会津若松城跡(鶴ヶ城)

南に飛び、しばらくは会津の史跡を。
会津といえば鶴ヶ城。天守閣は再建ですが、威風堂々とした感じ。
この城で真っ先に浮かぶのは戊辰戦争、白虎隊といったところでしょうけれども、あくまで中世史跡として見るならば(笑)、葦名氏が本拠を構えた黒川城がかつてここにありました。
葦名氏はご存じ三浦一族です。三浦義明の子で、会津の地頭になった佐原義連を祖としています。宝治合戦の後に佐原氏が三浦宗家を継承することになりますが、代わって会津の地頭職を有する本来の佐原氏の名跡は庶子筋が継承することとなり、居住していた相模国葦名(現神奈川県横須賀市)の地から名字が葦名氏となりました。
鎌倉期の葦名氏は相模に在住していたようですが、南北朝期に葦名直盛がはじめて会津に下向し居館を構えたとされており、それがのちの黒川城になったと言われています。ただはっきりと葦名氏の会津支配が現れてくるのは15世紀になってからだそうですが、この頃になると一族の猪苗代氏との争いが絶えなかったようで、戦国期にかけて戦争を繰り返しています。戦国期には葦名盛氏によって隆盛を見ていますが、その後佐竹氏から養子に入った葦名義広は天正17年(1589)の摺上原の戦で伊達政宗に大敗を喫し、会津を追われて没落しました。

葦名氏を放逐した伊達政宗が会津を支配下に収めたのも束の間、早くも翌年の奥羽仕置によって会津は没収され、蒲生氏郷に与えられました。この頃城下が整備され、文禄2年(1593)に初めて天守閣が建設されます。この時の天守閣は豊臣期天守らしく、黒塗りだったようです。この時、地名も「若松」に改められました。
ところが氏郷死後、蒲生家中で騒動があり、慶長3年(1598)に宇都宮へ減封となりました。そして代わって入ったのが、越後を後にした上杉景勝。公称120万石は徳川、毛利に次ぐ規模でした。同時に米沢も所領としており、話題の?直江兼続は米沢城主となっています。
しかしご存じの通り上杉氏は関ヶ原合戦で西軍に荷担したため、戦後は会津が没収。米沢のみが残されたため、移転しました。
そして会津には、蒲生秀行が60万石の所領を得て復帰。ところが慶長16年(1611)の大地震で天守閣は倒壊し、秀行も翌慶長17年(1612)に30歳で没。嫡男の忠郷も寛永4年(1627)に25歳で没して蒲生宗家は断絶したため、出羽上山藩主で忠郷の弟である忠知に名跡を継承させ伊予松山へ転封となり、蒲生氏の会津支配はここで終わりました。
蒲生氏と入れ替わって伊予松山から加藤嘉明が入り、子の明成が寛永16年(1639)に天守閣を再建。この時のものが今の天守閣のモデルになっているそうです。しかし明成はその4年後に家中騒動のかどで改易となり、そして、徳川秀忠の子である保科正之が入ってきました。以後、松平氏を名乗って幕末に至ります。

左写真は太鼓門。大手門の性格を持つ門とされています(それにしては内側過ぎる気も…)。右写真は天守閣から見たところです。その名の通り、太鼓が置かれていたそうです。

左写真は本丸御殿跡。礎石だけが遺っています。
右写真は、天守閣から見た町並み。四方見渡すと、ぽっかり広がる盆地といった感じが見て取れました。冬場はまったく違う景色が見られるんでしょうねえ。
■福島県会津若松市
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