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2009年1月

2009.01.31

成島八幡神社

NarishimaNarishima_2便乗路線は終わり、マニアック路線になります(笑)。

米沢の市街地から鬼面川(最上川)を渡ったすぐの所にある成島八幡神社。社伝では宝亀8年(777)の創建と伝えられ、蝦夷討伐でやってきた大伴駿河麿が宇佐八幡に祈願して勝利したのをきっかけとして、光仁天皇の勅願で建てられたと言われています。さらには、坂上田村麻呂の社殿造営とか、永保元年(1081)に源義家が社領を寄進したという伝承もあるそうです。

Narishima_5Narishima_8中世になると、この地域を支配した長井氏に始まり、伊達氏・蒲生氏・上杉氏の保護を受けたとされています。現実味を帯びるのはこの辺からでしょうか。社殿の棟札が残されており、最も古いものは正安2年(1300)における長井宗安の寄進によるものがわかり、のちに貞和4年(1348)に長井時春による修理が施された旨の棟札が残されています。平安期のものと思われる門神坐像を所蔵していますが、残念ながら拝観できず。

現在の拝殿は永徳3年(1383)に伊達宗遠が造営したものとされ、本殿は承応3年(1654)に上杉綱勝が寄進したものです。伊達氏の帰依が基礎となったようで、仙台に移った伊達政宗がこの成島八幡神社を分祀する形で大崎八幡宮(現仙台市青葉区)を造営しています。大崎八幡宮は国宝で壮観ですが、こちらはひっそりと佇んでいる感じです。

■山形県米沢市

2009.01.29

一月が行く

現在、一気に仕事が集中しててんてこ舞いです。
来週を乗り切れば少し落ち着けそうですが。なので、来週にかけて更新頻度が落ちます…。

結局、今月もなんにもできなかったなあ。今年は何も形を残せないかもしれない。うーむ。
ま、今は一生に一度しかできない経験(多分)をしているところなので、それを悦ぶとしましょう。

ところで、少し前に堀新編『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年)が出ました。
ま、私はたったの2ページしか書いてないので、偉そうなことは言いません(笑)。

464207158X信長公記を読む (歴史と古典)
堀 新編
吉川弘文館 2009-01

by G-Tools


なお、編者の堀さんより、p249の図58は成瀬正一の図像のはずですが、版元の手違いにより実際に掲載されているのは本多忠勝の図像だ、とのお知らせをいただきました。筆者のTさんによる指示の段階では合っていたそうですが…。出荷済みのため正誤表も入っていないそうですので、一応お知らせをば。
(↑以上、不都合が生じましたら削除します)

2009.01.28

上杉家墓所

UesugiUesugi_9今度は米沢城の西側に少し離れた所にある、上杉家墓所。地元では「御霊屋(おたまや)」と呼ばれているそうです。

「初代」として数えられる上杉輝虎(謙信)から、幕末にかけて12代の墓がずらりと並んでいます(別に夭折した世子一人の廟と、14代目の当主・茂憲の記念碑があり)。

Uesugi_5こんな感じ。元和9年(1623)に上杉景勝が死去した際、彼は高野山に埋葬されましたが、分骨としてこの地に廟が建てられたのがはじまりのようです。
藩主は火葬に付されていましたが、寛政6年(1794)に世子のまま夭折した上杉顕孝(鷹山の子)が死去した後は土葬に改められたそうです。以後12代目の上杉斉定(なりさだ)まで土葬に付されました。

Uesugi_7Uesugi_8中央には左写真の謙信の廟があります。天正6年(1578)に越後の春日山城で死去し、当地で葬られましたが、上杉氏が会津を経て米沢へ移るに従い、謙信の遺骸もそれぞれ移されたそうです。
米沢では本丸に廟所が建てられて安置されていましたが、明治9年(1876)にこの墓所に移され、現在の配置に整備されました。

右写真がその隣にある上杉景勝の廟。おそらく、元々はこの景勝の廟が中央にあったのでしょう。周囲には杉の大木があって壮観ですが、一部は創建当初のものと思われる、樹齢400年を超えるものがあるそうです。

■山形県米沢市

2009.01.25

米沢 林泉寺

Yonezawarinsenji_2Yonezawarinsenji_4米沢城から南方へ行くとある林泉寺。山号は春日山。
名前でお気づきの通り、慶長6年(1601)に上杉氏がかつての本拠であった越後高田(現新潟県上越市)から移した寺院です。

