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2008年11月

2008.11.27

志布志 大慈寺

Daijiji_13Daijiji_9やっと2008年サマーセミナーのシリーズ開始です。
主に大隅半島の東側をまわりました。特に志布志が中心です。元々この地は日向国に属しましたが、政治的経緯があってか?今は鹿児島県になっています。

その中心にあるのが大慈寺。禅宗寺院で、興国元年(暦応3年、1340)に楡井(にれい)頼仲によって建立されました。系譜的には不明な点も多いようですが、楡井氏は信濃国を出自とする村上源氏の一族と言われています。頼仲は南朝方として志布志に拠点を構えていた人物です。
Daijiji_14確か、この写真の奥右側の宝篋印塔が、頼仲の墓だったと思います。懐良親王が九州に入った折りにも呼応したそうで、南朝方の中心人物だったようですが、正平12年(延文2年、1357)に北朝方の禰寝(ねじめ)氏に敗れ、自刃したそうです。
楡井氏は滅亡しましたが、縁戚関係にあった薩摩の別府氏が仁礼(にれ)氏として名跡を継承したとも言われています。

Daijiji_2開山は玉山玄提(ぎょくざんげんてい)。この人も信濃の出身で、何か楡井氏と誼があったのでしょうか。南禅寺で開山の無関普門(この人も信濃出身)に学んだ後中国へ留学し、その後志布志へ招かれました。その後十刹に数えられてもいます。写真は少し離れた所にある玉山和尚の開山堂。

志布志は日明交易にも関わった港とされており、大慈寺も関与したことが窺われています。興味深い文化財も遺されており、今回は拝観させていただきました。

Daijiji_6Daijiji_5興味深いことに、近くの子院・即心院跡には島津氏久の墓があります。南北朝期の島津氏の当主ですが、大隅守護になって(後に解任されますが)志布志を拠点としていた時期があり、即心院を建立しました。そういう経緯により、即心院主が供養のために建立したもののようです。嘉慶元年(1387)閏5月4日の日付が刻まれていますが、氏久の命日がこれに当たります。

近くには戦国期にこの地域で勢力を張った肝付兼続の墓もあったんですが、行けませんでした。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

2008.11.26

大宰府(8) 太宰府天満宮

DazaifutenmanguDazaifutenmangu_5最後はもちろん太宰府天満宮。菅原道真の墓所に、延喜19年(916)に建立。10世紀末に道真に対して「天満大自在天神」という神号が贈られたことにより、「天神」という呼び名が定着しました。
左遷された道真の祟りを恐れて建てられたという話はよく知られていますが、中世まで降ると、学問の神としての信仰対象となるようになり、現在に至っています。右写真の本殿(重要文化財)は16世紀末期頃の築とされています。

とはいえ実は、前近代では神社というより寺院としての性格が濃厚で、安楽寺と呼ばれていました。中世では多くの僧兵を抱える地域の有力な権門寺院となってゆきます。
菅原氏一族の大鳥居氏らが朝廷からトップの別当に任命されていましたが、実際に下向することはほとんどなくなり、留守居として現地の僧侶が取り仕切っていたとされています。
境内には坊舎だけではなく塔も建っていたようですが、近代の廃仏毀釈によって破壊され、寺院の痕跡は今ではほとんど見られません。

Dazaifutenmangu_3境内に建つ志賀社(重要文化財)。ここで足を止める人はあまり居ませんが、境内では最も古い建築物で、長禄2年(1458)築。祭神は「海神綿津見三柱神」。
「ワタツミ」といえば対馬。安楽寺が海上の安全を祈願して勧請したと言われており、海上交易との関わりを窺うことができます。

Dazaifutenmangu_10_2九博へ行く道すがら見かけた「如水の井戸」。豊臣秀吉の側近として知られ、福岡藩の礎ともなった黒田孝高(よしたか)が、ここに草庵を建てた名残なんだそうです。

