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2009年2月

2009.02.27

毛利元就の伝記

Motonari池享『知将毛利元就―国人領主から戦国大名へ』(新日本出版社、2009年)受贈。ありがとうございます。

伝記シリーズとして知られる吉川弘文館の「人物叢書」やミネルヴァ書房の「日本評伝選」にも毛利元就は無いので、実質的には初めての伝記ということになりますね(ただし新人物往来社の「すべて」シリーズでは、河合正治さん編著のものがあります)。
なるべく一般の人も読みやすいようにというコンセプトとのことで、地図や写真などがたくさん盛り込まれています。写真は今年の正月に急遽ご本人が撮影に行かれたそうです(笑)。

大河ドラマで毛利元就をやってからもう10年以上過ぎましたが、また一般では地味な存在に逆戻りした感があります。
とはいえ厖大な史料を残していることもあって、毛利氏の研究自体はなお盛んでして、そのギャップをどう埋めていくかがこれからの課題なのかもしれません。その嚆矢となる一冊になるといいですね。

2009.02.25

2.25問題ふたたび

このところすっかり腑抜けになってしまいぐうたら三昧でしたが、そろそろいくつか構想も浮かんできて、本格的に新しい論文に取りかかろうと。
というわけで、まずは関連史料を見ないとね。

と思ったら。

明日(25日)国立大学は入試なんですねえ…。近所の出身大学は見事図書館が閉館。
はかったようなタイミングの悪さ。萎えちゃいます。

ただ、本郷の某大学は図書館開いてるんですね。本郷は試験会場になってないから?
国立といってもいろいろあるようです。

今日(24日)近所の大学に行ったら、下見に来た受験生をたくさん見かけました。
緊張した面持ちが初々しい。なんか私も昔を思い出して懐かしくなったなあ(年寄りくさい(笑))。
ともあれ、受験生のみなさん(見てる人いますかね?)、健闘をお祈りします。
ちなみに私は失敗しましたが、それなりにやれてます(笑)。なんとかなります。

なんか以前同じようなこと書いたような…と思って探したら、4年前の記事でした(笑)。

2009.02.24

鶴岡城跡

Tsuruokajo_2Tsuruokajo_6次は鶴岡(鶴ヶ岡、つるがおか)城跡です。中世では大宝寺城と呼ばれた大宝寺氏の居館跡でもあります。

大宝寺氏は、庄内に土着した後しばらくの動向はよくわからないようです。鎌倉期には羽黒山と相論になったことがわかっているようですが。南北朝期には幕府が越後守護の上杉憲顕に大泉荘(庄内)領家職を安堵しているそうで、この頃から大宝寺氏は越後の上杉氏との関係を深めながら勢力を拡げたと思われます。
東国では幕府方と鎌倉方とで対立が先鋭化してゆきますが、大宝寺氏は一貫して幕府方で、時々京都に馬などを贈答して歓心を買っています。同じく幕府方だった伊達氏も、庄内から海路を辿って使者を京都に派遣していますが(★追記参照)、大宝寺氏ともなんらかの関係はあったのでしょうね。
この過程で、羽黒山にも食い込んでいったようで、15世紀後半には大宝寺淳氏が羽黒山別当職を有していたそうです。

ところが15世紀末期に差し掛かると庶流の砂越氏と軋轢が生じ、内紛が勃発。大宝寺氏は越後上杉氏と親密な関係を維持していましたが、永正4年(1507)に被官の長尾為景が当主の上杉房能と関東管領の上杉顕定を討ち取ったことをきっかけに保護を失い、最上氏と結託した砂越氏に追い詰められ、天文元年(1532)に尾浦城へ移転。その後盛り返して奪還したものの、滅亡してゆく過程は尾浦城の記事で書きました。

大宝寺滅亡のきっかけとなった天正18年(1590)の一揆蜂起には直江兼続が鎮圧に当たったとされ、平定後は上杉氏の支配を受けます。関ヶ原後には最上領となり、慶長8年(1603)に「鶴ヶ岡」に改められました。

最上氏改易後には酒井宮内大輔忠勝(大老となった若狭小浜藩主の讃岐守忠勝とは別人)が入り、以後酒井氏の城下町として発展しました。天保年間(19世紀前半)には転封を言い渡されるものの民衆の抵抗で撤回。幕末は会津藩降伏後も幕府方の強硬派として新政府方と徹底抗戦したことでも知られています。維新後に廃城。

