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2009年4月

2009.04.30

特別展「海賊」を見る

横浜市歴史博物館で開催されている特別展「海賊―室町・戦国時代の東京湾と横浜―」を見に行きました。

予想以上に展示が豊富で、特に文書がかなり多く見応えがありました。ただしその分派手な展示物があまりなくて、マニアック向けといったところでしょうか。
事情により1時間しか居られなかったのですが、くまなく見て回るには少し時間が足りませんでした。じっくり見たい方は、1時間半ぐらいは見て置いた方がいいかも。

内容としては、関東の水運にかかわるもの、後北条氏に仕えた「海賊」や里見氏の歴史に関わるものが中心でした。そのままストレートに「海賊」と繋がるものは、思ったほど多くはない感。元々そういうものはほとんど残っていないので仕方がないところですが、それゆえ相当苦労されたような雰囲気が伝わってきます。

とはいえ、予想以上の充実ぶりで、とても楽しめました。個人的には、八丈島の領主の話は恥ずかしながら全く知らなかったので、とても興味深かったです。勉強になりました。

ただ一つ、やはり少々情報量が多すぎるかなぁ、という気もしました。もう少し厳選した方が、それぞれの展示が観覧者に与える印象も大きくなったかもしれません。まあこれは充実さを感じたゆえの贅沢な話なのですが。

最近出不精気味なので、またどこかに出かけてみたいところですが。「阿修羅」展、人気のようですが、個人的にはあまり惹かれないのが正直なところでして…。これに行ってみたいんですが、足がなあ…。

2009.04.27

鞆の浦(1) 福禅寺対潮楼

Tomotaichoro_3Tomotaichoro_7鞆の浦といえばまずはここ。福禅寺の対潮楼です。

福禅寺は10世紀半ば創建と伝えられる真言宗寺院。左写真は本堂ですが、隣接する対潮楼は元禄期に創建された客殿で、朝鮮通信使が滞在したことで知られています。国史跡。

有名なエピソードとしては、正徳元年(1711)に徳川家宣の将軍就任を祝うために通信使として訪れた李邦彦(り・ほうげん、イ・パンオン)が、座敷からの眺めに感動して「日東第一形勝」(朝鮮の東では最も美しい景色)の書を残したという話があります。後に作られたものだとは思いますが、額が掛かってました。

Tomotaichoro_5Tomotaichoro_6これがその対潮楼からの眺め。枠が額のように見え、一幅の絵のようです。
正面に見えるお堂のあるのは弁天島。その奥は仙酔島です。仙酔島には船で行けますが(宿泊施設もあり)、弁天島には行けないようです。

ちなみに「対潮楼」の名はもう少し下ってからで、延享5年(1748)に、徳川家重の将軍就任を祝う通信使の洪啓禧(こう・けいき、ホン・ゲヒ)が名付けたことにより、同行していた息子の洪景海(こう・けいかい、ホン・キョンヘ)がその名の書を残しています(見たかどうか記憶曖昧…)。
今は対潮楼の下に道路が走っていますが、これは戦後に埋め立てられたもので、かつては海に張り出して建っていたことがわかります。当初であれば、波音もBGMになっていたのかもしれません。

こちらの住職は名調子で解説されることで有名でしたが、今は体調も優れないとのことであまりお見えにならないそうです。前回来た時にはお会いできたのですが。

■広島県福山市

2009.04.25

鞆の浦

TomoTomo_2今回の旅のメインの一つ、鞆の浦です。

瀬戸内海のほぼ中央部に位置し、海流の境目にもあたる地域であったことから、古くから潮待ちの港として栄えました。特に中世以降は対外関係とも深く関わっており、外交使節がしばしば宿泊したことでも知られています。
写真の雁木や常夜灯は近世のもので、これらがまとまって現存しているのはここだけと言われています。

Tomo2Tomo_13交通の要衝であるため、政治的にも重要な役割を果たしてきました。南北朝期の建武3年(1336)には、九州から京都へ上る足利尊氏がここに滞在し、光厳院から新田義貞追討の院宣を受けたとされています。この頃、鞆の浦においては激しい戦闘が繰り返され、後には足利直冬も拠点を構えて尊氏方と争いました。