上杉氏の尊崇を受けた寺院で、上杉景勝の正室や仕えた家臣の墓があります。

Yonezawarinsenji_9Yonezawarinsenji_12左写真は上杉景勝生母・綾御前の墓。院号は仙洞院。長尾為景の娘で、上杉謙信の姉ですね。上田長尾氏の長尾政景に嫁ぎ、景勝を生みました。米沢の林泉寺の建立に尽力し、中興開基とされています。

右写真は景勝の正室・菊姫の墓。彼女は誰有ろう武田信玄の娘で、信玄の死後に武田・上杉が和睦し、武田勝頼が天正7年(1579)に嫁がせました。甲州夫人と呼ばれたそうです。文禄4年(1595)からは人質として伏見で過ごし、そのまま慶長9年(1604)に伏見で死去しました。なので正式な墓所は京都の妙心寺にありますが、後に米沢にも墓が建てられたそうです。歌舞伎「八重垣姫」のモデルになったともされているそうです(私はそちらは詳しくないのでよくわかりません)。

Yonezawarinsenji_16そして面白いことに、武田信玄の子の墓がもう一つあります。こちらは武田(安田)信清の墓。信玄の六男か七男で、武田氏滅亡後に菊姫の縁を頼って上杉景勝に身を寄せました。景勝は彼を厚遇し、米沢藩高家衆筆頭として3300石を与えています。その後禄は減少しましたが、子孫はそのまま幕末まで上杉氏の家臣となりました。彼の墓所は県史跡に指定されています。

Yonezawarinsenji_18そしてお待ちかね? 今はここが一番のメインでしょう。直江兼続夫妻の墓です。兼続の履歴はパス(笑)。兼続は元和5年(1619)に60歳で江戸で死去しましたが、はじめは米沢にあった徳昌寺に葬られ、この寺が廃寺となった後に林泉寺に改葬されました。

兼続の妻・お船の方は直江景綱の娘で、はじめは上野国の総社長尾氏から景綱の養子となった直江信綱の妻となるものの、信綱が天正9年(1581)に上杉家中のトラブルで殺害されると樋口兼続と結婚し、兼続は景綱の婿養子となって直江氏を名乗りました。お船の方は菊姫と同じく文禄4年に伏見に人質として移りましたが、彼女は関ヶ原合戦後に米沢へ移っています。兼続死後は江戸で暮らし、寛永14年(1637)に81歳で死去しました。

Yonezawarinsenji_14あとは戦国期の上杉氏に仕えた人たちを。まずは水原(杉原、すいばら)親憲。はじめは大関氏でしたが、断絶していた水原氏を継ぎました。上杉氏の会津時代には猪苗代城(現福島県猪苗代町)の城主となり、長谷堂城合戦や大坂冬の陣に参加し、後者では徳川秀忠から感状を受けたそうです。元和2年(1616)没。

Yonezawarinsenji_24こちらは甘糟景継の墓。「上田衆」と呼ばれた上田長尾氏の家臣・登坂(のぼりざか)清高の子ですが、こちらも断絶していた甘糟氏を継ぎました。越後の五泉城(現新潟県五泉市)城主、のちに庄内の酒田城(現山形県酒田市)城主。上杉氏が会津に移った後は陸奥白石城(現宮城県白石市)城主となりました。米沢移封後も重臣として仕えましたが、慶長16年(1611)に没。自害したとされていますが、理由はわかっていないようです。

Yonezawarinsenji_26最後は吉江宗信の墓。吉江氏は越後守護上杉氏の被官で、そのまま越後長尾(のち上杉)氏にも仕えました。越中や上野攻めにも従軍。越中の増山城(現富山県砺波市)の守将となりましたが、御館の乱の混乱に乗じた織田方の柴田勝家の猛攻を受け、その後魚津城(現富山県魚津市)に引いて守っていましたが守りきれず、天正10年(1582)に子の景資らとともに自刃しました(この時織田方は本能寺の変のため撤退)。吉江氏は景資の子・長忠が継承し、以後代々上杉氏の重臣となりました。上杉氏が米沢に来るよりかなり前に死去していることから、後世、子孫が墓を建立したものと考えられます。

