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2009.01.03

新出の秀吉書状

既にこちらで紹介されていますが、私も目に留まったのでネタにします。

天正12年(1584)に豊臣秀吉が「関兵衛(一政)」に宛てた書状が発見されたそうで、現在亀山市歴史博物館で展示されているとの記事がありました。


羽柴秀吉が1584年、亀山城主の関右兵衛にあてた書状が三重県の亀山市歴史博物館で公開されている。東京大学史料編纂(へんさん)所に写本はあるが、実物の所在は長い間不明だった。同館が京都市の古書店にあるのに気づき、08年7月に189万円で購入した。
 通信文は9行したためられている。秀吉は「亀山城に織田信雄軍が攻めてきたが、堅固に踏ん張った」とたたえ、「亀山城が攻撃対象になるとは思わなかった」と告白。文章は祐筆と呼ばれる書記の筆跡とみられるが、花押は秀吉本人だ。秀吉の朱印状は豊臣政権の公文書として数多く残っているが、花押を据えた文書は少ないという。
 書状は縦14.6センチ、横38.8センチで軸装され、保存状態は良好。同館に送られてきた古書店のカタログに書状が掲載されているのを昨年秋、館員が気付き、専門家に確認してもらって本物と判定されたため、購入した。

…http://www.asahi.com/national/update/1223/
NGY200812230001.htmlより

記事にある通り、写自体は既に把握されていて、『愛知県史』資料編・織豊2で活字化されています(794号・「関文書」)。
それを基に文書の翻刻にチャレンジしてみましたが、以下のような感じでしょうか(誤読の指摘歓迎)。


御状令披見候、其城へ」取懸候節(ヵ、※1)、堅固ニ相」踏、無異儀候由尤候、当(※2)城者候とハ(ヵ、※3★2)失念」候つる(★1)、蒲飛(※4)初而各」人数差(※5)越申候条、」其元才覚肝要(※6★3)候、」猶以可被入御精事」専一候、恐々謹言、」
            筑前守
 三月十二日     秀吉(花押)
  関兵衛殿

(※1)『愛知県史』(以下『愛』)では「処ニ」(★削除、「節」→「処」に変更)
(※2)『愛』では「尚」
(※3)「者候とハ」の部分、『愛』では「在之者ハ」→★2
(※4)「蒲飛」は蒲生飛騨守(賦秀、のちの氏郷)
(※5)『愛』では「着」
(※6)「肝要」は『愛』では「折角(肝要ヵ)」→★3
(追記:★1)「つる」→「間」に変更。(『愛』では「つる」) 削除
(追記:★2)「者候」は「在之」の方が正確?
(追記:★3)「要」か「存」か?

※3の解釈が異なっているので、『愛』と上記記事とで少し文書の理解が異なっているようです。この辺議論になりそうです。
ところが問題は最初の行の「其城」がどの城か、という点。記事では亀山城としていますが、『愛』では松ヶ島城(のちの松坂城)としています。小牧・長久手の戦の一環での伊勢での戦争に関するものですが、戦況については私はわからないので、どちらが正しいのかは判断できません。ご教示いただければ幸いです。

まずはこんなところで。記事のタイトルが「花押付き秀吉朱印状」となっていて、私もなんじゃそりゃと思って気になったんですが、見ての通り朱印状ではないわけでして、記者氏のミスか勘違いでしょうね。

(※追記)
文書を読む限り、「其城」は関氏の居城(=亀山城)とした方が良さそうですが、いかがでしょうか。

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コメント

昨年は、というか、先日は話しかけてくださいましてどうもありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします、あほやんですm(_ _)m

絡んでいいのかどうなのかと思いつつ・・・なるほど、こういう内容だったのですねえ。「蒲飛」のあたりで、何書いてるか分からなくなって、わたくしは読むのを断念してしまいました。
戦ってるっぽい内容だったので、弓矢かなんかが「飛」び交ってるのかなあなんて思ってました。

>問題は最初の行の「其城」がどの城か
そうですね、たしかにどの城か具体的に書いてある訳でなくてよく分からず、見解のわかれるところかと思います。記事のほうは、やはりある程度取材を受けた(博物館の)人の見解が反映されてるのでしょうか。
わたくし、今実家に帰ってて手元に『愛知県史』とか無くて、宛所の「関兵衛(一政)」という人がよく分からないのですが、「其城」が松ヶ島城であった場合、だいぶ解釈が変わってくるのですかね(松ヶ島城が関氏の居城じゃないからとかで)?

