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2009年6月

2009.06.30

尾道(6) 持光寺

Onomichijikoji_2Onomichijikoji_3JR尾道駅からほど近い持光寺です。

寺伝によると、淳和年間(9世紀半ば)に最澄の弟子の持光上人によって建立されたと言われています。はじめは天台宗寺院で、天禅寺という名でした。
仁平3年(1153)の「絹本着色普賢延命菩薩像」(国宝)を所蔵しています。この画像は、近衛院の息災祈願のために作成されたとのことだそうです。

その後は一度衰微したのでしょうか。永徳2年(1382)に善空頓了上人という人によって再興され、この時から浄土宗となり、持光寺の名になりました(ただし両者の寺院にそもそも関係があるかどうかは、見解の分かれる所のようです)。

Onomichijikoji_5お目当てはこの石塔。室町期の「国東(くにさき)塔」と呼ばれる形式のものです。名前の通り、現在の大分県国東半島を中心に分布する石塔で、現存するものは9割以上が国東半島に分布しており、他地域では極めて珍しいです。

国東半島からやってきた人(商人?)が尾道で葬られたのでしょうか。中世の瀬戸内海流通と関わって、いろんな想像を掻き立ててくれます。

■広島県尾道市

2009.06.29

リフレッシュ出張

昨日は大阪歴史学会大会に出席しました。

今年は中世が合計4本もあるという豪華な構成。いずれも手堅いご報告で、勉強になりました。
直接私の関心と被っていたわけではありませんが、いろいろと考えさせられました。

ひとつだけ欲を言うならば、手堅さゆえに感じたのですが、大きな話というか、大上段に構えるような方向の議論を一言二言ほど聞いてみたかったなあ、という気も(いわゆる「空中戦」とでも言うか)。
もっとも、じゃあお前はできるのかと言われたら、かなり心許ないのですが(笑)。

でしゃばって質問してしまいましたが、時間の浪費でしたね…。すみませんでした。

最近、なかなか研究に没頭できないでいたので、かえってリフレッシュする機会になった感がします。停滞気味な自分に活を入れたいと思います。

2009.06.26

尾道(5) 天寧寺

Onomichitenneiji_6次は千光寺から降りていったところにある天寧寺。

貞治6年(1367)に、尾道の万代道円居士という人の発願によって、相国寺や天竜寺などの住持で、幕府の僧録になった春屋妙葩(しゅんおくみょうは、普明国師)を開山として建立されました。はじめは臨済宗寺院で、十刹にも数えられた名刹です。現在は曹洞宗になっているそうです。

康応元年(1389)には、足利義満が厳島参詣の途次に天寧寺に立ち寄っています。その時の記録によると、

「いまだ朝のほどに備後国尾道につかせ給ぬ。御座は天寧寺とて天竜寺の末寺なり。海中までうき橋かけて御道とせり。なにとなくめづらしかりき」(『鹿苑院殿厳島詣記』)

とあります。天竜寺の末寺だったようです。

また『老松堂日本行録』には「禅寺の大刹なり。津頭には人居地を撲(つく)し、山上には僧舎羅絡せり。」とあるほか、「傑閣なり天寧寺。江に臨みて塔は幾層なる。門前に喧価(値段の掛け合い)の客。堂上に定禅の僧」云々とあります。門前には賑やかな町場が形成されており、おそらく室町期の尾道の中心地であったと考えられます。

OnomichitenneijiOnomichitenneiji_2こちらは、上記史料にも登場する三重塔(重要文化財)。
嘉慶2年(1388)に、「道慶居士」という人によって建立されました。寺院を開いた「道円居士」同様、商人(有徳人)なのでしょうか。
実は、元は五重塔だったようです。和様を基調に禅宗様を取り入れたもの。元禄5年(1692)に修理した際(落雷によるか)、上の二層が撤去されて三重塔になったそうです。

季節柄、本堂の前にはきれいな花が咲いてました(枝垂れ桜だったっけ? よく覚えてません(笑))。これを目当てに観光客の方がたくさん来ていました。
現在では、かつての境内と思しき場所には家々が立ち並んでいて、一見すると本堂と三重塔は別々の所に建っているようにも感じられます。室町幕府の衰微に殉じたということになるのでしょうか。

■広島県尾道市

2009.06.25

尾道(4) 千光寺

Onomichisenkoji_7Onomichisenkoji_10たぶん尾道で今は一番有名な寺院である千光寺
寺伝によると、大同元年(806)に空海を開基として創建したとされ、後に源(多田)満仲の中興とされています。本堂は「玉の岩」と呼ばれる巨岩の上に建っているそうです。

