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2008年12月

2008.12.31

2008年回顧

今年ももう残すところ1日を切りました。
早いものですねえ。

今年は著書を刊行することができまして、私としては節目とすることができたように思います。

ただ、論文生産力は去年に比べるとがた落ち…。2本書きましたが、投稿はゼロ。研究会での口頭報告もゼロ。
この辺はちょっと反省せねば…。来年はがんばって2本以上(依頼以外で)と行きたいところです。まあ単に数の問題ではなくて、質が伴っていないと意味はないですが…。

来年が今年より少しでも良い年になるといいですね。
どうぞよいお年を。

2008.12.29

相模国分寺跡

Sagamikokubunji相模マニアックシリーズの最後は相模国分寺跡。
周囲は住宅地となっていますが、遺跡は公園というより広場のようになっています。地元の子供さんたちにとって恰好の遊び場のよう(なので、写真撮るのには少々難儀しました(笑))。

相模国大住郡(現在の海老名市)に国府が置かれ(こちら参照)、国分寺もこの地に設置されています。
平安期に何度か建て替えられたようですが、中世を迎える段階では既に廃れており、鎌倉期には少し離れた所に移転。こちらの国分寺は今に続いており、鎌倉期の梵鐘(重要文化財)も遺されています(行きたかったけど、時間の都合で行けませんでした)。

Sagamikokubunji_1Sagamikokubunji_2こちらは金堂跡。遺跡を示す石碑が建っています。


Sagamikokubunji_3Sagamikokubunji_7右写真は七重塔跡。例によって巨大な礎石がここにも遺っていました。

左写真は回廊跡。このように、一部の遺構は整備されています。現地看板によると、史跡公園として全面的に整備する予定になっているそうですが、ゆっくりとといった感じでしょうか。それとも昨今のご時世によるのでしょうか、私が行った時は特に整備作業が行われている形跡はありませんでした。


国分寺とは直接関係ないですが、海老名といえば、あの播磨国矢野荘(現兵庫県相生市)の地頭(「下海老名氏」)として有名ですね。もちろんこの地を出自としています。
相模に残った一族は和田義盛の乱で討伐されたそうで、没落。後には北条氏御内人に海老名氏の名前もあるそうですが、足利氏被官になった人もいたようで、室町期にはその一流が鎌倉府の奉公衆になっています。しかしそれも永享の乱で没落したそうで。

■神奈川県海老名市

2008.12.27

星谷寺

Zamashokokuji_4座間の星谷寺(しょうこくじ)へ。本尊が聖観音像であることから、「星の谷(ほしのや)観音」とも呼ばれています。

Zamashokokuji_1Zamashokokuji_7ここの梵鐘(重要文化財)は、嘉禄3年(1227)の年紀が刻まれており、東日本では屈指の古さを誇る鐘です。

大檀那として「源朝臣信綱」の名もあり、この人物は近江源氏の佐々木信綱とされています。
佐々木氏は平氏政権によって近江を追われて相模国の武士である渋谷氏を頼ったそうで、信綱は承久の乱で幕府方として活躍。近江守護となっていましたが、さらに近江で地頭職を得ています。
鐘が造られた前年の嘉禄2年(1226)には、九条頼経の征夷大将軍宣下のための使者として上洛しているそうですが、この鐘は、佐々木氏が相模に居住していたことを傍証する貴重な資料とのことです。
佐々木信綱と星谷寺との関係はよくわかりませんが、父祖による渋谷氏との縁が推測されているようです。

Zamashokokuji_5こちらは境内にある巨大な宝篋印塔。宝暦13年(1763)のものだそうです。高さは5m以上あるとか。

■神奈川県座間市

2008.12.26

本間氏墓所

Kentokuji_1厚木の建徳寺には、本間氏累代の墓があります。
本間氏は村上源氏の末裔を称する(実際は武蔵横山党小野氏か)海老名氏の一族で、源平期に本間能忠が相模国高座郡本間(現神奈川県座間市)に居住したことにより、本間氏を名乗ったとされています。その後同国愛甲郡依知郷(現神奈川県厚木市)に移ったとされ、この墓所はその居館跡とされる地にあります。

