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2008年5月

2008.05.30

いよいよ前夜

いよいよシンポ前日です。

今、東京は雨。「やませ」の影響で非常に冷え込んでおります。
明日も最高気温が16度の予想だそうですので、特に西からおいでの方は寒さ対策をお忘れ無く。

あっと、そうだ。ここでご連絡を。どれだけの方がご覧になっているのかは定かではありませんが。

壱。
開場は12時半です。あまり早く来ても開いてませんのでご注意を…(正直言って、早稲田は時間をつぶせるような気の利いた施設とか店とかはなんもありません)。

弐。
早稲田は土曜も授業やってます。界隈は学生で混雑してますので特に昼食の際はご注意を。

参。
あと、レジュメ代は300円いただく予定です。

肆。
懇親会やります。場所は歴研大会の土曜の1次会でやったイタリア料理のお店です。
詳細は当日ビラを用意します。

そんなとこかな…。

2008.05.28

シンポ開催迫る

いよいよ「室町殿」ミニシンポが今週末に迫ってきました。
どうぞ宜しくお願いします。
予想以上の反響をいただいている感触で、当日はやや混雑するかもしれません。お早めのご来場をば。

先週末は国史学会で鎌倉後期政治史のシンポを拝聴。私はまったくの門外漢でしたので、基礎的な事実のレベルから勉強になりました。
ただどなたかが似たようなことを仰せになっていましたが、議論の中心となった「主従制」という概念に関して、もう少し突っ込んだ議論が聞きたかったなぁ…と思ったりも。あとは、もう少し討論の時間が欲しかったですね。
会場の国学院には渋谷駅からバスに乗っていくのが一番いいと思っていましたが、埼京線の出口からだと結構近いことがわかりました。今後はこのルートにしようと思います(今度はいつ行くかわからんけど)。

Yasutomi_3さて、国史学会では、歴研大会で買いそびれていた、シンポの報告者でもある桃崎有一郎編著『康富記人名索引』(日本史史料研究会、2008年)購入。精力的なご活動に頭が下がります。
もっとも、私は肝腎の『康富記』を持っていなかったりしますが…。やっぱり以前のセールの時に買っておけば良かったかなぁ。

2008.05.27

対馬(16) 海神神社

Kaijinjinja峰町木坂の海神神社。「かいじん」の読みのほかに、「わたづみ」とも読むそうです。ここが対馬国一宮です。現在の厳原八幡宮が「下津八幡」と呼ばれたのに対し、こちらは「上津八幡」と呼ばれていました(木坂八幡宮とも)。この神社も、延喜式内社の「和多都美神社」の論所となっています。
神功皇后の新羅征討に関わって造営されたという社伝を持っており、中世においては、建長4年(1252)に修理していたことや、永和4年(1378)に宗澄茂によって造営がされたことがわかっているそうです。

Kaijinjinja_4Kaijinjinja_5左写真が拝殿、右写真が本殿。近世には藩主宗氏の保護を受け、度々援助を得て造替を行っていたそうです。実際、近世後期の藩主の寄進による灯籠も遺されていました。
新羅仏の銅像如来立像(重要文化財)を所蔵しており、それが安置されていると思しき建物もあったんですが(宝物館?)、残念ながら拝観はできませんでした。

Kaijinjinja_6近くの青海地区にも、やはり天道信仰関連と思しき石積みが海岸にありました。対馬の信仰の歴史を考える上で重要ですね。

Aomi_2

2008.05.23

対馬(15) 和多都美神社

WatazumiWatazumi_3豊玉町仁位(にい)へ。この地区にある和多都美(わたづみ)神社。ここは対馬では比較的一般に知られる観光名所です。
「延喜式神名帳」に「対馬国上県郡和多都美神社」とあり、この神社を指すとすれば、式内社であったことがわかります(比定地にはほかの神社もあるようですが)。
また文永4年(1267)の史料に、「和多津美宮」と記されたものがあり、この神社に比定されています。
右写真のような、海の中に鳥居が立っていることで知られており、おそらくかつては海から船で参詣していたのではないかな、と思います。