太宰府といえば飛梅。そして梅が枝餅(笑)。観光地の名物にしては美味いと評判なんですが、賞味期限が短いため買うのはあきらめました。

■福岡県太宰府市

2008.11.25

初冬のみちのくへ

先の三連休は東北へ出張でした。

で、その空き時間を利用して、仙台市博物館で開催中の特別展「平泉~みちのくの浄土~」を見に行きました。

いやあ、圧巻でした。金色堂の仏像もお目見えで、平泉にまだ行ったことがない(笑)にもかかわらず、実際に行くよりずっと近くでじっくり拝観できた気になってます。
この展覧会は遠征してでも一見の価値ありだと思います。

出張中は仙台で一泊したわけですが、牛タンやら牡蠣やら堪能させていただきました。ついでに仙台っ子ラーメンも。

仙台もいいですが、そろそろ松島にも一度は行きたいなあ…。温泉付きで。

2008.11.22

大森貝塚遺跡

Omorikaizuka_6Omorikaizuka_1JR大森駅から品川歴史館に歩いていくと、途中に大森貝塚遺跡庭園があります。

大森貝塚といえば、知らぬ者はないほど名前はよく知られています。でも、どんな遺跡だっけ?というと、そこらへんが少々怪しい、という方もおられるのでは(笑)。

アメリカ人の動物学者として来日していたエドワード・シルベスター・モースが、明治10年(1877)にたまたま現在の東海道線に乗っていると、大森の辺りで崖から貝殻が見えているのを見つけて発掘を始めたのがそもそものきっかけだったとされています。今、線路のすぐ脇には、左写真の石碑が建っています。

Omorikaizuka_2モースにとっては当たり前の調査活動だったんでしょうけれども、まだ維新間もない日本にとっては、これが実質的に初めての発掘調査という位置づけで、この大森貝塚は「日本考古学発祥の地」と言われています。現在は国史跡。貝塚そのものは縄文時代後期~晩期頃のものだそうで、モースが採集した遺物は重要文化財に指定されています。

写真の銅像、先日来たらしい子孫の人(実際は遠縁のようですけど)があまりに自分にそっくりで驚いたそうです(笑)(→こちら)。

Omorikaizuka_3Omorikaizuka_4園内には写真のような遺構が展示されています。右写真の遺構は実際に発掘された本物だそうです。

ところで名前は大田区の「大森」ですが(「大田」の「大」)、この公園は品川区のはじっこで、ちょうど境目に当たっています。ま、どっちでもいいっちゃいいんですが…。もっとも地元はそういうわけにはいかないようで、結構「境目」ゆえの行政間での歴史もあるようです。
ちなみに大森駅のホームにも大森貝塚のモニュメントがありましたが、さすがに恥ずかしくて写真は撮れませんでした(笑)。

■東京都品川区

2008.11.21

品川湊と後北条

Kanagawakenpaku中世をテーマにした企画展が終了間近だったので、あわてて行ってきました。

まず一つ目は品川区立品川歴史館の特別展「東京湾と品川―よみがえる中世の港町―」。
90年代後半に太平洋海運の研究が熱を帯びましたが、その際、品川の史料が大きく注目されました。船名などが書き上げられた14世紀末頃の史料と思われる「湊船帳」というやつです(称名寺所蔵)。今では議論が下火になった感もありますが、まだその史料の位置づけについては決着していませんので、再び議論が高まるといいですね。

ほかに今も品川に残る寺社の所蔵物などが展示されて、なかなか見応えがありました。図録も非常によくできていて、今後なんらかの役に立ちそうです。実際に品川を一度歩いてみたいものです。

そしてもう一つは神奈川県立歴史博物館の特別展「戦国大名北条氏とその文書―文書が教えてくれるさまざまなこと―」。
こちらは既に行った人から感想を聞いていたのですが、思ったよりも展示が多くて、結局最後は時間切れになってしまいました。まあ、文書を一点一点読んでるからそうなるんですが(笑)。館蔵文書が中心ですが、個人的には天正18年(1590)以後(つまり小田原開城後)の北条氏関係史料が面白そうだったなあ。この辺時間がなくてほとんど見られず残念。図録で我慢します。