以後佐渡国守護(実際は守護代か)となって土着したことは知られていますが、本貫である依知郷に一族が残っており、この墓は南北朝から室町期にかけてのものと考えられているそうです。

本間氏は元々は大仏北条氏に属したようですが、相模に残った一族は鎌倉幕府滅亡時に南朝方へ寝返り、新田義貞と行動を共にしている様子が『太平記』に描かれているとか。当時の人である本間資忠が正平13年(延文3、1358)に武蔵多摩川矢口(現東京都稲城市)で義貞の子・新田義興とともに戦死。
この時没落したとみられ、その後は足利将軍家の近習となったとも言われています(…が、実際はどうでしょう?)。

KentokujiKentokuji_3元々は生け垣に囲まれて並んでいたそうですが、近年の墓地の整理によってこのように並べ替えられたそうです。

周辺には本間氏にまつわる伝承のある寺社がいくつかあるようなので、時間があればじっくり歩いてみるのもいいかもしれませんね。

■神奈川県厚木市

2008.12.25

串橋の中世石塔群、と思っていたら…

KushihashiKushihashi_2伊勢原市串橋地区にある中世の石塔群。
元々は近隣各地にあったものだと思いますが、開発などに伴ってここに集められたのでしょう。

鎌倉期のこの地域の武士という善波太郎の墓という伝承がるそうです。
…とおもったら、どうもそれはこれではなかったらしい(こちらこちら参照)。石標にもあるように、これは「道祖神」として今は祀られている石造物群で、伝善波太郎墓は別の場所にあったようです。案内板などもなく苦労してこれを見つけて満足していたんですが、とんだ失敗です(笑)。マニアックツアーには付き物というべきか。
まあひっそりたたずむ石造物を見ることはできたので、ひとまずは満足ということで。

■神奈川県伊勢原市

2008.12.24

太田道灌首塚

DokankubizukaDokankubizuka_1さて、こちらが太田道灌首塚とされる所です。遺構などで証明されていはいませんが、この辺りが道灌の殺害された「糟屋館」跡とされています。

Dokankubizuka_3この地に拠点を構えた扇谷上杉氏はご存じの通り、鎌倉・室町期にかけて東国で勢力を張った上杉氏の庶家で、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)に居館を構えていたことから「扇谷」の通称で呼び習わされています。

もっとも惣領家に当たる山内(やまのうち)上杉氏や、一族の犬懸(いぬがけ)上杉氏(上杉禅秀の乱で没落)のように関東管領や守護職を持たず、どちらかといえばぱっとしない一流でした。
永享の乱の後、享徳の乱など関東では内乱状態になりますが、当時の扇谷家当主の上杉定正は山内上杉氏に随って足利成氏を古河に追い払います。もっとも、この辺りの戦況は、太田道灌の活躍が第一と見られているそうですが…。ともあれそのような経緯によって、扇谷上杉氏は武蔵国河越(現埼玉県川越市)を本拠に据えて、南関東で飛躍的に勢力を拡大していったようです。

ただ今度は山内上杉氏で被官の長尾景春(白井長尾氏)が反乱を起こすと、その後は古河公方との関係を巡ってゴタゴタしはじめ、「下剋上」を恐れた上杉定正は「糟屋館」で太田道灌を暗殺。その後結局は山内上杉氏と戦争を始めることになりますが、戦況振るわず斜陽に。山内家とはこの後も紆余曲折ありますが、最終的には天文15年(1546)の「河越夜戦」によって北条氏康に打ち破られ、扇谷家は事実上滅亡しました。

Dokankubizuka_4とまあかなり乱暴なまとめですが(笑)、私も詳しくはないのでこの辺でご勘弁をば。
ともかくも、この地は室町から戦国期の関東において、一つの重要な事件の舞台ということになりますでしょうか。
今はのどかな風景が広がっています。

