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2009年3月

2009.03.31

2008年度終わる

2008年度も今日まで。
みなさんにとって、どんな一年だったでしょうか。

私は昨年度に比べれば生産力は落ちましたが、著書を出したりとか、学会の委員になったりとか、いろいろと新鮮な経験ができました。
来年度も今の身分が継続するので、今回の年度替わりは特に何事もなく過ごしています。
…ってか、それなら論文書けよ、ってことなんですが(笑)。

私生活の方は、なにも変わらなかったなあ(笑)。まあこれは来年度も変わらないでしょう、たぶん。

『歴史学研究』小特集の件、いかがでしょうか。なんらかの形(論文とか論文とか(笑))でご意見・ご感想をお寄せ下さい(いやまあこのブログでコメントしていただいてもいいんですが…)。

なんだか平板な毎日であまり書くこともないので、このへんで。

2009.03.30

首里 円覚寺跡

Shuri_7Shuri_12さて、いよいよ首里城…の横にある(笑)、円覚寺跡。
琉球の仏教は中世の対外関係との関わりが深く、特に琉球王朝時代に中国や日本との交流の活発化によって普及していきました。この円覚寺は琉球における臨済宗総本山であり、山号は天徳山。寺名でお察しの通り、鎌倉の円覚寺にあやかって名付けられたと言われています。伽藍も鎌倉に倣ったものだったそうです。

琉球の円覚寺は第二尚氏の尚真が父の尚円の菩提のため、1492年から3年かけて建立したとされています。開山は、京都の南禅寺出身の芥隠承琥(かいいんじょうこ)。彼は琉球の外交僧として、足利義政への使者になった人物でもあります。

戦前まで伽藍は現存しており、国宝に指定されていましたが、沖縄戦で壊滅。左写真の総門は1968年に復元されたものです。わずかに右写真の放生橋(ほうじょうばし、重要文化財)は当時のまま遺されています(修復はされていますが)。また、三つの梵鐘(いずれも重要文化財)は、現在沖縄県立博物館に所蔵されています(展示されていましたが、本物だったかレプリカだったかは記憶曖昧)。

Shuri_13Shuri_14というわけで首里城ともども被災が惜しまれるわけですが、現在は一部で発掘調査が行われているようでした。なお、現在遺されている敷地は一部なんだそうです。
首里城には観光客がたくさん来ていましたが、こちらに来る人はおらず、寂しげでした。首里へ行かれる際には、こちらの見学もお忘れなく。

■沖縄県那覇市

2009.03.29

中城城跡

Nakagusuku_1Nakagusuku_22沖縄シリーズ二つ目は中城(なかぐすく)城跡。あいにくの土砂降りで、写真を撮るのもままならないなか、なんとか写してきました。

15世紀半ばに、尚巴志の臣である読谷(よみたん)山按司の護佐丸(ごさまる)という人物が築城したといわれています。しかし1458年に勝連(かつれん、現沖縄県うるま市[旧勝連町])の阿麻和利(あまわり)が護佐丸を滅ぼした後は、城ではなく番所としての機能を担ったそうです。

いくつかの曲輪から構成されていて、外から見える城壁は五角形の石を組み合わせたり、石塁の角が丸みを帯びているのを特徴としているそうです。形式としては、日本の中世城郭に似ているということです。
一部修理は施されているものの、沖縄戦の被害が小さく、当時の姿を最も良い形で遺しているグスクです。

Nakagusuku_5Nakagusuku_11右写真のアーチ門の周辺には特に大きな切石が用いられています。

Nakagusuku_13Nakagusuku_20左写真は城内にある祭祀遺構。
今帰仁城などもそうですが、これらの宗教施設が城内に見られる点を特徴としています。世界遺産に登録されたのも、これが効いたんでしょうね。
余談ながら、幕末に訪れたペリーがこの城を見て感嘆したことを日記に記しているそうです。
この城については、わりと有名なエピソードなんだそうで。

Nakagusuku_19城の東側の風景。こちらは断崖になっていて、天然の城壁を形成しています。
もっと天気が良ければ絶景だったんでしょうけど、この時いかに天気が悪かったかをおわかりいただけるかと(笑)。