時には戦乱に巻き込まれましたが、中世において既に風光明媚の地として名高い場所でした。
例えば南北朝期の禅僧である中巌円月は元弘3年(1333)に鞆の浦に立ち寄って歌を残しており、また朝鮮からの使者であった宋希璟(そう・きけい、ソン・ヒギョン)は、1420年(応永27年)にこの鞆の浦を訪れ、一泊したことが記録に残されています(『老松堂日本行録』)。近世の朝鮮通信使もここに滞在し、その景色を賞賛したことでも知られています(詳しくは別途)。

そして戦国期には、京都を追われた足利義昭が毛利輝元の保護下で鞆の浦に拠点を据えたことも有名です。その後、備後を領した福島正則が築城を試みるも徳川家康の逆鱗に触れて断念。そして家康の従兄弟に当たる水野勝成(かつなり)が福山藩主となり、鞆の浦は同藩領となりました。


Tomo_5Tomojo_2これらは現存する近世の商家。左写真は太田家住宅(重要文化財)。元は名物の「保命酒」の蔵元で、常夜灯のそばにあります。文久3年(1863)の三条実美らによる長州への「七卿落ち」の際、彼らが滞在した所とされています。
右写真は鞆城跡前にある近世の商家屋敷。

Tomo3_2そして幕末の有名なエピソードとしては、坂本龍馬にまつわるものがあります。慶応3年(1867)に彼が乗った海援隊の「いろは丸」が、鞆の浦沖で紀州藩の船舶と衝突して沈没しました。
龍馬は鞆の浦に上陸して数日身を隠したとされていますが、その場所がこの建物とされています。廻船問屋を営んでいた屋敷だったようです。

いろは丸からの引き揚げ物や模型が、常夜灯の脇にある「いろは丸展示館」で展示されています。

Tomo3これは、山中鹿之助首塚。鹿之助こと山中幸盛(ゆきもり)は尼子氏の被官で、毛利氏と激しく争った「武将」として有名ですね。尼子氏が没落した後も、尼子勝久を盛り立てて再興に奔走した忠義の人としても知られています。織田氏に従って毛利氏と争い続けましたが、天正6年(1578)に拠っていた播磨の上月(こうづき)城(現兵庫県佐用町[旧上月町])を落とされ降伏。備中の高梁川「阿井(あい)の渡」(現岡山県高梁市)で殺害されました。
その後、鞆の浦にて足利義昭や毛利輝元によって首実検が行われたとされており、そのためこの首塚が築かれたようです。実際にここに埋葬されたかどうかは定かではありませんが、悲劇の人を偲んで合掌。

さて、これからしばらくは鞆の浦の史跡を順次紹介して行きます。

■広島県福山市

2009.04.21

戦国期の名著が復刊

今谷明『室町幕府解体過程の研究』(岩波書店、1985年)の復刊が決まったようです。
最近の業界の動向との絡みでいえば、時宜に適ったと見るべきなのか、遅きに失したと見るべきなのか。
ともあれ古書相場が長年高止まりしていた本なので(ご本人もどこかで言及されてたような(笑))、ありがたいことです。

『日本鉱山史の研究』も復刊候補にあったのに、落選したようで。正直なところ、比較するなら私はこっちの方が欲しかったんだけどなあ…。

2009.04.20

明王院と草戸千軒

KusadomyooinKusadomyooin_7これからは、先月に行った広島シリーズです。たくさんあるので、長丁場になると思います。

まずはじめは、草戸千軒遺跡の脇にある明王院。大同2年(807)に空海の開基と伝わっており、もとは常福寺と呼ばれていました。備後国を貫く芦田川の河口付近右岸に広がっていた「草戸千軒」は、この常福寺の門前町として発展したと考えられています。
17世紀半ばに、福山藩主水野勝貞が城下にあった明王院をここに移して今の寺名となり、現在に至っています。