■山形県米沢市

2009.01.22

米沢城跡(上杉神社)

Yonezawajo_2Yonezawajo_14再び山形シリーズです。
まずは話題の米沢城跡。やや便乗気味ですが…(笑)。現在は本丸に上杉神社があります。

この地域は大江広元の子・時広が出羽国置賜郡長井郷(現山形県長井市)の地頭として降り、長井氏を名乗って支配していました。この米沢城も、暦仁元年(1238)に長井氏によって初めて築かれたとされています。ただし確証が無くて微妙です。
長井氏は南北朝期に伊達氏によって滅ぼされ、以後は伊達氏の支配地となっています。天文17年(1548)に伊達晴宗が米沢を本拠とし(この頃は「松ヶ崎」と呼んでいたらしい)、これ以後城として整備が進められたようです。伊達政宗もこの米沢で生まれました。

Yonezawajo_6しかし豊臣秀吉による奥羽仕置によって政宗は陸奥の岩出山(現宮城県大崎市[旧岩出山町])に移され、代わって会津の領主となった蒲生氏郷の支配地となり、一族の蒲生郷安が城主となっています。蒲生氏が退き上杉景勝が会津に入ると、米沢には直江兼続が城主として入りました。関ヶ原合戦の後、会津を失った上杉氏は米沢を本拠とし、当初は30万石。のちに15万石となり幕末まで続きました。

Yonezawajo_7Yonezawajo_9米沢城は典型的な平城で、当初から天守閣はなく、中央に御殿があったそうです。南東の隅には上杉謙信の遺骸を祀る御堂があり、北東と北西の隅には隅櫓があったそうです。また、石垣ではなく土塁を巡らせていました。維新後に取り壊され、本丸跡には謙信を祀る上杉神社が建立されました。写真は謙信の祠堂跡と銅像です。
上杉神社には宝物殿があり、例の「愛」の前立ての付いた直江兼続着用の甲冑があります。

Yonezawajo_3Yonezawajo_12こちらは参道脇にある松岬(まつがさき)神社。元々上杉神社は上杉治憲(鷹山)も合祀されていたのですが、後に分祀されてこの神社が建てられました。ほかに上杉景勝・細井平洲・直江兼続・竹俣当綱(まさつな)・莅戸(のぞき)善政が祀られているそうです。右写真は上杉鷹山の銅像です。

城内には近代の当主上杉茂憲(もちのり)旧邸上杉博物館があります。博物館は必見ですね。

■山形県米沢市

2009.01.20

会津藩松平家墓所

Aizumatsudaira_2Aizumatsudaira_7会津の最後は、東山温泉のほど近くにある松平家墓所。会津藩主となった松平(保科)氏代々の墓があります。2代目の保科正経以降の藩主の墓があり(松平を名乗るのは3代目から)、初代の保科正之のものはありません。

元は保科正之の嗣子だった正頼が明暦3年(1657)に亡くなった時に初めて墓がこの地に建てられ、以降は代々の墓所となったそうです。なので、厳密には最も古いのは、実際に藩主にはならなかった正頼の墓ということになります。保科正経までは仏式ですが、3代目松平正容(まさかた)以降は神式に改まっているそうです。
上の右写真は神式で埋葬されている墓です。確か奥が正容の墓、手前が5代目容頌(かたのぶ)の墓です。

Aizumatsudaira_3Aizumatsudaira_10左写真のように、墓石は崖の上に設置され、下には上の写真にあるような墓碑が置かれています。

そして墓所の奥にあるのが右写真の松平容保(かたもり)の墓。この時すでに日が暮れてしまったので暗いですが…(笑)。
会津藩最後の藩主として有名ですが、元々は尾張徳川の分家に当たる美濃高須藩主・松平義建(よしたつ)の子で、会津には養子で入った人です。この松平義建という人は、尾張藩やら桑名藩やらたくさん息子を有名な家に送り込んでいる人ですが(笑)、容保もその一人でした。
戊辰戦争後は各地で幽閉された後に東京へ移り、その後は日光東照宮宮司になったりしてますが、会津との関わりは無くなったので、墓がここにあるのはやや意外でした。

