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2008年6月

2008.06.30

チラシの裏がわりに

〆切原稿、なんとか間に合わせました。まさに「間に合わせた」というのがしっくり来るていたらく。いかんなぁ…。

さて、昨日は大阪歴史学会の大会に行ってきました。確か2年ぶり。
個人的には戦国期の摂津の国人領主についてのIさんのご報告が目的でした。討論時間が短くて(ここは強調しておきたい(笑))質問しそびれたので、備忘の意味を込めてここでこっそり書いておきます。

(1)
これは当日別の方から質問がありましたが、南北朝期では「在地領主」と呼んでいる存在が「室町中期」になると「国人領主」と呼ばれる勢力に呼び変えられている点について、その過程が不明瞭に見受けました。
どうやら、転換のメルクマールについては、荘園における沙汰人や請負代官になることを特に重視しておられたようだけど、原因と結果の関係が曖昧では?(「国人領主」になったから請負代官の候補になる、という筋道だってあるし、それも当然想定しておられたようだが…)
第一章小括で「流通支配や領主間相互の血縁関係、在地寺院との関係調整を通じて、室町中期までに台頭した勢力が国人領主層として発展」とされているけれども、この結論はあまりに一般的過ぎないか。現段階ではその内実を問う議論になっているので、そこでの独自の見解をもっと聞きたいです。

(2)
摂津勝尾寺・箕面寺の史料から様々な「地侍」が関与していることを指摘していたが、「地侍層」の存在形態に関する見解がよくわからなかった。レジュメ中には「所属」とか「上下関係」とかいろんな言葉で表現されているけど、それぞれ国人領主と具体的にどのような関係だったのかが不明。

(3)
結局のところ、「摂津における国人領主と地域」というのは、どのように位置づけられるものなのか。「おわりに」では、摂津の国人一揆は「その主体となった国人層は小規模であり、他国と異なり惣国一揆や地域的公権力へは発展しない」とするが、それがなぜなのかもう少し踏み込むべきでは。
一つに守護権力の弱さを要因として挙げられているようだけど(逆に荘園領主の影響力を大きく見ている)、あくまで一般的な理解に立つならば、そもそも惣国一揆の発生するような地域は総じて守護権力が弱体である(あるいは敗北し去っている)ような気もするが…? この理解が正しいならば、大きく齟齬していることになりますが。

地域社会と権力との関わりについて、戦国期であっても荘園領主という存在が無視できないというのは大いに賛同できるのですが、そうであるならば、荘園領主と地域社会との関係についてもうちょっと突っ込んだ議論が必要じゃないかなぁと思いました。この辺は無い物ねだりですが、単に守護に対するパワー・オブ・バランスの客体でしかないような印象を受けたのは少し残念です。

2008.06.26

予想外です

なんだか妙に忙しい。

ご多忙を極める方々に比べれば私なんぞ大したことはないかもしれませんが、それにしても、なんだかいろいろなものに追われている。

今月〆切の原稿が進まない、まずい…。というか、今月中はもう書ける時間がほぼない…。
しかも来月はとある作業でほぼ潰れてしまう可能性が高い。うーむ、ちょっと焦りが。

というわけで、ここの更新ペースも少し落ちそうです。そう言いつつも、忙しい時ほどいろいろと書きたくなるということもあったりはしますが。

なお、飲み過ぎという批判は受け付けません(笑)。

2008.06.22

鎌倉大仏の材料は銅銭

6月21日付の朝日新聞東京版朝刊に、表記のようなコラムが掲載されていました(記事はこちら)。
その元ネタとなったのは、記事にある通り、小田富士雄ほか編『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版、2008年)。私はまだ未読なのですが、中でも対象となっているのは、巻頭の飯沼賢司さんのご論文かと思います。

簡単にまとめると、12~13世紀の日本は原料銅不足のため、中国から銅銭(銭貨)を輸入してその用途に充てた、という内容になっているようです。で、その余分が貨幣として流通した、と。

科学分析については私はよくわからないので、その結果は事実として認めたく思います。確かに銭貨普及期である当該期においては、貨幣としてというだけではなく、そもそも資源であり原材料として珍重されていた可能性はかなり高いと思います。

