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2009年7月

2009.07.29

秩父神社

Chichibujinja_3Chichibujinja秩父の中心部にある秩父神社です。
まあやっぱりここへは行っておかないと、ということで。

由緒によると、武蔵国設置以前にあったという「知知夫国」の国造である知知夫彦命が建立したと伝わっています。延喜式内社で、武蔵国四宮に指定されています。

中世になるとこの地域の武士団である秩父平氏が信仰した妙見信仰の影響を受けており、「秩父妙見宮」と呼ばれたようです。近代の神仏分離によって、秩父神社に復しました。

右写真の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康の寄進によって建立したものとされています。近世初期の様式のものとはされているようですが、かなり修理が入っているとは思います。

Chichibu2_2鳥居の前には古い商店街が立ち並んでいましたが、これがかつての参道だったのでしょうか。その中に、写真のような旧家がありました。
こちらは、秩父神社の宮司家である薗田家のお宅。写真の表門は天保年間(19世紀前半)に建てられたものとされ、登録有形文化財となっています。

■埼玉県秩父市

2009.07.28

秩父の板碑

先日は所用があって秩父に行ってきました。
そのついでに、秩父市内の板碑を見てきました。

大型のものを二つ見たのですが、どれも見つけるのに苦労しました…。地元の方に尋ねてやっと場所が特定できたのですが、ちゃんとした案内板があると有り難いです。

Chichibu1こちらは寺尾地区にある板碑。「光正寺青石塔婆」と呼ばれるもので、延慶3年(1310)の銘が刻まれています。
銘には「中村四郎時光」「長田次郎入道元■」「長田丹内右衛門入道」などの名が見えます。

中村氏は秩父郡大宮郷中村(現秩父市)を本拠とした、丹党の嫡流と言われる一族です。今に伝わる系譜によると、中村時光は時重の子で、兄の家時が嫡流を継いで上中村氏と称しています。また弟の時賢は下中村氏と称して、所領の播磨国宍粟郡三方西郷(現兵庫県宍粟市[旧波賀町])に下向したそうです。下中村氏は、播磨の国人領主として中世を生き抜いています。「中村文書」という家文書があるようですが、未確認(『兵庫県史』に入っているかも)。

一方の上中村氏は北条氏の御内人になったとされ、鎌倉幕府滅亡時には戦死者を出していますが、室町期には鎌倉府足利氏の被官となったようです。しかし上杉禅秀の乱で禅秀方に荷担して敗れて所領を失い、その後は今川氏の被官となりました。今川氏没落後は池田輝政の被官となり、そのまま近世に鳥取藩池田氏の家臣となったようです。

Chichibu2_3その中村氏の本拠とされる中村地区には、中村氏墓所とされる墓地があるようなんですが、これまた見つけられず。その近辺のお寺には、板碑がありました。さすが埼玉。
この近くの蕎麦屋さんで昼を食べた際に見つけました。

Chichibu2_5もう一つは、堀切地区にある板碑。「観■卯辛」の銘があり、観応2年(1351)のものと考えられています。途中で折れてしまったようで補強がしてありますが、高さが約2メートルあり、堂々としています。

銘からは供養対象となった人物ははっきりしませんが、由緒ある人物の供養塔として建てられたものと考えられています。

Chichibu2_8こちらは、その近くにある旧大田村高札場。わりと凝った装飾が施された、貴重なものだそうです。今ものどかな周辺の風景に合っていて、風情がありました(後ろのコンテナがやや残念ですが…)。

秩父といえば、長瀞にある日本最大の板碑(5メートルくらいある。こちら参照)が有名なんですが、さすがにそこまでは行けませんでした。秩父にはまだほかにも板碑はありますので、またいずれじっくり見て回りたいところです。でも、もうちょっと見つかりやすいようにしてほしいのですが…。