Watazumi_6境内には、祭神でもある「豊玉彦尊」の墓とされる巨石があります。由緒については、こちら参照。

かつてはどうだったかはわかりませんが、集落もまったく無い、入り江の奥地にぽつんと鎮座している神社です。本州で一般的な鎮守というより、ここも神話性をまとった独特の信仰を集めた神社だったということなのでしょうか。

Nii

2008.05.21

中世共同体論の新たな一冊

Kawabata先日の歴研大会での購入書籍から。
川端泰幸『日本中世の地域社会と一揆―公と宗教の中世共同体』(法蔵館、2008年)。「在地社会において形成された公が地域秩序を形成し、やがて一揆という運動を起こし、それが統一権力との対峙を経て解体されていく過程を考察する」(18頁)という内容です。
具体的には紀伊国の惣国一揆を中心的な対象にしておられます。紀伊については長年研究対象として注目され続けてきたわけですが、近年ではやや下火になってきた感もあったので、新たな議論を喚起するきっかけになりますでしょうか。
かくいう私も紀伊についてはほんと不勉強でして…。あまりに研究史が分厚くてなかなか踏み出せないといった情けない状態なのですが、読んでしっかり勉強したいと思います。
理論を戦わせる“空中戦”もいいですが、地道に史料を丹念に読み解く中から論点を炙り出すといったスタイルは、やっぱり読んでいて安心しますね。値段もお手頃です。

ところで、著者の川端さんは私より若かったのか…。

2008.05.20

五月のまつり第一弾

今年の歴研大会は、体調の準備にやや失敗した上、飲みのペース配分を間違えて失態を演じてしまいました。
反省。
来年は完全にホスト役に回ってしまうので、お気楽な振る舞いも今年限りということで、お許しくだされたく。

まずは一段落、と行きたいところですが、来週末にまた大イベントが待ち受けています。たまっている仕事をこなしつつ(あぁ現実に引き戻される辛さ…)、「二度目のまつり」に備えたいところ。

2008.05.18

対馬(14) 小船越

Kofunakoshi_2Kofunakoshi_5大船越・万関瀬戸から少し北へ向かうと、最も東西の海の距離の短い所があります。ここが小船越と呼ばれる所で、中世では、この場所を船を曳いて横切っていました。史料上では、永和4年(1378)と推定される宗隆茂(澄茂)遵行状に「小船越」とあるのが初見だそうです。
『老松堂日本行録』を著した朝鮮の使者宋希璟が応永27年(永楽18年,1420)に停泊したとされており、当時における日本と朝鮮とを繋ぐ重要な拠点であったことがわかります。

Kofunakoshi_6この道が、実際に船を曳いたと思われる所です。
Kofunakoshi_9この地区にある梅林寺は、嘉吉条約(癸亥約条、1443)の後の日朝通交において必要となった「文引」(ぶんいん、渡航許可証)の発給事務を行った場所とされています。
ただ、今のお寺の場所は当時とは異なっていたようです。9世紀の新羅時代の仏像や、南北朝期の京都東福寺版の大般若経を所蔵しているそうです。宗経茂の墓とされる室町前期の五輪塔もあるそうなんですが、見つけられませんでした。

Kofunakoshim

2008.05.17

対馬(13) 大船越

Oofunakoshi_1Oofunakoshi_2美津島町大船越へ。対馬の中央部に入り込んだ浅茅湾は元々西へ開けた湾になっていて、東側は陸続きになっており、船で東側へ出ることはできませんでした。
ただ一番陸地の細い部分は数百メートル程度しかないため、かつてはその間は船を陸地へ揚げて運ぶこともあったそうです。

ただそれでは不便ということで、寛文12年(1672)にこの地域を掘って東西の海を繋げる大工事が行われました。その場所は「大船越」と呼ばれました。(これに対してかつての陸上の横断地として「小船越」があるわけですが、それは次回にて。)