■沖縄県中城村・北中城村

2009.03.27

鞆・尾道と小早川氏を訪ねて

HirosimakenpakuTomo_1昨日まで、広島県東部海側の史跡を巡る旅行に行ってきました。天気に恵まれたものの、風が強くやや肌寒かったです。
メインは鞆の浦・尾道・竹原。鞆の浦は二度目でしたが、ほかはすべて初めて行ったので、大いに楽しめました。

手始めに、広島県立歴史博物館の企画展「毛利氏vs(と)天下人」を観覧。「毛利家文書」をはじめ、展示も多く充実していたと思います。村上氏関連の展示には、なんだか懐かしさを感じました(笑)。
常設展は二度目ですが、やはり印象深い草戸千軒の復元展示。ここは撮影可だったので、写真を撮ってきました(左写真)。銭を持ち上げるコーナーもあったりしましたが、あれって本物なんですかね? 一応そう見えたんですが、本物にしては新しすぎるかなあ。

そして鞆の浦はみっちり見て回りました。ご存じの通り最近は複雑な問題もありますが、それゆえ、持ち前の静寂感はやや薄れた感じ。別に物理的に騒々しいわけではなかったのですが。

Onomichisenkoji_1尾道には初めて行きました。以前から行ってみたかったので、ようやく念願が叶った感。こちらも半日かけてほぼすべての寺に行ったと思います。

Kimurajo_20そして竹原小早川氏の故地へ。なかなか行きづらい地域なので、心残りのないようしっかり見て回りました(笑)。写真は本拠の木村城跡(広島県竹原市)から見た風景。

Beisanji_12こちらは米山寺(べいさんじ、広島県三原市)の、沼田(ぬた)小早川氏墓所にある宝篋印塔(重要文化財)。中世の建築物や石造物がこの地域には多く遺っているので、なるべくすべてに当たってみました。

Nutatakayamaこちらは小早川隆景が築いた新高山城跡(広島県三原市[旧本郷町])。時間がなくて登れませんでした。今が「山城シーズン」(笑)だっただけに残念。またいずれ。

MiharajoMiharajo_2最後はJR三原駅より帰京。城をぶっ壊したことで悪名高い駅なわけですが、こちらがその三原城跡(広島県三原市)。三原城は海水を堀に取り込んだ「海城」として知られています。今は海側も埋め立てられていますが。
駅前には小早川隆景像がありました。いかにも隆景というか、地味…(笑)。本丸には駅構内から行けるようになっているんですが、その連絡通路が工事中で行けませんでした。

とまあ、ほとんどここのネタを仕入れるために行ったような感もありますが(笑)、例によって訪問地は追々紹介していきたいと思います。なお、今回の旅にあたって、こちらのブログを大いに参考にさせていただきました。

2009.03.23

学成らず老いてゆく

昨日までの三連休は東北へ。
美味いものをたくさんいただきました。
しかし残念ながら牡蠣にはありつけず。さすがにもう季節も終盤だから仕方がないか。

期間中、思いっきり深酒して二日酔いに苦しむ羽目に…。まだ若いつもりでいても、体は確実に老いてゆきますね(笑)。
いやはや、とんだ失態でした。

さて。
最近は、16世紀末~17世紀前半頃の検地に興味を持っています。もっとも、伝統的な?太閤検地論争とか石高制の論議にコミットしようという勇気はありませんでして…、貨幣流通との絡みで何か面白いことがわかるのではないか、といったような思惑によります。(あとは、当面の仕事にも絡むのですが)

ところが、史料のあてはおろか、先行研究すらほとんど把握できていませんでして…。この辺は私もすっかり中近世の「断絶」を体現してしまっています(まあ単なる不勉強なんですけど)。さしあたり目に留まった↓を読んでみたいな、ということでメモ替わりに。

4642033971近世の検地と地域社会
中野 達哉
吉川弘文館 2005-01

by G-Tools

この分野に入っていくには、まだ時間がかかりそうだなあ…。精進々々。

2009.03.19

「生存」という視角

Hasegawa長谷川裕子『中近世移行期における村の生存と土豪』(校倉書房、2009年)受贈。ありがとうございます。
どたばたしていて、まだあとがきしか読んでませんが…(笑)。
「ようやく」という感すらある単著のご刊行を慶びたいと思います。