去年はこれでもかと関東の中世をテーマにした企画展がありましたが、今年はその反動か、おとなしめでしたね。
来年はどこでどんな企画展があるか、愉しみに待ちたいと思います。

ちなみに写真は現在は神奈川県博の一部になっている、旧横浜正金銀行本店本館(重要文化財)。明治37年(1904)築。
県博周辺ではガイドブック片手に歩いている方を多く見かけましたが、私は見終わるとそのままさっさと帰宅しました。我ながらそっけない(笑)。

2008.11.20

大宰府(7) 光明寺・伝衣塔

Dazaifukomyoji_1Dazaifukomyoji_2太宰府天満宮の近くにある光明寺。文永10年(1273)に、菅原氏出身という禅僧の鉄牛円心(てつぎゅうえんしん)によって建てられた禅宗寺院です。「聖一国師」と称され、京都東福寺などの開山となった留学僧円爾(えんに、弁円とも)の一番弟子と言われています。師の伝記である『聖一国師年譜』を執筆したことでも知られています。

ただ寺は一度廃絶したようで、近世になって復興しています。境内の石庭は九州唯一なんだそうです。

Dazaifukomyoji_4寺のそばにある伝衣塔(でんえとう)。
現地看板によると、「大宰府横岳の崇福寺にいた聖一国師の夢枕に菅神(菅原道真公)が現れ禅の教えを問うた。そこで国師が宋(中国)の仏鑑(ぶっかん)禅師を紹介したところ、菅神は一夜のうちに宋に渡り、忽ちに悟りを開いて戻って来られたという。渡宋天神の話であるが悟りの証にもらった法衣を聖一国師の弟子の鉄牛円心和尚が納めて建てた塔が伝衣塔であり、その時創建された寺が光明禅寺と伝えられる」とのこと。
なお、崇福寺は近世に福岡城下(現福岡市博多区)へ移転し、跡地には別院が建っています。

大きな岩にかわいらしい宝塔が建っています。時代としては、どうでしょうねえ? 中世かどうかは微妙かも。ともかくも、菅原道真に絡んだ伝承があるというのは、いかにもな感じがします。

■福岡県太宰府市

2008.11.19

見るまえに跳べ

長らく探しているある絶版本がありまして、この本、時々神保町で探してるんですが全然見つかりません。
ところがその本が先日、「日本の古本屋」にかなり安い値段で出ていました。

ここですぐに購入すればよかったんですが、とりあえず緊急に欲しいものではないし、後にしよう、と。そしてそのままずるずると。一週間ほどしてもう一度探してみたら、既にありませんでした…。

古書を買う際の常識ではあるんですが、見つけたらすぐに手を伸ばすべきでした。失敗。
というわけで、もうしばらくこの本を探す旅が続きそうです(アマゾン等にも出ていますが、やっぱ値段がねえ)。

ところで最近、アマゾンの検索機能が急激に劣化して不満です。インターフェースを最近変えたようですが、そのせいでしょうか。出版社名で検索しても、その出版社の本が全然捕まらず、無関係な本ばかりズラズラ並んでいます。アマゾンは性質上絶版本もリストアップされるので、昔は使い勝手が良かったのになあ。


最後ですが、著書が発売になりました。宣伝文に、貨幣は「国家権力と不可分」とありますが、私はそのつもりでは書いておりません(笑)。私がうっかりチェックしそびれたこともあるんですが、誤解が広まらぬよう、ここでこっそり修正をお願いしておきます。
しかし私が言うのもなんですが、なんでこんなに高いんですかねえ…。