幕末の文久元年(1861)にはロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾に来航し、乗員が端艇に乗ってこの大船越を横切ろうとした折りに対馬藩と衝突し、銃撃により百姓が死亡する事件も起こったそうです。現地にはその石碑もありました。

Oofunakoshiその石碑の前ではこんなものが。何かわかりますかね? スルメを素早く干すために、ひっかけて回転させる機械のようです。

Oofunakoshi_7近代になると船舶が大規模化したため、少し北に新たに大きな堀切を造っています。この場所は「万関瀬戸」と呼ばれています。
これらの堀切のために現在の対馬は南北に島が分かれているように見えますが、元々は地続きであり、現在でも対馬は一つの島として扱われているようです。


Ofunakoshi

2008.05.16

訃報 角田文衞氏

考古学や古代史の泰斗で、古代学協会をリードしてこられた角田文衞さんがお亡くなりになったそうです。
日本古代史では知らぬ者の無い大学者ですが、それのみならず、海外での発掘調査にも精力的に参加され、知見をお持ちであったことは、とても凡百には真似できない功績ではないかと思います。

ご冥福をお祈り申し上げます。

 考古学と歴史学を統合した「古代学」を提唱し、海外の発掘調査も率いた考古学者、角田文衞(つのだ・ぶんえい)さんが14日、急性呼吸器不全で死去した。95歳だった。
(中略)
 福島県出身。京都大卒業後、戦前のドイツ、イタリアに留学。戦後、大阪市立大で教えた。51年に古代学協会を設立し、67年に平安博物館(現・京都文化博物館)をつくった。
 平安京跡などのほかエジプト・アコリス、イタリア・ポンペイの各遺跡の発掘調査を手がけた一方、紫式部、清少納言ら平安女性文学の独創的な研究など、業績は多岐にわたる。京都の冷泉家の典籍・古文書類のリストづくりと財団法人化などにも尽力した。
 著書に「古代学序説」「平家後抄」「ヨーロッパ古代史論考」、編著・監修に「古代王権の誕生」などがある。
―http://www.asahi.com/obituaries/update/0515/OSK20080
5150077.htmlより

2008.05.14

深大寺

Jindaiji_8Jindaiji_1今年のGW中に、深大寺(東京都調布市)に行きました。予想以上の人出で少し面食らいましたが、なんか人並みの休日を過ごせた感じです。
メインはそば、じゃなくて(いや、それもメインですが(笑))、深大寺城跡。16世紀前半に扇谷上杉朝定が後北条氏対策のために築いた城で、都内では珍しくわりと遺構が遺っているところです。詳しくはこちら参照。

Jindaiji_5Jindaiji_21左写真は一の郭(本丸)と二の郭を隔てる堀の跡。結構しっかり遺っています。右写真は二の郭。腰掛けのように利用されている(笑)杭のようなものは、柱穴跡です。

Jindaiji_29もちろん深大寺にも参拝。写真の山門は現存する最古の建築物で、元禄8年(1695)築とされています。ほかの堂舎は幕末に焼けてしまいましたが、この山門だけは遺ったそうです。
本尊は奈良時代のものとされる銅仏(重要文化財)で、ガラス越しに見ることができました。梵鐘(重要文化財)が永和2年(1376)鋳造だったそうなんですが、見逃した…。無念。

ちなみに、わりと有名な?鬼太郎茶屋は素通り。

2008.05.09

研究史回顧が花盛り

えー、しつこいようですが、5月31日(土)の「室町殿」ミニシンポへのお運びをお待ちしております。
ところで、足利義満は応永15年(1408)5月6日に死去しました。これを新暦に換算すると、1408年5月31日なんだそうです。なんと、ちょうどミニシンポの日が600年忌の日となります(笑)。ま、単なる偶然ですが。

さて、来週はいよいよ歴研大会ですが、今年も飲み会三昧というか、飲みまくります(笑)。いつからの伝統なのかわかりませんが、これだけ飲みのスケジュールが分厚い学会(部会)もほんと珍しいですね…。
対象となる時代は、主に院政期と南北朝期。うまく時代の転換期をめぐって議論になるとよいのですが。