東山温泉の宿泊ついでに訪れるのがベストです(笑)。

■福島県会津若松市

2009.01.19

5年10年20万

少し早いですが、来月でブログを始めて5年になります。
なんでも日本のブログが世界一数が多いそうですが、その中でも老舗の部類に入るんじゃないかとほくそ笑んでおります(笑)。

また、少し前に20万アクセスを突破しました。数多くの方々のご来訪を御礼申し上げます。最近は以前よりペースは上がったものの、記事の内容は淡々としていて物足りないかと思います。私もすっかりしがらみが増えてしまいました(笑)。思う存分放言しようと思うなら、別途匿名でブログ作るしかないかなぁ、と思ってます(現時点では作るつもりはありませんが)。

そして、今年はホームページを作ってから10年になります。細々と続けてはいますが、こちらはもはやすっかりデザイン的にも内容的にも時代遅れの様相。十年一昔とはよく言ったものです。情熱もすっかり衰えちゃったかなぁ…。それにしても、室町期のサイトは10年経っても全然増えてませんね(笑)。

ホームページを作ったのがM1の時だったので、大学院に入ってから10年になった、ということにもなります…。うーん、生活水準は全然上がってないぞ(笑)。

余談ながら、私が初めてネットに触れてからもう15年過ぎました。この間、研究環境に関しては激変しました。まだ他分野に比べて歴史学の分野ではネットを使いこなせていない感もありますが、それでもかつては想像もできなかったことがたくさん実現しています。ありがたい世の中になりました。
一方、ネットの劇的な進化が「世間」にもたらしたものは、果たしていいことばかりだったのだろうか…? いろいろ考えさせられますね。かつてあったネット内の濃密なコミュニティは完全に消滅しちゃいました。

ともかくも、このブログが無事10年を迎えられるかどうか。あまり入れ込みすぎると息切れするので、今まで通りのんびりやっていきたいと思います。

2009.01.17

葦名家花見ヶ森廟

Ashina_3Ashina_2鶴ヶ城の北側の山裾、今は住宅地になっている一角に葦名氏三代の墓所があります。16代目の葦名盛氏をはじめ、盛興、盛隆の三代からなります。それぞれ塚の上に五輪塔が配置され、その傍らは大木がそびえています。

Ashina_1_2真ん中にあるのが、16世紀半ば頃の当主である葦名盛氏の墓。この盛氏は知略と人望に優れた人と評価されていますが、この時期の葦名氏は全盛期を迎えたことによります。会津の支配を安定化させただけではなく、長沼・二本松・須賀川・郡山といった現在の福島県の中央部に支配を拡大させ、米沢を中心に勢力を拡大していた伊達氏と勢力を二分する存在となりました。この領国拡大はほぼ盛氏が一代で成し遂げたため、高い評価を得ています。

Ashina_6次代の葦名盛興は盛氏の子でしたが、天正3年(1575)に早世。毒殺説もあるそうです。なので、事績についてはよくわかりません。いずれにせよ、葦名氏の行く末を暗示するかのような不吉な事態です。

Ashina_10その次代の葦名盛隆は須賀川を本拠とする二階堂盛義の子でしたが、盛興に子が無かったため、養子となって葦名氏の当主に迎えられました。織田信長と誼を通じるなど外交政策に長けていたようですが、家臣との折り合いが悪かったらしく、天正12年(1584)に黒川城内で暗殺されました。
生まれたばかりだった継嗣の実子も直後に死去したそうで、跡継ぎには佐竹義重の子である義広か伊達輝宗の子(政宗の弟)である竺丸(小次郎)とするかで家中が分裂し、結果的には義広が継承しますが、葦名氏は没落の一途を辿ることになっていきました。

というわけで、盛氏以外の二人は決して満足できる生涯ではなかったかと思いますが、仲良く並んで眠っています。
もっともこの墓所は後世に整備されたと思しく、葦名氏滅亡後に彼らを偲んで建立されたものと考えられます。

■福島県会津若松市

2009.01.16

神指城跡

Kozashijo_7Kozashijo_5会津若松の中心部から少し離れた田園地帯の一角に、ぽつんと土塁の遺構があります。これが、神指(こうざし)城の遺構の一部とされています。

