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2008年10月

2008.10.30

佐渡(22) 本間家能舞台

Honmanobutaiいよいよ佐渡シリーズも最後。旧両津市にある本間家能舞台。
中世の領主であった本間氏の末裔という本間秀信という人物が、寛永18年(1641)に奈良で能楽を修めて佐渡へ戻り、その後享保5年(1711)に佐渡奉行所より能太夫を委嘱されて佐渡における宝生流能楽の中心的存在になったとされています。

Honmanobutai_1Honmanobutai_3能舞台は明治18年(1885)再建で、現地看板によると、「舞台建築には禅宗の影響をうけた唐様建築の扇垂木手法が用いられ、床下には音響効果を高めるため瀬戸産の甕が一対埋められていることなどもこの舞台の大きな特色」とのことです。

佐渡は今も能が非常に盛んな地域として知られていますが、その中心的な施設の一つとなっています。


さて、二ヶ月にわたって続けてきた佐渡からは離れ、次はやっと九州へ行きます。史跡ネタが貯まっているので、引き続き淡々と史跡紹介を続けていきたいと思います。

2008.10.29

佐渡(21) 新穂城跡

Niibojo旧新穂村の新穂城跡。以前紹介した青木城と同じく、「村殿」と呼ばれる領主の城館跡です。14世紀頃の成立とされ、記録によると文安4年(1447)に新穂有時、戦国末期に本間備前守などの城主の名前が確認できるそうです。
天正17年(1589)の上杉景勝の佐渡攻めによって領主は没落し、廃城となりました。

Niibojo_2Niibojo_5かつては土塁があったとされていますが、今は遺っていません。ただ、方形の区画を巡らした堀が比較的よく遺っています。曲輪は約100メートルのほぼ方形で、堀の水は灌漑に用いられたそうです。今は蓮が一面に生い茂っていました。
曲輪の中は「城の内」と呼ばれ、中世の陶磁片も出土しています。

2008.10.28

佐渡(20) 神宮寺

Sadojinguji_2Sadojinguji_3旧新穂村の神宮寺。八王子権現の別当寺として、文暦元年(1234)に建立されたと言われています。佐渡国分寺の末寺にもなったそうです。

Sadojinguji_4Sadojinguji_7左写真は境内にあった宝篋印塔。写真ではわかりにくいですが、結構巨大でした。銘には天明8年(1788)とありました。

ここのメインは右写真の銅鐘(重要文化財)。銘によると、永仁3年(1295)9月に「陸奥守平朝臣」の結縁助成のため、また「天下法界平等利益」のために佐渡の羽黒山正光寺(廃寺、旧両津市)に施入されたことがわかります。「平朝臣」は、佐渡守護でもあった北条(大仏)宣時を指すことがわかっています。
銘は肉眼では確認できましたが、写真だときついですね…。

2008.10.27

佐渡(19) 長安寺

Sadochoanji_2Sadochoanji_11小木を離れ、再び中央部へ。佐渡の寺院の中では比較的有名な長安寺(旧両津市)。山号は陽雲山。かつては天長寺と称し、天長8年(831)の開基とされています。中世では八宗兼学により繁栄を誇ったそうですが、天正17年(1589)の戦乱によって衰退したとのことです。
観応年間(1350年代)に「園中将」が都落ちして長安寺に住み、舞楽を教えたという伝承があるそうです。

Sadochoanji_4Sadochoanji_5上の左写真の仁王門には仁王像が安置されていますが、時期は中世のもののようで、運慶作という伝承もあるそうです。文永8年(1271)には既に存在したことが指摘されており、宝徳4年(1452)に修理が行われたそうです。ちなみに仁王門は元禄13年(1701)築。
本尊は阿弥陀如来座像(重要文化財)。ほかに朝鮮の銅鐘(重要文化財)も所蔵しています。若狭の海中から引き揚げられたものとされていますが、残念ながら両者ともに拝観できませんでした。