Tsuruokajo_8ここがたぶん本丸。天守閣はなく御殿が築かれていましたが、これは城門か櫓の礎石でしょうか? 状況はよくわかりませんでした。

Tsuruokajo_3Tsuruokajo_10御殿跡と思われる場所には、現在は荘内神社が建っています。明治10年(1877)に建立されました。酒井氏初代の忠勝を祀った神社ですが、歴代藩主も合祀されています。

本丸を囲う堀は今でも結構立派です。石垣はほとんどなく、土塁が主体で、中世城館の雰囲気も感じられます(実際はだいぶ違うのでしょうけれども)。今は公園になっています。

■山形県鶴岡市

(★)追記
該当史料(『伊達家文書』)を見たところ、伊達氏の京都への使者は領内から越後へ出たことがわかるのみで、庄内を通ったかどうかは明確ではありませんでした。また、海路ではなく陸路を通っており、この点は誤りでした。
該当箇所の修正(消去)も可能ですが、一度書いたものでもありますので、追記の形で訂正させていただきます。

2009.02.23

見るに堪えない「天地人」

一応これまではほぼ欠かさず見てるんですが、段々辛くなってきました。

もちろんどこまでも史実に忠実たれと思っているわけではないんですが、時代劇である以上は、その時代の社会像とか人々の行動様式に配慮するのが最低限のお約束ではないかと思うんです。というか、それに縛られつつも、どのようにして現代人の感動を呼ぶドラマに仕立て上げるかというのが醍醐味ではないでしょうか。
すべて現代風に“アレンジ”(と言えるようなものでもないか)するのなら、別に時代劇でやらなくてもいいわけで、現代劇でやってしまえばいいんじゃないですかね?

大河ドラマだから時代劇じゃないとね、ってな感覚(実際は過去に現代劇もありましたが)でなんとなく時代劇をやってるだけで、それ以外の理由で制作側に時代劇をやってる矜持があるんですかねえ? そこらへんの“熱意”が伝わってこないように思えるんですが。

あと、大河ドラマは映像技術のレベルが高いのが売りだったと思うんですけど、今年はやけにチープですね。なんでも不況のせいにしてほしくないところですが、どうなんでしょうか?
ほんと、いいなと思うのはオープニング曲ぐらいしかありません(笑)。

まだしばらくはできるだけ見続けようと思いますが(今のところネタにはなるので(笑))、最後まで持つかなあ?
今年は早めに終わるそうですが、実はそれが救いかも。

大河だけに、低きに流れるということですね。お後が宜しいようで。

2009.02.21

尾浦城跡

Ourajo_1Ourajo_5ここからは庄内地方に移ります。
まずは尾浦(おうら)城跡。「大浦」とも呼ばれています。現在は大山公園という公園になっています。

中世の庄内は大泉荘という王家(天皇家)領荘園で、庄内という地名も大泉荘から来ています。

鎌倉期には武藤氏が地頭となりましたが、惣領の武藤資頼が大宰少弐として九州に下ったため、その弟である武藤氏平が地頭となって庄内で土着しました。はじめは大泉氏を名乗りましたが、大宝寺(現在の鶴岡市中心部)に本拠を据えたため、大宝寺(だいほうじ)氏を名のるようになりました。
大宝寺氏については、後で大宝寺城(のちの鶴ヶ岡城)の記事にてまた改めて。

この尾浦城は、大宝寺氏が庶流の砂越氏との内紛によって大宝寺城が焼かれたため、天文元年(1532)に本拠として構えた城です。大宝寺城は平城ですが、この尾浦城は山城で、防御を固める目的があったのでしょう。
16世紀になると越後の上杉氏と関係を結び、揚北衆で越後国小泉荘(現新潟県村上市)を支配する本庄繁長とも親密な関係となったようです。それを背景として16世紀後半に当主の大宝寺義氏は北への侵攻を重ねたことにより、被官の反撥を招いて天正11年(1583)に自害させられました。

その後庄内は上杉・最上も入り乱れて内乱状態となり、結局天正15年(1587)に敵対していた最上義光によって尾浦城は落城。当主の大宝寺義興(義氏の弟)は自刃。

その後は最上氏の支配するところとなりましたが、上杉方の本庄繁長は義興の養子となっていた実子・大宝寺義勝を立てて引き続き激しく争い、天正16年(1588)に本庄氏が奪還します。

