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2009年5月

2009.05.29

都市史ブームの胎動

もう少し歴研大会ネタを引っ張ります(笑)。

今年の大会ではなんとか最低限欲しいものを押さえたのですが(今谷さんの本買うの忘れてたけど…)、そのうち、都市に関する研究書がわりと多くを占めました。
もちろん購入本の選択は私の主観が入っているのですが、そうとはいえ、最近は都市に関する書籍がわりと立て続けに出ている感がします。

(1)仁木宏・松尾信裕編『信長の城下町』(高志書院、2008年)
(2)山村亜希『中世都市の空間構造』(吉川弘文館、2009年)
(3)安野眞幸『楽市論―初期信長の流通政策』(法政大学出版局、2009年)
(4)山田邦和『京都都市史の研究』(吉川弘文館、2009年)

これだけ並ぶと壮観。
(1)は、織豊政権に関係する濃尾や近江、そして大坂といった城下町についての、考古学・地理学的成果も含めた分析。研究の現況がわかりやすく理解できて、なかなか秀逸だと思います。
(2)は、中世歴史地理学の若手のホープの著書。個人的には結構待ち望んでいました(笑)。
(3)は、いわゆる通説的イメージの「楽市楽座」理解に対して批判的に検討されています。実のところ、私も個人的には通説には違和感を少なからず持っていたので、議論のきっかけになるのを期待したい一冊。
(4)は、1万円を切るのが信じられない本(失礼な紹介の仕方ですが…)。売り子をしていた版元の方からも、かなり自信ありげに紹介されました。ご専門は考古学、というか、「京都学」と言うべきでしょうか。前近代京都を知るためには、必携と言ってもいいと思います。こちらのブログでもお馴染みですね。

先に紹介した『中世の都市』も含めて考えると、いよいよ「都市史ブーム」の到来でしょうか。刮目して待ちたいと思います。


最後に私事ですが、大会が終わってもまだドタバタしております。史跡ネタは6月に入ってから再開いたします。

4862150454信長の城下町
仁木 宏 松尾 信裕 編
高志書院 2009-01

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464202882X中世都市の空間構造
山村 亜希
吉川弘文館 2009-02

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4588250558楽市論―初期信長の流通政策 (叢書・歴史学研究)
安野 眞幸
法政大学出版局 2009-04

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4642093184京都都市史の研究
山田 邦和
吉川弘文館 2009-05

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2009.05.27

都市の「比較史」の可能性

高橋慎一朗・千葉敏之編『中世の都市―史料の魅力、日本とヨーロッパ』(東京大学出版会、2009年)を、執筆者のAさんより受贈。ありがとうございます(書誌情報はこちら)。

「序」を拝読すると、奇しくも今回の歴研大会で意図したことと問題関心をほぼ共有していることがわかり、とても心強く思いました(順序でいえば、この本の企画の方が先だったと思います)。「都市から中世社会を考える」という、実はどちらかというと関心がやや低下していたテーマについて、日本だけではなく、ヨーロッパの都市も取り上げながら論じられています。また、考古学・地理学・建築史学等の成果にも配慮がなされています。

都市の日欧比較というテーマについていえば、ご存じの通りどちらかというと伝統的な議論で、過去の牧歌的な時代の議論という印象もあるかもしれません。昔のように、封建制概念的な理解を前提とした単純比較が通用しないのは、確かのように思います。そのような現在にあって、本書がこのテーマでどのような議論を紡ぎ出しているのか、じっくり読んで勉強いたします。


実は今年の大会を企画する段階で、西欧の都市との比較といった議論を組み込めないか(例えばコメントとかで)、などと考えたこともありました。それは、かつて大会の中世史部会では、西洋史の報告を共同でやっていた歴史があるのを思い起こしたことによります(「民族大移動」が激しくなって、今は日本史だけになってしまいましたが)。もっともそれを闇雲に復活させようとは思いませんが、かつての歴研らしさに倣って頑張ってみてもよかったかなあ、という気もしています。

でも、やはりそれは大会という場ではなくて、別の場を設けたり、あるいは本書のように活字で提言するといった方法が今はふさわしいのかもしれませんね。

4130230573中世の都市―史料の魅力、日本とヨーロッパ
高橋 慎一朗 千葉 敏之
東京大学出版会 2009-05

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2009.05.25

2009年度歴研大会

土日の歴研大会に来られたみなさん、お疲れさまでした。

今年は企画担当という一生に一度の機会(多分)でしたが、無事終えることができてほっとしています。お世話になったみなさん、ありがとうございました。

あと大会の裏方をやったのは初めてだったのですが、結構忙しいですね…(笑)。本を買いに行く時間は少しはあったものの、いくつか買いそびれたものがやはり出てしまいました。仕方ないか。

