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2008年7月

2008.07.30

後輩の訃報

昨日、学部時代のすぐ下の後輩が亡くなったという報に接する。

詳しい経緯はまったくわからないけど、まだ30歳を過ぎたばかり。
これからやりたいことなども沢山あっただろうに。
私も人ごととは思わず、日々を大切に過ごして行かねば。

今はただただご冥福をお祈りします。

2008.07.24

小山田氏菩提寺・桂林寺

Tsuru_10Tsuru_4Tsuru_7


勝山城を挟んで都留市街と反対側の辺りにある桂林寺(山梨県都留市)。ここは小山田氏の菩提寺とされています。
寺伝では、応永初期(1400年頃)に小山田信澄が母の供養のために屋敷を寄進して寺としたとされています。
境内には墓所があり、小山田氏当主のものと思われる中世の五輪塔があります。三つ並んでいますが、写真の一番手前のものが、小山田信澄の墓とされています。

Tsuru_5そしてこのお寺には、応永2年(1395)3月15日の日付が入った板碑を所蔵しています。ご住職にお願いして見せていただきました。元々このお寺にあったものだそうです。この地域では、板碑は比較的珍しいように思います。

2008.07.21

「読みなおす」書評会

以前取り上げた『室町・戦国期研究を読みなおす』の書評会に出席。
事前に席数がやや少なめと聞いていたので早めに行ったのが正解。まさに溢れるほどの盛況ぶりでした。

比重としては、やはり今熱い南北朝~室町期が議論の中心になった感がして、戦国期はあまり話題になりませんでしたが、いろいろと気づかされることが多く勉強になりました。Hさんによる、出版の経緯に関わるお話(その後飲み会で伺った話を含めて)はとても興味深かったです。

一つ印象に残ったのは、Sさん(前回の「その時」の記事と同じ方(笑))のご発言。研究史整理をすると、かえって以後の議論が細分化してしまうのではないか、という趣旨。なるほど私はそこに思いが至りませんでした。考えさせられます。

さて、飲み会は主に西からおいでの方とたくさんお話ができました。人見知りの激しい私としては快挙といってよいほど(笑)。終電間際まで大盛況で、いろんな意味で当該研究のパワーを肌で感じました。

このにわかに巻き起こった「室町ブーム」が単なる“雰囲気”で終わらぬよう、貴重な成果がたくさん生まれるのを楽しみにしたいところです。私もしっかり便乗してますが(笑)、少しばかりの貢献ができていればいいのですが。

2008.07.18

応仁・文明の乱の“常識”を疑うべきか

先日たまたまテレビをつけたら、くだんのNHK「その時歴史が動いた」で応仁の乱のネタをやっていたので、途中から見てました。ゲストはまたSさん。松平アナに「義満以来ですね」って言われてましたが(笑)。義満の回の感想はこちら

まあ内容はおおむね通説通りでしたが、気になったのは、「当時の史料」と紹介した「応仁記」にかなりの内容を依存していること。
「応仁記」の内容がまったく信用できないわけではないですが、やはり後世に作られたものなので、「同時代史料」として扱うのは配慮に欠けています。
この「応仁記」については、16世紀前半に細川高国に近い人物が書いたとされていて、相当「細川寄り」に書かれている可能性が高いそうです。結果として、細川勝元と対立した日野富子と山名宗全が“乱の首謀者”として辛辣な扱いを受けており、そのイメージが現代にも定着しています。

実際のところは果たしてそうだったのか…?

史料を総ざらえしたわけではありませんが、私の印象では、山名宗全の乱への参加はかなり突発的で、日野富子と根深く繋がっていたようには感じられません。
ではなぜ宗全はあんな大乱を引き起こすような挙兵をしたのか。当然ながら畠山氏や斯波氏などの家督相続があり、肩入れした畠山義就・斯波義廉への情誼も重要です(この辺からSさんは中世的な共同体的意識との関係を示唆しておられましたが)。ただ、最も重大だったのは、赤松氏の処遇問題にあったように個人的には思えます。

失脚していた赤松政則が播磨で挙兵したことが乱の直接の引き金になった形跡の窺えることや(『大乗院寺社雑事記』応仁元年[1467]5月21日条。しかも細川勝元が「合力」していたらしい)、勝元と宗全とが和睦交渉に臨んだ際にも、赤松処遇で意見が合わずに決裂したようです(『親長卿記』文明4年[1472]正月15日条)。
このことから見ても、細川勝元も誉められたものではない(笑)。というか、直接的には、そもそも勝元が宗全を挑発した結果として大乱が引き起こされたようにも見えます。