■埼玉県秩父市

2009.07.27

御調八幡宮

Mitsugihachiman_2Mitsugihachiman_4広島編もいよいよ最後。御調(みつぎ)八幡宮です。

神護景雲3年(769)に、和気清麻呂に連座する形で姉の和気広虫(法均尼)がこの地に配流となりました。広虫は所持していた円鏡に宇佐八幡大神を勧請して清麻呂の冤罪が晴れることを祈願したそうで、これをもってこの神社の創始とされています。
その後、宝亀8年(777)に藤原百川が社殿を造営したことにより、この時が創建となっています。
右写真は楼門(現地看板では「桜門」となっていましたが、そう呼ばれているわけではないですよね?)。

Mitsugihachiman_5Mitsugihachiman_6左写真は拝殿。右写真は、拝殿の横にあった神庫。茅葺きが立派ですが、いつ建てられたものかはわかりません。

石清水八幡宮創建後は末社となったようで、中世では「御調別宮」と呼ばれていたそうです。元暦元年(1184)の源頼朝の再建、その直後に土肥実平による修理、観応年間に足利尊氏の造営、といった話が伝わっています。まあ、真否については語らず。
中世の建築物は遺っておらず、ほとんどが近世に広島藩浅野氏によって再建されたものだそうです。
なお、中世の狛犬一対(重要文化財)や、中世の行道面(重要文化財)、嘉禎年間(1230年代)の経典の版木(重要文化財)など、中世に造られた宝物を所蔵していますが、やはり拝観は叶わず。

Mitsugihachiman_1Mitsugihachiman_9境内の風景。今は桜や紅葉の名所として知られているそうです。右写真は、たぶん和気神社。和気清麻呂や広虫を祀ったのでしょうか。

■広島県三原市

2009.07.24

仏通寺

ButtsujiButtsuji_2次は、旧沼田荘地域から北東方向の山奥にある仏通寺。応永4年(1397)に、小早川春平が建立しました。
開山は愚中周及。彼は夢窓疎石の弟子で、康永2年(1343)に、「天竜寺船」に乗船して中国へ渡った経験を持っています。「愚中派」と称する法流も創立しました。
渡唐の際に師と仰いだ即休契了が「仏通禅師」と呼ばれていたことにより、この名を取って仏通寺と名付けたそうです。

仏通寺は沼田小早川氏の庇護を得てこの地域の有力な禅宗寺院になりましたが、応仁の乱以後は小早川氏とともに衰微。近代になって再び隆盛したようです。今は紅葉の名所になっています。


Buttsuji_4Buttsuji_5左写真は、山門をくぐると見える法堂。右写真は大方丈。本堂に当たります。

境内は広く、威容を誇っています。ただ、私が訪れた時は閑散としていたので、かえって寂しい感じでしたが。


Buttsuji_13Buttsuji_15左写真は少し離れた所にある含暉院(がんきいん)地蔵堂(重要文化財)。唯一残る創建当時の建物で、応永13年(1406)築。様式は折衷様。中には唐様の須弥壇もあります。
右写真は、その傍らの石造物。中世のもののようですが。

地蔵堂の隣にある開山堂には、室町期の半跏思惟像のほかに、同時期のものと思われる石造宝篋印塔(重要美術品)が安置されています。残念ながら非公開のようで、いずれも見られず。
さらにこの一角には多宝塔もありますが、新しい(近世以降?)ようでした。

■広島県三原市

2009.07.23

米山寺

BeisanjiBeisanji_1竹原の次は、沼田小早川氏の史跡を。…と行きたかったのですが、時間がなくてほとんど見られませんでした。

数少ない訪問先のうち、こちらは米山寺(べいさんじ)。はじめは天台寺院(現在は曹洞宗)で、仁平3年(1153)に建立されたと言われています。嘉禎元年(1235)に小早川茂平が境内に不断念仏堂を建立したことにより、以後は沼田小早川氏の菩提寺となりました。
小早川隆景の養子となった秀秋が若くして死去したことにより小早川氏が断絶したため、一時衰微したそうですが、17世紀末頃に復興。以後は毛利氏の援助を受けたとされています。絹本着色小早川隆景像(重要文化財)を所蔵。隆景像としてはたぶん最も有名なものですね。