結局、日曜の夜からは報告者の方達と朝まで飲んでしまいました(笑)。久しぶりの朝帰り。

来年は裏方の責任者になってしまいます。今から気が重いけど、また来年宜しくお願いします。
ちなみに場所は専修大学(生田の方)です。また都心からは遠いですが。

さて、そろそろ溜まった仕事に取りかからないと…。

2009.05.18

徹底討論という試みに触れて

なんだか神戸ではインフルエンザの件でとんだ騒ぎになっているようで。
月末に帰る予定だけど、その頃にはどうなっているやら。

先日、秋山哲雄・細川重男『討論 鎌倉末期政治史』(日本史史料研究会、2009年)受贈。ありがとうございます。
(書誌情報はこちら
頒価1500円だそうで、相変わらずすごいなあ…。

値段はかなり控えめですが、中身はかなり濃い。鎌倉期の政治史について、両者の主張される理論的背景に踏み込んで徹底討論しておられます。普段の研究会や大きな学会でもなかなかこういう場面になることは少ないなか、このような討論に臨まれるにあたって、相当な勇気と覚悟がお有りであったろうと思います。

理論構築というのは、言うは易く行うは難し。どうやって自分の普段の作業を「理論」という形で世に提示できるか。私は一生掛かってもできるかどうかはわかりませんが、臆せず難題に対して正面突破されようとする意気込みが伝わってきて、学ぶところ大でした。


歴研大会まであとわずかとなりました。現在最終準備中です。
今のところ、インフルエンザ問題の影響を受けることはないと思います。ご安心下さい。でも、ご心配な方は予防対策を。

2009.05.14

臨戦態勢突入

いよいよ某大会の追い込みモードに入ってきたので、ここの更新もしばらくペースが落ちます。
今年の某大会は不便な所ですが、是非ともおいでください。来て良かった、と言ってくださるよう尽力いたします。
飲み会は例年の如く充実ぶりを自負しております(笑)。場所は高幡不動です。

さて、日曜日の中世史部会の受付では、「室町殿論」の小特集を掲載した歴研の4月号を割引販売する予定です。会員でない方は、是非ともご購入ください。ついでに、会員になってくださるとありがたく…(笑)。

私事ですが、諸事情あって私は本も満足に買えなさそうです…。秋の日本史研までおあずけかなあ。その点がちと気がかり。致し方ないことなのですが。


某チームは、残念ながら今季終了の模様です。ああこれから何を生きる糧とすればよいのやら。意気消沈。

2009.05.11

鞆の浦(7) 鞆城跡

TomojoTomojo_6鞆の浦シリーズの最後は鞆城跡。集落のほぼ中央部の高台に築かれた城です。

元々鞆の浦を守る城は大可島城でしたが、戦国期になるとこの地にも城(要害)が築かれたようです。この地域の領主であり、毛利氏麾下となっていた渡辺氏が最初に築いたとされています。
そして元亀4年(天正元年、1573)に京都を追われた足利義昭が鞆の浦へ移ると、ここを御所としたようで(「鞆幕府」と称する人もいます)、この頃から本格的に城郭として整備されていったと考えられています(ただし後に義昭は別の場所へ移ったようですが)。

関ヶ原の合戦後、安芸・備後の領主となった福島正則が本格的な築城に乗り出し、天守も築かれたそうです。今に遺る遺構はおそらくこの時期のものでしょうか。慶長12年(1607)には、この地を訪れた朝鮮通信使が「未完成」と記しており、長期にわたって工事が行われていたようです。
ところが、慶長14年(1609)にこの築城が徳川家康に知れると家康は激怒し、正則は恐れて工事を中止。既に築かれた施設も破却。結局、この時に廃城となりました。

とはいえ一部の行政施設は残されたようで、元和5年(1619)に福島正則の改易によって水野勝成が移ってくると、長男の勝俊を鞆の浦に据え、鞆城の三の丸に居住したそうです。後には奉行所が置かれました。

Tomojo_5Tomojo_10といったところですが、今はあまり目立った遺構はありません。目に留まるのは石垣くらいでしょうか。石垣に使用されている石には、いくつか刻印の施されたもののあることが、現地看板で説明されていました。右写真は、本丸跡に置かれた、石垣に使用されていたと思しき石です。