こうして上杉氏の息のかかる形で大宝寺氏が再び庄内を支配しましたが、それも束の間。天正18年(1590)に「奥羽仕置」の一環として上杉景勝が検地を行いましたが、直後に一揆が蜂起。この一揆の煽動を疑われ、本庄繁長と大宝寺義勝親子は大和へ流罪となり、没落。後に赦されましたが、義勝は本庄氏に復したため、大宝寺氏は滅亡しました。

Ourajo_3Ourajo_8以上の説明はごく簡略で、とにかく16世紀にはこの尾浦城を巡って全国的に見ても極めて激しい争奪戦が繰り広げられました。ただ、今は史跡として見なされているかどうか疑わしい状況で…。城跡らしき遺構はそこかしこに見られるのですが、現地には全然説明もないのでよくわかりません。発掘もしたことあるのかなぁ…?

Ourajo_11Ourajo_20一応、武藤(大宝寺)氏を供養する石塔が建っていました。わりと新しい感じ。
写真は載せてませんが、城跡には神社やお寺があります。どういう経緯で建立されたのかはよくわかりませんでした。

Ourajo_9最後に、城跡からの眺めです。
なおこの尾浦城は上杉氏が関ヶ原合戦で庄内を没収されるとまた最上氏の支配するところとなりましたが、最上氏が改易されて廃城となりました。

■山形県鶴岡市

2009.02.20

山寺 立石寺

YamaderaYamadera_3山形といえばやはりここですね。山寺こと立石寺(りっしゃくじ)です。
天台寺院で、寺伝によれば、清和天皇の勅願によって円仁(慈覚大師)が貞観2年(860)に開いたとされています。まあ開山は諸説あるのでなんともいえませんが、平安期に既にあったことは確かなようです。

鎌倉幕府によって祈願所にされたそうですが焼亡しており、斯波兼頼が再建したとされています。大永元年(1521)には伊達稙宗を援助したとのかどで最上一族の天童頼長に焼き討ちにされたものの、その後最上義守・義光の2代にわたって庇護を受けて復興しました。意外にも?中世の大般若経を所蔵しています。

凝灰岩の山肌が向きだしの崖に堂舎が点在している様子は独特です。言うまでもなく、元禄2年(1689)に松尾芭蕉が「閑さや 岩にしみ入 蝉の声」と詠んだことが『おくのほそ道』に記されていることで知られています。

なお、右写真は本堂(根本中堂、重要文化財)。延文元年(1356)に斯波兼頼が建立したものです。いがんでますが、当然ながら傾いているのではなくて私の写真の拙さのためです(笑)。

Yamadera_5Yamadera_7左写真は清和天皇の供養塔だそうです。いつのものなのかはわかりませんが、山寺では最も古い石塔なんだそうです。
右写真の門を入り、ここから長い階段を登っていきます。

Yamadera_12Yamadera_22途中、左写真の仁王門を抜けていきます。この門は嘉永元年(1848)築。
そして登り切ると、右写真の奥の院に到着。峻険な山城をさんざんっぱら経験している身からいえば(笑)、それほどきつくはなかったです。観光地になっていることもあって、階段そのものはそれほど急ではないためでしょうか。

Yamadera_24わかりにくいですが、三重小塔(重要文化財)。永正16年(1519)に造られたものです(年代は銘によるらしい)。くりぬいた岩の中に安置されています。


Yamadera_38Yamadera_30そして有名な五大堂へ。ここからの眺めが山寺のハイライトですが、なんか人も多くてあんまりいい写真は撮れませんでした。ま、こんなもんでご勘弁を。

ともあれ一度は行ってみたい所だったので、行けて良かったです。二度目は? うーむ、どうかなあ(笑)。

■山形県山形市

2009.02.17

近くて遠いを克服する

このところ引きこもりがちで不健康なので、近所を散歩することにしました。
テーマは、まだ行ってない武蔵国分寺に行く。これまで各地の国分寺に行ってるのに、一番近い所はまだ未踏というのはいただけない(笑)。というのがコンセプトです。

20090216スタートは見慣れたこちらから。これも一応登録有形文化財です。
なんでも、最近“医学部”(笑)キャンパスとしてドラマで使われたそうですけど…。

20090216_1しばらく歩くと坂がお出ましです。国立市と国分寺市の境目にある地元では有名な「たまらん坂」。由来は諸説ありますが、ネーミングがいかしてます(笑)。
この名前で思い当たる節のある方もおられますでしょうか。かつてこの側に忌野清志郎が住んでいたことがあって、ファンの聖地として知られていました。RCサクセションの歌に「多摩蘭坂」という歌があり、この坂の名前に漢字を当てたものです。今はバス停も漢字表記がされています。
20090216_2この坂を脇に入ると、←の看板にあるような小さい坂道もあります。

