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2008年9月

2008.09.29

佐渡(8) 黒木御所跡

KurokigoshoKurokigosho_2_2黒木御所跡(旧金井町)です。承久の乱によって流された順徳院ははじめ国分寺に住んだそうですが、後に行宮として移ったのがこの地でした。
現地案内板によると、御所の四隅には持仏であった観音・阿弥陀・薬師・天神が祀られ、院は日夜礼拝したと伝わっています。亡くなるまでの22年間をここで過ごしました。
名前の由来は、粗末な黒い木で居所が造営されたことによる、とも言われているそうです。
現地を見た限りではそれほど敷地は広くもなく、配所での生活は質素なものであったことが想像されます。
後醍醐院が過ごした隠岐の御所も黒木御所と呼ぶそうですが、単なる偶然でしょうか。

Sadohonkoji近くには平安期のものとされる木造聖観音立像(重要文化財)を所蔵する本光寺があります。この仏像は、黒木御所に安置されたものの一つとされています(見られず)。このほか、世阿弥の配所である正法寺も近くにあります。

Hojoke_3そして、御所から奥へ行った所にある北條家住宅(重要文化財)。これも現地案内板によると、北條家の祖・丹波国氷上郡岩龍寺賢清は、寺領について直訴した罪で佐渡に流され、元禄8年(1695)に赦免されたのち道益を名乗り、代々医業を営んだそうです。この住宅は元禄期に建てられたものを移築したものと伝わっています。越後の民家と比べて木柄が細く、佐渡地方近世民家を代表する遺例であり、保存状況はきわよい、とのこと。

2008.09.27

単一民族幻想

なぜか職務とは無関係な国交相が発言して物議を醸していますが(ま、この人の文科相時代の言動を考えればさもありなんって感じですけど)、総理大臣閣下もこういう発言してるので、全然驚きません。
この辺の閣内の意思統一は完璧というべきでしょう(笑)。

佐渡(7) 二宮神社

NikujinjaNikujinja_3相川を離れ、各地の史跡を巡っていきます。
まずは二宮(にくう)神社(旧佐和田町)。社伝によると、承久の乱で佐渡に流された順徳院の第二皇女である忠子を奉祀する神社です。忠子が誕生すると鎌倉幕府がここに居所を築き、守護代の本間氏に庇護を命じたとされています。

Nikujinja_5Nikujinja_4左写真が、境内にある忠子女王墓所。忠子は貞永元年(1232)に生まれ、二宮神社のある「石田郷上野ヶ原」に住みましたが、建長元年(1249)に18歳で死去したとされています。諡号は「玉島姫命」で、以後は後深草院の時代に二宮大明神となり、明治に二宮神社となったそうです。

右写真は境内にある順徳院の「腰掛けの石」。能舞台もあり、現在も薪能が開催されているそうです。

2008.09.26

佐渡(6) 大安寺

AikawadaianjiAikawadaianji_1相川の街中にある大安寺。大久保長安が建立したとされていて、慶長16年(1611)のものとされる大久保長安の逆修塔があります。

ご存じの方もおられるでしょうけれども、同名の寺院が石見銀山にもかつてあり、そこにも大久保長安の墓が現存しています。石見の方は慶長10年(1605)建立とされているようですが、実際はもっと後だったというような話もあります。多分佐渡の方が先でしょうか。

Aikawadaianji_3境内には、元は上杉氏の家臣(与板衆)で、関ヶ原の後に代官として佐渡で検地奉行を務めた河村吉久(彦左衛門)の五輪塔があります。刻銘から、慶長13年(1608)に造られたものと考えられます。

2008.09.22

佐渡(5) 佐渡奉行所跡

Sadokinzan_21Sadokinzan_23金山の麓には佐渡奉行所跡があります(旧相川町)。
金山開発が始まった慶長8年(1603)に設置されました。幕府から奉行が派遣され、この奉行所内に住居部を構えていました。

Sadokinzan_24Sadokinzan_26一方で敷地内には行政拠点となる「御役所」や金の精錬を行う工場(「寄勝場」など)も設置され、統治と精錬を一手に担う場として機能していました。このような奉行所の形態は佐渡特有のものです。
近代にも建物が遺され役所や学校として使われたそうですが、昭和17年(1942)の火災で焼失したそうです。現在は安政6年(1859)段階の「御役所」と「寄勝場」が復元されていて、「寄勝場」では金の精錬過程について体験できるようにもなっていました。