周知の通り、嘉吉の乱以後、幕府政治は赤松氏絡みの問題が常に懸案事項になっていたわけですが、それが極まった結果と見ることもできるのではないかな、と。もちろん応仁の乱というのは様々な要因が絡み合った結果の大乱であったことは確かで、理由を一つに絞ることはできませんが、「応仁記」に拠ったイメージが“実像”であるかどうかは、今後議論がされてもよいように思いました。

と、宣伝めいてますが(笑)、石田晴男『戦争の日本史9―応仁・文明の乱』(吉川弘文館、2008年)購入。「応仁記」の話は、この本を参照しました。

4642063196戦争の日本史 9―応仁・文明の乱
石田 晴男
吉川弘文館 2008-06

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2008.07.14

今夏のイベント特異日

そろそろこの夏のイベント情報が出揃ってきた、といったところでしょうか。

傾向をみるに、イベントの集中する特異日は以下の期間のようです。

(1)8/2(土)~3(日)
(2)8/23(土)~24(日)
(3)9/6(土)~7(日)

土日なのは当然として、盆休み期間は設定しない不文律と、(小中高の)夏休み終了直前(8/30~31)は敬遠されがちな結果でしょうか。
さて、みなさんはこの期間はいかがお過ごしになりますか?
ちなみに私は、いずれの期間も出張します(笑)。しかもどれも半端じゃない遠方(国内ではありますが)。
ともあれ、出先でお会いになった際には、どうぞ宜しくお願いします。

以上の出てきた日にちのうち、私の誕生日が隠れています(笑)。このところ毎年のように誕生日はなにかイベント(私の誕生日を祝う趣旨では決してない)が入ったりしていたんですが、今年は今のところ何もなし。静かに迎えることになりそうです。…って書くと、当てはまる日は二択になりますね。ま、その時期はのっぴきならない仕事を抱えているはずなので、感慨もなく終わるでしょうけど。

ありがたくも、立て続けに二本活字が出ました。でも、多分今年はこれで打ち止め…。書きたいネタはあるんですが、いかんせん時間が…。置いて行かれませんように。

2008.07.12

勝山城跡

Tsuru_25Tsuru_31山梨県都留市にある勝山城跡です。左写真は本丸。現在の都留市街はかつて「谷村(やむら)」と呼ばれた地で、戦国期は小山田氏の本拠地でした。ただ小山田氏は町場に居館(谷村城)を構えていたようで、市街を眺める勝山城は詰めの城に当たる要害だったとも言われてます。
Tsuru_15本丸から都留市街を眺めるとこんな風景です。
現在の縄張りは、小山田氏滅亡後の文禄3年(1594)に浅野氏重(知近[ともちか]、浅野長政の家老)が築いた城郭が出発点のようです。

その後、鳥居氏を経て、寛永10年(1633)に秋元泰朝が谷村藩主となります。秋元氏時代の勝山城は、宇治から江戸へ運ばれる茶壺の保管所の機能も担ったとのことです。その比定地とされる曲輪もありました。秋元氏は日光東照宮造営に深く関わった経緯から、本丸に今も残る東照宮が勧請されたのでしょうか。
宝永元年(1704)に秋元氏が武蔵川越へ転封となると、天領となって勝山城も廃城となりました。

城内の風景は↓な感じです。
Tsuru_14Tsuru_21Tsuru_23

今の遺構は、石垣がほとんど遺っていません。廃城後に撤去したと言われているようですが、徹底的にやったということなんでしょうか? それとも長年にわたって運び出したんでしょうか?

2008.07.05

雑務山積

ちっとも雑務が減らない。

自分の研究をするどころか、研究書や論文を読む暇さえもないという状態。取っている新聞も、一週間遅れでなんとか処理している始末。
そろそろ解消に向かうかと思ったけど、こりゃあもう秋までこの状態かも…。
ポリシーには反するけど、研究会等への出席を少し控えないといけないかもしれません。
うーむ。どうしてこうなったんだろう。

ま、地道にこなしていくしかありませんねぇ。
一方で来月以降は北へ南へ遠距離移動目白押しになりそうで、こんな状態でそんなことしていいのかという気もしますが、息抜き変わりと思うしかありません。

体調だけはしっかり維持せねば。暑くなってきたので皆さんもどうぞご自愛を。

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