20090216_3さらにしばらく歩くと、府中街道と交叉します。かつての鎌倉街道上道です。この少し先の恋ヶ窪は、畠山重忠にまつわる逸話がもとになって付いた地名です(こちら参照)。

20090216_620090216_7さらに歩くと、いよいよ武蔵国分寺跡に到着。こちらについてはまたいずれ単独でご紹介をば。

宅地化してるので仕方ないかもしれませんが、意外とこぢんまりしてるのと、意外と寂しいなあ、という印象(笑)。
これから史跡公園として整備する予定のようで、現在は発掘作業が行われています。


20090216_8一旦引き返し、府中街道とJR武蔵野線を越えるとあるのが国分尼寺跡。
こちらも一部が史跡として整備されていますが、大半が宅地化しているようです。

20090216_4そして引き返し、遺跡の北側にある現在の国分寺へ。これもまた別の機会に。

20090216_1120090216_12またしばらく歩くとあるのが「真姿の池湧水群」。「名水百選」にも挙げられている場所です。武蔵村山から世田谷にかけて延びる「国分寺崖線(がいせん)」と呼ばれる(「ハケ」とも言います)、多摩川の河岸段丘の崖下の湧き水です。詳しくはこちらをどうぞ(横着(笑))。

20090216_1020090216_14この湧水を水源とするのが「野川」ですが、それに沿って整備された小道である「お鷹の道」があります。ここは今でもホタルが舞う所として地元ではよく知られています。
写真にある通り、この地域がかつて尾張藩の鷹場だったことから名前が付いています。

20090216_15そして、JR西国分寺駅まで歩いて終了(その後さらに自宅まで20分ぐらい歩きましたが(笑))。ざっと2時間ほど歩いたので、距離にすると5~6kmほどでしょうか。いい運動になりました。既に筋肉痛の徴候が…。

また機会を見つけて、都内の未踏の史跡を潰していきたいと思います。

2009.02.16

旧松応寺観音堂・八幡神社石鳥居

Shououji_3山形市南部、蔵王を望む地域にある文化財2件を。
まずは松尾山観音堂。かつては松応寺という寺院で、この観音堂は重要文化財に指定されています。

延宝6年(1678)の「松尾山松応寺記」という史料(縁起でしょうか)によると、和銅年間の創建とされていますが、南北朝期に山形に入ってきた斯波兼頼によって築かれたという説もあるそうです。
実際には室町後期と考えられていますが、最上氏によるなんらかの援助はあったかもしれません。この観音堂は、その頃のものと推定されています。

Shououji_1Shououji_2堂内を撮らせていただきました。
この観音堂は方三間の宝形(ほうぎょう)造りと呼ばれるものだそうで、正面中央には一間の向拝(こうはい)があり、中央の方一間を内陣とし、その外側は外陣となっています。

面白いのは、天正19年(1591)や慶長14年(1609)などの年号の入った参詣者の墨書が残されていることです。
しかし、中は暗くて、私は見つけられませんでした…。残念。

Ishidoriiこちらは成沢地区にある八幡神社の石鳥居(重要文化財)。当地に伝来する文書から、この鳥居に使われた石材は天仁2年(1109)に採取されたとされています。史料そのものは後世のもののようですが、平安期のものなのは確かなようで、日本最古の石鳥居とされています。
石は凝灰岩で、高さは4メートル強あります。この地区の東方にある龍山に興隆した仏教文化の遺物とされているそうです。「仏教文化」として鳥居が造られるところが面白いですね。

山形市内には、もう一つ元木(現鳥居ヶ丘)地区にも石鳥居が遺っているのですが(こちらも重要文化財)、こちらには今回行けませんでした。また機会があればいずれ。

■山形県山形市

2009.02.15

赤塚諏訪神社の田遊び

Itabashittaaosbi_31Itabashittaaosbi_29珍しい神事があるとのことで、赤塚諏訪神社(東京都板橋区)の田遊びを見に行きました。
この祭りの始まった時期は不明だそうですが、19世紀前半の『新編武蔵風土記稿』において大昔から行われているという記述があるそうで、起源は中世に遡るとも言われているようです。
この諏訪神社は15世紀半ばに千葉自胤(よりたね)が信州の諏訪大社を勧請したのが始まりと伝わっています。