会津に入った上杉景勝は、若松城では守りにくく手狭であるとの判断から、直江兼続に指揮を命じて新たな城の建設を進めました。それがこの神指城でした。
築城は慶長5年(1600)2月に開始されたものの、これが徳川家康による討伐の口実を与えてしまったようで、上杉討伐軍が組織され家康も直々に向かってくることになりました。同年6月には徳川との戦争が現実味を帯びていったため、結局は戦争準備のため築城は放棄。
実際は家康が「小山評定」によって反転して関ヶ原へ向かったため直接対決には至りませんでしたが、戦後は上杉氏が会津を失ったため、結局この神指城は「幻の城」に終わりました。

この土塁遺構には大木があり、「高瀬の大ケヤキ」と呼ばれ、天然記念物に指定されています。築城時には既にあったとされています。

Kozashijo_2土塁の傍らに巨石が落ちていました。何か関係があるのでしょうか?

周囲はまったくの田園風景で、ほかに遺構らしきものは見あたりませんでした。記憶によればこの土塁は二の丸あたりのものだったと推定されているようですが、本丸とされる辺りにはなにもないようです。未完成なだけに、遺構としてもどれほどのものがあるのか、よくわからないのでしょうか。

■福島県会津若松市

2009.01.15

会津若松城跡(鶴ヶ城)

Aizutsurugajo_25Aizutsurugajo_36南に飛び、しばらくは会津の史跡を。
会津といえば鶴ヶ城。天守閣は再建ですが、威風堂々とした感じ。

この城で真っ先に浮かぶのは戊辰戦争、白虎隊といったところでしょうけれども、あくまで中世史跡として見るならば(笑)、葦名氏が本拠を構えた黒川城がかつてここにありました。

葦名氏はご存じ三浦一族です。三浦義明の子で、会津の地頭になった佐原義連を祖としています。宝治合戦の後に佐原氏が三浦宗家を継承することになりますが、代わって会津の地頭職を有する本来の佐原氏の名跡は庶子筋が継承することとなり、居住していた相模国葦名(現神奈川県横須賀市)の地から名字が葦名氏となりました。

鎌倉期の葦名氏は相模に在住していたようですが、南北朝期に葦名直盛がはじめて会津に下向し居館を構えたとされており、それがのちの黒川城になったと言われています。ただはっきりと葦名氏の会津支配が現れてくるのは15世紀になってからだそうですが、この頃になると一族の猪苗代氏との争いが絶えなかったようで、戦国期にかけて戦争を繰り返しています。戦国期には葦名盛氏によって隆盛を見ていますが、その後佐竹氏から養子に入った葦名義広は天正17年(1589)の摺上原の戦で伊達政宗に大敗を喫し、会津を追われて没落しました。

Aizutsurugajo_3Aizutsurugajo_7葦名氏を放逐した伊達政宗が会津を支配下に収めたのも束の間、早くも翌年の奥羽仕置によって会津は没収され、蒲生氏郷に与えられました。この頃城下が整備され、文禄2年(1593)に初めて天守閣が建設されます。この時の天守閣は豊臣期天守らしく、黒塗りだったようです。この時、地名も「若松」に改められました。

ところが氏郷死後、蒲生家中で騒動があり、慶長3年(1598)に宇都宮へ減封となりました。そして代わって入ったのが、越後を後にした上杉景勝。公称120万石は徳川、毛利に次ぐ規模でした。同時に米沢も所領としており、話題の?直江兼続は米沢城主となっています。
しかしご存じの通り上杉氏は関ヶ原合戦で西軍に荷担したため、戦後は会津が没収。米沢のみが残されたため、移転しました。

そして会津には、蒲生秀行が60万石の所領を得て復帰。ところが慶長16年(1611)の大地震で天守閣は倒壊し、秀行も翌慶長17年(1612)に30歳で没。嫡男の忠郷も寛永4年(1627)に25歳で没して蒲生宗家は断絶したため、出羽上山藩主で忠郷の弟である忠知に名跡を継承させ伊予松山へ転封となり、蒲生氏の会津支配はここで終わりました。
蒲生氏と入れ替わって伊予松山から加藤嘉明が入り、子の明成が寛永16年(1639)に天守閣を再建。この時のものが今の天守閣のモデルになっているそうです。しかし明成はその4年後に家中騒動のかどで改易となり、そして、徳川秀忠の子である保科正之が入ってきました。以後、松平氏を名乗って幕末に至ります。

Aizutsurugajo_32Aizutsurugajo_17左写真は太鼓門。大手門の性格を持つ門とされています(それにしては内側過ぎる気も…)。右写真は天守閣から見たところです。その名の通り、太鼓が置かれていたそうです。

Aizutsurugajo_27Aizutsurugajo_16左写真は本丸御殿跡。礎石だけが遺っています。
右写真は、天守閣から見た町並み。四方見渡すと、ぽっかり広がる盆地といった感じが見て取れました。冬場はまったく違う景色が見られるんでしょうねえ。

■福島県会津若松市

2009.01.13

貨幣史いまだ衰えず?