ちなみに最後の写真は、首塚の近くにある大慈寺。ここも道灌の菩提寺とされています。

■神奈川県伊勢原市

2008.12.23

怒濤の年末進行

みなさん胃腸はお元気ですか?(笑)

私は先週が飲みのピーク。ほとんど飲みっぱなしでしたが、漸く一段落しました。

これから年末年始にかけては、自分の報告の準備です。
…が、報告まであと半月しかない…。間に合うんだろうか? かなりやばいです。
というか、来年はなりを潜めてしまうかも…。怠慢のツケなんですが、まずいなあ。

最近、史跡ネタのご感想をいただくことが多くなりました。ほとんど個人的な備忘のために自己満足でせっせとやってるようなもんなんですが、比較的ご好評をいただいているようで、やり甲斐を感じております。
とはいえ、撮影技術に関してはなにとぞご寛恕のほどを。少しは技術を向上させたいところではありますが…。
またネタが山ほど残ってますので、引き続きぼちぼち進めて行きたいと思います。

2008.12.20

高部屋神社

Takabeya_8Takabeya_1次は道灌首塚…と行きたいところですが、その近くにある高部屋神社を。

この神社は延喜式内社で、元々八幡神社と呼ばれていたそうです。相模国糟屋荘の総鎮守とされていて、鎌倉期にはこの地域の地頭となったという横山党の糟屋有季という人物が社殿を造営したとされています。
また天文20年(1551)には地頭渡辺石見守という人物が社殿を再興したと言われ、後北条滅亡後の天正19年(1591)に徳川家康が社領を寄進したと言われます。現在の社殿は慶応元年(1865)再興とされていますが、関東大震災で倒壊したそうで、その後の昭和4年(1929)築。

また、境内は「丸山城跡」とされています。糟屋氏の居城だったと言われているようですが、糟屋氏は比企能員に味方して滅亡。現在は遺構としてはよくわかりませんが、崖の上に立地しているので、そこらへんからわずかながら風情を感じられます。

Takabeya_2Takabeya_3ここの目玉はこの梵鐘。至徳3年(1386)に大工河内守国宗によって造られ、願主平秀憲によって奉納されたことが刻まれています。これらの人物については詳細はわかりませんが、鎌倉に関係する人物だったようです。この地域では、南北朝期の梵鐘が遺っているのは結構珍しいのではないかな、と。

■神奈川県伊勢原市

2008.12.18

太田道灌胴塚

DokandozukaDokandozuka_4関東では絶大な知名度を誇る(それほど大袈裟に言うほどでもない?)太田道灌(資長、持資とも)の墓が、伊勢原市内に二箇所あります。

そのうち「胴塚」と呼ばれるのがこちら。洞昌院というお寺の傍ら(本来は境内だったか)にあります。この寺は、道灌が上杉憲実の弟の道悦和尚のために建立したという寺伝があるそうです。

太田氏の出自はよくわからないようで、関東では武蔵国と相模国それぞれに拠点を置いた一族がいたと言われています。道灌は相模国に拠点を置き扇谷上杉氏の家宰の地位にあった家の出身で、永享4年(1432)に相模国粕屋(この胴塚のある地域)で誕生し、鎌倉の禅林で学んだという伝承があります。

道灌の事績についてはここでは省略しますが(ウィキペディアあたりをどうぞ)、文明18年(1486)に扇谷上杉定正によって暗殺されました。その暗殺の場となった定正の居館には、もう一つの墓である「首塚」があります(これはまた後程)。

二つの墓の由来ははっきりとはわかりませんが、この「胴塚」は寺院の境内にあることから、こちらが本来の道灌の墓だったかもしれません。

Dokandozuka_1Dokandozuka_3周囲には沢山の小さな石造物が並んでいます。時期ははっきりとはわかりませんが、結構古そうです。宝篋印塔と五輪塔は中世のものかも?