Itabashittaaosbi_15Itabashittaaosbi_16いざ行ったら結構な人出でして…。ほとんどまともな写真は撮れませんでした。なので、写真を見てもなんのことやらほとんどわからないと思います(笑)。次第については、こちらこちらなどをどうぞ。

私は行くまでは田楽の一種か?なんて思っていたんですが、全然違ってました。田遊びとは元々小正月の頃の行事で(左義長も同時に行っているあたりがそれっぽい)、稲作の生産過程を模擬的に辿ることによって、豊作を祈願するものだそうです(「予祝」と言います)。近世までは各地で行われていたようですが、現在まで残っているのは非常に珍しいとのことで、国の重要無形民俗文化財に指定されています(しかも最初に指定を受けたらしい)。

Itabashittaaosbi_35Itabashittaaosbi_47この左写真がメインの田遊びを行っている場面。…なんですが、祭りの中ではむしろ地味(笑)。場面々々で天狗をはじめいろんなキャラクターが登場してくるので、2時間ほどかけてやるのですが、見ていて飽きません。

これだけの祭りを村で行うためには相当な負担が必要だったはずで、この地域はかなり裕福な所だったのかもしれないなあ、などと感じました。大都市江戸の近郊で、中山道の板橋宿に近いという地理的条件のゆえでしょうか。
江戸時代にもこの祭りは江戸で結構話題になっていたそうで、当時の文人たちもこの田遊びを記録しているとのことです。

折口信夫氏による田遊びの文章が青空文庫にありました。ご参考までに。

2009.02.14

山形城跡

YamagatajoYamagatajotenbo_2訪問順は前後しますが、先に山形城を。霞城(かじょう)の別名があります。右写真は、JR山形駅前のビルから見たものです。
時間が無くて中には入れず、有名な最上義光像は見られませんでした。あとは近世の石垣が遺っているようです。

南北朝の内乱たけなわの頃、延文元年(正平11年、1356)に羽州探題として斯波兼頼が入部したのが始まりとされています。奥州管領として東北の南朝勢力と激しく戦った斯波家兼の子で、のちに管領になる斯波義将とは従兄弟の関係に当たります。
南朝方で大江(長井)氏一族の寒河江氏を打倒した後、兼頼は最上氏(「最上屋形」)を名乗り、以後、子孫が代々この山形を拠点として支配を拡げていきました。

この山形城は中世の典型的な居館として出発したようですが、16世紀後半に最上義光(よしあき)が当主になると、城郭として本格的に整備されてゆきます。
この頃の最上氏は敵対勢力に囲まれた状態だったようですが、義光は妹(義姫)を伊達氏へ嫁がせたのを代表として、いわゆる「外交」で能力を発揮しています。豊臣政権とも好意的関係を築き、娘(駒姫)を豊臣秀次に嫁がせています。(ところが輿入れのために京都に到着したら既に秀次は切腹させられており、秀次には会ってもいない駒姫もまた15歳で斬首され、義光が悲嘆に暮れたエピソードがよく知られていますね)。

義光は堪え忍んだようですが、この事件も遠因でしょうか。関ヶ原合戦に際してはかねて昵懇でもあった徳川家康に荷担し、上杉景勝と対立して攻撃を受けましたが、辛うじて撃退。この功績によって上杉領だった庄内も所領として獲得し、57万石の大名となりました。石高も加増高もトップクラスで、家康がいかに義光の功績を買ったかがわかります。現在に繋がる山形の町はこの時が実質的なスタートでしょう。

ところが今度は嫡男の最上義康が暗殺され、相次ぐ子の不幸で晩年は失意の生活だったようです。義光死後は後継となった次男・家親も夭折し、その子・義俊が跡を継ぎましたが、御家騒動が勃発。元和8年(1622)に改易されて近江で1万石に大減封。さらに5000石に減らされ、子孫は旗本(交代寄合)となりました。また、分家の山野辺氏は水戸徳川氏の家老となっています。

最上氏改易に関わっては、城請取に赴いた年寄(老中)の本多正純が「吊り天井事件」で改易されました。山形への転封を拒否したため、という逸話もありましたね(実際は事実ではない?)。
結局鳥居忠政(元忠の子)が22万石を得て磐城から移ってきましたが、それも定まらず、以後の山形は譜代藩主がコロコロ入れ替わり(一時期は天領)、領主が定まらないまま維新を迎えました。石高も徐々に減少しており、10万石の時期が最も長いようです。