Tomojo_7本丸からの眺め。天気が良いと四国まで見えるそうですが、どんよりしていて見えず。

なお、本丸跡には鞆の浦歴史民俗資料館があります。来訪時には、運悪く臨時休館でしたが…。

■広島県福山市

2009.05.10

鞆の浦(6) 備後安国寺

Bingoankokuji_9Bingoankokuji_8鞆の浦の集落の端に近い所にある備後安国寺。
元は文永10年(1273)に建立された金宝寺(きんぽうじ)という禅宗寺院でしたが、暦応2年(1339)に足利尊氏による諸国安国寺設置に伴い、備後国の安国寺となりました。

そういう経緯もあって室町幕府の保護を受けていましたが、戦国期になると幕府の衰えとともに衰微してゆきます。しかし毛利輝元をスポンサー(大檀越)とし、毛利氏の外交僧で知られる恵瓊(えけい)によって復興されました(通常は安国寺恵瓊と呼ばれますが、この「安国寺」は安芸安国寺[現在は不動院、広島市東区]です)。
復興の時期は慶長4年(1599)とされているようですが、天正7年(1579)説もあり、現地看板では後者が採用されていました(どっちが正しいかはよくわかりません)。

写真の釈迦堂(重要文化財)は、元は金宝寺の仏殿として建立されたものです。現在のものは室町中期建立。右写真は裏側から。


Bingoankokuji_3Bingoankokuji_7左写真は本堂跡、右写真は庭園跡。このように、本堂は現在はありません。
維新後は檀那も居なかったために荒廃したそうで、結果、1920年(大正9)に失火で焼失したそうです。かろうじて一部の仏像は災禍を逃れ、文永11年(1274)銘の木造阿弥陀三尊立像(重要文化財)などを所蔵しています。

Bingoankokuji_11こちらは、釈迦堂の前にある石造地蔵菩薩坐像(重要美術品)。元徳2年(1330)のものです。


■広島県福山市

2009.05.07

鞆の浦(5) 小松寺・小烏神社

TomokomatsujiTomokomatsuji_1沼名前神社の隣にある小松寺(こまつじ)。寺伝によると、安元元年(1175)に、「小松殿」平重盛(清盛の嫡男)が厳島参詣の途次に鞆の浦に立ち寄り、随身の阿弥陀仏像を安置して寺院を建立して松の木の植えたと言われています。その寺が小松寺とされています。

その後寿永2年(1183)には、重盛の二男・資盛の命によって平貞能が重盛の遺髪を持参し、供養の法会を営んだとも伝わっているそうです。

Tomokomatsuji_3_2その際、重盛供養の五輪塔が建立されたともされていますが、それがこの五輪塔です。

建武2年(1335)には足利尊氏が鞆の浦に滞在した折、ここに陣を構え弟の直義と軍議を開いたとか。暦応2年(1339)に南北朝の争乱によって焼亡。大永年間(16世紀前半)に復興し、禅宗寺院となりました。
その後も足利義昭が宿所としたそうで、「足利は小松に興り小松に亡ぶ」と言う人もいるとか。もっとも、この文言、「小松」を「鞆」に置き換えた言葉の方が有名ですが。

Tomokomatsuji_5ともあれ今では小さな寺院ですが、中世においては鞆の浦における主要な寺院だったようで、かつてはかなりの規模を誇ったのではないかと思います。
近世に入ると境内の多くが隣の祇園社に割かれてしまったそうで。18世紀後半には、鞆の浦で死去した琉球使節がここに葬られ、慰霊碑もあります(…というか、見落としました(笑))。

写真は本堂前にある、有髪の石仏。有髪なのは結構珍しいようです。


Tomokogarasu_1こちらはほど近くにある小烏(こがらす)神社。鍛冶の氏神ということで、鞆の浦に居住する刀鍛冶の信仰を集めたそうです。

この境内は貞和5年(1349)の足利直冬と幕府軍との戦闘の場になったとされており、「小烏の森古戦場」の名もあります。ただ、今は「森」は見られず、わりと一般的な街中のお社といった風情でした。

■広島県福山市

2009.05.06

鞆の浦(4) 沼名前神社

Tomonunakuma_1鞆の浦では一番大きい神社の沼名前(ぬなくま)神社
元は祇園宮とか祇園社と呼ばれていた神社で、中世までは鞆の別の所にありましたが、火災などによって慶長期に現在地に移転したと言われています。

沼名前神社という名は式内社として確認されていますが、中世段階では所在が不明となり、近世の考証によって祇園社境内の「渡守(わたす)社」に比定されました。維新後、祇園社と渡守社が合祀され、改めて沼名前神社となって現在に至っています。

Tomonunakuma_10Tomonunakuma_11境内の風景。左写真のうち、奥に見える大きめの社が渡守社です。
右写真の奥が本殿。
この祇園社は、京都の祇園社(現八坂神社)よりも先んじており、ここから京都へ遷宮したと言われているようです。確かに京都の祇園社は『延喜式』にも名が見られず、創建年代は驚くほど古いわけではないようですが、果たして実際のところはどうなのでしょう?