Kusadomyooin_2Kusadomyooin_5左写真は本堂(国宝)。戦後の解体修理によって墨書銘が発見され、それによると元応3年(1321)築であることがわかっています。様式は、和様・大仏様・禅宗様が合わさった折衷様で、本尊は10世紀前半のものとされる木造十一面観音立像(重要文化財)です。
右写真は、近世に建てられた書院。

Kusadomyooin_6そしてもう一つのメインは、この五重塔(国宝)。堂々たる佇まい。貞和4年(1348)築です。南北朝期の様式をよく表したものとされ、解体修理がされたことはありますが、現在もほぼ創建時のままだそうです。
内部には壁画が描かれていましたが、17世紀初頭には劣化が心配されており、福山藩主の水野勝俊によって取り外されて保存されて後、今は東京国立博物館で保管されているそうです。今の壁画は、近世に描かれたものと考えられています。


Kusadomyooin_11Kusadomyooin_13境内には、中世の石造物が並べられています。
これは、芦田川の河川改修工事や草戸千軒遺跡の発掘によって発見されたものです。なので積み方は結構いい加減ですが(笑)、これだけたくさん並んでいると壮観。
Kusadomyooin_14一つだけ、ほぼ完全な形の一石五輪塔がありました。
この地域では結構珍しいような。年号と思しき字があって読んでみたのですが、残念ながら読めませんでした。南北朝期頃かなあと勝手に想像していますが。

Kusadomyooin_16そしてこれが、明王院の門前を流れる芦田川。中州が草戸千軒遺跡です。発掘成果によれば、13世紀半ば頃に町が成立したものと考えられ(それゆえ、実際には常福寺もこの頃の成立と考えるべきか)、14世紀にかけて急速に発展していきました。14世紀後半に一度衰退したようで(南北朝内乱によるのでしょうか)、15世紀に復興してゆきます。
ただ応仁の乱を境にまた衰退に向かい、16世紀初頭に廃絶したと考えられています。この地域の領主であった渡辺氏が本拠を移したことが影響したためではないかとされているようです。

遺跡からは中世の流通や生活を物語る多くの遺物が出土しており、いずれも広島県立歴史博物館に所蔵・展示されています(一部は重要文化財)。残念ながら遺構の現物はもう見られませんが、博物館で忠実に復元されています。

参考文献:
鈴木康之『中世瀬戸内の港町・草戸千軒町遺跡』(シリーズ「遺跡を学ぶ」40、新泉社、2007年)
著者のページへ

■広島県福山市

2009.04.19

芦野城跡

Ashino_17さらに奥へ。シリーズ最後は陸奥国境も近い所にある芦野城跡です。
芦野は近世では奥州街道の宿場町で、旗本の芦野氏の本拠地でもありました。

さてその芦野氏は那須一族。南北朝期頃に、那須資忠の子である資方が芦野氏を名乗ったのが始まりとされています。戦国期は、大田原氏や伊王野氏らとともに「上那須衆」に数えられています。城は、この頃の当主である芦野資興が築いたとも言われています。

天正18年(1590)には、芦野資泰が小田原へ首尾良く馳せ参じ、その後の「奥羽仕置」への寄与も賞されて所領は安堵。関ヶ原後には旗本となり幕末まで生き残りました。旗本でも参勤のある交代寄合だったため、地元芦野のこの城が陣屋となりました。江戸の邸宅は、神田明神下にあったそうです。


AshinoAshino_3というわけで近世に改変が加えられている可能性が高いのですが、山城の雰囲気は残っていて、左写真の登山口からかなり登っていきます。
右写真は登ったらまず見える二の丸。結構広くなっていて、桜の名所なんだそうです。私が行った頃はまだ当然蕾でした(笑)。

Ashino_5Ashino_7そしてさらに登っていくと(左写真が登山道。空堀にもなっています)、右写真の本丸へ。二の丸に比べるとかなり狭く、見張り台のような機能を持っていたのでしょう。周囲の木が払われていて、遺構がよく見えます。