なんといっても重厚。私は中世とあれば分野によらずわりとなんでも食いつく癖がありますが…(笑)、領主論あるいは土豪論はとても自分の手には負えないとかねてより思っていまして(石母田正『中世的世界の形成』すら読み切れていない…)、もっぱら専門とされる方々の成果を学ぶだけに終始しております。

さて、本書を貫く視点は、「生存」。従来、(特に戦国期の)村というのは権力からの自立の象徴と捉えられ、その構造は「共同体」の観点で注目されてきましたが、本書では「生命維持装置」と位置づけています。この両者、同じ概念のようで同じではないと思うわけですが、この点をめぐって、今後議論が深まるきっかけになるでしょうか。

もう一つ。

「村は、村の自力の外側に、それを補完するための二つの回路を確保していた。これらは、村が生き残るために創り出したシステムであったが、横は近隣の地域社会から、縦は最終的には当該期の権力につながる多元的・重層的な広がりを持つものであった。」(p.15)

という一文はとても印象的です。権力との関係は、常に対立的ではなく時には協調的であり、そして協調を引き出す力が村にあったという視点がおそらく主眼になるのでしょう(理解が間違っているかもしれませんけど(笑))。
そうなると、おそらく今後、事実関係云々よりも分析に携わる研究者個々の“権力像”こそが論点になるのかな、という気がしています。

雑駁なのでこのへんで…。まずはちゃんと読まないと(笑)。

2009.03.18

今帰仁城跡

Nakijin_15Nakijin_13次は秋に行った沖縄シリーズです。
この時沖縄へ初めて行っただけに、私自身も感慨ひとしおです。

はじめは今帰仁(なきじん)城跡。著名なグスクの一つで国史跡に指定されていますが、世界遺産の一つにもなっています。
14世紀頃の古琉球時代の沖縄島は三つの国からなっていましたが、そのうち「北山(ほくざん)」の本拠地だったと考えられています。1322年に怕尼芝(はにじ)という人物が城主となったとされ、その後の修築で今の形が形成されました。

北山は15世紀初頭(1422年説が有力)に「中山(ちゅうざん)」の尚巴志(しょう・はし)に攻められて滅んだとされ、その後は尚氏によって統一された琉球王国の北部の拠点となり、城代のような役職の北山監守が置かれました。尚氏一族が就いていたようで、第二尚氏時代(15世紀後半以降)になると、城主は今帰仁按司(あじ)と呼ばれるようになります。
そして、慶長14年(1609)の島津氏による侵攻によって、今帰仁城も攻撃されたようです。1665年に今帰仁按司は首里へ移り廃城となりました。

Nakijin_18Nakijin_28左の門のような遺構をくぐって登っていきます。
…と思っていたら、この門、戦後になってできたものらしいです(笑)。

上の写真の石垣を上から見たのが右写真。この石垣が実に美しくて、見とれました。大隅(ウーシミ)の城壁と呼ばれているそうです。

Nakijin_27Nakijin_34城内には祭祀に関わったと思われる遺構や、建物の遺構が見られます。
比較的戦争の少なかった古琉球時代のグスクでは、防御施設という本来の役割よりも、むしろ祭祀施設としての役割の比重が段々高くなっていったそうです。

Nakijin_31Nakijin_51こちらは城の東側にある「志慶真門郭(しじまじょう)」と呼ばれる曲輪。
いくつかの建物遺構が発見されたそうです。瓦は出土しなかったことから、茅か板葺きの掘立柱建物が建っていたと考えられています。

保存状態もさることながら、規模もかなり大きく、見応えがあります。今帰仁村歴史文化センターが併設されていて、遺物なども見ることができます。近隣には有名観光地の水族館もありますが、今帰仁城は是非とも立ち寄る価値があると思います。いやあ、このグスクにはほんとに魅せられました。

