山名八幡宮

山ノ上碑の近く、上信電鉄山名駅のすぐ横にある山名八幡宮。左写真のように、参道は線路をくぐります(笑)。
14世紀後半に一族で最大11か国もの守護となり、「六分一殿」と呼ばれ室町幕府の重鎮となった山名氏の出身地です。
山名氏は清和源氏流の新田氏の一族で、新田氏の祖である新田義重の子・義範がこの地へ移り、山名氏を名乗りました。この山名八幡宮は、山名義範が宇佐八幡宮を勧請して創建したと言われています。
ただ鎌倉期の山名氏については、ほとんど動向がわからないそうです。
新田義貞が鎌倉幕府の倒幕を掲げて挙兵した際に山名政氏・時氏親子が呼応して功績を得たようですが、建武政権崩壊後は足利尊氏に味方して従軍。建武4年(1337)に時氏が伯耆守護に任じられたのを皮切りに、幕府に反旗を翻した中国地方の有力者である塩冶(えんや)高貞を排除し、中国を拠点に勢力を拡げてゆきます。
山名氏は観応の擾乱(1352)で足利直義に味方し、その後のゴタゴタで南朝方に一時くみしました。貞治2年(1363)に再び幕府に帰順すると絶大な勢力を築き上げ、明徳の乱(1391)で山名氏清・満幸が討伐を受けて勢力を後退させつつも、その後氏清の甥に当たる山名時煕(ときひろ、時義の子)が重鎮として重用され復活。代々重鎮として幕府政治に関わってゆきました。

その後についてははしょりまして(笑)、山名氏は近世においても交代寄合として但馬村岡(現兵庫県香美町[旧村岡町])を本拠として維新を迎えました。
このように山名氏はここが発祥の地ではありながら、本拠を西国に移したためほとんどゆかりはありません。ただし末裔の方々にとっては故郷という意識を強くお持ちのようで、左写真の神馬像が奉納されています。
右写真は「たちわりの石」。現地看板によると、「慶長5年(1600)、高崎藩主井伊直政の許しを得て馬庭念流中興の祖、樋口定次が天真流村上天流と試合をするにあたり、当社に神助を祈り参籠し21日の満願の日、枇杷の木剣で断ち割ったと云われ、その後烏川畔に於いて見事、天流を破った。」そうです。私は詳しいことはよくわかりませんが…。
■群馬県高崎市
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