ただし、最後っ屁のようですけれども(笑)、一言だけ言いたいことが。

「余った分がしだいに通貨として使われるようになった」という一節について、材料用途が先行するという道筋にのみ限定することについては少し疑問です。材料としての用途がこれまでほとんど注目されなかったことに対する批判は重要なのですが、それを強調する結果、本来の貨幣としての意味を軽視する必要はないようにも思うんですが。

詳しいことは読んでみないとわかりませんが、例えば鎌倉大仏を造るためにどれだけの量の銭貨が充当されたかを知りたいところです。要するに、実際に当該期に入ってきた銭貨の量に対して、銅製品への用途がどれほどの割合で充てられたかについて考察をした上で、銭貨の普及過程について再検討するという手順がやはり順当ではないかな、と思いました。おそらく記事にはないだけで、本を読めば書いてあるかもしれませんので、未読時点での勝手な感想ということですが。

2008.06.20

岩殿城跡

Iwadono_2Iwadono_5これからしばらくは、先日行った山梨の郡内地域です。
まずは山梨県大月市の岩殿城跡(岩殿山城とも)。大月市の中心部北側にそびえる岩殿山が要塞化した城です。
もともとこの山は修験の道場として山頂に「岩殿山円通寺」が建立されていたとされており、三重塔・観音堂・僧房などがあったと言われています。元来、現在の大月の市街地も、この門前町として形成されたとも。

戦国期になると交通上の要衝を抑える観点から、郡内の領主であった小山田氏が影響力を拡げ、小山田氏が武田氏の麾下に入ると、ここに城を築いたようです。天正10年(1582)に武田氏と小山田氏が滅亡すると、変わって支配をした徳川氏にも継承されたようですが、近世初頭に廃城になりました。
ちなみに円通寺は近世まで山麓にあったようですが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となったそうです。

この城、登山道が正面の崖を縫うようにして登る長い坂道と階段しかなく、相当疲弊します…。どうも当時の登山道は現在とは異なるようですが、当時の道は整備されていないみたいです。
左写真はその道を八分目まで登ったあたりにある城戸跡。もっとも、自然の岩場を活用したような感じですが。
登り切ると辿り着くのが右写真。遺構というには少々インパクトに欠けるというか…。

Iwadono_4Iwadono_15左写真は頂上付近の風景。かろうじて曲輪に見える…?
右写真のように、井戸が今も残っています。

Iwadono_13Iwadono_1そして左写真が頂上。風情ゼロ(笑)。かつてここに円通寺の堂舎があったとのことですが、その痕跡はまったくありませんでした。
城郭施設の遺構も当然ながらなし(空堀の跡はわずかながら確認できましたが)。案内標識には「狼煙台」と書かれていて、実際のところ、この城は麓(右写真参照)に居館があって、山は非常時の詰めの城としての機能を持っているものの、通常はやはり通信施設だったということなのでしょう。今も通信施設が建っているのには、なんとも感慨深いところです。
ちなみに麓の地名は「太刀」と言うそうです。「たち」の音から、「館」に通じるのではないかと。山と市街地を隔てる崖は、桂川(相模川)が流れています。

正直な感想としては、相当な体力を費やすことになるものの、得られる感動はあまりないといったところでしょうか…(笑)。達成感はありますが。

2008.06.19

対馬 おまけ

NishidomariNishidomari_1最後におまけ画像です。
こちらは北端部にある上対馬町西泊近くの海。この海の先が日露戦争の日本海海戦の戦場になった海域になるそうで、それを記念?して、日露友好の石碑が建っていたりしました。

Asowanこちらは中央部の多島海である浅茅湾の風景。…なんですが、天気が悪く霞んでしまっていたので、こんな写真になってしまいました。残念。
天気がよいとこんな風に見えるそうです。

Shimizuyama_18Shimizuyama_19最後は厳原の清水山城跡の山頂(本丸)の写真。大したものではありませんが。本丸自体は非常に狭くて、とても軍勢が駐屯できるような施設があったようには思えませんでした。狼煙台があった程度でしょうかね。