Sadokinzan_27奉行所は相川の町並みを望む高台にあり、眺めは抜群です。あえてそういう場所を選んだのでしょうか。

ちなみに佐渡奉行は17世紀の末頃になると、旗本による「踏み台」の役職に転化してしまい(その後江戸で勘定奉行などに昇進していきます)、自ら現地に赴任する人はほとんどいなくなったようです(かの荻原重秀は例外的に熱心に佐渡へやってきたようですが)。人によっては、任期の終わり際に旅行気分でやってくる人もいたらしい…。
もっとも幕府にとっての佐渡金山そのものの重みが薄れていったこともありますが、中央の「お役人」がいてもいなくても現地では何も変わらない、とも言えるのでしょう。

2008.09.21

新説桶狭間合戦

橋場日月さんより、新著『新説桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』(学研新書34、学習研究社、2008年)を受贈しました。いつもありがとうございます。

帯に「桶狭間はやはり奇襲だった!」とでかでかと踊っているように(笑)、「桶狭間合戦」についてはその戦術面に注目が集まってきたわけですけれども、私が個人的に眉目としたいのは、それに至る今川氏と織田氏との関係がつぶさに追いかけられている点で、とても勉強になります。
最近はまた下火になりましたが、東海地域の流通が持つ重要性が叫ばれているところですので、まさにその地域における政治権力の動向というのは、当時の日本社会全体においても気にしておくべき要素ではないかな、と。その辺の議論がまた活発になればいいのですが。

比較的一般向けに書かれている類書では、「これが真実だ」と大上段な姿勢のものが多くて個人的には辟易するんですが(しかも真実であったためしがない)、本書では出した結論について「ひとつの可能性」と慎重な姿勢が表明されているので、それがかえって安心感を与えていると思います。

405403909X新説桶狭間合戦―知られざる織田・今川七〇年戦争の実相 (学研新書 34)
橋場 日月
学習研究社 2008-09

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2008.09.17

佐渡(4) 佐渡金山

Sadokinzan_20Sadokinzan_15佐渡といえば真っ先に浮かぶ、佐渡金山遺跡(旧相川町)です。

佐渡の金採掘は平安期からあったとされていますが、中世では、16世紀に砂金採取が目立つようになります。
といっても場所はこの相川ではなく、南へ行った所にある西三川砂金山(旧真野町)が中心だったようです。

相川での金山開発は、慶長6年(1601)に始まったとされています。当初は露天掘りによって採掘していたようで、その跡が写真の「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」です。初代佐渡奉行の大久保長安や、有能な山師とされる味方但馬の活躍が謳われており、17世紀前半に早くも最盛期を迎えています。

Sadokinzan_1Sadokinzan_7露天掘りでの採掘量はすぐに翳りを見せたようで、坑道(間歩)掘りによる採掘へと進んでいきます。坑道掘りは湧水抜きとの戦いでもあり、坑内に樋を通すなどの工夫が講じられたようです。
そして、元禄期に掘られた最大規模の坑道が写真の「宗太夫坑」で、国史跡に指定され公開されています。
ここをご覧になった方は多いのではないでしょうか(笑)。

Sadokinzan_9Sadokinzan_18とはいえ排水には手こずったようで、18世紀になると徐々に廃坑となる坑道が増加し、採掘量も減少してゆきました。以後は細々と採掘が続けられ、近代になると政府が官有化して新技術を導入し、生産額が持ち直したそうです。明治29年(1896)には三菱に払い下げられ、平成元年(1989)に廃止。総産金量は78トンだったそうです。
写真は最後まで発掘が続けられた「道遊坑」。最近公開されるようになりました。トロッコなども展示されています。

ほかにも無数の坑道があり、公開されているものはごくごく一部だと思いますが、発掘に携わった人々の過酷な労働と執念を思いを馳せざるをえません。当然ながら坑夫は最も過酷な労働の一つで、平均寿命は30歳程度だったようです。秋田の院内銀山の場合、30歳になると“長寿”を祝ったそうで、壮絶さが伝わってきます。

2008.09.15

ガイシ神話崩壊

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことはり)をあらはす。おごれる人も久しからず。唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諫をもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。」


有名な『平家物語』の冒頭の一節ですが、私はこれがどんな歴史書よりも優れた普遍的叙述だと思っております(事例として挙げられた人々が実際に「暴君」だったかどうかはともかく)。

日本は政治も経済も「USA依存」が習い性になってますが、少なくとも経済面では嫌が追うにも「自立」せねばならない時期がやってきたかもしれません。豪華客船に乗っていたつもりが、タイタニック号よろしく轟沈したわけで、しばらくは騒がしくなりそうですね。
少なくとも、これで「ガイシ」神話は終焉といったところでしょうか。就職先の希望で「ガイシ」が羨望された時代が「春の夜の夢」のようです。ほんの数年前だったはずですが。