先日の連休中、神戸にて懸案の報告を終えました。
しかし直前に体調を崩してしまい、コンディションは最悪。討論でも口数が少なくなってしまい、せっかくの機会をいただきながら、まったく不義理な仕儀となってしまいました。
数々の貴重なアドバイスをいただきながら、不誠実な対応をしてしてしまったのではないかと思い、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

そんな自らの失態はさておき、ほかのお二方のご報告を拝聴して大きな刺戟をいただきました。お二方は興味対象を同じくする同世代の方々なだけに、私も“これではいかん”と改めて気合いを入れ直す貴重な機会となりました。

正直なところ、中近世移行期の貨幣史に関してはそろそろ一段落する段階かもしれないなあ…などという感覚になりつつあったんですが、ところがどっこい、まだまだやるべきことがたくさんあると思い直しました。私もまだしばらくはしがみついていたいと思います(笑)。

とはいえ、当面の課題としては、今回の報告をなんとかモノにすること。そのためには、まだやるべきことがたくさんあることをご教示いただいたので、しばらく時間がかかりそうです。がんばります…。

2009.01.10

戸沢家墓所

ShinjotozawaShinjotozawa_3新庄藩主である戸沢氏の墓所です。菩提寺の瑞雲院に隣接し、当地では「御霊屋(おたまや)」と呼ばれています。初代藩主の戸沢政盛から、2代目の正誠(まさのぶ)を除く10代の墓があります。

各地に歴代藩主の廟所はありますが、このように茅葺きの覆いのある所を見るのは私は初めてでしたので、新鮮でした。6つの建物からなっていますが、それぞれ時代による建築様式の変遷があるそうです。

Shinjotozawa_5Shinjotozawa_7戸沢氏は桓武平氏貞盛流とされ、源頼朝の奥州征伐に従軍して奥州岩手郡雫石(現岩手県雫石町)に土着した一族と言われています。その後出羽国角館(現秋田県仙北市[旧角館町])に移って、隣接する小野寺氏と激しい抗争を繰り広げたそうです。

戸沢氏は秀吉の関東征伐にいち早く呼応して小田原へ参陣したり、関ヶ原合戦では徳川方に味方して乗り切っていますが、佐竹氏と入れ替わる形で常陸小河(現茨城県小美玉市[旧小川町])へ転封。山形の最上氏が改易になると、代わって山形に入った鳥居氏の与力の形で当時の当主・戸沢政盛が新庄に復帰し、18世紀初頭に正式に大名となりました。

このように時流を読んで栄転しながらも一度は関東に移されており、翻弄された東北の領主の苦労が垣間見えます。結果として東北に復帰した後はそのまま根を下ろし、この廟所も大名としての確立を祝うかのように、18世紀初頭に初めて築かれたようです。

■山形県新庄市

2009.01.06

鮭延城跡

Sakenobe_6Sakenobe_11山形県に入り、鮭延(さけのべ)城跡へ。別名真室城とも言います。この地域に勢力を張っていた仙北地方(現在の秋田県南東部)の領主小野寺氏の被官である、佐々木(鮭延)氏の居城跡です。天文期頃の築城とされています。

初めてここに城を築いた佐々木(鮭延)氏は近江源氏の一族で、15世紀末~16世紀初頭に近江から出羽の小野寺氏の元へ降ってきたと言われています。この辺が事実かどうかはわかりませんが、16世紀半ば頃から小野寺氏被官として現れ始めたようで、庄内の武藤(大宝寺)氏や山形の最上氏との抗争に備えるため、鮭延の地に城郭を築いて前線としたそうです。