■神奈川県伊勢原市

2008.12.15

源実朝首塚

SanetomozukaSanetomozuka_4_2丹沢の南麓の秦野へ。ここには源実朝の首塚とされる供養塔があります。

周知の通り、実朝は承久元年(1219)に鶴岡八幡宮で暗殺されたわけですが、その首は行方不明になったとされていて、三浦義村の被官である武常晴が密かに波多野氏を頼ってこの地で葬ったという伝承があるそうです。
武(たけ)氏は三浦の出身のようですが、後にこの地に移住したとされています。

元々この地域に根を張っていた御家人の波多野氏は、秀郷流藤原氏の一族とされる地付きの武士団でした。ただ一旦平氏に与した時期もあったようで、そのため鎌倉期になるとやや冷遇されたようです。

鎌倉初期には波多野義重が承久の乱で活躍しましたが、恩賞として越前国志比(しい)荘(現福井県永平寺町)の地頭となり、拠点は徐々に越前に移っていったようです。あえて鎌倉から遠い越前に本拠を移したのはいろいろ説もあるようですが、一旦平氏に付いたという経歴もあって、波多野氏が結局は有力御家人としての基盤形成に失敗したことによるのかもしれません。
越前に移った後はあの永平寺を建立しており、結構歴史的には重要な仕事をしています(笑)。波多野氏は六波羅評定衆になったそうで、室町期にかけて事務官僚的な一族として生き残っていきました。

ちなみに豊後に西遷して大名に上り詰めた大友氏は、波多野氏の一族です。

話が長くなりましたが、この首塚も、波多野氏の関与がありそうです。ちなみに実朝暗殺時の惣領であった波多野忠綱は、実朝の三十三回忌に際し、近くに金剛寺という菩提寺を建立しました。首を巡る話の真偽はともかく、実朝に対する特別意識をかなり強く持っていたことが窺えます。

Sanetomozuka_5すぐ横には、今はただの広場にしか見えませんが(笑)、鎌倉期の武士の居館と思しき遺構が見つかった場所があります。波多野氏との関係が考えられているようです。

■神奈川県秦野市

2008.12.14

織豊期あるいは中近世移行期という概念を考える

名古屋大学で行われた織豊期研究会のシンポジウムに出席。
かつてお世話になった方ばかりで、話をしては不義理をお詫びするばかりだった感も…(笑)。

シンポジウムについては直接自分の研究と関わっているわけではなかったんですが、いろんな視点からの報告を伺って、大いに示唆を与えられました。行って良かったです。
ただ、またしてもちょっと出しゃばりすぎたかなぁ…。

厚かましくも最後に少し突飛な質問をいたしましたが、お一人ずつお答えを伺っていて、個人的にはとても興味深く感じました。中世から近世にかけての時代に対する歴史観の違いは、研究者の個々の「歴史」に由来する部分の比重が小さくないという認識を改めていたしました(もちろん私も)。
まあ当然といってしまえばそれまでなんですが、なかなかこういう話を聞ける機会がないので、私もこの辺を自覚的に考える貴重な機会となりました。

ともあれ、同じ大学で学び、研究を進めていても、時代区分に対する認識となると違いが出てくるものなんですねえ。私も含め、そういう個性は大切にしたいところです。

懇親会では、今見ている史料についての貴重な情報をいただきました。正直言ってこれだけでも行って良かったです(笑)。こういうことがあるから、飲み会はやはり行くべきですね(我田引水的結論)。深酒は控え、その日の内に帰宅。

2008.12.12

米倉寺

Beisoji土砂降りの小田原を通過して米倉寺(べいそうじ)へ。
天文元年(1532)に建立された曹洞宗の寺院です。元は用国院という寺院があったそうですが、甲斐武田氏の被官である米倉種継が移住して再興し、米倉寺と改名したそうです。

Beisoji_2写真は米倉氏墓所です。

米倉氏は甲斐武田氏分家の一族とされ、甲斐国八代郡米倉(現山梨県笛吹市[旧八代町])に本拠を構えて米倉氏を名乗ったとされています。米倉種継は甘利氏の与力となっており、なんか甘利氏との間ではいろんなエピソードがあるようです(詳しくは調べてみて下さい)。