Yamagatajo_3Yamagatajo_4このように堀が一部遺っていますが、その脇には線路(JR奥羽線)が走っており、車窓から間近に城が見られます(一瞬で終わりますが(笑))。

本来は巨大な城郭だったようですが、現在公園として残されているのは本丸と二の丸だけで、三の丸は市街地化しています(もっとも近世段階で既に市街地化していたらしい)。写真にある城門(復元)は、二の丸の城門です。

なお、山形城についてはこちらが詳しいです。城の脇には、山形市立の最上義光歴史館があります。また、城内には山形県立博物館もありますが、こちらは今回訪問せず。

■山形県山形市

2009.02.12

長谷堂城跡

Hasedo_15上山からさらに北へ。なんだか直江兼続の進軍ルートを辿っているかのようですが(笑)、その最終地点がこの長谷堂城です。

最上氏の本拠である山形城の南西の山裾に位置し、防御上の重要拠点として位置づけられていた城です。
築城時期は明確ではありませんが、永正11年(1514)に伊達稙宗に一時占拠されたという記録があるそうで、それ以前にはあったと考えられています。

なんといってもこの城で有名なのが、慶長5年(1600)の攻防戦。関ヶ原合戦に際して徳川家康(東軍)に味方した最上義光は、石田三成(西軍)に味方した上杉景勝と対立し、景勝の意によって米沢城主直江兼続の侵攻を受けました。
上杉景勝は家康の直接討伐を受けることとなり、最上義光もまた、南部利直や秋田実季などの東北の諸大名とともに上杉討伐の準備をしていました。ところが小山で家康が関ヶ原へ向けて引き返すと諸将が撤退した上、伊達政宗が景勝と和睦してしまい、後顧の憂いを絶つために景勝は最上氏を攻撃することになりました。

最上方はかなりの劣勢で、同年9月にこの長谷堂城まで攻め込まれてしまいます。上杉方は兼続以下の猛攻を仕掛けましたが、城を守っていた志村光安(あきやす)や鮭延秀綱らが必死で防ぎ、半月後の関ヶ原合戦までしのぎきりました。
そして関ヶ原での西軍敗戦で勝負あり。敗戦を知った兼続はここで自害しようとしたものの、前田利益(慶次)に諫止され、米沢へ撤退したという逸話もあるそうです。
この「慶長出羽合戦」については、こちらが詳しいです。

Hasedo_2Hasedo_7という城なんですが、規模は思ったほど大きくはないです。むしろかなり小さい感じで、よく半月も守り通せたものだと感心します。
右写真は本丸で、ここはやや広めな印象を抱きましたが、その下の曲輪はかなり小規模で、数も少ないように思えました。

Hasedo_9Hasedo_10左写真は本丸を別角度から。
そして、この城の重要性がよくわかるのが、右写真の城からの眺め。見えているのは山形市街ですが、丸見えです(笑)。
最上氏にとってはここを取られたら守りきれないと、必死の防御戦を展開した理由がよくわかります。

ちなみにこの長谷堂城は、最上氏改易によって廃城となりました。城の麓には直江兼続の陣跡や志村光安の供養塔もあったようですが、事前の調査不足により残念ながら今回は行けず。

■山形県山形市

2009.02.10

トフティーさん釈放

大きなニュースにはなりませんが、NHKでは取り上げていました(新聞記事はこちらなど)。

こういうことがあると、権力とはいったい何なのか。考えさせられます。
少なくとも、歴史学に不寛容な国家は国家として未熟か、もしくは失格だと思います。

まだ自由を得たとは言えないようですが、一刻も早く思う存分研究に取り組める環境が回復されるよう願っています。

なお、詳しくはこちらをどうぞ。

2009.02.09

上山城跡

Kaminoyama_2Kaminoyama_8どんどん北上します。次は上山(かみのやま)城跡。城下には温泉街が広がっており、風情のある町です。右写真は大手門のあたり。

上山は最上氏の支配地域の最南端に当たり、その南の伊達氏と激しく争った地です。最上氏一族の上山氏が支配していました。16世紀初頭に一度伊達氏に奪取されましたが、取り返し、戦国期まで上山氏が支配を守っていたようです。
天正元年(1573)に最上義守・義光親子が内紛を起こした「天正最上の乱」では、領主の上山満兼(名字は「武衛」「里見」とも)は義守側に与したため、最上義光とは険悪になりました。結局天正8年(1580)に上山は最上義光に攻め落とされ、上山満兼は討ち取られました。その後元は上山氏一族の里見民部が最上氏の影響下で支配。関ヶ原の際の直江兼続の猛攻を退ける戦功も挙げています。(しかしその後出奔したそうで)