Ashino_11Ashinosaishoin左写真は本丸からの眺め。真ん中に見える畑の区画は周りより一段高くなっており、「芦野氏居館跡」とされています。
現地看板によると、「居館跡は、東西約100メートル、南北約120メートルあり、周囲には短冊形に堀と土塁がめぐっていたと思われるが、長い年月の間に削平され、北側にわずかにその痕跡が認められる。形式は南北筋の長い典型的な回字型の居館である。」

『吾妻鏡』の建長期の記事に、「葦野地頭」に対して奥の大道の警備を命じたとあることから、この居館成立は鎌倉初期まで遡るとしています。となると、鎌倉期には既に芦野氏は那須氏から分家していたのでしょうね。系図との齟齬をどう考えるかが課題です。

ちなみに右写真は城下にある菩提寺の最勝院。

Ashinofunbo_4Ashinoyuzenjinja_1左写真は、これも城下にある芦野氏旧墳墓。確認できる最も古いものは寛永19年(1642)のもののようで、形式からみてもいずれも近世のもののようでした。

右写真は近くにある湯前(ゆぜん)神社。『平家物語』によると、屋島の戦いで那須与一が扇に向けて弓を射る際、いくつかの神の名を挙げてその加護を願ったことになっていますが、その一つに「那須の湯前大明神」という神名があります。その「湯前大明神」がこの神社ではないかとも言われているようです。

ちなみに城の麓には、町立の那須歴史探訪館があります。近世の制札の展示が印象に残りました。

■栃木県那須町

2009.04.17

伊王野城跡

Ionojo_1Ionojo_13さらに奥へ。伊王野(いおうの)城跡です。

この地域の領主である伊王野氏は、那須氏の一族。鎌倉初期に、那須頼資の次男・資長が移り住み、伊王野氏を名乗ったのが始まりとされています。
右写真の伊王野小学校は、その伊王野氏の居館跡。背後の山が城跡です。今では山里の風情ですが、かつては東山道沿いにあり、主要な街道筋に当たります。
伊王野城は、長享元年(1487)頃の築とされています。

伊王野氏は那須氏の被官となり、天正18年(1590)に一度没落したものの、関ヶ原合戦の功によって旗本となりました。しかしまもなく嫡流は断絶。分家(読みは「いおの」)がいくつかの藩で家臣として仕え、家名は保ったようです。


Ionojo_12Ionojo_7左写真は一番低い段にある曲輪。面積からしてもここが一番広い曲輪だったようです。居住空間としてはここが一番ふさわしそうです。
公園として整備されており、より広さを感じました。

右写真はこれより登った所にある堀切と思しき遺構。上段の曲輪は狭く、詰めや見張りの機能を持っていたのでしょうか。
縄張りはこちらが詳しいです。

Ionosenshoji_2Ionochogenji_2そして城下の石造物。
左写真は、小学校の近くにある専称寺の伊王野氏の墓。こちらは中世のもののようです。
右写真は、城の東側にある長源寺にある伊王野氏の墓。こちらは「新墳墓」と呼ばれる通り、時代としては降るようです。長源寺は伊王野資直が弘治元年(1555)に中興の祖として開いたとされ、その後伊王野氏が断絶する寛永10年(1633)までの当主および家族の墓と考えられています。

■栃木県那須町

2009.04.14

幕末薩摩の好著

Satumajin桐野作人『さつま人国誌―幕末・明治編』(南日本新聞社発行・南日本新聞開発センター発売、2009年)受贈。ありがとうございます。
鹿児島の南日本新聞で連載されていた記事をまとめたもので、ご本人のブログでも掲載されており、拝読しておりました。

思えば私も10代の頃はそれなりに幕末にも興味があって、司馬遼太郎の小説をよく読んでいましたが、今では日本史のなかでも最も疎い時代の一つになってしまいました(笑)。勉強させていただきます。
それにしても、幕末の人物で人気者といえば、今も昔もずっと変わりません。しかし知名度は低くても趣深い人物はたくさん居るのが当然です。そうした「埋もれた」人物にスポットが当たっていて、幕末に一家言ある方にとっても読み応えがあると思います。