2008.09.14

佐渡(3) 青木城跡

Aokijo_3Aokijo_9旧新穂村の青木城跡です。別名「青木殿」と呼び、この一帯の青木村を支配した在地小領主(村殿)の居館跡とされ、室町期の遺構です。
形式は長方形の単郭(曲輪が一つ)の平城で、湧水による堀が囲っています。曲輪の中からは珠洲焼などが出土しているそうですが、主郭は雑木林になっていて、立ち入ることはできませんでした。

Aokijo_10Aokijo_14_2右写真の木の立っている辺りが主郭と思われます。
佐渡では中世後期に農村単位に「村殿」と呼ばれた小領主が展開したとされていて、その領主の館跡です。このような城館跡が佐渡にはいくつか遺されています。

Niibohiyoshi_1こちらは根本寺や青木城跡の近くにある日吉神社。この辺りは近江の日吉社領である新穂(にいぼ)荘だったとされ、この日吉神社は鎮守であったと思われます。詳しくはこちら

Aokijo_1新穂村辺りの風景。佐渡は中央部の国仲平野に広大な田地が広がっていました。佐渡の農業はほとんどが米作のようです。西日本の島では考えられないような風景で、衝撃的でした。
この画像は1024×768のサイズにしてありますので、気に入った方は壁紙にどうぞ(笑)。

2008.09.13

戦国ブーム?

着物姿の店員が「武将殿、こよいは宴(うたげ)でございます」と個室に案内。通路を歩くと「曲者(くせもの)」が現れた。店員は「お待ち下さい。成敗いたします」と言って刀を振りかざした。客は大喜びだ。
 大学の友人4人と来た女性(21)は「関ケ原を戦った大谷吉継が好き」という。

(中略)

 東京都港区で7月下旬、イベント「戦国Bar」が開かれた。集まったのは20〜30代の約100人。9割が女性だった。お題は四国統一をした「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」。「この戦で別の動きをしていたら」「長男が生きていたら」。グラスを片手に盛り上がった。
―http://www.asahi.com/culture/update/0913/
TKY200809130113.html より引用

大谷吉継に長宗我部元親ですか(笑)。
以前薮だらけの佐和山城を登った時、若い女性の二人連れを見かけましたが、それもブームの一環なんでしょうか。不思議な現象というか、狐につままれたような話です。

なんでも戦国モノのゲームが火付け役になったと分析されていますが、 その手のゲームがブームになることは過去にもちょくちょくあったわけですから、別の要因もあったりするんでしょうかね。

なんにしろ、興味が広がるのは喜ばしいことです。一過性のもので終わらず、持続して欲しいものです。もっとも、この手のブームは戦国か幕末、時々平安というのがお決まりですが、もう少しほかの時代に衆目が集まるような流れも出てくればいいんですけどね。

2008.09.12

会津と山形をあるく

Aizutsurugajo_25Yonezawajo今夏の長期旅行第3弾。東北へ行って参りました。山形県を中心に、会津と秋田県の一部も訪問。山形と秋田は未踏でしたので、初訪問となりました。

左写真は「鶴ヶ城」として知られる会津の若松城(福島県会津若松市)。中世は黒川城として葦名氏の居城でした。会津といえば白虎隊をはじめとする幕末期が話題になりがちですが、一応中世史跡として(笑)訪問。宿は近くの東山温泉。伝統的な温泉地の雰囲気があってとてもいい所でした。

そして米沢へ。右写真は上杉博物館(山形県米沢市)。米沢城跡の中にあります。こちらも時節柄?米沢藩上杉氏との関係に注目が集まりますが、かつては最上氏や伊達氏が支配した中世城館跡でもありました。常設展示のみを見ましたが、デジタル系を駆使して関心を呼ぶように工夫がされている様子が見て取れました。「上杉本洛中洛外図屏風」の世界をデジタル画像で再現する展示は、私も結構楽しめました。

Yunohama_1Haguro_21山形県の特に置賜・村山地方(南部)は、「石造物の宝庫」と言ってもいいぐらい、中世の石造物がたくさん遺っている地域のように感じました。今回いくつか実見しましたが、それもごく一部。
特に板碑が比較的多く遺されているのは面白い。板碑の多い地域として東北地方では松島周辺が有名ですが、置賜の方は意外と知られていないような気がします。単に偶然残ったのか、元々信仰を石造物に表現する文化が盛んな地域だったのかはわかりませんが、興味深いところです。

ただ、多く遺っていても、アクセスするためのガイドがもう一つで、探し回るのにかなり時間がかかってしまいました。この辺も知名度によるのでしょうか。山形は総じて案内標識や看板などが極端に乏しい印象を受けました。そういう所にお金を掛けないという土地柄なんでしょうか…?

