
国史跡の志布志城跡は山ごとにいくつか分かれており、それぞれ内城・松尾城・高城・新城と呼ばれています。今回はそのうち内城に行きました。
右写真は曲輪での発掘風景。素人目には何の遺構かはよくわかりませんでしたが…(笑)。
志布志は摂関家(のち近衛家)による大規模荘園である島津荘日向方に属し、そのうち救仁院(くにいん)の港津として発展しました。志布志の地名が文献上に現れるのは正和5年(1316)だそうです。
鎌倉期までは救仁院氏という領主が居たそうですが、南北朝期には楡井氏が支配しており、その本拠がこの志布志城だったとされています。そして島津氏久が本拠を構えた後は島津氏の支配が浸透し、日明交易の中継港としても発展していったようです。
ところが15世紀に入って島津氏と日向の伊東氏とが争うようになると、当主の島津忠昌によって志布志に島津一族の新納(にいろ)忠続が派遣されます(新納氏の志布志入りには異説もあるようですが)。以後は新納氏が支配するようになりました。
16世紀になっても島津氏の内訌が激しくなり、その煽りを受けて天文7年(1538)に新納忠勝が島津実久の攻撃を受け降伏。志布志の新納氏は没落しました(ちなみに、戦国期の人で有名な新納忠元は別系統)。
城跡には新納氏初代・時久の墓があるそうです(見られず)。
その後は大隅の肝付氏が入って支配しましたが、内訌を勝ち抜いた島津貴久との争いに敗れて没落し、再び島津氏が支配。一国一城令によって廃城となりました。

この城で圧巻なのは堀切(空堀)。ほんとにこれだけ掘ったのか少し信じがたいところもありますが、非常に大規模なものがいくつもありました。いつのものかはよくわかりませんが、やはり戦国期頃のものでしょうか。

麓の小学校には、当時のものという石垣が遺されています。廃城直前のものだと思いますが、そうだとしても、やや石が整然としすぎていて言われなければわかりません(笑)。
右写真は城から見た志布志の風景。「さんふらわあ」がちょうど停泊中。久しぶりに見たなあ。
■鹿児島県志布志市(旧志布志町)
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