Sadochoanji_9Sadochoanji_10右写真のうち、真ん中の五輪塔は古そうです。特に説明はなかったので来歴はよくわかりませんが。

2008.10.25

佐渡(18) 小木の史跡

Iwayasan_2Iwayasan_3佐渡の南端に当たる旧小木町の史跡をまとめて。
まずは宿根木地区にある岩屋山洞窟。今は海抜約100メートルほどの山中にありますが、「海触洞」とのことで、波の浸食によって出来た洞窟のようです。洞窟の中からは縄文土器や人骨などが発見されたとか。
右写真にあるように、ここには磨崖仏が遺されています。いつのものかははっきりしていませんが、中世のものとする説が有力です。伝承では空海によるとも言われているそうですが、まあそこまで古くはないとは思います…。

KaichojiKaichoji_1小木港のほど近くにある海潮寺。越後の出雲崎(新潟県出雲崎町)に最も近い小木は、近世では佐渡の最も主要な港として発展しました。相川で産出された金も小木港にある木崎神社に運ばれ、本州へ渡ったそうです。
この海潮寺は大久保長安の被官で小木の代官となった原土佐という人物(甲斐の原氏の一族?)の菩提寺とされています。本尊は信州より持ち込まれたと言われ、境内にでんと構える「御所桜」は天然記念物に指定されています。順徳院のお手植えという伝承が残っています。

Ogi_2小木港には海運資料館があり、昭和36年(1961)まで現役だった和式の帆船である「幸丸」の展示館があります。
Ogi小木で有名なのはこれですね(笑)。「たらい舟」です。かつては女性が貝類や海藻を収穫するために使われた小舟ですが、今は観光資源となっています。結構乗ってる人がたくさんいました。私は乗りませんでしたが…。

2008.10.22

佐渡(17) 羽茂城跡

Hamochijo_2Hamochijo_8羽茂郷の東側山腹にあるのが羽茂(はもち)城跡(旧羽茂町)。本間氏の有力な分家である羽茂本間氏の本拠です。佐渡では最も規模の大きい城郭遺構とされています。右写真が本丸(五社城)。

Hamochijo_10Hamochijo_16羽茂本間氏は鎌倉後期頃に本家から分かれて羽茂に居住したと見られ、室町期には羽茂の「地頭」として室町幕府より安堵されていることがわかっています。彼らは幕府から奉公衆として把握されていました。佐渡には守護権力が及ばず、本家の雑太本間氏(檀風城雑太城)と分家の河原田本間氏(本拠地は今の佐渡高校にあった河原田城、旧佐和田町)、羽茂本間氏が島内の拠点に分散して居住し、一国支配を貫徹していたと言われています。

しかし戦国期になると内訌が始まり、特に河原田本間氏と羽茂本間氏との間で激しく争いました。羽茂本間氏は本州に近い地理的条件もあってか、越後長尾(上杉)氏と手を結び、勢力を拡大していったようです。
ところが天正6年(1578)の「御館の乱」の後、河原田本間氏らが対立していた上杉景勝に帰順すると、羽茂本間氏の本間高季(別名あり)は会津の葦名氏に寝返りました。その後天正17年(1589)に上杉氏の攻撃を受けて落城。本間高季は逃亡しようとしたところを捕らえられ、処刑されたそうです。
右写真は本丸の近くにあった墓石群。経緯はよくわかりませんが、落城時の戦死者を供養したものとされているようです。

HamochijoHamochijo_15右写真は城跡から眺めた羽茂の風景。今は海岸からかなり中に入った所にありますが、干拓をしたことが考えられますので、昔は海がもっと近かったかもしれません。

HamochidairenjiHamochidairenji_7羽茂にある大蓮寺。応永28年(1421)に羽茂本間氏の菩提寺として建立されたと言われています。境内の墓地で右写真の石造物を発見。中世まで遡るかどうか微妙なところですが、もしそうであれば本間氏との関係が窺われます。

2008.10.21

新米より古米。の時代

もう一つ、清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』を読んでいて印象に残った話。

実は中世では(というか、前近代は)新米よりも古米の方が値段が高かった、というエピソード。もしかしたら私もそのような史料を見たことがあったかもしれませんが、まったく気に留めたことがありませんでした。さすがに鋭い。