Tomonunakuma_2Tomonunakuma_5左写真の石鳥居は寛永2年(1625)築。福山藩主の水野勝重(勝俊)の寄進によると言われています。
右写真の随神門は享保20年(1735)築だそうです。

Tomonunakuma_12メインはこれ。境内にある能舞台(重要文化財)です。
この能舞台はかつて伏見城にあったもので、水野勝成が徳川秀忠から譲り受けたと伝わっています。後に水野勝貞が祇園社へ寄進し、元文3年(1738)に現在の場所へ移築されました。
現地看板によると、「この能舞台は、それぞれの材料に番号や符号をつけた組立式で、戦場にも持ち運べるようになっています。正面の鏡板には松と竹を描き、桃山時代の能舞台の特徴を持つ貴重なもの」だそうです。

しかし、残念ながらご覧のように閉まっていて舞台は見られませんでした。
今でも使用されているのでしょうか。

■広島県福山市

2009.05.05

まったく変わってない歴史番組

山本博文監修『こんなに変わった歴史教科書』(東京書籍、2008年)を、執筆者のIさんより受贈。ありがとうございます。

たぶん高校生向けかなといった内容ですが、教養の授業のネタ元としても重宝しそうです(特に専門としない時代は)。
某サイトでは随分辛辣なコメントが付いてますが、コンセプトを考えれば少々酷な批判のような気も…。
ただし個人的には、室町期が無いのはちと残念というか(笑)。

4487802989こんなに変わった歴史教科書
山本 博文監修
東京書籍 2008-12-06

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全時代を通した特徴的なエピソードが短編として書かれていますが、そのうちの一つで、長谷川等伯が描いたいわゆる「武田信玄像」(高野山所蔵)の件に目が留まりました。

この画像を巡っては、先日NHK「歴史秘話ヒストリア」で取り上げられていました。見ていた時は気がつかなかったのですが、後に酒席で内容を話したら、「それ畠山を描いたというやつですよね」と言われて、ああそうだ、と。
上記の書籍では、この画像が能登畠山氏を描いたものであるとする研究についてや、武田勝頼が高野山に奉納した信玄像は別にあることが指摘されていることなども触れられています。

くだんの番組では、能登出身である等伯と畠山氏との関係については触れられていましたが、この画像が畠山氏を描いたものである可能性が指摘されていることについては、一切触れられていませんでした(出演された研究者の方は、信玄説を採っておられるようです)。後で気づいておいてなんですが(笑)、これは実に不誠実な制作姿勢ではないですかねえ?

むろんあくまでも信玄を描いたとする立場を取ることは構わないのですが、それに対する批判があることについては、黙殺するのではなくて、少しでも触れておくべきのように思います。ましてやNHKの全国放送なわけですし、学術雑誌に載った一本の論文とは比べものにならないくらい影響力は大きいのです(笑)。
番組HPの参考文献を見たら、畠山説を主張した方の文献がありませんね…。まさか知らなかったってことはないと思うんですが。

ま、こういうことはよくあることではありますが、一々苦言を呈しておいた方がいいかな、と。
じゃないといつまでも変わらないですから(書いても変わらないだろうけど(笑))。

2009.05.04

鞆の浦(3) 医王寺

Tomoioji_1Tomoioji_2港の背後の山腹にある医王寺。ややきつい坂を5分ほど登るとあります。
空海の開基とされる真言宗の寺院。本尊は室町期のものとされる木造薬師如来像です。
慶長期に福島正則の意向によって、鞆城代の大崎玄蕃が再興したそうです。

Tomoioji_5Tomoioji_9左写真が本堂。貞享2年(1685)に、福山藩主の水野勝種によって再建されたものと伝わっているそうです。
右写真に見える鐘楼は、これより遡って寛永20年(1642)に、水野勝成が建立したものです。
宝篋印塔は、享保7年(1722)の銘がありました。