Beisanji_8Beisanji_7こちらのメインは、沼田小早川氏墓所。中世宝篋印塔が整然と並び、圧巻です。
そのうち、右写真の宝篋印塔(重要文化財)は、元応元年(1319)に造られたものです。保存状態も良く、鎌倉末期の宝篋印塔として全国的にも貴重なものです。「大工念心 元応元年己未十一月日 一結衆敬白」の銘が確認されています。

Beisanji_9Beisanji_11左写真は、小早川隆景の墓とされる宝篋印塔です。隆景については詳しいことは省略。慶長2年(1597)に、隠居していた三原で死去しました。

右写真は、安芸小早川氏の祖である土肥実平の墓とされる宝篋印塔です。最も古いと思われるものなので、そのように比定されたのでしょうか。

実平は相模平氏の中村氏の一族で、相模国土肥郷(現神奈川県真鶴町・湯河原町)を本拠とする武士です。近隣の相模国早川(早河)荘(現神奈川県小田原市)の預所となっており、「小早川」の名字はここから取ったと言われています(実平自身は名乗っていません)。
実平は早くから源頼朝に味方して活躍しましたが、晩年は不詳。幕府成立後は子の遠平が惣領となっており、その嫡子・惟平は土肥郷を継承、養子の景平(平賀氏出身)が安芸国沼田荘地頭となり、西遷して土着しました。この景平の一流が小早川氏となります。

というわけで、実平自身は沼田とは縁はないと思われますが、まあ比定が正しいとすれば、供養塔と位置づけられるものでしょうか。

■広島県三原市

2009.07.22

日蝕で沸いてますが

そもそも太陽が全然見えませんでしたね(笑)。
私は、今日は一日フリー。やっと今年の歴研大会に関わる仕事を一段落付けることができました。
一年弱、いろんな勉強をさせていただきました。報告者をはじめ、サポートくださったみなさんに改めて感謝申し上げます。


さて、日蝕(日食)ですが、前近代でもちゃんと予想されていて、それに合わせて行事が組まれたりします。
もっとも行事といっても、日蝕は不吉なものという位置づけだったので、禁裏はまるごと布で覆ったりしたわけですけど…。
ちなみに、日蝕は旧暦では必ず1日に起きます(既にこちらで書いておられるので、完全に二番煎じですが(笑))。今日も旧暦では、6月1日です。
もちろんこれは偶然ではなくて、必然なわけですね。ま、これは旧暦(太陰暦)の性格を考えれば、納得できる話です(新月の日じゃないと日蝕は起きない)。

織田信長の死んだ前日の天正10年(1582)6月1日にも、日蝕があったことはよく知られていますね(禁裏の件も含めて、詳しくは上記リンク先の記事をご覧下さい)。あ、そうなると、明日は信長の命日ですね。別に特別な意識はありませんが(笑)。

2009.07.20

竹原 西方寺

Takeharasaihoji_1Takeharasaihoji_2竹原編の最後は、西方寺。小早川隆景の創建とされています。

元々は竹原の別の所にあり、現在地には妙法寺という寺院があったそうです。慶長7年(1602)に、火災の被害を受けたこともあって、この地に移転しました。現在は浄土宗。
右写真の本堂は、元禄15年(1702)築。

Takeharasaihoji_5Takeharasaihoji左写真の普明閣は、京都の清水寺を模したもので、18世紀半ばの築。竹原の町並みを一望できるスポットとして有名のようです(うっかり撮り忘れました(笑))。

普明閣の本尊は室町期のものとされる木造十一面観音立像ですが、今は収蔵庫で保管されているようで、拝観できませんでした。この観音像は、旧妙法寺の本尊だったと伝わっています。

右写真は参道の階段。映画「時をかける少女」の撮影に使われたそうです。私は映画を見ていないので、特に感慨はないのですが…。

■広島県竹原市

2009.07.16

竹原 照蓮寺・頼惟清旧宅

Takeharashorenji_3Takeharashorenjiこちらは照蓮寺。現在は浄土真宗ですが、中世は定林寺という禅宗寺院だったとされています。仏通寺末寺とされ、竹原小早川氏の学問所となっていたそうです。
『萩藩閥閲録』中に、康安元年(1361)の定林寺への寄進状があるそうで、また、天文2年(1533)竹原小早川興景書状もあるとか(典拠は未確認)。