なぜ古米の方が高いか。その理由については実際に本を読んでいただくということにしまして(私は清水説に賛同です)、偶然にも史料を繰っていて下記のような記述を見つけました。

「粟田口畳サシ又左衛門弐石渡遣之、(中略)未進一粒も無之[古米一石、新米一石]渡遣之、」(『兼見卿記』文禄元年[1592]12月28日条)

吉田神社の吉田兼見が年末の支払に追われる中の一節ですが、京都粟田口の「畳サシ」職人である又左衛門に米2石を支払おうという場面。その内訳が「古米1石、新米1石」だったと注記されています。
今の我々の感覚でこれを読むならば、新米・古米の価格が異なるので、ほんとは安い古米で払いたいだろうけど、トラブルを避けるために半々にしたのだろう。…となります。これまでなら、きっとそう解釈してました。

ところが、真相はまったく逆です(笑)。実際は同量であれば古米の方が高価なので、新米だけでの支払が嫌がられるために古米を半分にした、というのが実像に近いと考えなければなりません。

事ほど左様に、現代的な生活習慣を無前提に遡及することがとんだ誤解を生むという戒めになるような話です。もちろん現代的な感覚が入り込むことに対しては研究者の皆さんは常に自制しておられると思うのですが、こういうごく日常的なネタについては落とし穴になってしまう危険があるのではないか、という気がします。みなさん気をつけましょう(笑)。

でも、やっぱ私は食べるなら新米ですね(笑)。

2008.10.19

佐渡(16) 度津神社

WatatsuWatatsu_1蓮華峰寺からさらに南下。海岸線へ出た後に北東側へ行くと羽茂郷へ。羽茂本間氏の本拠地に当たりますが、その集落の山側に鎮座するのが度津(わたつ)神社(旧羽茂町)。延喜式内社で、佐渡国一宮です。もっとも、一宮であることが明確に史料上で確認できるのは近世になってからだそうですが。元はもっと海に近い所にあったそうですが、15世紀後半に洪水の被害に遭って社殿や文書が失われたそうで、それ以前の経緯についてはよくわかっていません。佐渡一国の一宮というより、羽茂郷の鎮守と言った方がしっくり来るようなたたずまいです。

Watatsu_3Watatsu_5こちらは拝殿。本殿は宝永6年(1709)築とされています。

名前から「ワタツミ」の神を祭祀するとも言われているそうです。仮にそうであれば対馬の神社との関係が予想されるわけですが、もしそうだとすると海による繋がりが連想されて興味深いところです。

2008.10.18

「和市が多い」ってどういう意味?

中世の史料には、時々和市が「多い」とか「少ない」という言い回しが出てきます。

ではそもそも和市(わし)とは何か。ということで改めて辞書を引いてみると…。

「本来は平和裏の売買の意であったが、しだいに単なる売買の意に用いられ、さらに市場での売買価格、または時の相場・交換比率の意味に転じた。同じ地域内でも市場によって基準枡の容量が異なっていたため、相場=和市は貢納物の計算や商人間取引上、重要な機能をはたした。」(『角川新版日本史辞典』より)

と書いてあります。通常、「相場=和市」という理解が一般的ですね。実際には、史料上でも圧倒的にこの意味による用例で占められており、近世になると「相場」という言葉の方が定着して今に至っています(「相場」という言葉自体は16世紀になって見られるようになります)。

ところが、和市にはもう一つの、というか、本来的な意味のあることがわかります。つまり「単なる売買」を指すということです。これに従えば、和市が「多い」というのは、売買が多い=市場の活況を示し、少ないというのはその逆で、停滞状況を表す、ということになるでしょうか。

実は以前、私も論文でこれについて触れたことがあって、その時は「和市が多い」というのは市場に物資が溢れている状態(=取引の停滞状況)と理解したのですが、まったくの誤りであったことがわかりました…。

