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2009.04.13

那須神社

Nasujinja_1Nasujinja_5続いて那須神社。かつては金丸八幡宮と呼ばれた神社で、坂上田村麻呂創建という伝承があります。国道461号線沿いにある道の駅「那須与一の郷」のすぐ横にあります。ちなみにこの道の駅には、「那須与一伝承館」があり、那須氏の史料が展示されています。

この神社の歴史についてははっきりとはわかっていないようですが、那須与一の供養のために地元の人々が建てた社だったとする説もあるようです。那須与一宗高(宗隆とも、ただし実際は「資隆」らしい)といえば『平家物語』での屋島の戦いでのエピソードが有名ですが、実際のところ、それ以外のことはよくわからないというか…(笑)。

那須氏の出自はよくわかっていません。藤原道長の子孫とか、山内首藤(やまのうちすどう)氏の一族とか、国造の末裔とする説があるそうです。那須与一の伝承はともかく、鎌倉初期に御家人になったようで、芦野・伊王野・福原などの分家とともに下野国那須郡を支配する武士団として成長していきました。

室町期には鎌倉方としてこの地域で絶大な権力を築きますが、15世紀前半の上杉禅秀の乱を契機として、幕府方に転じた一族(上那須氏)と鎌倉方を維持した一族(下那須氏)との間で内紛が起こり、幕府方だった篠川(ささがわ)公方の足利満直と鎌倉公方の足利持氏との対立に巻き込まれて混乱してゆきます。

永正11年(1514)に一族の大田原氏によって上那須氏は滅ぼされ、その後は下那須氏が主導権を握ることになりました。しかし大田原氏や大関氏の擡頭があり、天文20年(1551)には那須高資が暗殺されて翳りが出てきます。那須資晴が当主となると一時盛り返しましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに遅参して万事休す。天正18年(1590)に改易されました。
子の資景が関ヶ原で東軍に味方したこともあり、わずかに旧領の福原(現栃木県大田原市)で1万石余の小大名とされたものの(のち旗本に格下げ)、これも貞享4年(1687)に嗣子問題で改易。滅亡しました(一族の大田原氏は大名として生き残りました)。

Nasujinja_6Nasujinja_7というのが非常に大雑把な(笑)那須氏の歴史ですが、この神社と那須氏との関係は実のところよくわかりません。
むしろやはりここでも大関高増の存在が際立っています。現在の社殿は天正5年(1577)に築かれたものとされており、これも黒羽城を築いた高増が造営したものと考えられます。ちなみに寛永18年(1641)に大規模な修繕が行われたそうなので、戦国期の面影は乏しいかもしれません。

Nasujinja_10Nasujinja_11本殿の裏には左写真のような塚が。「金丸塚」と言うそうですが、神社自体とはあまり関係なさそうでした。
右写真の「手水舟」は、寛永19年(1642)に黒羽藩主の大関土佐守高増(戦国期の美作守高増とは別人)が寄進したものだそうです。

■栃木県大田原市

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