元和8年(1622)の最上氏改易後は能見松平重忠が城主となり、藩として独立します。その後蒲生、土岐、金森と藩主がめまぐるしく入れ替わり、元禄10年(1697)に藤井松平氏が入ってからはそのまま幕末まで続きました。

Kaminoyama_15Kaminoyama_20天守閣は土岐氏が転封するまではあったようですが、藤井松平氏時代には破却されてしまい無かったようです。現在のものは模造天守で内部は資料館になっています。

左写真は城下の武家屋敷の遺る通り。4軒並んでいました。右写真は藩校「明新館」跡。

Kaminoyama_24Kaminoyama_22城下の一角には、中世の板碑があります。「湯町元山王の大日板碑」と呼ばれ、正中2年(1325)の年号が刻まれています。このほか上山市内には20基ほどの中世の板碑が現存しているそうです。いつか制覇したいですね(笑)。

右写真は、その近くにある上山温泉の源泉。足湯がありました。

Kaminoyama_7天守閣からみた町並み。丁度山形新幹線「つばさ」がやってきました(わかりますかね?)。


■山形県上山市

2009.02.08

「中山通宝」について

たまたま「なんでも鑑定団」の再放送を見ていたら、琉球の銭貨とされる「中山通宝」(ちゅうざんつうほう)6枚が出ていました(こちら)。
こういうのって値段付けられるものなのか?なんて思ったりもしたんですが、そこはそれ、どうしても付けざるを得ませんわなあ(笑)。1枚50万円で、珍しく客席が沸いてましたね(「なんでこんなのが??」って感じで(笑))。

中山通宝は拓本の図版で見たことはあったのですが、実物(の映像)を見たのは初めてでした。
実はこれを出品した方、既に沖縄の蒐集家としてちょっとした有名人です(こちらとかこちらとか)。マスコミに顔を出すのがお嫌いなのか、番組にはいとこ?の方が出ておられましたが。

番組中の解説はわりと適切だったと思います。元々古琉球時代(日本では中世の時期)に琉球で鋳造されたと考えられている銭貨は3種類あって、それぞれ「大世通宝」「世高通宝」「金円世宝」と鋳込まれています。前2者はわりと見かけるんですが(それでもだいぶ少ないですけど)、最後のものはほとんど発見されておらず、まして「中山通宝」は17世紀の記録に見られるものの、最近まで実物が見つかっていませんでした。それを個人で複数枚所蔵しているというのは、ほんとに驚くべきことです。

で、この中山通宝、同時代史料には出てこないので年代や鋳造の経緯がほとんどわからないわけですが、今のところ14世紀後半の「三山(さんざん)時代」に中山王だった察度(さっと)によって鋳造されたとする説が有力になっています。

ただ、実際の所どうなのでしょうねえ?
形状としては、中国銭や大世通宝などと比べてかなり小さいようで、鳩目銭(はとめせん、琉球で造られた輪っかのような銭、写真はこちらを参照)にかなり近いようにも思います。はっきりとはわかりませんが、「封印銭」(琉球のサシ銭)に入っていたようなので、無文銭や鳩目銭を共伴していたとも考えられます。

無文銭や鳩目銭は16世紀以降に多く造られたようですが、以上のことを考えると、中山通宝だけがそこから200年も遡ることができるかどうか気になります。
番組中で鑑定士の方が、14世紀に中国でよく似た銭(粗悪銭か)が流通していて、それを真似て実験的に造ったのではないか、というようなことをおっしゃってましたが、そんな話あったっけ…?(上記記事のリンク先でそうおっしゃっている方がおられるようですね)

ま、とにかく文献が無いので判断は難しいところでして、「研究がほとんど進んでいない」という番組の解説は事実です(笑)。琉球の銭は史料で追うのが難しいのでなかなか大変です。

ともあれ、偶然ですが、見られて良かったです(笑)。

<参考文献>
古田修久「中世から近世前期の九州・沖縄の銭貨―古銭学的観点からの分類―」(『出土銭貨』23、2005年)

2009.02.07

宮内熊野大社

Miyauchikumano_8Miyauchikumano_1南陽市宮内にある熊野大社。大同元年(806)に平城天皇の勅願によって創建されたと伝わっています。なんでも「三熊野」の一つだそうですが、よくわかりません(笑)。
社伝によると、寛治5年(1091)(寛治元年説もあり)に鎌倉権五郎景政が源義家の命を受けて紀州から勧請したともされています。右写真は、鎌倉景政が植えたとされている大イチョウ。樹齢数百年とのことです。