2008.11.18

近江塩津に注目

先日も各紙ででかでかと報道されていましたが、滋賀県西浅井町にある塩津港遺跡の発掘にはかなり注目が集まっているようですね。

この塩津というのは琵琶湖の最北端にあり、北陸との流通の結節点として栄えた港町ですが、特に中世初期(12世紀頃)の興味深い遺構や遺物が次々と発掘されています。
今後の発掘調査の進展や分析の進行によって、当該期の流通に関するイメージが大きく変わる可能性がありますので、個人的にしばらくこの遺跡に注目したいと思います。さしあたり、滋賀県埋蔵文化財センターのHPは随時チェックしようと、という程度ですが(笑)。

この遺跡、将来は教科書に載るほどになるのではないか、と言ったら大袈裟ですかね(笑)。でも、草戸千軒以来の発見となる可能性はひしひしと感じます。

2008.11.17

大宰府(6) 観世音寺

Kanzeonjiおそらく九州で最も由緒のある寺院と言ってもよい、観世音寺です。

大宰府政庁の東側に「府の大寺」として建立されました。斉明天皇が九州で死去したことから、子の天智天皇が菩提を弔うために建立を発願したという記述が『続日本紀』にあるそうです。実際には天平18年(746)に完成しました。もっとも7世紀にはすでに完成していたという説もあるそうですが。
天平宝字5年(761)には戒壇(現戒壇院)が設置されましたが、これは奈良東大寺(奈良市)、下野薬師寺(廃寺、栃木県下野市[旧南河内町])と並んで「日本三戒壇」と呼ばれています。

写真の本堂(講堂)は近世に福岡藩主黒田光之が再建したものです。

Kanzeonji_3Kanzeonji_4目玉は左写真の梵鐘(国宝)。京都妙心寺(京都市右京区)に伝来し、「戊午」年(698)に筑前国糟屋郡で制作された梵鐘(国宝)と意匠が共通しており、この梵鐘も同時に制作された可能性が高いとされています。
この梵鐘に関しては、菅原道真が「都府楼はわずかに瓦色を看、観音寺はただ鐘声を聴く」(原漢文)と詠んだそうです。

右写真は境内にある、かつてあった五重塔の礎石。

境内には宝蔵があり、重要文化財に指定されている平安期頃の仏像が多く展示されています。ただ、私は時間の関係上今回はパス。また来ることがあればじっくり拝観したいものです。

■福岡県太宰府市

2008.11.16

大宰府(5) 戒壇院

KaidaninKaidanin_2観世音寺の隣にある戒壇院。西海道の僧尼に戒律を授ける役割を担った寺院だそうです。現在は独立した寺院となっています。

本尊の盧舎那仏坐像(重要文化財)は平安後期のものと考えられています。例によって?見られず。

Kaidanin_4Kaidanin_5境内には石造物が並んでいます。左写真は五重塔。戒壇院の再建に尽力した博多の豪商天王寺屋の浦了無の供養塔だそうです。貞享2年(1685)築。

右写真は鑑真の供養塔。戒壇院は鑑真の開基とされており、その由緒によるものなのでしょう。左側の宝篋印塔に、天明7年(1787)の陰刻があります。

Genbo_1裏手には僧正玄昉(げんぼう)の墓があります。彼は阿倍仲麻呂・吉備真備らと共に遣唐使として中国に渡航し、留学僧として中国に18年間滞在。当時の皇帝である玄宗から称号を与えられたりするなどして帰国。
ところが天平17年(745)に藤原仲麻呂と対立したため失脚して左遷され、観世音寺別当となりました。翌年死去したそうですが、『続日本紀』によると、政敵である藤原広嗣の祟りとも言われたそうです。
この墓は胴塚と伝わっているそうですが、この地域では珍しく板碑になっています。いつのものかはわかりませんでした。