対馬には「ヤマネコ注意」の標識があったり(こちら)、やはりハングル表記の看板が多いなど、やはり独特の雰囲気が感じられました。
というわけで、対馬シリーズはこれにて終了です。

2008.06.16

対馬(20) 豊砲台跡

Waniura_6Waniura_10上対馬町豊(とよ)にある砲台跡。近代日本の砲台施設の遺構です。

現地案内によると、

「第一次大戦後、日本は軍備拡張計画を推し進める中、対馬海峡を封鎖する目的で、対馬北端の軍事上要衝のこの地に昭和4年(1929)5月より約5ヶ年の歳月を費やし昭和9年(1934)3月に砲台を完成させました。
この砲台は、大正11年(1922)ワシントン海軍軍縮条約の締結により、航空母艦に改造されることとなった『赤城』の四十五口径40.6センチ加農(キャノン)砲一基二門の砲塔砲台を設置したという説のほか、戦艦土佐や戦艦長門のものであるとの説もあります。
この砲は、砲身長18.5メートル、砲身重量は108トンもあり、実用射程距離は30キロメートルにおよびこの地で対馬海峡封鎖の防衛拠点を成していたのです。」

とのことです。専門的な話はさっぱりわかりませんが…(笑)。

Waniura_8Waniura_11完成当時は世界最大の砲台だったそうで、地下の施設も備えた軍事拠点の雰囲気が感じられました。旧ソ連のトーチカを想像すればいいんでしょうか。
結局は実戦で砲弾を発射することなく、昭和20年(1945)10月に米軍によって解体された、とのことです。

Waniuram史跡はこれでおしまい。次回は最終回のおまけです。

2008.06.15

近現代史勉強中

地震で被災された方々にはお見舞い申し上げます。
あのあたりは去年調査で行った地域なので、お世話になった方々がご無事でいらっしゃるかどうか心配です。

さて。
このところやや忙殺気味で、少し疲れが溜まってきた感じです。

そんな中、思い立って近現代の経済史の概説書を読んでます。近代以降については特に知識不足なので、思い立ったが吉日とばかりに手を付けてみました。
全然専門とは違う時代なわけですが、それがかえって気楽というか、結構読んでいて面白い。電車の中の暇つぶしに結構もってこいです。

でも、自分の仕事に時間を振り向けないといけないんですがねぇ…。そっちの時間がほとんどないというか。
それでは本末転倒…?
読んでいるのは↓ですが、古書価格が暴落してますね。教科書にしている大学がそれだけ多いということでしょうか。

4641159017現代日本経済史 (有斐閣Sシリーズ)
森 武麿ほか
有斐閣 2002-09

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2008.06.09

対馬(19) 鰐浦

Waniura_14Waniura_15上対馬町鰐浦へ。対馬の最北端に近い所です。古くからの朝鮮への渡航地として知られており、『日本書紀』にも登場するほどです。
中世では宗氏が朝鮮への渡航船舶監視のために検問所を設置したとされています。
また、漂流民の送還拠点でもあったそうで、永正8年(1511)には来着した「唐人」(朝鮮人)を「わにのうら」へ移送し、送還したことなどがわかっています。
朝鮮出兵時にも渡航拠点となり、近世初頭にも関所が置かれました(のち佐須奈へ移転)。

WaniuraWaniura_1左写真は鰐浦を上から見た所。
右写真は、沖合にある海栗(うに)島。ウニの漁場だから付いた名でしょうか(ウニは今も対馬の特産です)。
この海栗島が天然の防波堤の役割を担っていたそうです。現在は島がまるごと自衛隊の施設となっていて、立ち入りはできません。日本では数少ない「国境」を感じる風景です。ここに勤める人たちはこの鰐浦や隣の豊浦に居住しているようで、それらしき住宅が見られました。

Waniura_2鰐浦の北側の山はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)の自生地として知られているそうです。私が行った頃は季節外れで花は全然ありませんでしたが。