左写真の本堂は、貞享3年(1688)築。この地方では珍しい舞台造りで、堂内の須弥壇は応永~永享頃(15世紀前半)のものとされています(写真撮れそうだったんですが、遠慮しておきました)。

尾道の背後にある山(千光寺山)のほぼ頂上部に位置し、眺めは抜群。そのため、多くの観光客が訪れていました。尾道観光では必ず組み込まれるスポットなんでしょうねえ。
中世の来歴はよくわかりませんが、立地からみても、やはり修験の道場だったと考えられています。また、千光寺山には戦国期に杉原氏が拠点を築いたとも言われています。

Onomichisenkoji_13Onomichisenkoji_15観光客のほとんどは見向きもしませんが(笑)、この寺院は石造物がなかなか見物です。本堂下を少し降りた所にある左写真の逆修塔は、天正17年(1589)2月の銘が確認されています。その隣には、右写真の磨崖仏もあります。尾道周辺では最も古い磨崖仏とされ、中世のものと思われます。

Onomichisenkoji_11これは、本堂裏側にある石塔。
積み方がややいい加減な気もしますが…(笑)、下の二つは宝篋印塔の一部で、鎌倉期のものとされているようです。
正しいかどうかはわかりませんが、それぞれ中世のものであることは間違いなさそうです。


Onomichisenkoji_8Onomichisenkoji_9こちらは本堂下にある逆修塔と磨崖仏。左側のものは、はっきりと天正17年2月の銘と、「逆修」の字が読み取れました。上の磨崖仏と同時に造られたものでしょうね。
右写真は、年代はわかりませんが、これも同時期のものなのかもしれません。

いずれも素朴な造りという印象ですが、尾道の中世における仏教信仰の様相を窺える貴重な資料といえそうですね。

■広島県尾道市

2009.06.23

「長命寺文書」の織田信忠書状案

またもや懲りずに、こちらにある写真から起こしてみました。
目が疲れる…。


態申候、仍煩ニ而色々肝
煎入、祝着候、随而近江
長命寺之儀、岡崎より
申越候、此方へも従前
承(?)候而、坊中共ニ無相違
様ニ肝煎入、柴田方へも
可申候、恐々謹言、
  霜月廿九日
(端裏)「五郎左衛門尉との  寄妙」 

(※追記:端裏、「奇」→「寄」に変更)

いつ頃のものかはわかりませんが、天正初年頃なんでしょうかねえ?
「岡崎」は家康のことだと思うのですが、どういう関係になるんでしょうか。
私はあまり詳しくないのでわからないことだらけです。ご教示いただければ幸いです。

2009.06.22

尾道(3) 西国寺

Onomichisaikokuji_1Onomichisaikokuji_8高台というか、尾道の背後の山の山腹あたりにある西国寺(さいこくじ)。寺伝では、行基の開基と伝わっています。
治暦2年(1066)に火災があって伽藍が焼失した後、住持の慶鑁(けいばん)が白河院を頼って復興が果たされたとされています。西国でも最大規模の伽藍を誇ったとか。

その後衰微した上に14世紀後半にはまた火災に遭ったようですが、備後守護山名氏の保護を受けて再興。再び伽藍を構えています。
左写真の仁王門は安土桃山時代のものとされています。毛利氏あるいは水野氏が再建に関わったのでしょうか。大きな草履が有名です。

Onomichisaikokujiこちらは金堂(重要文化財)。
至徳3年(1386)築。和様を基調にした折衷様式。現地看板によると、「入母屋造の妻飾は二重梁大瓶束で屋根に重量感をもたせ、規模も壮大で手法上も全体より受ける感じは和様の風格が濃厚な堂々とした建物である」そうです。

Onomichisaikokuji_11Onomichisaikokuji_14左写真は、境内の一番高い所にある三重塔(重要文化財)。麓からも見え、このお寺のシンボルのような存在です。
永享元年(1429)築。将軍足利義教によって建立されたそうです。わりとどっしりとした外観でした。

右写真は、三重塔から少し下りたところにあった墓所の片隅に置かれた古い石造物たち。近世のものがほとんどだと思いますが、中世のものもあるかも?