で、その翌週は国史学会で鎌倉期のシンポジウムがあるそうで。ここでも政治史の研究史について議論が交わされるようですが、その翌週の上記ミニシンポにも参加すれば、戦国期以前の中世史を通時代的に学ぶよい機会となるわけです。
もちろん国史学会と特に示し合わせていたわけではないんですが、日程面も含めて、うまくできているもんだなぁ、と。

そして、7月には東大の中世史研で『室町・戦国期研究を読みなおす』の書評会が予定されているそうです。企画に向けて動いているという噂は耳にしていましたが、報告者の顔ぶれを拝見するに、是非とも拝聴したいところです。
ここで戦国期も含めた議論を聞くことができれば、中世史研究の現状に関してこの上ない耳学問の機会を得ることになるのではないか、と。専門家の皆さんはもちろん、できれば卒論・修論を控えた学部生やマスターの若い人たちに積極的に参加して欲しいところです。

このところ、研究史の再検証が一気にブームになった感がします。そのきっかけが何であったのか、背景になにがあるのかは、“同時代人”としての私にはまだ掴みかねているところなんですが、これをきっかけとしてどのような新しい方向が見出せるのか、注目していきたいと思います。もちろん、私も積極的に割ってはいることができればいいんですが…。
以前大家がおっしゃっていたように、10年後ぐらいに今の歴史研究の総括が進むならば、そこでどのような評価が下されることになるのでしょうかね。

なお上記研究会の案内は、私の把握できている限りHP掲示板にて紹介しておりますので、ご参照ください。

2008.05.07

対馬(12) 金田城跡(遠望)

KanedanokiKanedanoki_1美津島町の浅茅湾沿岸には、古代の城郭遺跡である金田城(かねたのき)跡があります。国の特別史跡に指定されています。
『日本書紀』によると、白村江の戦(663)で敗れた後、天智天皇6年(667)に大和・高安城(奈良県平群町)、讃岐・屋島城(高松市)とともに、この金田城が築かれたという記事があるそうです。
私は結局上まで登らなかったのですが、登った方々によると、実に立派な遺構が遺っているそうです。こちらに、写真が紹介されています。

下から見るとすごい峻険な感じでしたが、実際はそれほどでもないらしいです。でも、20分程度は登るそうですが。

Kaneda健脚自慢の方は是非観光ルートにどうぞ。

2008.05.06

対馬(11) 土寄崎

Osakisoda_2Osakisoda_2_2美津島町尾崎へ。対馬は中部に多島海である浅茅(あそう)湾が広がっていますが、その湾口の南側に当たる地域です。
ここはかつて「土寄崎(つちよりざき)」と呼ばれた所で、14~15世紀にかけて活発化した倭寇の首領的存在である早田(そうだ)氏の本拠地とされています。そして倭寇対策に悩む朝鮮王朝が、応永26年(1419)にこの地を襲撃しました。「応永の外寇」(己亥東征)と呼ばれる事件です。

Osakisoda_1この尾崎地区にある水崎遺跡の発掘調査によって、15世紀前半のものと思われる陶磁器が大量に見つかりました。しかもそれらには火災にあった痕跡があり、応永の外寇との関連を窺わせる貴重な資料となっています。
陶磁器は90%が海外からの招来品だそうで、うち70%以上が朝鮮産とのことです。ほかにベトナムやタイ産と思われるものもあり、海の交流の活発な様子が窺えます。また出土した銭貨のうち、55枚中14枚が日本ではあまり使われない大銭(大型の銭)なのだそうです。
できればこの遺跡の発掘報告書が欲しいところですが…。情報求ム。

Osaki参考文献:国立歴史民俗博物館企画展図録『東アジア中世海道』(同博物館編集・毎日新聞社発行、2005年)

2008.05.03

実証と推論

先日とある研究会に出席したのですが、報告内容に少々首を傾げることがありました。

歴史学の基本中の基本が実証にあることは疑いないことですが、私自身は、実証さえしていればよい、とまでは思いません。史料では追い切れない重要な問題点があるならば、ある程度推論の形で主張することも必要だと思っています。