ただ、系譜的にはなんだか錯綜しているようです。
天文期の米倉氏当主は宗継という人物だったようで、彼は天正3年(1575)の長篠の合戦で戦死。種継はその子のようです。そして当主とおぼしき人物は別に忠継(宗継の兄弟らしい)という人がいて、彼は国衆の「武川衆」の代表格となりますが、武田氏滅亡により徳川氏の被官となっています。種継との関係はよくわかりませんが、後の米倉氏は種継の子孫が当主となっているようです。

このような経緯を考えれば、米倉種継が天文元年に建立したという伝承というのは事実とするのは難しいところです。実際は、徳川氏が関東転封となった後に米倉種継がこの地に所領を得た可能性があり、この時に菩提寺としてこの寺を築いたと考えられます。写真の墓石は種継の墓が最も古く(たぶん一番手前)、慶長5年(1600)の年号があるそうです(確認せず)。

米倉氏は武蔵国大里郡(現埼玉県熊谷市の辺り)にも所領を持っていたようですが、関係はよくわかりません。子孫は徳川綱吉に抜擢され、大名成を果たして若年寄にもなっています。最終的には武蔵六浦(現横浜市金沢区)の大名となりました。

■神奈川県中井町

2008.12.11

最後の砦も

いよいよJR東もホーム禁煙ですか…。

ついにという感もありますが、これで運賃の高いJR沿線に住むインセンティブも無くなったなあ(あとあるのは終電が遅いことぐらいしか…いやそれは重要か(笑))。

時代の流れと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、それなら不平等税制の極みである国鉄の借金返済分くらいは値下げしろとは言いたくなりますわ。
増税するならたばこから、という安易な議論がまたぞろあったりして、喫煙者としては肩身が狭い限りです(笑)。ほんとはすでにたくさん税金納めているから感謝されてもいいのに。

ま、全部ひがみです(笑)。吸わない人に迷惑かけてる部分があるのも確かだしなあ。喫煙者からみても、マナーのカケラもない輩を見ると腹立ちますしねえ。

各紙が今回の話を「分煙」の徹底と書いているのは、語弊があるんじゃないかな? 棲み分けようなんて発想はもはや崩壊した段階のように思いますが。

2008.12.10

箱根神社

Hakonejinja_2Hakonejinja_3津久井からは「道志みち」を抜けて山中湖を経由し、一気に箱根へ。
ここからは、箱根から徐々に東へ向かって行きます。

箱根の観光名所の一つでもある、芦ノ湖のほとりにある箱根神社。箱根権現の別名があります。今は神社ではありますが、元は山岳修験との関わりがあったようで、別当寺もありましたが廃仏毀釈で廃絶したようです。

早くから源頼朝をはじめとして鎌倉幕府からの保護を受けており、御成敗式目の罰文にも「伊豆箱根両所権現」と出てくるように、こちらも篤い保護を受けた伊豆山神社(静岡県熱海市)と並び称されています。

Hakonejinja_6今の社殿は比較的新しそうですが、木々は茂っていて伝統を感じます。週末は芦ノ湖周辺も賑やかになるんでしょうけれども、私が行った時は天気の悪い平日の朝とあって、人影はまばら。静けさが印象に残っています。
立派な宝物館もあって、箱根権現縁起絵巻(重要文化財)や文書なども展示されているようです(私は見ませんでしたが)。

…この後土砂降りで、箱根の史跡はすべて断念する羽目に。是非とも再訪したいものです。

■神奈川県箱根町

2008.12.08

津久井城跡

Tsukuijo_56Tsukuijo_29相模川の上流、ダム湖である津久井湖のすぐ脇にある津久井城です。

築城年代は古いようで、鎌倉期に三浦一族の筑井(津久井)氏がこの地に本拠を構え、築城したと言われています。室町期は扇谷上杉氏や相模本間氏の影響があったともされていますが、詳しいことはよくわからないようです。