織豊期には衰退しましたが、慶長8年(1603)に復興。この頃から真宗寺院となったようです。

この寺院には、高麗鐘(重要文化財)があるのですが、見られませんでした。大切に保管されているのか、あるいは写真の楼門の上にあるのかもしれません(外からはよく見えませんでした)。この鐘は「峻豊四年」の年号があり、西暦では963年に当たります。また銘には「伐昭大王」の名も見えるそうですが、この人物は高麗の第4代国王である光宗に比定されています。
来歴は不明な点も多いですが、小早川隆景が寄進したものとされており、朝鮮出兵の際に持ち帰ったものとか、交易によってもたらされたものとか、諸説あるそうです。

Takehara2こちらは、照蓮寺の近くにあった頼惟清(らい・ただすが)旧宅。安永4年(1775)頃の築。惟清は頼山陽の祖父に当たり、紺屋を営んでいたそうです。子の春水は広島藩の儒学者となり、その子が山陽に当たります。

■広島県竹原市

2009.07.13

竹原 長生寺

TakeharachoseijiTakeharachoseiji_2現在の竹原の市街地にある、小早川氏に関係する史跡を。
まずは長生寺(ちょうせいじ)。天正16年(1588)に、前年に死去した河野通直の菩提を弔うために小早川隆景が建立した寺院です。当初は禅宗寺院でしたが、近世に真言宗になりました。改宗は、四国八十八箇所(遍路)の整備との関係でしょうか。境内には、「ミニ八十八箇所」もあります。

Takeharachoseiji_3そしてこちらが、その河野通直の墓。なんか不思議な石積みですが…。

河野通直は、ご存じ古代以来の伊予の領主で、室町期には伊予守護となった一族の、最後の当主です。
河野氏歴代には「通直」が三人いるため、区別するためこの通直は幼名の「牛福」で呼ばれています。

河野氏は系譜が錯綜していてはっきりしない所もあるのですが、牛福通直は、惣領家の分家である河野通吉の子とされています。分家の予州家から当主となった河野通宣に子がなかったため、永禄11年(1568)に養子となって家督を相続しました。
この頃の河野氏は対立する周辺勢力との争いで弱体化していた上に、土佐の長宗我部氏に圧倒されつつあったわけですが、姻戚関係を通じて毛利氏と結んで、勢力を維持していました。特に小早川隆景の庇護を受けていましたが、結果的には反豊臣の長宗我部氏に靡き、西国征伐に繰り出していた豊臣秀吉と対立するに至ります。

といっても、勝ち目はないわけで…。小早川隆景の説得に応じて、天正13年(1585)に豊臣方に降伏。伊予国は隆景に与えられ、河野通直は所領を失いました。この時点で事実上河野氏は滅亡しましたが、さらに隆景が九州へ移封となると、通直は伊予からこの竹原への移住を余儀なくされたと言われています。その直後、天正15年(1587)に竹原で死去。24歳だったとされています。

河野氏は姻戚関係にあった毛利氏家臣の宍戸氏から河野通軌(みちのり)が養子として入りましたが、復興することなく没落してゆきました(毛利氏の家臣となったか)。
ちなみに、こちらの方が詳しいので興味のある方はどうぞ。

昔から一度はここへ来てみたいと思っていましたが、やっと実現しました。でも、このお墓はちょっとかわいそうな気も…。

Takeharasaihoji_7このように長生寺もある一角では昔の町並みが保存されていて、「安芸の小京都」とも称しているそうです。私が行った時は平日なこともあって人影はまばらでしたが、かえって静かな雰囲気に風情を感じることができました。

■広島県竹原市

2009.07.09

中世社会像の現在

木村茂光『日本中世の歴史1・中世社会の成り立ち』(吉川弘文館、2009年)読了。読み終えてからしばらく経っていますが、中世史に特化したシリーズの刊行ということで、やはり触れておくべきかなと。

このシリーズが刊行されると聞いて、まず浮かんだのはやはり、中央公論新社が出した「日本の中世」のシリーズ。とりわけ総論的な位置づけにある、石井進『日本の中世1・中世のかたち』(中央公論新社、2002年)をどのようにして乗り越えるのか、といったところへの期待です。