とはいえその推論が説得力を与えるかどうかは、当然ながら基礎となる実証作業があってこそで、その基礎が出来ていないまま推論を重ねても、それは妄想でしかない。というか、聴衆には決定的にその印象を植え付けてしまいます。

そして、歴史学の方法論においては、どうしても研究者個々の主観が入ってしまう、というのもよく言われる話です。徹底的に主観を排除することができるとは思いませんが、個々の論証において自らその主観的な理解を自覚することは必要なわけで、それは報告時に聴衆との討論のなかから把握してゆくことができるのではないか、と。

そういう意味では、個人的には積極的に口頭報告をするべきだと思っているんですが、逆に言えば、そこで“聞く耳”を持たないならば口頭報告なんてすべきではない、と思います。
もちろん理不尽な「批判」も時にはあったりしますけれども、どれだけ自らの論が“客観性”を得られているかを確認するためには、まずは自らの論に対して自らが客観的(=謙虚)であろうとする態度が不可欠。それが無ければ、時間の無駄でお互い疲れるだけです。

そんなことを聞いていてふと思いました。自戒したいところです。

2008.05.02

郡内地域散策

Iwadono_16Tsuru_8なんだか恒例化したかのように、今年の春も山梨へ行ってきました。今回は郡内地域をということで、比較的東京寄りの所へ。
メインは岩殿山城(山梨県大月市)。左写真のような断崖の脇を登るわけですが、これがまたきつかったです。気温も高く、途中で熱中症になりかけました…。

その後は小山田氏の本拠地、都留市(昔は「谷村(やむら)」)へ。菩提寺(右写真は伝・小山田信澄の墓)や勝山城跡などへ。私はこの地域について実はあまりイメージがなかったんですが、有名な史料の「勝山記」の勝山ってここのことなのかと同行メンバー間で話していたものの、実は違うらしい(笑)。所蔵している富士御室浅間神社(山梨県富士河口湖町[旧勝山村])とは場所が離れてますしね…。

この地域では富士吉田のうどんが有名ですが(こちら参照)、都留市内で入ったうどん屋もその系統だったのか、すさまじくコシが強くて美味でした。そういや写真撮るの忘れてたなぁ…。

例によって写真を撮ってきたので、紹介は対馬の後に。数ヶ月先になるかもしれませんけれども…。
ちなみに、富士山はまったく見えず。なんとか見えるという人もいたようですが。日頃の行いの違いでしょうか(笑)。

2008.05.01

対馬(10) 小茂田浜

Komoda_4Komoda_3厳原町小茂田へ。小茂田浜と呼ばれるこの地区は、文永の役(1274)にモンゴル軍が襲来した元寇激戦地として知られています。旧佐須郡の中心地であることから、佐須浦として史料に出てきます。

右写真が、応戦した宗助国(資国)以下の諸士を祀る小茂田浜神社。在郷民が祠を建てたのがはじまりで、南北朝期に宗経茂が現在地に移して「軍(いくさ)大明神」として保護したと言われています。また元禄期に宗義真が神門や石碑を建立、明治になって小茂田浜神社となりました。

もっとも小茂田地区は、かつては入り江が入り込んだ浦だったとのことで、実際の激戦地は少し内陸に入った辺りだったというのが実態のようです。中世では塩田が広がっており、製塩を生業としていたことがわかっています。

Komoda_6Komoda_9小茂田から少し内陸に入った樫根地区の法清寺には、宗助国の墓とされる胴塚があります(左写真)。さらに少し離れた所には首塚もありました(右写真)。五輪塔の下半分が胴、上半分が首を表しているようです(笑)。胴塚は中世のものだったと考えられているようです。法清寺には平安期の木彫仏像が安置されていますが、見られず。

Komoda_5こちらは小茂田の集落にある譜門寺。宗助国の菩提寺とされています。

Sasu

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