史料上に登場するのは、戦国期になってから。伊勢宗瑞(北条早雲)が関東へ進出すると、甲斐との国境に近い津久井城は重要な軍事拠点となり、たびたび甲斐武田氏との戦争の舞台になっています。
大永5年(1525)に北条氏綱と武田信虎が津久井で合戦に及んでいたようですが、その頃の城主として「内藤大和入道」という名が見えます。
戦国期に津久井城を支配した内藤氏の出自ははっきりしないようですが、元々は扇谷上杉氏の被官だった可能性が指摘されており、後北条氏の麾下にありながらも、「津久井衆」として一定度の自立性を持った国衆だったと言われています。このような存在は、相模国では非常に珍しいようです。

Tsukuijo_31Tsukuijo_39左写真は本丸、右写真は本丸の下にある「太鼓曲輪」。
城跡一帯が公園となっているので正直舐めてかかっていましたが、上まで登るとかなり疲弊します(笑)。比高はそれほどでもないかもしれませんが、登山道は勾配のきつい坂を延々歩かされるので、結構堪えました。北側は今はダム湖になっていますが、昔は谷だったことを考えると、相当急峻な山城だったことが想像されます。

Tsukuijo_41Tsukuijo_50左写真は「飯縄(いいづな)曲輪」。この下には井戸もあり、今も水が湧いていました。右写真はさらに先端方面に行くとある堀切。

Tsukuijo_45Tsukuijo_55左写真は飯縄曲輪の先、先端部に当たる場所。狼煙台とされています。
そこからの眺めが右写真。城からは南東方向に当たり、見えているのはおそらく相模原市や町田市のあたり。手前の川が相模川です(左が上流)。

津久井城は天正18年(1590)6月、八王子城の落城直後に徳川氏被官の本多忠勝・平岩親吉らの攻撃を受けて落城。この時内藤氏当主(実名などは諸説あって不明瞭)は小田原に籠城していましたが、結局小田原落城により没落しました。

最近では麓の根小屋での発掘調査が進んでおり、文献方面では新しい関連史料の発掘もあったようです。いまいち知名度が低い城ですが、今後注目を浴びるかもしれません。

■神奈川県相模原市(旧津久井町)

2008.12.07

上矢部の板碑群

Kamiyabe_4Kamiyabe_1次は「相模マニアックツアー」編。旧相模国の内陸部の史跡シリーズです。おおよそ小田急線沿線に当たります。

最初は相模原市上矢部地区の、米軍基地の傍らの住宅地にある中世の板碑群。なんでもない住宅地に、左写真のような覆屋がぽつりと建っています。その中に、板碑が保存されています。

Kamiyabe_3Kamiyabe_2中心にある大きい板碑は乾元2年(1303)のもので、ほかの板碑も中世に作られたものです。

作られた経緯はよくわかっていないようですが、鎌倉期にこの地域を支配していた矢部義兼という人物の供養碑とされています。矢部義兼は横山党の一員で、建暦3年(1213)に和田合戦で戦死した人物とかで、その追善供養ということのようです。

この地域は弥生式土器も出土したり、古墳もあったりするなど、かなり古くから人が住んでいたことがわかっています。近くにはほかに中世の石造物と思われるものがあるようです(こちら参照)。

■神奈川県相模原市

2008.12.06

喜びも束の間

先日書いた、長らく探していた本。
ついに入手しました。

それは、瀬田勝哉『洛中洛外の群像―失われた中世京都へ』(平凡社、1994年)。

前回の失敗に懲りてしばらくまめに探していたんですが、思わぬ破格値で買うことができました。
この本の知名度はあまり高くないですが、知る人ぞ知るというか、室町期の研究書としては重要文献の一つと言っても良い本。しかしなにせ稀覯本。所蔵する図書館も少なくて難渋していました。