やはりその辺を意識されている様子が、「あとがき」で触れられているところから窺えました。また、石井さんの描いた中世像に違和感をお持ちであったことも書かれています。

どの点に違和感があったのか。はっきりとは書かれていないのでわかりづらいのですが、どうやら、中世の時代像の理解について、外在的な要因(対外関係=東アジア世界のダイナミズム)に大きく拠っているような叙述になっている点に批判の矛先がありそうです。それゆえか、対外関係に絡んだ叙述は、最後に控えめに登場する程度です。

一方、本書では、日本社会の持つ内在的な要因を重視する叙述を目指した、ということになりますでしょうか。この辺りは、村落の住民の動向に視点を置いた著者の叙述が面目躍如といったように思いました。とりわけ、中世前期における民衆運動については、私自身あまり詳しくないこともあって、とても読み応えがあります。

近年は特に中世史の研究状況は細密化していて、すべてを追うのが相当困難になっています。もちろん完璧とは言えないかもしれませんが、それらの最新の研究成果を積極的に取り込もうとする意欲も感じられて、中世史の「現在」を辿るためにも有益だと思います。

…まああんまり褒めすぎるとかえって胡散臭いので(笑)、この辺で。
細かいことを言うならば、所々あった基礎的なルビの誤りは気になりました。あと、城下町の叙述のところで、「安芸毛利氏の山口」(p.153)というのはいくらなんでも違和感があります(勘違いされたのでしょうか?)。
好評のようで増刷されるそうですが、この辺について修正されることを希望いたします。

464206401X中世社会の成り立ち (日本中世の歴史)
木村 茂光
吉川弘文館 2009-05-15

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2009.07.08

竹原小早川家墓所・手島屋敷・賀茂神社

Takeharakobayakawa_4Takeharakobayakawa_5木村城の麓にある関連史跡です。
まずは竹原小早川家墓所。中世の宝篋印塔と五輪塔が数多く並んでいます。
ほとんどが中世末期の様式だそうです。さらにここから登ったところに、隆景の養父となった小早川興景のものと推定されている宝篋印塔があったそうですが、見つけられませんでした(残念)。私有地のようだったので、怖じ気づいてあまり奥深く入れませんでした。

Takeharakobayakawa_6Takeharakobayakawa_9こちらは墓所のすぐ近くにある「手島屋敷」。
元は「西殿(にしんどん)屋敷」と呼ばれたそうで、竹原小早川氏の居館跡に推定されています。
小早川氏が竹原を去った後は、その被官だった手島氏がこの屋敷と居館を受け継いだと考えられています。
方形区画のいかにも中世武士の屋敷らしい雰囲気でしたが、今もお住まいの方がおられるようでしたので、中には入りませんでした。

Takeharakobayakawa_10Takeharakobayakawa_13こちらは、すこし離れた所にある賀茂神社。都宇・竹原荘は賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)領の荘園でしたので、鎮守として勧請されたものと思われます。

なお、位置関係についてや歴史的経緯については、こちらが詳しいです(横着してすみません)。

■広島県竹原市

2009.07.06

木村城跡

Kimurajo_25Kimurajo_17ここからは竹原小早川氏関連の史跡を。

小早川氏の歴史については有名ですので、なるべく手短に…。
鎌倉初期に小早川氏は安芸国沼田(ぬた)荘(現広島県三原市[旧本郷町])の地頭職として西遷・土着し、承久の乱の後に、惣領の小早川茂平は都宇(つう)・竹原荘の地頭職も与えられました。正嘉2年(1258)に、子の政景に都宇・竹原荘が分与され、以後この一流は竹原小早川氏と呼ばれます。
惣領家の沼田小早川氏は北条寄りだったとされる一方、竹原小早川氏は足利方に与するなどて対立。この頃から、竹原小早川氏は惣領家に対抗しうる家として確立していったようです。

