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2009.05.03

「山本菅助」宛の信玄書状

群馬県で発見されたそうです。山梨日日新聞社の記事で知りました。
記事はこちら

そのうちの一通で、写真が出ている文書をまた性懲りもなく読んでみました(批判歓迎)。ただ、写真が小さくて少々辛い…(私の読解能力にも問題はありますが(笑))。ちなみに写真はこちらが比較的見やすいです。


昨日極楽寺差越候砌、
具ニ申越候哉、仍探上(ヵ)
下候義、審ニ調談可然候、
次ニ小山田腫物相煩、雖
極難義候、彼人之事ハ
当州宿老ニ而、誰
程如何之憚入候、以上具
滞(ヵ)留罷越候、腫物之
様躰可見届候、殊更
彼是司(伺ヵ)所も候間、必之
可罷越候也、謹言、
 卯月廿日  晴信(花押)
          山本菅助との

(※追記)
1行目 下から2字目に「候」追加
2行目 「哉」←「義」変更
2行目 「仍」←「以」変更
3行目 「審」←「番」変更
8行目 「滞(ヵ)」←「御」変更
11行目 「罷」←「届」変更
(※追記2)
5・8行目 「腫」←「権」変更

後半部分で、「小山田権物」が臥せっているので、見舞に行って様子を報告するよう、武田晴信が山本菅助に命令しているように読めます。

「小山田権(監ヵ)物」は、記事によると、天文19年(1550)9月の「砥石崩れ」で傷を負って天文21年1月に死去した出羽守信有に比定されているようです。子どもの弥三郎信有(永禄8年[1565]没)だと、「晴信」の署判とは年代が合わないからでしょうね(永禄初年頃には既に出家して「信玄」を名乗っていたらしい)。となると、この文書の発給年代は天文20年となるのでしょうか。

真贋については、私は詳しいことはわからないので適当なことは言えませんが、墨継ぎがやや不自然かな?という箇所はあるものの、まあ大丈夫なのかなぁ、と。一つ気になったというか興味深いのは、武田家中で「宿老」という文言がほかの史料で使用されているのでしょうか?

今回発見された文書を巡ってこれからどういう議論になるのか、楽しみです。

(2009/6/10追記)
「権」の字は「腫」が正しいようなので、「権物」とした解釈は撤回します。

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