宿は上山温泉(山形県上山市)で一泊。そして庄内へ出て湯野浜温泉(山形県鶴岡市)で一泊。上山はいい宿に当たりました。特に上山市内に石造物がたくさんあるようなので、また行きたいです。左写真は湯野浜の宿の近くで撮った夕日。
そして個人的にメインにしていたのが、羽黒山(山形県鶴岡市[旧羽黒町])。右写真の国宝五重塔です。南北朝期の建立で、山形県では唯一の国宝建築物。いやはや圧巻でした。

というわけで、史跡ネタがまた増えました。遅々として進んでいませんが、追々ご紹介したいと思います。

これで今夏の遠征はようやく終了。そして現実へ…。
今夏の連続遠征で未踏県は3つも減って、あとは青森・宮崎・沖縄だけになりました。
そして、今年中についに沖縄訪問を果たせそうです。そんなことしている余裕はあるのか、というツッコミはご寛恕のほどを…。

2008.09.11

佐渡(2) 根本寺

Konponji_4Konponji_9_3旧新穂村にある根本寺。文永8年(1271)に日蓮が佐渡へ流された後、居を構えたのがこの寺で、ここで『開目鈔』を執筆したと伝えられています。

今もかなり大きな伽藍を誇るお寺でした。右写真のうち、右側にあるのが本堂。寛文12年(1672)築。正面にあるのが祖師堂です。元は天文21年(1552)に大泉坊日成上人が建立したとされ、その後元和年間(1620年前後)に栴檀院日衍上人の檀越である味方(みかた)氏の寄進によって再建されたそうです。

Konponji_7_2Konponji_15_2左写真は寛永年間築の二天門。右写真は、境内にあり、大寄進をした味方家次(但馬)の墓地です。

味方家次とその父である家重は山師として17世紀初頭の相川金山開発に大きく貢献した人物とされており、その功績によって佐渡奉行から授けられた品々が現在もご子孫に伝わっているそうです。
現在の根本寺の大伽藍もこの味方氏による援助によってほぼ整えられたもので、その財力のほどを窺わせます。
それ故日蓮の居た頃とは大きく様変わりしているとは思いますが、景色を見て少しは往時を想像することができるかな、といったところでしょうか…。

2008.09.03

増える積ん読

のび太の次はスネ夫かあ。

ま、それはともかく。

先日のサマーセミナーの報告に出てきた、吐噶喇(とから)列島をテーマにした新書が出ていたので買ってみました。
といっても、ちっとも読むヒマがなくて、買ったまま放置状態ですが…。
ご多分に漏れず、私はこの島々にあまりイメージを持っていないので、いずれ読んで勉強したいと思います。
「とから」ってIMEに入ってないようですが、真ん中の字はJISに入ってないんですね。(環境によっては見えない方もおられると思いますので、念のため[口+葛]です)。

4334034683吐カ喇列島 (光文社新書 365)
斎藤潤
光文社 2008-08-12

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専門関係でも興味深い本がいくつか出ていますが、事情により左のリストは、現在更新を一時止めています。
そのうちご紹介したいと思います。

2008.09.01

佐渡(1) 長谷寺

Sadochokokuji_5Sadochokokuji_10なかなか取りかかれずにいた佐渡シリーズ開始です。
単純に訪問順で行きたいと思います。

まずは長谷寺(ちょうこくじ、旧畑野町)。寺名は佐渡に流された順徳上皇が名付けたという伝承があり、同じく佐渡に流された世阿弥も立ち寄ったと言われています。
天正17年(1589)に上杉景勝が佐渡へ侵攻した際に戦火に遭ったそうですが、直江兼続の意向で被官の鳥羽備前守が再興したとされています。

Sadochokokuji_6Sadochokokuji_8左写真の観音堂は正長年間築(1428~9年)とされていますが、元禄4年(1691)に改修されており、おそらくこの時の再建ではないかとも思います。
右写真は境内にある、17世紀初頭の佐渡奉行・竹村九郎右衛門(嘉理、嘉政とも)の供養塔。竹村は長谷寺参拝の折りに強引に本尊の開帳をしようとしたところ突然目が見えなくなり、その罪を悔い改め田畑を寄進したという伝承があるそうです。なお本尊の十一面観音像(重要文化財)は平安期のもので、現在は宝物館に安置されているようですが、拝観は要予約とのことでした(訪問時はそう思っていましたが、本尊は秘仏のようです)。

Sadochokokuji_3仁王門に安置されている金剛力士像。平安期のものとされています。

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