「当(※2)城者候とハ(ヵ、※3)失念」候つる間(★1)」のところもよく分からず、結局当時の伊勢の状況が分からないわたくしでは、よく分からんです。。。。(〃_ _)σ∥

>あほやんさん
書き込みありがとうございます。今年も宜しくお願いいたします。

関氏は蒲生氏と姻戚関係を結んでいて、関一政は蒲生賦秀の与力だったようです(義理の兄弟でもあったらしい)。

『愛知県史』との解釈の違いは、やはり字の違いにあるようで、※5の「着」と「差」の違いが影響していそうです。
「着」と読むと蒲生賦秀が守る城への援軍を命じたものと読めることから、「其城」は松ヶ島城を指したと解釈されたのではないかと。

ただ「差」となると解釈は逆で、蒲生以下の援軍を派遣したので上手く守り抜くように、と秀吉が命じたように読めます。そうであれば、やはり関氏の居城=亀山城、となるのでしょう。

※3の部分は解釈が微妙です。実は翻刻を間違えている可能性が高いかな、と。大意としては、「『当城(=其城=亀山城ヵ)』への備えについてはうっかり忘れていたので、」ということだと思います。そこで援軍を差し向けたので…という流れがしっくりくるかなと思います。

おそらく記事内容は学芸員の方の手ほどきがあったと思いますが、最初の解釈は間違っているような気がします。
冒頭の部分は、堅固に守ったことを讃えたのではなく、「『其城』は堅固に守り抜かねばならない(そのための援軍を差し向けて欲しい)、という関氏による提案はもっともである」と言っているのだと思います。実際にこの時点で関氏は織田信雄方から攻撃を受けているかどうかはわかりませんが。

お気づきの点がありましたらご意見をお寄せ下さい。宜しくお願いします。

かわとさま、丁寧にお答えいただき、ありがとうございます。

『愛知県史』をぱらぱら見たのですが、やはり「其城」を「そなたの城」=宛所の関氏の居城と捉えるか、「そっちのほうの城」=伊勢のほうにある、とある城(松ヶ島城)と捉えるかでずいぶん理解が変わってくるようですね。う~ん、むずかしい♪(* ̄▽ ̄)ノ・。゜

どうもありがとうございました。よい勉強になりましたm(_ _)m

>あほやんさん
そうですね。全体の戦況とも関わってくるので、その辺を少し勉強する必要がありますね。
またご教示ください。

あけましておめでとうございます。
さて、問題の文書↓ですが、こちらでは「朱印状」とは書いていませんね。
http://kameyamarekihaku.jp/tenji_naiyou.html

博物館の翻刻文は『愛知県史』『長久手町史』はもちろん、かわとさんのとも微妙に違っています。
うーん。史料は実際に見ないとわからないということなんですねえ・・・(しみじみ)。

で、私見ですが、このすぐ3日後に同じ関一政あてに峯城攻めの戦功を賞する書状を秀吉が発給してるところから考えると、守備というより攻撃を指示したと考えるべきで、「其城」は峯城を指すのではないでしょうか。つまり、

「書状は拝見した。峯城を攻めて(失敗したが)備えを堅め踏み止まっているのはもっともである。この城の存在についてはついうっかり忘れていたが、蒲生氏郷らの援軍を派遣したので、頑張ってほしい」

と解釈するのが妥当ではないかと考えますが、どうでしょう?

>板倉丈浩さん
あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。

博物館でも翻刻がされていたんですね。おおむね博物館の方が合っていそうです(笑)。

戦況や解釈についてのご指摘ありがとうございます。板倉さんの解釈で確定できそうですね。となると、私が先に書いた、記事に対する批判は撤回せねばなりません。

「其城」は松ヶ崎でも亀山でもないということですか。なるほど、勉強になります。

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