ここまでは事実かどうか判然としませんが、鎌倉期には地頭長井氏の保護を受けており、建長2年(1250)に長井泰秀によって社殿が造営されたと言われています。長井氏滅亡後は伊達氏の保護も受けていたようで度々寄進を受け、天正18年(1590)に発給された伊達政宗の安堵状を所蔵しています。左写真の拝殿は藩主上杉氏の援助を得て天明7年(1787)築。

Miyauchikumano_3Miyauchikumano_10境内には末社・摂社が多く鎮座していますが、中でも左写真の土社(どしゃ)神社本殿は最も古く、16世紀のものとされています。かつては茅葺きだったそうですが。

右写真の二の宮神社本殿(別名「若王子」)もほぼ同時期のものとされ、作風もよく似ているそうです。禅宗様と和様の折衷様なんだそうですが…私にはよくわかりません(笑)。

Miyauchikumano_6Miyauchikumano_12こちらはそれからは少し降るものの、やはり古いもの。
廃仏毀釈や大戦を逃れ、梵鐘(洪鐘)が遺っています。銘によると寛永3年(1626)に安部右馬助という人物が奉納したことがわかります。
右写真は三の宮神社本殿。同じく寛永3年頃かそれ以前に築かれたものとされています。

このほか平安期の仏像や経筒、明応7年(1498)銘の鰐口など、中世の文化財を所蔵。境内の宝物殿で拝観できます…が、事前予約が必要のようで、見られませんでした(時刻も既に夕方でしたし)。残念。

Miyauchikumano_16神社の前の住宅地の一角に、このような石塔があります。
六面幢と呼ばれる供養塔と思われますが、銘もなく、はっきりとした時代もわかりません(文化財登録もされてない?)。
こういうのを造るのは中世のような気もしますが、どうなんでしょうね。地元では今でも信仰の対象になっているようで、大切にしておられました。

■山形県南陽市

2009.02.05

赤湯の中世石造物

Akayu_2Akayu_5米沢を後にして北上。赤湯温泉の周辺にある中世の石造物をば。

まずは右写真から。これは嘉慶3年(1389)の銘のある六面幢という石造物です。がっちり覆屋で囲ってあって写真はうまく撮れませんでした(こちらをどうぞ)
その傍らには左写真のような石造物が並んでいました。時期ははっきりとはわかりませんが、中世のものに見えそうです。これらは元々ここにあったのではなく、近隣から集められたものなのでしょうか。

Akayu_9Akayu_10もう一つ。温泉街にある東正寺の傍らに、磨崖板碑があります。左写真が下段、右写真が上段の二段になっていて、上段のものには、永仁2年(1294)の年号が刻まれています。「平吉宗」という人物が母の供養のために刻んだものであることが読み取れます(肉眼ではかなり読みづらいですが)。

周辺にはほかにも板碑がいくつかあるんですが、残念ながら全部見ることはできませんでした。いつか全部見尽くしたいものです。
この山形県の置賜地方(南部)は、東北地方では珍しく中世の石造物の宝庫となっています。地頭だった長井氏の影響が推測されているようですが、理由ははっきりしないようです。

■山形県南陽市

2009.02.04

松山で同窓会

200901ehime200901ehime_1先日、学部時代のゼミの同窓会に誘われて松山へ行きました。
前回からおよそ1年半ぶり。このところはなんだかコンスタントに行っている感じ。

同窓会は、古株組では私の代の出席者が突出して多かったです(笑)。特異な世代だということなんでしょうけれども、こうして今でも時折会えることは喜ばしいことです。
時間はあっという間に過ぎ去り、残念ながらあまり話せなかった人もいたけど、また集まる機会があることを期待いたします。

久しぶりに大学にも行きました。住んでいた頃はごく見慣れた風景だったわけですが、今となると懐かしいというか、新鮮な感覚。

200901ehime_2今回はこれだけのために行ったようなもので、その後の予定もあったため、観光は一切なし。
ちなみに写真のJR松山駅は、私が居た頃はもっと殺風景な駅舎でした(笑)。受験するために初めて松山へ来た時、駅舎と駅前の寂しい風景を見て大きな不安に襲われたのを思い出します。駅前の寂しさは相変わらずでしたが…。

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