そしてその頂上は、現在は韓国展望所として観光地となっています。しかしまったく見えず(これもやはり日頃の行いか)。地元の人によると、春先よりも秋の方が、見える日が多いとのことでした。
展望所の傍らには、「朝鮮国訳官殉難之碑」(写真)が建っています。元禄16年(1703)に宗義真の弔問に訪れた朝鮮訳官使の乗った船が、海栗島沖で転覆・沈没し112人が死亡した事件を慰霊するものです。海栗島周辺は岩礁が多い海域のようですので、座礁してしまったのでしょうか。

Waniuram_2いよいよ北端に到達。あと少しです。
ちなみに、港の近くに古代の渡来人の「王仁(わに)」を祀る石碑が建っていました。名前が同じだからということなんでしょうけど…ちと安易な気が。

2008.06.07

対馬(18) 佐須奈浦

Sasuna_1峰町からは山を二つ越えて(笑)、上県町佐須奈へ。佐須奈浦は『海東諸国紀』に「沙愁那浦」と記されており、中世以来の朝鮮との交易拠点となっていた港町です。

Sasuna_3近世においても釜山との往来の窓口となっていて、宗義真が寛文12年(1672)に関所が置かれました。この関所を「改番所(かいばんしょ)」(「御番所」とも)といいます。写真はその番所の跡です。手前の木があってわかりにくいですが…。
通信使も釜山からこの佐須奈へ渡り、府中(厳原)へ行くことがあったそうです。

Sasuna

2008.06.06

史跡写真の目次

史跡関連の記事がかなりたまってきましたので、一念発起して目次を作りました。→こちら
左側の関連リンクの欄にも掲示してあります。

掲載しているのはほとんどがこの2,3年の間に行った所で占められますが、随分偏っている感がしますね。
というか、京都とか、メジャー所がほとんどない…。

今後ともいろんな所へ行けるといいんですが。以前に一度行った所にも再び写真を撮りに行きたいな、とか(笑)、いろいろと妄想が膨らみます。

2008.06.03

対馬(17) 円通寺

SakaentsujiSakaentsuji_1一転して東岸の峰町佐賀(さか)へ。この地区は、15世紀の宗氏の本拠地とされる所で、当時においては対馬においても随一の港町であったとされています。

そしてここにある円通寺は、当時の宗氏の菩提寺です。応永15年(1408)に宗貞茂が佐賀に居館を構えた後、貞盛・成職を経て、貞国が応仁2年(1468)に府中(厳原)に移るまで政治的中枢の地となっていました。
もちろん対朝鮮交易の一大拠点ともなっていて、円通寺の本尊である銅造薬師如来坐像は13世紀作の高麗仏とされています。右写真の梵鐘も李朝初期の朝鮮で鋳造されたものとされています。形状も日本にはない特徴的なものであることがわかりますね。

Sakaentsuji_2Sakaentsuji_3そして、なんといっても目玉は宗氏の墓所とされる中世の宝篋印塔群です。個々の来歴については不明のようですが、時期としては南北朝~室町初期のものとされているそうです。
この円通寺の近隣に宗氏の居館があったと考えられていますが、残念ながら目立った遺構は見つかっていないようです。

Sakamunakata円通寺からより海側の港のそばには、宗像社があります(現在は和多都美神社)。文永4年(1267)の史料に「佐賀宗形宮」との文言が確認されており、中世には既に存在していたことがわかっています。対馬でも宗像社を勧請した所はここしかないそうで、九州との結びつきの強さや、海上交易の活発な地であったことがよくわかります。

Saka参考文献:
荒木和憲『中世対馬宗氏領国と朝鮮』(山川出版社、2007年)

2008.06.02

シンポ終わる

「室町殿」ミニシンポを無事終えました。

評価はそれぞれあるかと思いますが、セッティングをした側の立場としては、非常に有意義な機会になったと思っています。報告者と参加者のみなさんに御礼申し上げます。

ただ、司会の力量がふさわしいものだったかどうかは…(笑)。こういう場で司会をするのは滅多にないので場慣れしてなかったのもありますが、ちと勉強不足だったなぁ、と。日頃の怠慢が身に沁みました。

今後は、今回の成果がなるべく形に残るよう奔走いたしたく思いますが、今後はいろんな形で活発な議論が展開されればありがたいです。

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