なぜこのことに今になって気づいたかというと、清水克行『大飢饉、室町社会を襲う!』(歴史文化ライブラリー258、吉川弘文館、2008年)を読んでいて(今頃読んでます…)、「和市等、ことのほか減少せしおわんぬ。当国の衰微なり」という文言のある史料を引用されているのを見てはたと膝を打った次第。ここで清水さんは「和市」の「減少」を「売買の低迷」と解釈しておられますが、これが正確な理解でしょう。

ところで私が論文を出した後に、桜井英治さんは「和市が多い」を「米高」、「少ない」を「米安」と解釈しておられますが(同「中世における物価の特性と消費者行動」、『国立歴史民俗博物館研究報告』113、2004年)、これも厳密な意味では正確ではない、ということになります。ただ私の従前の理解とはまったく逆ということもあって、今度著書を出すに当たって補筆して反論を試みたのですが(著書の話はまた改めて)、早くもそれが空論であったことが判明してしまいました。お恥ずかしい限りで…。

ただ、私が言いたかったのは、「和市が多い」ことによって物価が下落するということだったわけですが、これが完全に間違いだったとまでは考えていません。取引状況と物価については、少なくとも前近代の市場経済においてみれば、単純な相関関係で済む話ではないと思っています(例えばモノが溢れている=取引が停滞しているから物価が下がるか、といえば、そうとも言い切れない)。
しかしそれを示すためにはきちんと論じないといけないわけで、その点、私の主張には重大な欠陥がある、ということは認めなければなりません。きちんと反省しつつ、この問題にはなんらかの形でけりを付けたいと思います。

ああ、それにつけてもブルーだ(笑)。

2008.10.15

佐渡(15) 小比叡神社

Rengebuji_15Rengebuji_16蓮華峰寺の境内にある小比叡(こびえ)神社です(旧小木町)。

現地案内板によると、大同年間(9世紀初頭)の開創とされており、蓮華峰寺の鎮守だったようです。近代以降は神仏分離によって蓮華峰寺とは切り離されて今に至っています。
左写真にある石鳥居(重要文化財)は慶長13年(1608)築とされています。大久保長安と弟の安政が奉納したそうです。

Rengebuji_17Rengebuji_19覆屋に入っていて写真がいまいちですが、こちらが本殿(重要文化財)。三間社流造と呼ばれる建築様式だそうで、室町期のものとされています。

Rengebuji_24社殿の前には、このように墓がずらり。慶安5年(1652)に佐渡奉行所の役人であった辻信俊(藤左衛門)という人物が蜂起して蓮華峰寺に立てこもるという事件があったそうです(小比叡騒動)。この騒乱で蓮華峰寺は奉行所に攻撃され、多くの伽藍を焼失。辻は自害、当時の住持であった快慶は獄門に処せられたとのことです。この墓は、彼らの供養塔だそうです。

辻は清廉な人柄で役人の腐敗を弾劾しようとして失脚したとも言われるようになったそうで(事実かどうかはわかりませんが)、後世では悲劇のヒーローのような扱いになったようです。なので、この供養塔もしばらく経ってから建てられたのではないかと思います(すべて想像ですが)。

2008.10.14

佐渡(14) 蓮華峰寺

Rengebuji_14Rengebuji_27真野を離れ一気に南下。蓮華峰寺(旧小木町)へ。
佐渡でも随一の古刹で、9世紀の開創とも言われています。その後の歴史についてはわからないことも多いのですが、左写真の金堂(重要文化財)は、長禄3年(1459)の年号が入った墨書が見つかったことから、それ以前に建てられたものとされています。
右写真の弘法堂(重要文化財)は慶長14年(1609)築。真言宗でもあり、空海との関係が濃厚とされる伝承もあることから、空海を供養する堂舎として築かれたようです。

実はもう一つ、新潟県内最古の建築物とされる骨堂(重要文化財)があります。しかし、見落としてしまいました…。うっかりしてました。15世紀前半の建立とされています。この骨堂の下からは五輪塔が出土しており、現在は小木港にある佐渡考古資料館に展示してありました(こちらは拝見)。

Rengebuji_9Rengebuji_11Rengebuji_12

金堂の横にある仁王門と、力士像。文政5年(1822)のものだそうです。

このほか慶長期の鐘楼堂をはじめ、近世中期頃に建てられた堂舎が多くあり、山腹に大伽藍を形成しています。観光地化していないこともあって静かな雰囲気でした。
(次回に続きます。)