■沖縄県今帰仁村

2009.03.16

貫前神社

Nukisaki_1Nukisaki_3シリーズの最後は貫前(ぬきさき)神社。上野国一宮です。社伝によると、この地域の豪族であった物部姓の磯部氏が、531年(安閑天皇元年)に氏神を祀ったのがはじまりとされています。延喜式内社です。
中世段階では「抜鉾(ぬきほこ)大明神」と呼ばれ、神仏習合の色彩も濃かったようです。上野守護で関東管領でもあった山内上杉氏や、戦国期に影響を拡げてきた武田氏による書状なども所蔵しています。

左写真は総門。両脇に立つ銅製の灯籠は、慶応2年(1866)に建てられたもので、この地域の養蚕農家や絹商人が奉納者に見えるそうで、富岡製糸場に代表されるように、近代に発達した製糸業の先駆けを示すものとされています。

で、面白いのが総門をくぐると見られる右写真のような景観。社殿が一段低くなっている珍しい構造になっています。これは「下り宮」と呼ばれるそうで、なぜこのような立地になったかは諸説あるようですが、はっきりしたことはわかっていないみたいです。

Nukisaki_7Nukisaki_9写真にある楼門・拝殿・本殿はいずれも重要文化財。上野国を出自とするという言説によるのでしょうか、徳川将軍家からの保護を受けており、これらは寛永12年(1635)に徳川家光によって造営されたものです。また、元禄11年(1699)に徳川綱吉によって大修理が施されました。本殿は単層二階建の「貫前造」と呼ばれる独特の様式なんだそうです。

Nukisaki_11一方、寂しげなのが経蔵跡。鎌倉期の経典も所蔵していたそうですが、廃仏毀釈によってすべて焼却されたそうです。神仏習合の名残として物寂しく、歴史の悲哀も感じますね。

■群馬県富岡市

2009.03.14

山名八幡宮

YamanaYamana_1山ノ上碑の近く、上信電鉄山名駅のすぐ横にある山名八幡宮。左写真のように、参道は線路をくぐります(笑)。

14世紀後半に一族で最大11か国もの守護となり、「六分一殿」と呼ばれ室町幕府の重鎮となった山名氏の出身地です。
山名氏は清和源氏流の新田氏の一族で、新田氏の祖である新田義重の子・義範がこの地へ移り、山名氏を名乗りました。この山名八幡宮は、山名義範が宇佐八幡宮を勧請して創建したと言われています。

Yamana_9写真は拝殿。

ただ鎌倉期の山名氏については、ほとんど動向がわからないそうです。
新田義貞が鎌倉幕府の倒幕を掲げて挙兵した際に山名政氏・時氏親子が呼応して功績を得たようですが、建武政権崩壊後は足利尊氏に味方して従軍。建武4年(1337)に時氏が伯耆守護に任じられたのを皮切りに、幕府に反旗を翻した中国地方の有力者である塩冶(えんや)高貞を排除し、中国を拠点に勢力を拡げてゆきます。
山名氏は観応の擾乱(1352)で足利直義に味方し、その後のゴタゴタで南朝方に一時くみしました。貞治2年(1363)に再び幕府に帰順すると絶大な勢力を築き上げ、明徳の乱(1391)で山名氏清・満幸が討伐を受けて勢力を後退させつつも、その後氏清の甥に当たる山名時煕(ときひろ、時義の子)が重鎮として重用され復活。代々重鎮として幕府政治に関わってゆきました。

Yamana_5Yamana_10その後についてははしょりまして(笑)、山名氏は近世においても交代寄合として但馬村岡(現兵庫県香美町[旧村岡町])を本拠として維新を迎えました。
このように山名氏はここが発祥の地ではありながら、本拠を西国に移したためほとんどゆかりはありません。ただし末裔の方々にとっては故郷という意識を強くお持ちのようで、左写真の神馬像が奉納されています。

右写真は「たちわりの石」。現地看板によると、「慶長5年(1600)、高崎藩主井伊直政の許しを得て馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり、当社に神助を祈り参籠し21日の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後烏川畔に於いて見事、天流を破った。」そうです。私は詳しいことはよくわかりませんが…。

■群馬県高崎市

2009.03.13

上野三碑:多胡碑

Tago_4Tago_5上野三碑の最後は、多胡(たご)碑。三つの中ではこれが最も有名です。「那須国造碑」(栃木県大田原市[旧湯津上村])・「多賀城碑」(宮城県多賀城市)とともに「日本三碑」と呼ばれているそうです(誰が呼んだのかはわかりませんが…)。