■広島県尾道市

2009.06.18

「長命寺文書」展覧会のお知らせ

標記のお知らせが私のもとに届きました。滋賀県立安土城考古博物館で展示されるそうです。

かつては琵琶湖に浮かぶ島だった地にあった長命寺が所蔵する文書で、中世文書も多く含まれています。
たぶん活字化されているのは一部ではないかと思うのですが(私は未確認ですが、最近出た『戦国遺文』の六角氏編で、新たに関連文書が翻刻されているのでしょうか?)、それだけに、生で見られるのは貴重な機会です。

以下頂戴したメールより。

…(ここから)
当館に寄託され昨年7月に滋賀県指定文化財になった滋賀県近江八幡市の長命寺文書ですが、承保元年(1074)の寄進状を最古に、中世文書303通を含む膨大な史料群でありますが、これまでなかなか公開されることがありませんでした。
今週明け9日より、7月20日まで、当館の第2常設展示室の7m程のケースを用い、テーマ展「新指定 長命寺文書展」を開催しています。
長命寺文書のうち当館のテーマである佐々木六角氏と信長を中心に資料を選定して12点を展示しております。
(内容は下記参照)
ご興味のある方は、ぜひご来館下さい。
(後略)
…(ここまで)
→展示の詳しい案内はこちら

うーむ、是非見に行きたいところですが、時期的に厳しそうです…。
どなたか行かれたら、是非ともご感想を伺いたいところです。全点翻刻したりするような動きはあったりするんでしょうかねえ?

2009.06.15

尾道(2) 西郷寺

Saigoji_4浄土寺からはほど近い西郷寺(さいごうじ)。元は「西江寺」と呼ばれた時宗寺院です。

尾道には時宗寺院が数多く今に伝わっているそうですが、一遍の熱心な布教や、流通拠点という性格によるのでしょうか。この西郷寺は正慶年間(鎌倉幕府滅亡直前の頃)に遊行六代・一鎮(いっちん)の開山とされています。

写真の山門(重要文化財)は、貞治年間(1360年代)あるいは応永2年(1395)に「大一房住持」の発願によって建立されたものと伝わっています。「大一房」は、備後相方(さがた)城(現広島県福山市[旧新市町])の城主(有地[ありち]氏か)の夫人という説もあるそうです。様式は室町期に特徴的なものなのだとか。

SaigojiSaigoji_2左写真は本堂(重要文化財)。
文和2年(1353)に2代住持の託阿の発願によるものと伝わっています。現地看板によると、「柱上に舟肘木(ふなひじき)を置くだけの簡素な形式であるが、建物内陣を外陣がめぐり時宗最古式の本堂として貴重である」そうです。戦後に解体修理がされていて、かなり補修が入っているようです。「鳴き竜天井」があるそうですが、中には入れず。

山門の片隅に、右写真の石造物がありました。いつの時代のものかはわかりませんが、結構古そう?

■広島県尾道市

2009.06.11

尾道(1) 浄土寺

Onomichijodoji_1Onomichijodoji_2いきなりメインですが、尾道の市街地の東側に位置する浄土寺。
聖徳太子建立という伝承もありますが、創建の経緯はよくわかっていません。確実に存在が確認できるのは鎌倉後期で、叡尊の弟子である定証が嘉元4年(1306)に再興した真言律宗の寺院です。正中2年(1325)に火災に遭い、その後まもなく復興。その頃の建築物が今に伝わっています。

右写真は山門(重要文化財)。室町初期(南北朝期)以前の築とされています。二つ引両の紋がある通り、足利氏との関係が窺えます。足利尊氏が寄進したものと考えられています。

Onomichijodoji_16Onomichijodoji_6左写真は本堂(国宝)。嘉暦2年(1327)に尾道の人である道蓮・道性夫妻の発願によって建立されたものです。建築手法は和様を基本に、天竺様も取り入れられたものだそうです。同様の他例よりもかなり時期の早い様式で、技術の先進性を窺わせます。本尊は木造十一面観音立像(重要文化財)。中も拝観できますが、今回はパス。

右写真は多宝塔(国宝)。こちらは嘉暦3年(1328)築。鎌倉期のものと明確にわかる多宝塔は全国的にも極めて珍しく、貴重なものです。南北朝期には、足利尊氏がこの多宝塔を備後国の利生塔としたそうです。

Onomichijodoji_5こちらは阿弥陀堂(重要文化財)。康永4年(1345)築。
この建物を見てすぐに思い出したのが、播磨の浄土寺(兵庫県小野市)の浄土堂。播磨の方が古くて国宝になっていますが、建築様式はほとんど同じのように見受けました。同じ「浄土寺」の名ということもあるのでしょうか。播磨の方は中に入ることができたのですが、こちらは中には入れないようでした(多分)。