2008.10.13

2008年日本史研究会大会

今年もたくさんの方にお世話になりました(別に報告者でもなんでもないんですが(笑))。

懇親会では、世代を超えてお話しするのもいいんですが、気が楽というか、同世代の方々とは会話が弾みます。ま、私はあんまり発言せず聞き役でしたが(笑)。
より親睦を深めることができました。ありがとうございました。

それにしても、「見られている」ことを痛切に感じさせられました(笑)。それに怖じ気づいていたらブログなんてやってられませんが…。とはいえ、波風の立たないように、少し慎重な記事を心がけようかなと思います。もっとも、それではつまらん、と批判を受けそうですが(元々面白くもないのがますます、とも)。

買った本はおおよそ左のリストに並んでいるあたりです。研究会の雑誌販売があまり来てなかったかなぁ、という印象。いや、毎年あんなもんかな?

来年の歴研大会もどうぞ宜しくお願いします。
2009年5月23日(土)・24日(日)に中央大学(多摩)でやります。いや、遠いとはおっしゃらずにそこをまげて…。

2008.10.12

あっけない終戦

日本史研に行って帰ってきたわけですが…。

あっさり連敗でがっくりですわ。
相手のエースには負けて当然なんて姿勢ではお話になりません。
それでは、また来年(笑)。

2008.10.08

佐渡(13) 真野宮・順徳天皇火葬塚

Manojuntoku_7Manojuntoku国分寺から西へ下り、真野の街中を南へ向かうとあるのが真野宮(旧真野町)。ここも順徳院の居所とされていますが、死後は菩提寺となりました。墓地を管理する真輪寺という寺院です。ところが明治の廃仏毀釈によって、神社になりました。
日野資朝はわかるとして、なぜか菅原道真も合祀されています。おそらく明治政府によるものと思いますが、配流されたという身の上に繋がりを感じたのでしょうか。

Manojuntoku_4今はほとんど寺院の痕跡を見出せませんが、一つだけ、一石五輪塔が遺されています。銘には元亨2年(1322)とありました。真輪寺は修験の寺だったそうで、その全盛期の頃のものとされています。佐渡で年紀の刻まれた石造物では最古のものとのことです。

Manojuntoku_8Manojuntoku_11真野宮から山を登っていくと、順徳院の墓があります。といっても、「正式名称」は「御火葬塚」。順徳院は元治3年(1241)に死去してここで荼毘に付されましたが、遺骨は翌寛元元年(1242)に藤原康光によって京都の大原にある後鳥羽院の墓所の傍らに埋葬されたとのことです。
元々ここは「真野御陵」と呼ばれていましたが、大原の墓所が明治22年(1889)に「正式な」御陵とされたため、以後こちらは「火葬塚」と呼ばれています。ま、宮内庁方面の問題で、墓が二つあるとまずいということなのでしょう。

戦国期は荒れ果てたそうですが、延宝6年(1678)に国分寺とその末寺であった真輪寺(御陵別当)による修復願出によって、佐渡奉行曽根五郎兵衛が幕府の許可を得て復旧したそうです。石垣は明治8年(1875)のもの。

真野宮の隣には佐渡歴史伝説館という施設が最近できて、こちらに観光バスが結構来てました(私は入りませんでしたが、ここにある有名な方が働いているそうで、なるほどね…と)。ただその煽りを受けて火葬塚に行く人は減ったようで、火葬塚に併設していた土産物屋さんは暇そうでした。

2008.10.07

佐渡(12) 国分寺

Sadokokubunji_1Sadokokubunji_3妙宣寺から南西方向に山道を行くとあるのが国分寺(旧真野町)。諸国に築かれた国分寺の一つですが、建立年代は天平宝字8年(764)頃と推定されています。
中世まで七重塔が遺っていたようですが、正安3年(1301)に焼失、さらに享禄2年(1529)に火災に遭って寺宝を焼失したと伝わっています。