19世紀には、シーボルトが植物観察のために訪れたことがあるそうです。また、医王寺のすぐ下には、平賀源内生祠と呼ばれる石塔があります(写真は撮らず)。彼も、鞆の浦に滞在したことがあったそうです。ただ、石塔自体は幕末の建立のようで。

Tomoioji_4ここのお寺は、歴史的なものよりも、眺望の良い所として知られています。本堂のある所からさらに登るともっと良い景色が望めるようでしたが、疲れていたのと(笑)、日が暮れそうだったので、断念。
本堂の辺りからは、写真のような景色が見られます。右の湾が鞆の港。右端に見える高台が大可島城跡。左側に見える、木が目立つ高台が鞆城跡。正面奥の大きな島は仙酔島です。

■広島県福山市

2009.05.03

「山本菅助」宛の信玄書状

群馬県で発見されたそうです。山梨日日新聞社の記事で知りました。
記事はこちら

そのうちの一通で、写真が出ている文書をまた性懲りもなく読んでみました(批判歓迎)。ただ、写真が小さくて少々辛い…(私の読解能力にも問題はありますが(笑))。ちなみに写真はこちらが比較的見やすいです。


昨日極楽寺差越候砌、
具ニ申越候哉、仍探上(ヵ)
下候義、審ニ調談可然候、
次ニ小山田腫物相煩、雖
極難義候、彼人之事ハ
当州宿老ニ而、誰
程如何之憚入候、以上具
滞(ヵ)留罷越候、腫物之
様躰可見届候、殊更
彼是司(伺ヵ)所も候間、必之
可罷越候也、謹言、
 卯月廿日  晴信(花押)
          山本菅助との

(※追記)
1行目 下から2字目に「候」追加
2行目 「哉」←「義」変更
2行目 「仍」←「以」変更
3行目 「審」←「番」変更
8行目 「滞(ヵ)」←「御」変更
11行目 「罷」←「届」変更
(※追記2)
5・8行目 「腫」←「権」変更

後半部分で、「小山田権物」が臥せっているので、見舞に行って様子を報告するよう、武田晴信が山本菅助に命令しているように読めます。

「小山田権(監ヵ)物」は、記事によると、天文19年(1550)9月の「砥石崩れ」で傷を負って天文21年1月に死去した出羽守信有に比定されているようです。子どもの弥三郎信有(永禄8年[1565]没)だと、「晴信」の署判とは年代が合わないからでしょうね(永禄初年頃には既に出家して「信玄」を名乗っていたらしい)。となると、この文書の発給年代は天文20年となるのでしょうか。

真贋については、私は詳しいことはわからないので適当なことは言えませんが、墨継ぎがやや不自然かな?という箇所はあるものの、まあ大丈夫なのかなぁ、と。一つ気になったというか興味深いのは、武田家中で「宿老」という文言がほかの史料で使用されているのでしょうか?

今回発見された文書を巡ってこれからどういう議論になるのか、楽しみです。

(2009/6/10追記)
「権」の字は「腫」が正しいようなので、「権物」とした解釈は撤回します。

2009.05.02

鞆の浦(2) 大可島城跡

Taigashimajo_1Taigashimajo_7対潮楼から道路を隔てて反対側の、海に突き出た高台にある円福寺。現在は陸続きですが、ここはかつて大可島(たいがしま)と呼ばれた島で、城が築かれていました。
鞆の浦の湾口に当たり、見張り台のような役目を持っていたのでしょうか。

築城時期は定かではありませんが、南北朝期にはすでにあり、合戦の舞台ともなっています。
室町幕府成立後は南朝方の海賊衆(「水軍」)の拠点となり、伊予や周防大島(屋代島)を本拠としていた桑原氏が拠っていました。

Taigashimajo_4康永元年(1342)に北朝方の幕府軍が攻め寄せ、桑原氏らの勢力は全滅したとされています。写真は、その桑原氏の墓とされる五輪塔です。
南朝方に翳りが見え始めた頃、貞和5年(正平4年、1349)に長門探題として下ってきた足利直冬がここに拠点を据えたものの、幕府と対立したため高師直の攻撃を受けました。(直冬はその後九州へ逃れます。)

その後は備後の海賊衆である因島村上氏が支配し、同時に周辺海域の制海権を握っていたようです。
足利義昭が鞆の浦へ逃れた際には、城主は「毛利水軍」の一角を担っていた村上亮康(すけやす)だったと言われています。

Taigashimajo_6Tomo_7左写真は城跡からの眺め。
右写真は、遠景です。

後に福島正則が鞆城の築城に乗り出した際に陸続きになったそうで、この時廃城となりました。

■広島県福山市

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