
さて、いよいよ尾道へ入ります。
今は尾道といえば、まずはラーメン、次は映画あたりでしょうか。そして著名な古刹をはじめ、実に寺の多い町です。寺が多いということは檀家がかつてたくさん居たということでもあり、かつての繁栄が偲ばれます。
尾道は、中世では瀬戸内海水運の要衝で、大規模な港湾都市として発展しました。研究的に有名なエピソードとしては、高野山領として知られる備後国大田荘(現広島県世羅町)の年貢積み出し港(「倉敷」)として、12世紀には港湾機能を有していたことで知られています。
いろんな有名人や外交使節もこの尾道に頻繁に滞在しています。南北朝期の武士として有名な今川了俊は、九州への南朝征伐へ向かう際、尾道について次のように書いています。
「ふもとにそひて家々所せくならびつゝ、あみほすほどの庭だにすくなし。西よりひんがしに入、うみとをく見えて、朝夕しほのみちひもいとはやりかなり。風のきをひにしたがひて、行くる舟のほかげもいとおもしろく、はるかなるみちのくつくし路のふねもおほくたゆたひゐたるに、一夜のうきねする君どものゆきてはきぬるかこのうかびありくも、げにちいさき鳥にぞまがふめる。」(『道ゆきぶり』、応安4年[1371]ヵ)
「麓に沿って家々が所狭く並び、網を干すほどの庭もない。西より東を眺めると海が遠くまで見えて、朝夕の潮の干満も速い。風の強弱によって行き交う舟の帆影の変化する姿が趣深い。遥か陸奥から筑紫まで行き交う舟も多くたゆたう様子を見ると、一夜の浮き寝をする君たち(遊女か)の行きては来るこの浮き世も、(その儚さは)ほんの小さな鳥と見まがってしまうほどだ。」
遊女は誤訳かもしれませんが(笑)、ともあれ尾道の栄えた様子が窺えます。今も家々がひしめき合って立ち並んでいて、いかにも古い港町という風情。雰囲気そのものは当時とあまり変わっていないのかも。
これが、千光寺山から東方向へ見たところです。見えている橋は、尾道大橋。右側は向島(むかいしま)です。橋を越えて右へ向かうと瀬戸内海に出ます(奥に見えているのは本州です)。
中世後期には寺院が建ち並び、さながら「宗教都市」の様相も持っていました。各地を往来する高僧が立ち寄っては、尾道の寺院で交流を深めていたようです。
中世後期の支配関係をめぐる様子ははっきりとはわかっていないのですが、戦国末期になるとやはり毛利氏の影響を受けるようになりました。その後も重要な港湾都市としての地位は保ち続けましたが、近世になると御調(みつぎ)代官が配され、権益は東半分が福山藩、西半分が広島藩と分割されたようです。その後は町奉行が設置されて維新に至りました。さらに戦後にかけて港町として発展してゆきます。
というわけで、尾道でまわった寺を個別に紹介してゆきます。
■広島県尾道市
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