Sadokokubunji_5平安期のものとされる旧本尊の木造薬師如来(重要文化財)を所蔵しています。元は写真の瑠璃堂に安置されていました。瑠璃堂は寛文6年(1666)築。現在の伽藍は近世に整えられたようです。

Sadokokubunji_11Sadokokubunji_8瑠璃堂の裏側にあるのが、当初の国分寺の伽藍跡。七重塔の礎石も遺されています。この穴は柱穴? それとも全然別の経緯で開いたものでしょうか。遺跡の残り具合は、ほかの国分寺遺跡に比べて比較的優れているそうです。

立地としては高台というよりほぼ山の上にあって、少々不思議な感じがしました。国分寺といえばわりと開けた平地に立地していることが多いように思うのですが、それとは少し違うように見えます。交通の要衝というにも少し奥に入りすぎているような…。謎です。

余談ですが、国分寺が所在する縁で、旧新潟県真野町と東京都国分寺市は姉妹都市となっています。実は、この記事を書いている時点で、私にとって最も近所の武蔵国分寺にはまだ行ったことがありませんが(笑)。

2008.10.06

佐渡(11) 妙宣寺

MyosenjiMyosenji_7檀風城から南側の山を少し登るとあるのが妙宣寺(旧真野町)。
かつて順徳院に供奉した北面の武士である遠藤為盛の開基とされ、初めは旧金井町の新保にあったものの、嘉暦元年(1326)に本間泰昌によって雑太城(檀風城か)付近に移転、中世末期に現在地に移りました。境内の五重塔(重要文化財)は新潟県内唯一のもので、文政8年(1825)築と比較的新しいのですが、保存状態が良い点で貴重なんだそうです。

さて、この寺名を聞いて思い浮かぶ方もおられるでしょうけれども、日蓮との関わりの深い寺院です。日蓮が佐渡に流された後、遠藤為盛(入道して日得)夫妻がひそかに援助したことで知られており、日蓮真筆の曼荼羅や消息文を所蔵しています(重要文化財)。ほかに日野資朝の写経も所蔵しているそうです。公開はしていないようで、残念ながらこれらを拝見することはできませんでした。

Myosenji_16Myosenji_23境内には、日野資朝の墓があります。ご存じ後醍醐院の側近で、正中元年(1324)に倒幕計画が六波羅探題に露見した際、鎌倉へ送られた後に佐渡へ流されました。佐渡では本間氏によって幽閉されたとみられますが、再び後醍醐院の倒幕計画が露見した元弘元年(1331)には関与を疑われ、翌2年(1332)に処刑されました。明治期に南朝顕彰によって贈二位。

Myosenji_22そして、境内は元々城跡でした。戦国期に雑太本間氏はこの地に城郭を築きました。本拠である雑太城です。天文年間に築かれたとされ、曲輪は三つ、土塁や空堀の跡が残っています。写真が本堂の裏側にあったその土塁とおぼしき遺構です。
天正17年(1589)に上杉景勝の侵攻により敗れ、廃城となりました。この地を直江兼続が妙宣寺に安堵し、伽藍が築かれて今に至っています。

このように、佐渡の歴史を知る上で欠かせない所です。

2008.10.05

佐渡(10) 下国府遺跡・檀風城跡

ShimokouShimokou_1旧真野町に入り、国史跡の下国府(しもこう)遺跡へ。方形の敷地からなる遺構で、二重の堀に囲まれた二棟の建築遺構がみられます。9世紀初め頃の土器などが出土したそうです。
どのような遺跡であるかは明確にはなっていないようですが、遺構の特色や地名、国分寺も近いことなどから、国府に関連する官衙または官舎的色彩の強いものであり、佐渡国府に関わるものであった可能性が推測されているようです。

Danpujo
Danpujo_4下国府遺跡の近くにある檀風城跡。「雑太(さわた)元城」とも呼ばれており、本間氏惣領である雑太本間氏の初期居館跡とされています。正中の変(1324)で佐渡に流された日野資朝を預かることになった本間山城入道(泰宣ヵ)という人物はこの館に居を構えていたとされており、資朝の歌から檀風城の名で呼ばれるようになったそうです。