しかし最上氏の勢力が増大すると、天正9年(1581)に城主鮭延秀綱は最上義光に降伏。以後の鮭延氏は最上氏の被官となり、逆に小野寺氏と激しく争うようになったようです。鮭延秀綱は関ヶ原合戦に絡んだ慶長5年(1600)の長谷堂城の攻防戦で最上方として活躍しています。鮭延氏は、最上氏改易後に下総古河藩の土井氏に仕え、ほどなくして断絶したそうです。
鮭延城には代わって戸沢氏が入りましたが、すぐに新庄に移転し、廃城となりました。

Sakenobe_7Sakenobe_9とまあ、東北の戦国史においては結構重要な城なんですが、全然整備されてないので、写真を撮っても薮が写るだけです(笑)。遺構もほとんどわかりませんでした。草が無ければそれなりに見られたりするんでしょうか。

Sakenobepano
ただこのように、眺めは絶景。眼下には最上川支流の鮭川が流れています。

Sakenobe_1Sakenobe_3城の麓には、鮭延氏菩提寺の正源寺(しょうげんじ)があります。寺伝では天文5年(1536)築。縄文晩期の土偶(重要文化財)を所蔵しているそうで、珍しいお寺です。
写真は本堂と鮭延氏の墓。奥に見える宝篋印塔が一番古いようですが、近世初頭頃のものでしょうか。

■山形県真室川町

2009.01.04

院内銀山遺跡

Innai_28_2Innai_34_2これからは東北シリーズ。私の記憶が薄れる前に進めていきたいと思います。

まずは秋田県の最南端、雄物川の源流域にある院内銀山の跡。慶長11年(1606)に発見され、久保田(秋田)藩主の佐竹氏によって開発が進められました。
産出のピークは天保期(19世紀前半)で、幕末にかけて一度廃れた後、明治になって再開発が進められました。そして財閥の古河市兵衛に払い下げられた後は再び活況となったそうですが、長くは持たず大正に入って休止。昭和初期に廃坑となりました。

今は実際に発掘していた所まで登ることはできませんが、麓の方にある「御幸坑」(左写真)までは行くことができます(中には入れませんが)。右写真は、そこから少し降ったところにある、町の鎮守だった金山神社。この神社をランドマークとして、町が広がっていました。

Innai_29_2Innai_4_2とはいえ今は一軒も家は残っていません。遺跡だけが物寂しく残っています。左写真は神社の近くにある正楽寺跡。
右写真は、町への入口に設けられた「十分一御番所」跡。ここを通る物資に対して、10分の1の役を徴収したそうです。

Innai_10_2Innai_17_2こちらは、その番所と鉱山町との中間点あたりにある墓地。ここで亡くなった坑夫などの墓が今も遺されています。
右写真は、院内銀山で医師を勤めていた門屋養安とその一族の墓。養安は天保6年(1835)から明治2年(1869)までの詳細な日記を遺していることで知られています。

もう一つ院内の日記として忘れてはならないのが、梅津政景の日記。梅津氏は元々宇都宮氏の被官だったそうですが、梅津政景は佐竹義宣の家臣となり、共に秋田へ移住。慶長14年(1609)には「山奉行」に任じられ、院内銀山で様々な法整備を行った人として知られています。彼の遺した日記は初期の藩政の様子や鉱山開発の史料として重要なものですね。(私はまだ読んだことはないのですが…)

Innai_39_2最後は現地の看板。かつてはこのような町並みが広がっていたそうです。
戦前まではある程度町並みが残っていたそうですが、今は影も形もありません。かつてこんな町があったことが信じられないくらいです。廃れた鉱山町の悲哀を感じます。

ちなみにJR院内駅に併設する形で、資料館の「院内銀山異人館」があります。

■秋田県湯沢市(旧雄勝町)