このほか、何人かの方々より抜き刷りをご恵送くださっております。ただ、色々と雑事に紛れていまして、お礼のご返事が遅れております。毎度の事ながら申し訳ありません。
最近はほとんど建設的な作業ができておらず、すっかり惚け気味です(笑)。自らに喝。

2009.04.13

那須神社

Nasujinja_1Nasujinja_5続いて那須神社。かつては金丸八幡宮と呼ばれた神社で、坂上田村麻呂創建という伝承があります。国道461号線沿いにある道の駅「那須与一の郷」のすぐ横にあります。ちなみにこの道の駅には、「那須与一伝承館」があり、那須氏の史料が展示されています。

この神社の歴史についてははっきりとはわかっていないようですが、那須与一の供養のために地元の人々が建てた社だったとする説もあるようです。那須与一宗高(宗隆とも、ただし実際は「資隆」らしい)といえば『平家物語』での屋島の戦いでのエピソードが有名ですが、実際のところ、それ以外のことはよくわからないというか…(笑)。

那須氏の出自はよくわかっていません。藤原道長の子孫とか、山内首藤(やまのうちすどう)氏の一族とか、国造の末裔とする説があるそうです。那須与一の伝承はともかく、鎌倉初期に御家人になったようで、芦野・伊王野・福原などの分家とともに下野国那須郡を支配する武士団として成長していきました。

室町期には鎌倉方としてこの地域で絶大な権力を築きますが、15世紀前半の上杉禅秀の乱を契機として、幕府方に転じた一族(上那須氏)と鎌倉方を維持した一族(下那須氏)との間で内紛が起こり、幕府方だった篠川(ささがわ)公方の足利満直と鎌倉公方の足利持氏との対立に巻き込まれて混乱してゆきます。

永正11年(1514)に一族の大田原氏によって上那須氏は滅ぼされ、その後は下那須氏が主導権を握ることになりました。しかし大田原氏や大関氏の擡頭があり、天文20年(1551)には那須高資が暗殺されて翳りが出てきます。那須資晴が当主となると一時盛り返しましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参して万事休す。天正18年(1590)に改易されました。
子の資景が関ヶ原で東軍に味方したこともあり、わずかに旧領の福原(現栃木県大田原市)で1万石余の小大名とされたものの(のち旗本に格下げ)、これも貞享4年(1687)に嗣子問題で改易。滅亡しました(一族の大田原氏は大名として生き残りました)。

Nasujinja_6Nasujinja_7というのが非常に大雑把な(笑)那須氏の歴史ですが、この神社と那須氏との関係は実のところよくわかりません。
むしろやはりここでも大関高増の存在が際立っています。現在の社殿は天正5年(1577)に築かれたものとされており、これも黒羽城を築いた高増が造営したものと考えられます。ちなみに寛永18年(1641)に大規模な修繕が行われたそうなので、戦国期の面影は乏しいかもしれません。

Nasujinja_10Nasujinja_11本殿の裏には左写真のような塚が。「金丸塚」と言うそうですが、神社自体とはあまり関係なさそうでした。
右写真の「手水舟」は、寛永19年(1642)に黒羽藩主の大関土佐守高増(戦国期の美作守高増とは別人)が寄進したものだそうです。

■栃木県大田原市

2009.04.12

黒羽山大雄寺

Daiouji黒羽城跡のすぐ脇にある大雄寺(だいおうじ)。大関氏の菩提寺です。

応永11年(1404)創建の曹洞宗の寺院で、もとは別の場所に建てられましたが、応永33年(1426)に戦乱によって焼失。文安5年(1448)に大関忠増によって再建されましたが、天正4年(1576)に大関高増が黒羽城を築いた際に現在地に移転しました。