Onomichijodoji_7Onomichijodoji_11建築物も見事なのですが、忘れてはならないのが石造物。左写真の宝篋印塔(重要文化財)は、伝足利尊氏墓。供養塔というべきでしょうか。南北朝期における中国地方の宝篋印塔の代表作といえるものだそうです。ほぼ完璧に現存していて貴重。
右側にある五輪塔は年代比定が確定していないようですが、やはり同時期のものとされており、足利直義の供養塔と伝わっているそうです。

右写真の宝篋印塔(重要文化財)は、貞和4年(1348)の刻銘があり(肉眼では確認できませんでした)、阿弥陀堂建立に合わせて造られたものなのかもしれません。沙弥行円ら4名の逆修塔であり、光孝の供養のために建立されたものだそうです。
右側のものは納経塔(重要文化財)。弘安元年(1278)の刻銘があるそうです(これも見えず)。現地看板によると、「定証上人による浄土寺再興前に同寺を修造した尾道の長老光阿弥陀仏のために、子息の光阿吉近が建てた供養塔と伝える」そうです。調査によって、「沙弥光阿弥陀」「孝子光阿吉近敬白 大工形部安光」などの銘が確認されているとのこと。

これらの人物の詳細についてはよくわかりませんが、地元の人々の尊崇を受けていたことがよくわかります。なお、この浄土寺は応永27年(1420)に朝鮮通信使の宋希璟も訪れており、「禅の大刹」としています。実は禅寺ではないのですが…。

このほか近世に造られた庭園や庵の「露滴庵」(重要文化財)もあるのですが、現在修理中でした。
訪問時には意外と観光客は少なかったですが、尾道では是非物のスポットですね。

■広島県尾道市

2009.06.10

黄金を学ぶ

Daizenji_4先日、山梨県立博物館の企画展「金GOLD 黄金の国ジパングと甲斐金山展」を見に行きました。

歴史に関する展示は手堅い感じ。悪く言えばありきたりかなあという気もしましたが、モノがモノだけに(笑)あまり実物を見られる機会はないので、いい機会になりました。
金の利用に関する化学的な説明が多く、こちらがかえって勉強になりました。

博物館の方から伺った話では、まとまった文書群として知られる「市河文書」を購入し、企画展の準備をされているとか。こちらも楽しみです。でも、来るのが大変なのが玉に瑕…。
先日話題にした「山本菅助」の文書の翻刻を掲載した研究紀要も発行されてました。ぱらぱら見てみましたが、私の翻刻とは多少違っているようですね…。興味のある方はご参照ください(所蔵図書館は少ないようですが…)。

その後、例によっていくつか史跡をまわりました。特に、これまで行きそびれていた大善寺(山梨県甲州市[旧勝沼町])に行けて満足。写真がその本堂(薬師堂、国宝)です。

着々とネタ集めをしておりますが(笑)、なかなか紹介が遅々として進まずで。ぼちぼちとやっていきたいと思います。

2009.06.08

中世の港町 尾道

Onomichisenkoji_1Onomichitenneiji_4さて、いよいよ尾道へ入ります。
今は尾道といえば、まずはラーメン、次は映画あたりでしょうか。そして著名な古刹をはじめ、実に寺の多い町です。寺が多いということは檀家がかつてたくさん居たということでもあり、かつての繁栄が偲ばれます。

尾道は、中世では瀬戸内海水運の要衝で、大規模な港湾都市として発展しました。研究的に有名なエピソードとしては、高野山領として知られる備後国大田荘(現広島県世羅町)の年貢積み出し港(「倉敷」)として、12世紀には港湾機能を有していたことで知られています。

いろんな有名人や外交使節もこの尾道に頻繁に滞在しています。南北朝期の武士として有名な今川了俊は、九州への南朝征伐へ向かう際、尾道について次のように書いています。

「ふもとにそひて家々所せくならびつゝ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入、うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひにしたがひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、はるかなるみちのくつくし路のふねもおほくたゆたひゐたるに、一夜のうきねする君どものゆきてはきぬるかこのうかびありくも、げにちいさき鳥にぞまがふめる。」(『道ゆきぶり』、応安4年[1371]ヵ)

「麓に沿って家々が所狭く並び、網を干すほどの庭もない。西より東を眺めると海が遠くまで見えて、朝夕の潮の干満も速い。風の強弱によって行き交う舟の帆影の変化する姿が趣深い。遥か陸奥から筑紫まで行き交う舟も多くたゆたう様子を見ると、一夜の浮き寝をする君たち(遊女か)の行きては来るこの浮き世も、(その儚さは)ほんの小さな鳥と見まがってしまうほどだ。」