とはいえ、相場よりかなり安かったのに、予想外の美本。
ほくほく顔も束の間。「もしや」と閃いたわけです。

そこで平凡社のHPをチェックしてみたわけですが…。
やっぱり。
来月(というか今月?)、増補版が平凡社ライブラリーで出るんですねえ。
悔しいとかもったいないとかというより、なんか素直に納得してしまいました(笑)。ま、オリジナル版があるのもムダではないと思いますし、増補版は増補の度合いを見て考えたいと思います。

鹿児島神宮

Kagoshimajingu_4Kagoshimajingu_8サマーセミナーシリーズの最後は鹿児島湾(錦江湾)の一番奥の地域にある、鹿児島神宮。大隅国一宮で、かつては正八幡宮(しょうはちまんぐう)と呼ばれた地方の有力神社でした。古代の段階で大隅国に多くの所領を有しており、同じ八幡宮の有力神社である宇佐八幡宮(大分県宇佐市)との間では、その正当性をめぐって争いもあったようです。

度々戦火に遭っているようですが、島津氏の保護を受けており、現在の社殿は宝暦6年(1756)に島津重豪によって造立されています。鹿児島県最大の木造建築物なんだそうです。

今回は文書も拝見させていただきました。最も古いものは保安2年(1121)のもの。中世のものは石清水八幡宮(京都府八幡市)からのものが多く、石清水の影響を受ける神社(末社?)となっていたようです。

Mirokuin_3神社のすぐ手前に小学校がありますが、ここは旧弥勒院跡。正八幡宮の別当寺です。廃仏毀釈によって跡形もありませんが、裏手には墓所がひっそりと遺されています。この墓所は近くにあった禅宗寺院・正興寺の墓所も兼ねているようです。正興寺にはかつて島津忠昌の招きによって「薩南学派」の祖である桂庵玄樹が滞在したこともあります。

Mirokuin_5Kuwahata_2弥勒院跡に対面するようにあるのが、社家で、神社史によると「神主」を社職としていた桑幡家の屋敷跡。わずかに土塁の一部と墓が遺っています。『平家物語』に正八幡宮社家として桑幡清道という人が登場するそうです。

Rusuke_2少し離れた所には、同じく社家で、「執印留守」を社職とした留守家の屋敷跡があります。維新時はこの家が4つある社家の中でも最も禄高が高いことから、家格が一番高かったのでしょうか。石清水より下向した一族とも言われています。

SawakeSawake_2そしてこちらは社家で「田所」を社職とした沢家の屋敷跡にある墓石群。
個人的には、沢氏に関係する文書を使ったことがあるので感慨深いです(笑)。
墓石群は五輪塔や板碑などが立ち並ぶ壮観なもので、手前にある石柱には嘉禎3年(1237)と延応元年(1239)の年号が刻まれています。

このほか近隣には大隅国分寺跡や、隼人塚(国史跡)などもあり、かつて南九州の中心地だったことが想像されます。これらの史跡はオプションで、私は飛行機の都合があって断念しました。またいずれ。

■鹿児島県霧島市(旧隼人町)

2008.12.04

下伊倉城跡

Shimoikurajo_16志布志から大隅半島を南へ。肝属(きもつき)川のほとりにある下伊倉城です。

中世の城郭遺構であることは確実のようですが、珍しく川のほとりにある平城で、舟運の結節点に築かれた拠点として理解されているようです。

大隅国肝属郡弁済使として入部した肝付氏によって築かれたとされ、かつてはここを本拠としていたという説もあるようです。しかし後に山城を築いて本拠を移したため、一族の野崎氏が入っていわゆる「水軍」の拠点になったとされています。

Shimoikurajo_11Shimoikurajo_12遺構はこんな感じ。一段高い方が曲輪だったようです。
この城跡は戦後の河川改修によって半分が破壊されてしまい、今残っているのは半分だけなんだそうです。
当時の土塁は10メートルくらいあったそうです。

Shimoikurajo_6Shimoikurajo左写真は現地にあった石塔群。うち一つは永禄9年(1566)の銘が刻んでありました。
右写真は肝属川。今も船を浮かべられそうな大きな川です。