Daiouji_1Daiouji_2本堂と山門。立派な茅葺き屋根です。天正4年の築と伝わっています。
大雄寺の中興開基は、大関高増の先代の大関増次となっています。増次は、天文11年(1543)に大田原資清によって暗殺されました。高増はこの大田原資清の子で、大関氏の養子となって家督を継承したわけですが、実質的には乗っ取り。増次を供養するというこの寺院の性格は、この辺への後ろめたい思いもあったのでしょうか。

Daiouji_3Daiouji_4境内には、大関氏墓所があります。いずれも立派な墓石ですが、多くは近世の歴代藩主のものです。右写真の墓石群は比較的古いかな、と。

Daiouji_5そしてひときわ目立つのが、大関高増の墓。先に触れた通り、大関氏を継承してからは主筋の那須氏とは時折対立しつつ盛り立てた一方、佐竹氏との関係を深めて自立的な権力も形成。近世大名の基礎を築きました。慶長3年(1598)没。

■栃木県大田原市(旧黒羽町)

2009.04.11

訃報・外園豊基さん

私は直接ご指導を受けたことはありませんが、ご専門の荘園史研究をはじめ、間接的に多くの学恩に接しています。
このほか日本歴史学協会での日本史の発展に向けた活動を常々耳にしておりました。
また、科研『日本中世における民衆の戦争と平和』は、今なお後学に多くの示唆を与えております。

今はただ、ご冥福をお祈り申し上げます。

2009.04.09

私の2009年開幕戦

20090408_220090408_5今年は初観戦初勝利。幸先が良くて重畳。

ところで毎年西武のファンクラブに入っているのですが(笑)、今年は明らかにお得度が下がってしまいました。むかしは内野席のタダ券が合計4枚もついていたのに、なんと今年は1枚しかない(去年は2枚)。会費は同じなので、実質大幅値上げ。
入場料も若干値上がりしていたりして、この不況に随分強気なもんだと思ったり…。西武ドームの開幕2戦目で既にガラガラだったが、大丈夫なんかいな?(ま、相手が相手だし、というツッコミはなしで(笑))

西武ドームは施設がかなり改修されましたが、それは確か某M選手の移籍金(数十億円でしたっけ)で賄ったやに聞き及びます。それならばこそ、なんで値上げしたのか合点がいかないなあ。実に不満でございます。まあ今までの価格設定では赤字だから、というストレートな理由なんでしょうけど…。

2009.04.07

黒羽城跡

Kurobane_18Kurobane_17続いては那須のシリーズです。
最初は黒羽城跡。天正4年(1576)に、大関高増が築いた城です。
大関氏の出自は武蔵七党の丹党という説もありますが、実際は常陸平氏の小栗氏の一族だったと考えられています。常陸国小栗荘に大関という地名があるそうで(現茨城県筑西市[旧下館市])、ここが出身地と思われます。南北朝期に幕府方として活躍し、下野国那須郡に所領を得て土着しました。

その後は那須氏(上那須氏)の被官となったようで、15世紀頃に大関増清が白旗城(旧黒羽町)を築いて本拠としていたようです。16世紀前半に上那須氏が断絶すると、ゴタゴタを経て(笑)、大関高増が下那須氏や大田原氏と連携しつつ勢力を伸ばしていきました。天文20年(1551)に下那須氏の那須高資が暗殺されると白河結城・葦名・佐竹も入り乱れて乱戦状態になり、大関高増は佐竹氏と関係を深めつつ、堅固な山城を求めて黒羽城を築いたと考えられています。

Kurobanepanoこちらが本丸の風景。
豊臣秀吉の関東侵攻に下那須氏は遅参して改易されてしまいますが、大関高増は首尾良く馳せ参じ、安堵されます。慶長5年(1600)の徳川家康の上杉攻め(小山で転進)の際にも徳川方として守りを固め、その功によって2万石の大名となり、以後明治維新まで一貫して黒羽藩主となりました。

Kurobane_12Kurobane_13本丸を囲う堀はこんな感じ。実際に立ってみると、結構深いように感じます。
小規模な藩ながら、城郭は立派です。敷地もかなり広く、本丸だけでもかなりの広さがありました。二の丸は公共施設があり、三の丸は資料館が建っています。

