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2008.11.14

大宰府(4) 武藤資頼・資能墓

Muto_2大宰府政庁の裏手、山裾のひっそりとした所に、武藤資頼・資能の墓とされる石塔があります。向かって左側が資頼、右側が資能とされています。

Muto_4武藤氏の出自は諸説あるようですが、秀郷流藤原氏の一族であることは確かなようです。治承・寿永の乱の時期には関東に根を下ろしていたようですが、この時期に活躍した武藤資頼は、当初は平氏に与したものの、赦されて鎌倉幕府の御家人になったとされています。
資頼は建久7年(1196)に鎮西奉行になり、大宰府に西遷したとされています。筑前守護となったほかに大宰少弐にも正式に任じられて基盤を築き上げ、少弐氏の祖ともいうべき存在になりました。

この五輪塔は不揃いですが、唯一の「方形五輪塔」とされており、非常に珍しい形状なんだそうです。

Muto_3そしてこちらの宝篋印塔は、資頼の子である資能の墓。資能は鎮西奉行を受け継ぎ、晩年には入道して覚恵と称しましたが、その後文永の役に際しては総司令官の役割を担い、子の景資らとともに軍勢を率いて百道浜(現福岡市早良区)で奮戦したとされています。
弘安の役の際にも河野通有や大友貞親らとともに戦い、84歳で戦死したと伝わっています。

この墓のある場所の周囲に今は何もありませんが、かつては観世音寺の子院である安養寺があったとされています。資頼の法号は安養院殿であったとされており、彼の菩提寺として建立された寺院だったものと考えられます。

■福岡県太宰府市

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