地域となった面影が遺っています。
いくつか名所があるんですが、その一つがこの中村地区。応仁2年(1468)に宗貞国がこの地に移って「中村館」を築いたとされ、写真の地域はいわばその頃からの「城下町」となったとされています。現在の地割りは17世紀半ばによるものだそうで、武家屋敷が主に建ち並んでいました。

Tsukokubunjiこちらは国分寺。古代の系譜を持つ対馬国分寺は元々金石城跡にあったそうで、今の国分寺は近世に移ったのでしょうか。
写真の山門は文化4年(1807)築。徳川家斉の将軍就任に伴う朝鮮通信使が来日した際、対馬での客殿として整備され、建立したそうです。客殿は明治期に解体されたそうですが、山門だけは今に遺っています。

Shimotsu_2こちらは厳原八幡宮神社。中世では「下津八幡宮」もしくは「国府八幡宮」と呼ばれた神社です。中世の文書もいくつか伝来しています。中世以来、宗氏の保護を受けており、対馬の各地に神事料所を持っていたことがわかっています。
写真は撮りませんでしたが、いくつか摂社があり、うち一つは小西行長の妻・ジュスタを神体とした社もありました。いつからあるのかはわかりませんが、祟りを懼れたんでしょうか…?

Izuhara

2008.04.05

対馬(3) 対馬藩の港湾遺構

Yarai_2Yarai_1近世の対馬藩が府中に築いた港湾施設の遺構が遺っています。
まずは左写真の「やらい(矢来)」と呼ばれる施設。防波堤施設で、寛文11年(1671)に藩主宗義真が築いたものです。今は上に道が通っているので雰囲気がわかりづらいですが、当時の面影が石積みに窺えます。
右写真はその「やらい」の陸側で、出っ張り部分が漂民屋跡とされる所です。宝永3年(1706)に、朝鮮から漂流した人を送還するための滞在施設として築かれました。
近世の朝鮮からの漂流民は3400人程度にのぼったそうで、その送還費用はすべて対馬藩の自弁とされていました。本土に漂流した人も、長崎を通じて対馬に移送され、ここから朝鮮へ送還されることになっていました。まさに朝鮮半島への「口」を担った施設の一つと言えるものです。

Ofunae_1こちらは厳原から少し南へ行った久田地区にある「お船江」跡。対馬藩による船舶の繋留施設で、寛文3年(1663)完成。積み上げ施設ではなく、公用船舶の倉庫のような性格を担っています。こういう遺構は初めて見たので、興味深かったです。

Izuhara

2008.04.04

対馬(2) 万松院

Tsbanshoin_1Tsbanshoin_10金石城の裏手にある万松院。元和元年(1615)に宗義成が父・義智の菩提を弔うために建立した「松音寺」がその母体で、元和8年(1622)に宗義智の法号を取って万松院に改名したそうです。正保4年(1647)に現在地に移ったそうで、対馬藩時代の宗氏の菩提寺です。

右写真が、宗義智の墓。義智は織豊期の宗氏の当主で、朝鮮出兵などの難問題に直面した当主として知られています。なんか変なロケーションでしたが、後世手を加えられたのでしょう。

Tsbanshoin_11Tsbanshoin_12墓所には歴代藩主の墓が建ち並んでいますが、その一番奥にあるのが左写真の宗義真夫妻の墓。義真は義成の子で、17世紀後半に3代目の藩主となった人です。墓所は彼が藩主の頃に整備の手が入ったのでしょうか。ちなみに奥さんは京極氏の出身だそうです。
右写真は墓所の片隅にあった宗貞国の墓。貞国は応仁2年(1468)に府中(現在の厳原)へ拠点を移した時の当主で、この地の開拓者としての顕彰のために造られたものではないかと思われます。なんか石の積み方が不格好というか(笑)。

