鶴岡城跡

次は鶴岡(鶴ヶ岡、つるがおか)城跡です。中世では大宝寺城と呼ばれた大宝寺氏の居館跡でもあります。
大宝寺氏は、庄内に土着した後しばらくの動向はよくわからないようです。鎌倉期には羽黒山と相論になったことがわかっているようですが。南北朝期には幕府が越後守護の上杉憲顕に大泉荘(庄内)領家職を安堵しているそうで、この頃から大宝寺氏は越後の上杉氏との関係を深めながら勢力を拡げたと思われます。
東国では幕府方と鎌倉方とで対立が先鋭化してゆきますが、大宝寺氏は一貫して幕府方で、時々京都に馬などを贈答して歓心を買っています。同じく幕府方だった伊達氏も、庄内から海路を辿って使者を京都に派遣していますが(★追記参照)、大宝寺氏ともなんらかの関係はあったのでしょうね。
この過程で、羽黒山にも食い込んでいったようで、15世紀後半には大宝寺淳氏が羽黒山別当職を有していたそうです。
ところが15世紀末期に差し掛かると庶流の砂越氏と軋轢が生じ、内紛が勃発。大宝寺氏は越後上杉氏と親密な関係を維持していましたが、永正4年(1507)に被官の長尾為景が当主の上杉房能と関東管領の上杉顕定を討ち取ったことをきっかけに保護を失い、最上氏と結託した砂越氏に追い詰められ、天文元年(1532)に尾浦城へ移転。その後盛り返して奪還したものの、滅亡してゆく過程は尾浦城の記事で書きました。
大宝寺滅亡のきっかけとなった天正18年(1590)の一揆蜂起には直江兼続が鎮圧に当たったとされ、平定後は上杉氏の支配を受けます。関ヶ原後には最上領となり、慶長8年(1603)に「鶴ヶ岡」に改められました。
最上氏改易後には酒井宮内大輔忠勝(大老となった若狭小浜藩主の讃岐守忠勝とは別人)が入り、以後酒井氏の城下町として発展しました。天保年間(19世紀前半)には転封を言い渡されるものの民衆の抵抗で撤回。幕末は会津藩降伏後も幕府方の強硬派として新政府方と徹底抗戦したことでも知られています。維新後に廃城。
ここがたぶん本丸。天守閣はなく御殿が築かれていましたが、これは城門か櫓の礎石でしょうか? 状況はよくわかりませんでした。

御殿跡と思われる場所には、現在は荘内神社が建っています。明治10年(1877)に建立されました。酒井氏初代の忠勝を祀った神社ですが、歴代藩主も合祀されています。
本丸を囲う堀は今でも結構立派です。石垣はほとんどなく、土塁が主体で、中世城館の雰囲気も感じられます(実際はだいぶ違うのでしょうけれども)。今は公園になっています。
■山形県鶴岡市
(★)追記
該当史料(『伊達家文書』)を見たところ、伊達氏の京都への使者は領内から越後へ出たことがわかるのみで、庄内を通ったかどうかは明確ではありませんでした。また、海路ではなく陸路を通っており、この点は誤りでした。
該当箇所の修正(消去)も可能ですが、一度書いたものでもありますので、追記の形で訂正させていただきます。
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