碑文の内容は、和銅4年(711)に上野国多胡郡の設置の経緯について述べられており、『続日本紀』にもほぼ同様の文章が載っているそうです。周辺の郡の一部がそれぞれ分割され、多胡郡が成立したと書かれています。

Tago_7←の覆屋の中にあります。

碑文中には、「羊に給いて多胡郡と成せ」あり、この「羊」とは何かで議論があるようです。今のところ人名とする説が有力のようですが。地元では「羊太夫」の墓との伝承から、「羊さま」と呼ばれて大事にされてきたようで、そのためかなり状態の良い形で今に残ったそうです。

Tago_1Tago_2こちらも側に古墳があります。7世紀頃のものと推定されています。
また、多胡碑記念館もあり、多胡碑に関する資料などが展示されているそうですが、今回は時間がなくてパス。

■群馬県吉井町(現在は高崎市)

2009.03.12

中世“高嶺”本リスト

名著のうち、品切れが長く続いているために古書価格がとんでもなく高いものがいくつかあることはご存じのことと思います。
需要が高いから値段が上がるという至極当然な理由なわけですが、やはり欲しいものばかりなのがもどかしいところ。
そこらへんの書籍の価格動向を把握する一助として、アマゾンでの古書価格リストを貼り付けておきます。
アフィリエイトで貼っていますが、商魂たくましいわけではありません(笑)。値段を見て驚くという趣旨ですので、誤って買ってしまわないようご注意を。

ちなみに高くても私が既に持っているものや、史料集はとりあえず入れていません(『菅浦文書』とかもすごい値段が付いてたりしますが…)。

なお、思い出した頃に時々追加します。また、「この本もすごいよ」という情報提供もお寄せ下さい。

↓のうち、今谷さんと小葉田さんの本は復刊候補に挙がっているようです。復刊してくれ~。

2009.03.11

黒子からのお知らせ

今書いている原稿、二週間かかって一節しか進みませんでした(笑)。
もちろん一日一文とかじゃなくて、書いている時間自体はそんなにかかっているわけではないんですが…。
論文書くには「書きたい」というモチベーションの高まりを待つのが大事だよね、と都合の良い理由を付けてダラダラと。
いやはやいけませんな。しかも今月の下旬はほとんど書く時間ないしなあ…。うーむ。

閑話休題。

以前予告した企画ぶちあげですが、それは今度の『歴史学研究』(4月号)に掲載される「室町殿」の小特集です。去年のミニシンポの発展型ということになりますが、新稿も得て充実した出来になったと自負しております(小間使いした立場として)。
今月の下旬に出る予定です。ラインアップは歴研のHPか直接現物でご確認ください。会員でない方にも大会でお求めいただけるよう、方法を模索したいと思います(何が出来るかはなんともいえませんが)。

大会もあと二ヶ月。会場がちと不便な所ですが、よろしくご参集ください。プログラムはこちらをどうぞ。
充実した報告となるよう、しっかりサポートしてまいりたいと思います。ご批判歓迎。ただしモノは投げないでください(笑)

2009.03.10

上野三碑:山ノ上碑

Yamanoue_2Yamanoue_5金井沢碑から(車なら)ほど近い所にある、上野三碑の一つの山ノ上碑です。
碑文によると、「辛己(巳ヵ)歳」に放光寺の僧侶である長利という人物が、母である黒売刀自(くろめとじ)の墓碑として造られたものであったことがわかります。この碑文に「佐野三家(さぬのみやけ)」とあり、金井沢碑との関連が窺えますが、「三家」の解釈については異説もあるようです。

なお、「辛己歳」は681年(天智天皇10年)と考えられているそうです。

Yamanoue_10Yamanoueこの石碑は墓碑としての性格を持っていますが、実際に真横に古墳が遺っています。形式から7世紀半ば頃のものとされていますが、そこから碑文の年代が推定されたのでしょうか。