観世音寺については次回。

■福岡県太宰府市

2008.11.14

大宰府(4) 武藤資頼・資能墓

Muto_2大宰府政庁の裏手、山裾のひっそりとした所に、武藤資頼・資能の墓とされる石塔があります。向かって左側が資頼、右側が資能とされています。

Muto_4武藤氏の出自は諸説あるようですが、秀郷流藤原氏の一族であることは確かなようです。治承・寿永の乱の時期には関東に根を下ろしていたようですが、この時期に活躍した武藤資頼は、当初は平氏に与したものの、赦されて鎌倉幕府の御家人になったとされています。
資頼は建久7年(1196)に鎮西奉行になり、大宰府に西遷したとされています。筑前守護となったほかに大宰少弐にも正式に任じられて基盤を築き上げ、少弐氏の祖ともいうべき存在になりました。

この五輪塔は不揃いですが、唯一の「方形五輪塔」とされており、非常に珍しい形状なんだそうです。

Muto_3そしてこちらの宝篋印塔は、資頼の子である資能の墓。資能は鎮西奉行を受け継ぎ、晩年には入道して覚恵と称しましたが、その後文永の役に際しては総司令官の役割を担い、子の景資らとともに軍勢を率いて百道浜(現福岡市早良区)で奮戦したとされています。
弘安の役の際にも河野通有や大友貞親らとともに戦い、84歳で戦死したと伝わっています。

この墓のある場所の周囲に今は何もありませんが、かつては観世音寺の子院である安養寺があったとされています。資頼の法号は安養院殿であったとされており、彼の菩提寺として建立された寺院だったものと考えられます。

■福岡県太宰府市

2008.11.13

大宰府(3) 筑前国分寺跡

Chikuzenkokubunji_4Chikuzenkokubunji_6筑前国分寺跡です。各国に建立された国分寺ですが、筑前国は大宰府の近隣に設置されました。

発掘調査の結果、講堂や塔・回廊の一部が確認されており、発掘後には整備されて塔や回廊の基礎部分を見ることができます。写真の礎石は、塔のものです。右写真の奥側には、回廊の遺構があります。左側の伽藍は現在の国分寺です。講堂跡に建っています。

Chikuzenkokubunji_5Chikuzenkokubunji_1左写真は、塔跡から上の写真とは反対側の風景。現国分寺の前に灯籠が建っています。

右写真は、近くにある国分尼寺跡。といっても、今はただの田んぼ?で、遺構などは見た目ではわかりませんでした。礎石が一つだけ遺っていたそうですが、見あたらなかったような…?

■福岡県太宰府市

2008.11.11

ありまひょうえの…

わけあって現在は近世文書と格闘中。
いやはや、少し時代が降るだけで用語が全然わからんというのは、いけませんわ。もっと勉強しないとなあ。

それにしても1600年代の前半というのは、単に権力者や社会システムだけじゃなく、使う言葉から文字の形まで、なんでこんなに劇的に変わったんでしょうかねえ。この変革(ちぇいんじ)の度合いはすさまじい。2000年代の前半はどうなることやら。


沖縄から帰って、すぐさま先週末は帰省。父親の還暦祝いということで有馬温泉へ行きました。有馬に前回行ったのってもう20年以上前かもしれない(いつだったか記憶にない)。関西の方ならCMの歌が浮かぶであろうあの旅館。宿泊はしませんでしたが、入浴。

実はこの旅館、『蔭凉軒日録』に登場するとされる有馬でもきっての老舗です。つまり季瓊真蘂が入った湯。彼は失脚寸前にここで懇意の浦上則宗らとどんちゃん騒ぎをやってましたが、その様子を思い浮かべつつ…なんてはずはなく(笑)、入っていた時は太閤さまの気分で。

その後、東京へとんぼ返りして友人の結婚式二次会へ。楽しませていただきました。

とまあ、わりと充実してる感はあるんですが、自分の仕事は全然やってません…。ここでさぼると半年後、一年後に響くんだよなあ…。まずいなあ。ちょっと焦りも感じる今日この頃です。

2008.11.10

大宰府(2) 水城跡

Mizuki_5大宰府政庁跡から自転車で10分ぐらい走ると、水城に辿り着きます。

ここもあえて説明する必要はないとは思いますが、天智2年(663)の白村江の戦で敗れた後に築いた防衛施設の一つで、翌664年に築かれた土塁です。土塁には濠や濠への導水用の木樋(もくひ)があり、土塁を通過する官道の東西に城門がありました。現在は国の特別史跡。