Kurobane_3Kurobane_20左写真は、本丸から三の丸方面へ通じる側の堀。ここが一番深そうでした。
右写真は本丸北側からの眺め。城の麓には那珂川が流れています。
絵図などによると、どうやら城下町は川の対岸にあったようです。今の市街地もそれに当たるのでしょうか、城の周りはあまり賑わいがなく静かな雰囲気でした。
縄張りなどは、こちらが詳しいです。

■栃木県大田原市(旧黒羽町)

2009.04.06

IE8を使ってみたが

インターネットエクスプローラ(IE)8がリリースされたってことでインストールして使ってみたんですが…。

結論から言うと、使えねえ(笑)。

というか、どうやら時期尚早だったようです。私だけかもしれないけど、なんせことあるごとにエラーが出てハングしっぱなしでした(pdfファイルとかjavaを開こうとするとハングするのは驚いた(笑))。それに、IE7に比べて速くなったという宣伝文句だったけど、逆に重くて仕方がない。

理由が私のパソコンにあるのか、ソフトにあるのかははっきりしませんが、後者が原因だということになると、まだ乗り換えるのはしばらく様子を見た方が賢明のようです。

復旧するのに時間がかかった…。新しいソフトに飛びついて失敗するという初歩的なミスでした。

2009.04.05

武蔵国分寺跡

Musashikokubunji_9Musashikokubunji_10先日行った武蔵国分寺跡です。
武蔵国分寺は、都と国府(現東京都府中市)を結ぶ官道である「東山道武蔵路」(今の府中街道、中世は鎌倉街道上道)沿いに、東側に僧寺、西側に尼寺が築かれました。ほかの国分寺に比べても規模は大きかったそうです。

Musashikokubunji_23こちらは七重塔跡の礎石。
いつまで寺院の機能があったかは不明のようですが、一説では元弘3年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したとも言われています。
現在は国史跡。今も発掘作業が続けられていて、将来的には史跡公園として整備することになっているそうです。

Musashikokubunji_18Musashikokubunji_22こちらは国分尼寺跡。国分寺跡からは西へ行き、府中街道を越えてJR武蔵野線のガードをくぐってすぐの所にあります。遺構の一部が整備されていました。

Musashikokubunji_7Musashikokubunji_5そしてこちらは現在の国分寺。「国分寺崖線」の麓にあります。
左写真の楼門は、大名格で大坂定番だった米津田盛(よねきつ・ただもり)の菩提寺として築かれた米津寺(東京都東久留米市)にあったもので、明治28年(1895)に移築されました。なんでも火災に遭った米津寺が、資金獲得のために売却したんだそうで…。

Musashikokubunji_3Musashikokubunji左写真の仁王門は宝暦年間(1750年代頃)の建立。建武2年(1335)に新田義貞の寄進によって建立された旧薬師堂を再利用して造られたものとされています。安置されている仁王像は、享保3年(1718)の造立。

右写真は現在の薬師堂。これも宝暦年間築。現地看板によると、堂内正面の長押に、明和元年(1764)に奉納された「金光明四天王護国之寺」の寺額が掲げられているそうです。また、安置されている木造薬師如来坐像(重要文化財)は鎌倉期のものとされています。

■東京都国分寺市

2009.04.03

波上宮

Naminouegu_1最後は那覇市の中心部にある波上宮(なみのうえぐう)。
日暮れに行ったので周辺の景色は撮れなかったのですが、海に切り立った崖の上にあります。

Naminouegu_2Naminouegu_4今はかつてとは地形がかなり変わっていますが、那覇港を見下ろす場にあり、港の総鎮守のような役割を担っていました。
こちらで掲載されている「琉球貿易図屏風」には近世の那覇が描かれています。手前側の陸地の先端にある崖が、波上宮のあった所です(たぶん)。

