
今回の旅のメインの一つ、鞆の浦です。
瀬戸内海のほぼ中央部に位置し、海流の境目にもあたる地域であったことから、古くから潮待ちの港として栄えました。特に中世以降は対外関係とも深く関わっており、外交使節がしばしば宿泊したことでも知られています。
写真の雁木や常夜灯は近世のもので、これらがまとまって現存しているのはここだけと言われています。

交通の要衝であるため、政治的にも重要な役割を果たしてきました。南北朝期の建武3年(1336)には、九州から京都へ上る足利尊氏がここに滞在し、光厳院から新田義貞追討の院宣を受けたとされています。この頃、鞆の浦においては激しい戦闘が繰り返され、後には足利直冬も拠点を構えて尊氏方と争いました。
時には戦乱に巻き込まれましたが、中世において既に風光明媚の地として名高い場所でした。
例えば南北朝期の禅僧である中巌円月は元弘3年(1333)に鞆の浦に立ち寄って歌を残しており、また朝鮮からの使者であった宋希璟(そう・きけい、ソン・ヒギョン)は、1420年(応永27年)にこの鞆の浦を訪れ、一泊したことが記録に残されています(『老松堂日本行録』)。近世の朝鮮通信使もここに滞在し、その景色を賞賛したことでも知られています(詳しくは別途)。
そして戦国期には、京都を追われた足利義昭が毛利輝元の保護下で鞆の浦に拠点を据えたことも有名です。その後、備後を領した福島正則が築城を試みるも徳川家康の逆鱗に触れて断念。そして家康の従兄弟に当たる水野勝成(かつなり)が福山藩主となり、鞆の浦は同藩領となりました。

これらは現存する近世の商家。左写真は太田家住宅(重要文化財)。元は名物の「保命酒」の蔵元で、常夜灯のそばにあります。文久3年(1863)の三条実美らによる長州への「七卿落ち」の際、彼らが滞在した所とされています。
右写真は鞆城跡前にある近世の商家屋敷。
そして幕末の有名なエピソードとしては、坂本龍馬にまつわるものがあります。慶応3年(1867)に彼が乗った海援隊の「いろは丸」が、鞆の浦沖で紀州藩の船舶と衝突して沈没しました。
龍馬は鞆の浦に上陸して数日身を隠したとされていますが、その場所がこの建物とされています。廻船問屋を営んでいた屋敷だったようです。
いろは丸からの引き揚げ物や模型が、常夜灯の脇にある「いろは丸展示館」で展示されています。
これは、山中鹿之助首塚。鹿之助こと山中幸盛(ゆきもり)は尼子氏の被官で、毛利氏と激しく争った「武将」として有名ですね。尼子氏が没落した後も、尼子勝久を盛り立てて再興に奔走した忠義の人としても知られています。織田氏に従って毛利氏と争い続けましたが、天正6年(1578)に拠っていた播磨の上月(こうづき)城(現兵庫県佐用町[旧上月町])を落とされ降伏。備中の高梁川「阿井(あい)の渡」(現岡山県高梁市)で殺害されました。
その後、鞆の浦にて足利義昭や毛利輝元によって首実検が行われたとされており、そのためこの首塚が築かれたようです。実際にここに埋葬されたかどうかは定かではありませんが、悲劇の人を偲んで合掌。
さて、これからしばらくは鞆の浦の史跡を順次紹介して行きます。
■広島県福山市
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