遊女は誤訳かもしれませんが(笑)、ともあれ尾道の栄えた様子が窺えます。今も家々がひしめき合って立ち並んでいて、いかにも古い港町という風情。雰囲気そのものは当時とあまり変わっていないのかも。

Onomichisenkoji_12これが、千光寺山から東方向へ見たところです。見えている橋は、尾道大橋。右側は向島(むかいしま)です。橋を越えて右へ向かうと瀬戸内海に出ます(奥に見えているのは本州です)。

中世後期には寺院が建ち並び、さながら「宗教都市」の様相も持っていました。各地を往来する高僧が立ち寄っては、尾道の寺院で交流を深めていたようです。

Onomichisenkoji_2中世後期の支配関係をめぐる様子ははっきりとはわかっていないのですが、戦国末期になるとやはり毛利氏の影響を受けるようになりました。その後も重要な港湾都市としての地位は保ち続けましたが、近世になると御調(みつぎ)代官が配され、権益は東半分が福山藩、西半分が広島藩と分割されたようです。その後は町奉行が設置されて維新に至りました。さらに戦後にかけて港町として発展してゆきます。

というわけで、尾道でまわった寺を個別に紹介してゆきます。

■広島県尾道市

2009.06.06

拙著合評会

某チームの絶望的な弱さにより、最近は野球のことを考えずに済んでます。
忙しい時期なので、かえってよかったかも?


さて、光栄なことに拙著の合評会を開催していただきました。
錚々たる方々からたくさん批判を頂戴しました。これまで批判されることにあまり慣れていなかったので(いや、別に賞揚されてきたわけではありませんが(笑))、結構緊張してしまい、終わった後にはどっと疲れが出て抜け殻状態に。

元々自らの課題として自覚していた所は当然突っ込まれましたが、今まで気がついていなかった問題点やミスも丁寧にご指摘いただき、たいへん有り難かったです。この機会を糧として、前へ進んでゆきたいです。
このほかベトナムでの発掘銭調査の報告などもあり、とても興味深かったです。

最近は雑事に紛れていて悶々としていたのですが、充実した時を過ごすことができてよかったです。
その雑事もやっと一段落。これからしばらくは自分の時間が少し増えそうです。積ん読もなんとかしないとなあ…。
ブログもこの一ヶ月ほど放置気味だったのですが、多少はペースを上げられそうに思います。

2009.06.03

阿伏兎観音

AbutoAbuto_5鞆の浦から西へ向かうと、海べりにある磐台寺。臨済宗の寺院で、暦応年間(1340年頃)に覚叟建智が開いたとされています。
その後一度衰退したようですが、元亀年間(1570年代前半)に毛利輝元によって再興され、近世には福山藩主の水野氏、のちに阿部氏から保護を受けたそうです。

右写真は、毛利輝元によって再建されたと伝わっている客殿。

Abuto_3そしてメインは本堂でもあるこの阿伏兎(あぶと)観音堂(重要文化財)。断崖にそびえる庵です。

『老松堂日本行録』によれば、尾道から東へ向かい小島を眺めると「石壁の間に小庵」があり、ある人が「水月観音を安んじ、一僧常住す」と答えたと記されています。その小庵が、この観音堂に比定されています。
海から引き揚げられた十一面観音像を祀ったことから、観音堂と呼ばれています。
おそらく創建時からあったことがわかりますが、現在の建物は、やはり毛利輝元によって再建されたもののようです。

今は安産(あるいは子育ての安全?)祈願の祠となっていました。

■広島県福山市(旧沼隈町)

2009.06.01

地元へ帰って耳学問

先週末は研究会(+帰省)で神戸へ。

マスクをしている人はほとんど見かけませんでしたね。落ち着きを取り戻したといったところでしょうか。
まあ、熱しやすく冷めやすいとも言えますが…。
問題は今度の冬なんでしょうね。

新幹線は行き帰りガラガラでした。インフルエンザ問題の影響なのか、高速道路の影響なのかは判然としませんが(それともやっぱり不況のせい?)、旅行客が極端に少なかった感じ。


さて、研究会では主に幕末の貨幣流通のお話。貨幣とはいえ時代的にはまったくの門外漢なので、完全に耳学問に徹しました(笑)。それにしても、やはり激動の時代。政治だけじゃなくて、庶民経済においても相当な変化のあった様子が窺えて興味深かったです。今後の研究の進展に期待。

あと、日銀の貨幣博物館が展示のリニューアルを見据え、中世の貨幣を通史的に見直す企画展を計画中だそうです。
秋頃の予定なんでしょうか? 期待しています(って書くとプレッシャーかもしれんけど(笑))。

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