左写真のように、古墳と石碑は少し登った所にあります。ここには江戸時代に馬頭観音もあったそうですが、今は廃絶してしまったようです。

Yamanoue_12Yamanoue_13近くには板碑がありました。左写真は「来迎阿弥陀画像板碑」と称されているもので、建治4年(1278)の年号が刻まれています。
右写真は、その傍らにあった板碑の残欠と思しき遺物。これも中世のものという印象です。

■群馬県高崎市

2009.03.09

上野三碑:金井沢碑

KanaizawaKanaizawa_1次のシリーズは、昨年の秋口に行った群馬県西部の史跡です。既に記憶も薄くなってきましたが…。

はじめは、「上野(こうずけ)三碑」(「上野」は「上州」「上毛」とも)と総称される三つの石碑をば。この地域には、三つの古代の石碑が遺されており、全国的にも非常に珍しく、いずれも国の特別史跡に指定されています。古代から、この地域は人の手によって開発が進められていたことがわかります。

Kanaizawa_4Kanaizawa_3そのうちの金井沢碑。高崎市の西側にある少し山がちな地域の中腹あたりにあります。神亀3年(726)のもので、江戸時代に近隣で出土したものだそうで、出土した後は洗濯板として使われていたそうです(笑)。そのため、出土状況については不明。
洗濯板として使っていたら不幸が続いたとのことで(罰当たりな(笑))、改めて供養するために今の場所に置かれたと伝わっているそうです(真偽は定かではないようですが)。

碑文によると、上野国群馬郡下賛(しもさぬ)郷(現高崎市下佐野町)の屯倉(みやけ)の子孫が、祖先と父母の菩提のために仏に供養したとあります。国分寺建立の直前でもあり、当時における仏教信仰の広がりを知る貴重なものとのことです。

■群馬県高崎市

2009.03.08

羽黒山正善院

Haguro_31Haguro_33山形シリーズもいよいよ最後。
最後は羽黒山の麓にある正善院。寺伝によると、聖武天皇勅願という伝承もあるそうですが、建久4年(1193)に源頼朝が土肥実平に命じて建立させたとされています。本当かどうかはよくわかりませんが…。

かつてはたくさんあった羽黒山の坊の一つで、寺号はいろいろと変遷があるようですが、現在は「荒沢寺」と言うそうです。写真は山門と本堂。

Haguro_34Haguro_32こちらは黄金堂(こがねどう、重要文化財)。土肥実平による創建時に建立されたとも言われているようですが、文禄3年(1594)に当時の酒田城(現山形県酒田市)の城主だった上杉被官の甘糟景継が修理をして、現在のものになったようです。

この正善院のある辺りは、わずかながらも坊舎の立ち並んでいた雰囲気が残っているような景観だったように記憶しています(写真撮ってないもんで…)。時間があればゆっくり散策してみるのもいいのですが、それは叶わず。

■山形県鶴岡市(旧羽黒町)

2009.03.04

羽黒山

Haguro_29Haguro_22庄内の観光のメインとも言える羽黒山。湯殿山と月山を合わせて出羽三山と総称されるうち、中心とも言えるのがこの羽黒山です。
左写真の門をくぐり、右写真の石段を延々登ってゆくわけですが、現在では上まで車で登れます(笑)。

Haguro_2Haguro_12左写真は頂上の直務所。
羽黒山は、言わずと知れた修験の道場です。元は出羽(いでは)神社が鎮座しましたが、天台系修験の中心地となり、多くの別当寺や子院が置かれました。時には地頭の大宝寺氏が羽黒山別当を勤めていたことがわかっています。
近世になると、別当寺は寂光寺と呼ばれていたようです。近代の廃仏毀釈によって、寂光寺は廃寺。現在、山上に寺院は見られません。

寺院としての性格があったことは、右写真のように梵鐘(重要文化財)が今も残されていることから窺えます。梵鐘には、建治元年(1275)の銘が刻まれています。鐘楼は元和4年(1618)に最上家信(義俊)が建立したものだそうです。

Haguro_3Haguro_10左写真が、本殿に当たる三神合祭殿(重要文化財)。今のものは文政元年(1818)築。
名称の通り湯殿山・羽黒山・月山を合祀した社殿で、ここに参拝すれば三山すべて行ったことになる、というわけです(笑)。