このほか、朝鮮国王から贈られた「三具足」や、歴代徳川将軍の位牌などもあります。

Izuhara

2008.04.03

新年度始動

今日は、新年度初めて新拠点へ赴く。
パソコン廻りの環境が予想とは少し違ってたけど、とりあえずはこの上ない環境でなによりです。
ただ、この大学、喫煙者にとってはさらに厳しい事態になってたのが辛いなぁ…。肩身が狭い。

聞くところによると、いろんな方が新年度に新たな道へ進まれておられるそうで、重畳。私も危機感をもってやらねばなりませんねぇ。

百々幸雄・竹間芳明・関豊・米田穣『骨が語る奥州戦国九戸落城』(東北大学出版会、2008年)受贈。ありがとうございます。人類学・考古・文献の共同研究成果のようですが、人類学の考察が入っているのが特徴的でしょうか。
あと、たまたま寄ったとある古書店で宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』(現代新書1366、講談社、1997年)が目に留まったので、購入。アフリカについてはまったくの無知なので、読んで勉強したいと思います。仕方がないとはいえ、アウストラロピテクスからスタートしつつも、やはり分量の半分以上は近代以降なんですね…。

骨が語る奥州戦国九戸落城骨が語る奥州戦国九戸落城
百々 幸雄

東北大学出版会 2008-03
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新書アフリカ史 (講談社現代新書)新書アフリカ史 (講談社現代新書)
宮本 正興 松田 素二

講談社 1997-07
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2008.04.02

対馬(1) 金石城跡

Kaneishiさて、これよりしばらく対馬シリーズです。
まず最初は厳原町の金石城跡。享禄元年(1528)に宗氏の内乱によってかつての居館「池の館」が焼亡したため15代目の宗将盛が構えたとされており、以後近世にかけて宗氏の居館となった所です。「府城」とも言われているとか。櫓門は最近になって再建。

Kaneishi_4Kaneishi_5宗氏は中世から近世にかけて居館をしばしば変えていますが、16世紀以降はここがおおむね根拠とされています。近辺には武家屋敷が建ち並び、近世の朝鮮通信使も厳原で一度宿泊してから本土へ向かったそうです。

周囲は立派な石垣が遺されていますが、いつ頃のものかはよくわかりませんでした。多分、ほとんどは当時のまま伝えられたものだとは思いますが。


Izuhara

2008.04.01

『寺社勢力』復刊

黒田俊雄『寺社勢力―もう一つの中世社会』(新書黄117、岩波書店、1980年)が5月に復刊するそうです。

恥ずかしながら持っていないので、朗報。いわゆる「顕密体制」論を知る上で貴重な一冊なわけですが、楽しみです。

4004201179寺社勢力―もう一つの中世社会 (岩波新書 黄版 117)
黒田 俊雄
岩波書店 1980-01

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「室町殿」ミニシンポ企画

以前からしばしばほのめかしている件ですが、そろそろ本格的に宣伝活動に入りたいと思いますので、いち早くここでお知らせをば。(3月いっぱいまで、この記事がブログの先頭になるようにしています)

来る5月末(歴研大会の二週間後)に、歴研日本中世史部会の企画として、室町期をテーマにしたミニシンポジウムをやります。現時点での決定事項は下記の通りです。
是非ともご参加をご検討ください。
にわかに沸騰している「室町ブーム」ですが、その一翼を担うことができればと思います。

テーマ:「「室町殿」論―新しい国家像を目指して―」
日時:2008年5月31日(土)13:00~
場所:早稲田大学文学学術院 36号館682教室
    (地下鉄東西線「早稲田」駅下車)
報告者・題目(いずれも仮題):
桃崎有一郎氏
 「対室町殿拝賀の変容に見る義持期公武社会構造─「北山殿」の抛棄と「室町殿」の第二次確立─」
大田壮一郎氏
 「室町殿権力の宗教的性格―義持期を中心に―」
石原比伊呂氏
 「足利義教と義満・義持―朝廷儀礼における行動の分析から―」

太字部分は転載自由です。
※この記事は2008.3.19に書いたものです。

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