2009.01.03

新出の秀吉書状

既にこちらで紹介されていますが、私も目に留まったのでネタにします。

天正12年(1584)に豊臣秀吉が「関兵衛(一政)」に宛てた書状が発見されたそうで、現在亀山市歴史博物館で展示されているとの記事がありました。


羽柴秀吉が1584年、亀山城主の関右兵衛にあてた書状が三重県の亀山市歴史博物館で公開されている。東京大学史料編纂(へんさん)所に写本はあるが、実物の所在は長い間不明だった。同館が京都市の古書店にあるのに気づき、08年7月に189万円で購入した。
 通信文は9行したためられている。秀吉は「亀山城に織田信雄軍が攻めてきたが、堅固に踏ん張った」とたたえ、「亀山城が攻撃対象になるとは思わなかった」と告白。文章は祐筆と呼ばれる書記の筆跡とみられるが、花押は秀吉本人だ。秀吉の朱印状は豊臣政権の公文書として数多く残っているが、花押を据えた文書は少ないという。
 書状は縦14.6センチ、横38.8センチで軸装され、保存状態は良好。同館に送られてきた古書店のカタログに書状が掲載されているのを昨年秋、館員が気付き、専門家に確認してもらって本物と判定されたため、購入した。

…http://www.asahi.com/national/update/1223/
NGY200812230001.htmlより

記事にある通り、写自体は既に把握されていて、『愛知県史』資料編・織豊2で活字化されています(794号・「関文書」)。
それを基に文書の翻刻にチャレンジしてみましたが、以下のような感じでしょうか(誤読の指摘歓迎)。


御状令披見候、其城へ」取懸候節(ヵ、※1)、堅固ニ相」踏、無異儀候由尤候、当(※2)城者候とハ(ヵ、※3★2)失念」候つる(★1)、蒲飛(※4)初而各」人数差(※5)越申候条、」其元才覚肝要(※6★3)候、」猶以可被入御精事」専一候、恐々謹言、」
            筑前守
 三月十二日     秀吉(花押)
  関兵衛殿

(※1)『愛知県史』(以下『愛』)では「処ニ」(★削除、「節」→「処」に変更)
(※2)『愛』では「尚」
(※3)「者候とハ」の部分、『愛』では「在之者ハ」→★2
(※4)「蒲飛」は蒲生飛騨守(賦秀、のちの氏郷)
(※5)『愛』では「着」
(※6)「肝要」は『愛』では「折角(肝要ヵ)」→★3
(追記:★1)「つる」→「間」に変更。(『愛』では「つる」) 削除
(追記:★2)「者候」は「在之」の方が正確?
(追記:★3)「要」か「存」か?

※3の解釈が異なっているので、『愛』と上記記事とで少し文書の理解が異なっているようです。この辺議論になりそうです。
ところが問題は最初の行の「其城」がどの城か、という点。記事では亀山城としていますが、『愛』では松ヶ島城(のちの松坂城)としています。小牧・長久手の戦の一環での伊勢での戦争に関するものですが、戦況については私はわからないので、どちらが正しいのかは判断できません。ご教示いただければ幸いです。

まずはこんなところで。記事のタイトルが「花押付き秀吉朱印状」となっていて、私もなんじゃそりゃと思って気になったんですが、見ての通り朱印状ではないわけでして、記者氏のミスか勘違いでしょうね。

(※追記)
文書を読む限り、「其城」は関氏の居城(=亀山城)とした方が良さそうですが、いかがでしょうか。

2009.01.01

2009年 謹賀新年

あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

個人的な目標は昨日の記事で書きましたが、そのほか重大な仕事として、今年の前半は大イベントの企画担当としてかけずり回るのがメインになりそうです。手を抜かないようがんばりたいと思います。

それとは別に春頃には、「室町期研究活発化計画」(大仰(笑))としてぶちあげた去年の仕事(私は黒子役ですが)を形にすることができそうです。こんな所で書くのもなんですが、ご尽力くださっているみなさんに御礼申し上げます。この件については、詳細は追々。


今年は元日から早くも報告準備なんかやったりしてますが、なんとかめどがつきそうなので、一日ぐらいは外出して正月の雰囲気を味わってみたいな、と思ったりしてます。

私事としては、今年は少し身の回りの再整備をしたいなあと思ってます。大学入学時に揃えた家電が今もなんとなく使えているものが多いんですが、さすがにそろそろガタが来始めているので、大惨事(発火とか(笑))になる前に少しずつ更新していこうかと。
リモコンに先立たれたテレビ、子機に先立たれた電話機etc…。あと作業周り(=パソコン関連)とか。まあ一気にというわけにはいかないので、ぼちぼちと。

今年はいよいよ、世間的に一つ“ステージ”の上がる年齢になります(有り体にいえば、青年→中年(笑))。
いい加減なんとかしたいですねぇ…。いろんな意味で。

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