Mizuki_2Mizukiそして右写真が、その城門のうち東門の礎石です。「水城」と書かれた土器も出土しているそうです。

まあなんといっても、水城は上空写真から見ると一目瞭然です。

■福岡県太宰府市


大きな地図で見る

2008.11.06

大宰府(1) 大宰府政庁跡

Dazaifu_1これからしばらくは、8月に行った大宰府関連史跡の紹介です。細かいですが、「大」と「太」の違いは留意。
暑い中、レンタサイクルを借りてまわりました。大野城など山城は行ってませんが、自転車は結構便利です。多少のアップダウンはありましたが、それほど苦になるレベルではないです。西鉄太宰府駅で借りられます。

さて、最初は大宰府政庁跡。国の特別史跡に指定されており、ここは歴史にあまり興味のない人もなんらかの形で行ったことのある人は多いのではないでしょうか。ちなみに私はこれで3回目。

Dazaifu_3Dazaifu_4あえて説明する必要もないと思いますが、言うまでもなく古代における九州の政治の中枢機関です。発掘調査によると7世紀後半に掘立柱建物、8世紀初頭に礎石を用いた建物が建てられていたことがわかっているそうで、藤原純友の乱(承平・天慶の乱)によって焼き討ちされた後、10世紀後半に再建。現在遺る礎石はこの時のものだそうです。

「都府楼」の別名がありますが、これは元々大宰府が「都督府」という唐名で呼ばれたほかに、菅原道真が「都府の楼」と称したことに由来しています。

…と、現地の案内もここまで(笑)。平清盛が大宰大弐になった後に中枢機能が博多へ移ったため、中世には廃れたというのが一般的理解です。ただし鎌倉期になると御家人の武藤資頼が大宰少弐となって西遷し、この地域に拠点を構えて北部九州に支配を及ぼしていきました。ご存じの通り、この一族が戦国期まで勢力を張った少弐氏となります。

少弐氏の居所は実のところまだはっきりわかっていないようですが、政庁周辺にあったようにも思えます。居城は大宰府の北東部・宝満山にある有智山城(福岡県太宰府市)だと考えられているようです。

ちなみに、遺物を展示する施設(大宰府展示館)が併設されています。私は時間が無くて寄りませんでしたが…。

■福岡県太宰府市

2008.11.04

ハイサイ琉球・沖縄

Nakijin_13Shuri_36昨日までの三連休の間は、沖縄へ行ってきました。
私にとってまったく初めての沖縄入り。今でこそ同じ日本とはいえ、持っている歴史と文化はまさしく「異国」。ふとしたことにもいろんな違いが見えて、とても面白かったです。

とある研究会の開催に合わせてでしたが、同時に代表的なグスクをいくつか巡見しました。残念ながら天気があまり良くはなくて当初予定していながら行けなかった所もありましたが、最も美しいとも言われる今帰仁(なきじん)城(沖縄県今帰仁村、左写真)に行けたので充分に満足いたしました。
右写真は、今や代表的な観光スポットの首里城(那覇市)です。

研究会そのものの内容についてはここでは詳しく触れませんが(別に秘密というわけではないです)、たくさん刺戟をいただきました。
しかしながら、今回とんだ失態を犯してしまって一部の報告を聞くことが出来ず、大いに悔いを残してしまいました。この件に関しては、関係者のみなさまにご迷惑をおかけしてしまいました。お詫び申し上げます。

ともあれ、是非ともまた沖縄に行きたいと思いながら東京へ帰ってきました。次回は個人的な旅行の形で、とことん史跡を廻り尽くしてみたいな、と。いつになるかはわかりませんが、行くならむしろ近い内かな…。
行った所は例によって追々詳しく紹介しようと思いますが、これも例によって(笑)かなり先になります。

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