右写真は、蜂子(はちこ)神社。崇峻天皇の皇子である蜂子皇子(はちのこのみこ、厩戸皇子=聖徳太子の従兄弟らしい)が出羽三山を創建したという社伝に基づくのでしょうか。境内に廟所もあるそうです(見学せず)。

山上には出羽三山歴史博物館があり、境内の鏡池から出土した190枚もの銅鏡(重要文化財)をはじめ、厖大な数の銅鏡コレクションを誇っています。知る人ぞ知る場所?(私は知りませんでしたが(笑))

Haguro_27Haguro_21さて、羽黒山といえばやっぱりこれです。麓にある五重塔(国宝)。さすがの堂々たる佇まい。応安5年(1372)築。東北最古の塔で、山形県では唯一の国宝建築物です。
かつては周囲に坊舎が立ち並んでいたとされていますが、今は森の中にぽつんと立っています。ただ、それがまた風情があって趣深いです。
いやあ、直に見ることができて満足々々。

■山形県鶴岡市(旧羽黒町)

2009.03.03

致道博物館・致道館

Chidohaku_8Chidohaku鶴岡城のそばにある施設を二軒。

まずは致道博物館。庄内藩の御用屋敷跡にあり、戦後に近隣の貴重な建築物を移築して展示しています。
左写真は旧西田川郡役所(重要文化財)。明治14年(1881)に鶴岡に建てられた擬洋風建築。中には考古資料などが展示されていました。
右写真は旧渋谷家住宅(重要文化財)。文政5年(1822)築。湯殿山の山麓の山村豪雪地域にあった民家。出羽三山参詣者の宿ともなっていたそうです。上階は養蚕に使用されていたとのことで、独特な外観は「兜造り」と呼ばれています。

Chidohaku_14Chidohaku_3敷地内には、庄内藩主酒井氏による庭園があります。いつ造られたかは定かではありませんが、「築山林泉庭園」と呼ばれる様式で、鳥海山を借景としていたそうです。その近くには小さな五輪塔が。
このほか、庄内藩江戸屋敷の門や御殿が移築されています。

Chidokan_2Chidokan_4続いては致道館(ちどうかん)。庄内藩の藩校跡で、国史跡に指定されています。
文化2年(1805)に9代藩主の酒井忠徳が創建。文化13年(1816)に10代藩主の酒井忠器(ただかた)によって現在地に移されました。荻生徂徠の学風が重視されたそうです。近代には鶴岡県庁舎や警察署などとして使用されていましたが、戦後に史跡として整備されました。建物は創建時の現存のようです。

Chidokan_8Chidokan_5現在遺っている敷地は往時の半分にも満たないそうです。メインはもちろん藩校でしたが、藩主が参勤している時は役所としても用いられていたそうです。現在、藩校時代の史料などが展示されていました。

■山形県鶴岡市

2009.03.02

那須への旅

Kurobane_6Kurobane先週末は栃木県最北の那須へ行ってきました。天候に恵まれ、想像していたよりもかなり暖かく、厚手でかさばる上着を着ていったのはかえって失敗でした。

写真は黒羽城跡(栃木県大田原市[旧黒羽町])。三の丸跡にある黒羽芭蕉の館(右写真)にて、「大関家文書」の一部を拝見。大関氏は那須(上那須)氏の被官でしたが、近世には黒羽藩主として大名になった家です。
戦国期のものと、関ヶ原合戦前後のものを数点見ることができました。ご厚意に感謝。

Ionojo_12Ionochogenji_2そしてさらに奥へ。写真は伊王野城跡とその麓にある伊王野氏の墳墓群(栃木県那須町)。伊王野氏は那須氏の一族です。

このほか那須与一伝承館や那須町芦野地区にある那須歴史探訪館にも行きました。後者は高名な建築家の方が設計したらしく、洒落た造りでした。でも、維持費は大丈夫なの?という声がちらほらと…(笑)。

予定ではもっと行きたいところがあったのですが、やはりうまくはいかないもので、予定の半分をまわれたくらいでしょうか? まあ、また機会があれば行けなかった所をまわってみたいですね。

行った所はまた追々紹介したいと思いますが、これまただいぶ先のことになりそうです…。

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