Danpujo_2その歌とは、「秋たけし檀(まゆみ)の梢(こずえ)吹く風に沢田(雑太・さわた)の里は紅葉しにけり」というもの。写真は城跡にあった「日野贈二位公旧跡」の石碑。明治のもののようですが、真ん中で折れてしまったようです。ちなみに、左右で表裏になっています。

2008.10.04

上州の文書と石碑

Tago_4先日、群馬県立歴史博物館の企画展「戦国武将からの手紙―博物館にとどいた中世文書―」を見に行きました。館蔵の中世文書のうち、書状を中心に展示する企画でした。
余計な演出は排して、文書を見せることに徹するというようなコンセプトに感じました。一般受けするかどうかは微妙なところですが、私にとってはこういうスタイルの方が好きです。
図録も写真が鮮明で非常に有益な内容でした。といっても発行は半年前。どうやら企画展に合わせて図録を作ったのではなく、先に中世文書をテーマとした冊子を作ってから企画展が準備されたようですね。

いろんな文書がありましたが、上杉謙信の書状が比較的多く展示されていました。土地柄もあるでしょうけれども、この辺は来年の大河ドラマをやや意識したのでしょうか(笑)。

この博物館には初めて行ったので、常設展も観覧。かの有名な『長楽寺文書』がここに寄託されていることを知り、ふむふむ、と。さらにいろいろ眺めていると、この地域には古代の石碑がいくつかあるらしい…。

というわけで、見に行きました(笑)。
その一つが写真の「多胡碑」(群馬県吉井町)。詳細はまた改めて記事を立てたいと思いますが(いつになるやら…)、和銅4年(711)に上野国多胡郡が設置された経緯が刻まれています。『日本書紀』にほぼ同様の記事があるらしいですが、8世紀後半の建立とされているそうで、石碑が造られた経緯はよくわかりませんが、よく現代まで残ったものだと感心しきりです。

この地域についてはあまり詳しくないのですが、古代には既に開発が進んだ地域だったようで、古代遺跡や古墳も多く遺されているそうです。もっとも浅間山の被害も深刻な地域であったわけで、天仁元年(1108)の大噴火が古代の繁栄を無に帰してしまったのかもしれません。新田義貞が去来したとはいえ、中世では上州が「草刈り場」になったのも、そういう影響かなぁ…などと根拠もなく空想したり。
ちなみに山名氏の故郷でもありますが、それもまたのちほど。

2008.10.03

21世紀初

Img_2384_2Img_2382なんだか未だに信じられませんが、某チームが9年ぶりにAクラスになってクライマックスシリーズ出場が決まりました。
リーグが団子状態になったことに救われた感もありますが、7月までいつも通り最下位だったことを思うと、いやはやびっくりです。

この数年はろくでもないことばかりでしたが、辛抱した甲斐が少しはあったということでしょうかねえ。重畳々々。

2008.10.02

佐渡(9) 佐渡国守護所跡

Sadoshugosho_1Sadoshugosho_2旧畑野町下畑地区にある佐渡国守護所跡。…ということですが、今はただの畑です(笑)。場所を特定できず散々探し回った結果、やっと見つけました。
かつて熊野神社があり、その石碑の残る場所という情報を頼りに、なんとか発見。といっても、なぜここが守護所跡とされているのかは、見る限りではよくわかりませんでした。

郷土史では、鎌倉期の守護所が波多郷にあったとされているそうで、それに当てはまるこの地域が比定されたようです。鎌倉期の佐渡守護は北条一門の大仏氏でしたが、守護代として本間氏が相模国から移り、中世にかけて在地支配を展開してゆきます。はじめて佐渡へ渡ったのは本間重連という人物だったそうで、日蓮が流された折りも、受入を担当したとのことです。

Juntokuojo近くには順徳院が佐渡で生んだ第一皇女である慶子の墓があります。先の忠子は若くして亡くなりましたが、この人は62歳まで生きたようです。
さらにこの近くには皇子の墓もありましたが、こちらはパス。まあ多分同じような造りだろう、ということで…。

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