■鹿児島県東串良町

2008.12.03

志布志 山宮神社

Sanmiyajinja_1Sanmiyajinja志布志港から少し内陸へ入った所にある山宮(さんみや)神社。
社伝によれば、和銅2年(709)創建とされ、廃仏毀釈までは近隣の6社を合祀して「山口六社大明神」と呼ばれていました。
近世には志布志郷の宗廟として郷民の氏神信仰の中心となった、とされています。

中世の懸け仏や、写真の大クスノキの根元からの出土品には宋代のものがあったそうです。

写真はありませんが、ここは古代から中世にかけての銅鏡が数多く所蔵されており(重要文化財)、特別に拝観させていただきました。全部で43面あるそうで、これだけまとまって銅鏡が納められているのはとても興味深いです。

ちなみに大クスノキは国の天然記念物に指定されています。樹齢は800~1300年とされており、この樹齢にしては威容を保っているということが指定理由のようです。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

2008.12.02

今年の年の瀬もやっぱり…

師になれず、それでいて忙しいです。
なんだか少し理不尽さも感じます(笑)。

年明け早々某所で報告することになりましたが、全然準備が進みません。もっとも、時間がないというより、やる気を出さない方が問題なのかもしれませんが…。
でも、いろんな仕事が頭の中を駆けめぐるので、なかなか一つの作業に集中できないでいます。

著書出して腑抜けになったと言われないよう、精進いたします。
とはいえはや忘年会シーズン。本当の臓腑が心配です(笑)。毎度のように世間にはろくな話がありませんけど、みなさんも元気に乗り切りましょう。

しかし、早いなあ…。

2008.12.01

志布志城跡

Shibushijo_30Shibushijo_4国史跡の志布志城跡は山ごとにいくつか分かれており、それぞれ内城・松尾城・高城・新城と呼ばれています。今回はそのうち内城に行きました。

右写真は曲輪での発掘風景。素人目には何の遺構かはよくわかりませんでしたが…(笑)。

志布志は摂関家(のち近衛家)による大規模荘園である島津荘日向方に属し、そのうち救仁院(くにいん)の港津として発展しました。志布志の地名が文献上に現れるのは正和5年(1316)だそうです。

鎌倉期までは救仁院氏という領主が居たそうですが、南北朝期には楡井氏が支配しており、その本拠がこの志布志城だったとされています。そして島津氏久が本拠を構えた後は島津氏の支配が浸透し、日明交易の中継港としても発展していったようです。

ところが15世紀に入って島津氏と日向の伊東氏とが争うようになると、当主の島津忠昌によって志布志に島津一族の新納(にいろ)忠続が派遣されます(新納氏の志布志入りには異説もあるようですが)。以後は新納氏が支配するようになりました。
16世紀になっても島津氏の内訌が激しくなり、その煽りを受けて天文7年(1538)に新納忠勝が島津実久の攻撃を受け降伏。志布志の新納氏は没落しました(ちなみに、戦国期の人で有名な新納忠元は別系統)。
城跡には新納氏初代・時久の墓があるそうです(見られず)。

その後は大隅の肝付氏が入って支配しましたが、内訌を勝ち抜いた島津貴久との争いに敗れて没落し、再び島津氏が支配。一国一城令によって廃城となりました。

Shibushijo_21Shibushijo_26この城で圧巻なのは堀切(空堀)。ほんとにこれだけ掘ったのか少し信じがたいところもありますが、非常に大規模なものがいくつもありました。いつのものかはよくわかりませんが、やはり戦国期頃のものでしょうか。

Shibushijo_29Shibushijo_7麓の小学校には、当時のものという石垣が遺されています。廃城直前のものだと思いますが、そうだとしても、やや石が整然としすぎていて言われなければわかりません(笑)。

右写真は城から見た志布志の風景。「さんふらわあ」がちょうど停泊中。久しぶりに見たなあ。

■鹿児島県志布志市(旧志布志町)

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