こうして両者の関係も悪化し、応仁の乱の頃には、沼田小早川氏は細川方(東軍)、竹原小早川氏は大内方(西軍)に属して対立。その後も和睦しては対立しと紛争は収まらず、しかも戦国期になると当主の早世が相次ぎ弱体化してゆきました。天文10年(1541)に竹原小早川氏当主の小早川興景が死去すると、実子がなかったため、毛利元就の子の隆景が養子に迎えられて当主となりました。後に隆景は沼田小早川氏の家督も相続する形を取っています。隆景は小早川氏の家中に請われて当主となったとはいえ、伸張する毛利氏に抗しきれず事実上乗っ取られたということになるのでしょう。

やっぱり長くなってしまいましたが(笑)、さて本題の木村城跡です。竹原小早川氏が本拠とした城郭とされています。右写真が本丸です。それほど規模は大きくはなく、詰めの城というべき規模なのでしょう。実際に居館は麓にあったようです。

Kimurajo_6Kimurajo_9本丸は下段にあたる曲輪近辺。
遺構はわりとはっきりしていたのですが、いかんせん落ち葉が大量に積もっていて、写真にするとよくわかりませんね(笑)。

Kimurajo_13Kimurajo_18こちらは本丸下を廻る曲輪。
フェンスで囲われている所には井戸跡がありました。石積もちゃんと遺っていました。
右写真は本丸から見た下の段の曲輪。

Kimurajo_21Wagajinja_1左写真のように、一部何か建造物のあった痕跡がありました。現地看板によると「若宮社跡」とのことですが、これが中世にあったものなのか、後世に建てられたものなのかはわかりません。まあでもたぶんここは櫓かなにかがあって、後世に社殿が建てられたのかな、という気がします。

右写真は麓にある和賀神社。別名小早川神社と呼ばれ、小早川隆景を祀る神社だそうです。
戦前は県社にもなっていたそうですが、今は荒れ放題。氏子もいなくなったのでしょうか。現地看板には「昭和20年の豪雨による山津波で損壊」とありましたが、今ある建物はもっと後の時代のもののような気もしたんですけど、どうなんでしょう。

さてこの木村城ですが、天文19年(1550)に小早川隆景が沼田小早川氏の家督も相続すると、沼田の高山城へ移ったため、廃城となりました。

■広島県竹原市

2009.07.05

「天地人」展と中近世移行期都市論

すっかり今年の大河ドラマは見限り気味ですが(もう何ヶ月も見てない)、恒例の関連企画展「天地人展」をサントリー美術館に見に行ってきました(招待券をいただきました。ありがとうございます)。この美術館に行くのは3回目だけど、やっぱり六本木は慣れない。

私は人混みが大嫌いなので(好きな人はいないだろうけど(笑))、平日午後に行ったわけですが、それでも結構な来館者数のように見受けました。立地もいいですが、やっぱり視聴率もいいからでしょうかね。

思ったより文書の展示が多くて、楽しめました。「直江状」も展示されていましたが、今は信憑性が高いという評価なんですね。印象批評はしてはいけないでしょうけど、そうは言われてもやっぱり「ほんまかいな?」という思いが…。
文書は、釈文も添えられていて配慮がされていたと思います。でも、いくつか読みが「?」という箇所があったような。ま、私が読み違えているんでしょうけど(笑)。

目玉は上杉本の洛中洛外図屏風。確か所蔵している上杉博物館でも普段は現物を展示していなかったと思うので、眼福でした。人だかりが出来ていて、あまりじっくりは見られませんでしたが。


そして昨日は、帝京大学山梨文化財研究所(山梨県笛吹市)で開催されたシンポジウムに出席しました(二日間の日程だけど、初日のみ出席)。中近世移行期の都市をめぐる議論。耳学問。出されていた史料のうち、個人的に興味深いものがあって得しました。実際に使うかどうかはわからないけど。
小野正敏ほか編『動物と中世―獲る・使う・食らう』(高志書院、2009年)購入、というか、参加費に購入費用が入っていました。昔からこういうことやってたっけ? ま、この件について言うなかれ。


さて、いよいよ自分の仕事をする時間の確保を最優先する必要が出てきました。多方面に不義理をしてしまうかもしませんが、ご容赦ください。

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