創建の経緯は不明ですが、14世紀後半には既にあったようです。「海神の国(ニライカナイ)」伝説に関係する逸話も伝わっており、やはり海との関わりの深い施設だったようです。熊野権現との関わりも伝わっています。
社殿は沖縄戦で焼失し、戦後に再建。

波上宮の近くの久米地区(かつての久米村)は、琉球王国時代、対外交易に深く関わった貿易商や外交官などが居住していた場所として知られています。ただ、今はあまりその名残はなさそうでしたが…。


元々観光目的ではなかったので贅沢は言えませんが、行きたいけど行けなかった所がたくさん残りました。
また機会を見つけて沖縄へ行きたいと思います。いつになるかわからんけど…。

■沖縄県那覇市

2009.04.02

冬眠からの目覚め

久しぶりに外へ出て某所へ行き、最近刊行されたとある紀要を読んでいたら…、とても興味深い史料が紹介されていました。
というか、こんな史料あったの知らなかった…。

一部は活字になってるそうですが(全部かどうかは未確認)、確かに活字が載っているその本は完全にノーマーク。でも一部だったら意味ないんだよなあ。
京都へ行かないと全部の内容に当たれないかもしれないので、こりゃ行って見ないといけないかなぁ。行っても見られるかどうかもわからないけど…。

なんのことやらわからない内容ですが、すみません。
ともかくも、引きこもってばかりでは、なにも情報は得られないのでいけませんね、ということで(笑)。

明日からやっと暖かくなるようですね。長い冬だったなあ。

そういや…。
WBCが終わってすっかりシーズンが終了したような雰囲気ですが(笑)、明日(3日)プロ野球が開幕です。
どうせ怒るファンなんかいないしってことで、評論家予想での某チームは毎年ビリが指定席でしたが、どういう風の吹き回しか、今年は優勝とか2位とかにこぞって挙げられていて気持ち悪いです(笑)。
去年は期待を裏切って2位になってしまった某チームですから、きっと今年は最下位なのでしょう…。ま、生暖かく見守ります。
今年はどれぐらい見に行けるかなあ。

2009.04.01

首里城跡

ShuriShuri_34さて、沖縄観光のメインとも言える首里城跡
言わずと知れた、琉球王国の首府です。創建年代は不明ですが、尚巴志が「王城」を築いていたことは確かであることから、第一尚氏初期の15世紀前半には王城として確立していたとされています。その後第二尚氏の時代に拡張されていったと考えられています。

左写真は有名な守礼門。右写真が正殿。いずれも最近復元されたものです。首里城は沖縄戦で被災した後も、戦後に琉球大学が構えたこともあって遺構の破壊が進みましたが、大学の移転後に復元作業が行われました。

Shuri_3こちらは歓会門。第一の正門で、中国の使者(冊封使)を歓迎するという意味で門の名前が付いています。地元の言葉では、「あまへ御門」(「あまへ」は歓迎という意味)と言うそうです。1974年復元。

Shuri_10Shuri_11外壁の様子。見えている門は久慶門。「ほこり御門」と呼ばれていたそうです。通用門で、主に女性が使用したとか。国王の寺院参詣などもここを通ったそうです。1983年復元。

Shuri_19こちらは歓会門の次にある瑞泉門。泡盛を思い出しますね(笑)。別名「ひかわ御門」。瑞泉は「立派な泉」という意味で、横にある「龍樋(りゅうひ)」から湧水が出るために付いたと言われています。

Shuri_31Shuri_27左写真は正殿の入口に当たる奉神門。この門をくぐることが出来るのは冊封使など限られた人々だけで、一般の役人は横から入ったと言われています。この門を入ると、正殿をはじめとした王の空間である「御庭(うなー)」に辿り着きます。

ほかにも多くの建物などが復元されたり、数々の遺構がありますが、長くなるのでこのへんで。
ま、観光客が多くて、あまりいい写真がないというのもありますが…。休日は混んでいるので要注意。

周辺には琉球国王の墓所である「玉陵(たまうどぅん)」や庭園の「識名園」もありますが、今回は行けず。再訪を期す。

■沖縄県那覇市

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