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2009年8月

2009.08.28

2009年サマーセミナー御礼

2009summer2009summer_2先日書いた某イベントの顛末ですが、恒例の中世史サマーセミナーに参加してきました。
例年以上になかなかハードな日程でしたが(笑)、それだけに非常に充実した旅となりました。お世話になったみなさん、ありがとうございました。

場所は高野山。世界遺産にもなっている「町石道(ちょういしみち)」の一部を歩くのがメインテーマといったところでしょうか。左写真は、その「町石」の一つです。高野山の登山道に、一町(約100メートル)ごとに設置されたもので、文永年間(13世紀後半)のものが多く遺っています。

お恥ずかしながら、私は初めて高野山に行きました。かねてより一度行きたいと思っていたので、またとない機会ということで参加したわけですが、満足々々。山上では真田家ゆかりの蓮華定院に宿泊。真田信之・信繁(幸村)兄弟の書状もそれぞれ拝見することができました。

文書も紀州の有名なものから新出に近いものまでいろいろと拝見し、眼福でした。
ただし一点、写真を撮影する際にフラッシュを焚いている方が何人もおられたのはとても気になりました。一人二人だけなら個別に声掛けをするのはやぶさかではなかったのですが…。この辺は、事前のアナウンスがあってもよかったのではないかな、という気はしました。(もっとも、フラッシュを気にする必要はない、という意見もあるかもしれないのですが。)

サマーセミナー終了後は、昵懇の方々とオプションで高野山をさらに見て回りました。右写真は、その際に撮った奥の院にある織田信長墓。なぜか横には筒井順慶の墓が…。
戦国から近世初頭にかけて活躍した人たちの墓が特に多くて、興味深かったです。ただ、いかんせん蚊がすごくて難渋。さすがに涼しかったのですが、落ち着いて見るなら夏場は避けた方がよさそうですね。

2009summer_1その後は吉野方面にも足を伸ばしました。こちらも初めてだったので、大いに楽しませていただきました。予想以上に山がちで、各地にあるいわゆる「平家落人の里」を彷彿とさせるような立地でした。

とまあ、とても有意義な日々を過ごしたのですが、最終日に財布を落とすという大失態を犯してしまいました…。同行の方々には大変ご迷惑をお掛けしてしまいました。申し訳ありません。
結局、今日になって見つかったとの連絡が警察よりありました。いろいろと手続を既に済ませた後でしたが、とにかく今はほっとしています。これを反面教師として、皆さんも重々お気をつけ下さい。

かくしてまた史跡ネタが増えたわけですが(笑)、まだしばらくどたばたしますので、落ち着いたらいつものようにのんびり紹介していきたいと思います。

2009.08.21

計画失敗?

盆休み期間中に集中的に仕事に取り組む計画でしたが、済ませた仕事もあるものの、予定通りにはいかずかなり残してしまいました…。

しかも〆切のある原稿がほぼまるまる残っていて、逆算するとあと10日ほどで書かないと間に合いません。
ネタを揃えているとはいえ、相当厳しい…。
こりゃあ死に物狂いでやるしかないな、といった状態です。

一方で来週から今月いっぱいは別の用事が目白押しですが、充電の意味合いも込めたいと思います。もっとも、肉体的には相当疲れそうですが(笑)。ついにR35になるしなあ。

間近に迫った某イベントにご参加予定のみなさん、宜しくお願いいたします(ぼかした書き方で、わからない人にはすみません)。

そんなこんなでドタバタ続きでして、ここの更新はしばらく滞ります。ご了承下さい。

★しばらく(少なくとも今月中)は、コメントとトラックバックは承認制といたします。ご理解のほどお願いいたします。

2009.08.17

大善寺

Daizenjiここが今回のシリーズのメインである大善寺です。中央道勝沼インターに近く、また、勝沼氏館跡が近くにあります。近世の甲州街道沿いだったこともあり、立地としては甲府盆地の東端部に当たる交通の要衝といったところです。
寺伝によると、養老2年(718)に行基の開基と言われています。聖武天皇の勅願を受けたともされており、創建年代自体はかなり古いようです。
天禄2年(971)には、在庁官人だった三枝(さいぐさ)守国が再建したといい、多くの権力者から尊崇を受けたそうです。

三枝氏は元は京都から来た官人だったようですが、土着して豪族化しました。大善寺との関係が深いことは、発掘された康和5年(1103)銘の経筒に、大善寺の大檀那として三枝守定・守継の名が確認されたことにより確実となっています。
中世の動向はよくわかりませんが、戦国期の時点では武田氏の被官となっています。ただし武田一族の石原氏から養子に入っており、その後の当主には、武田晴信の被官として活躍した三枝守友がいます。彼は長篠の合戦(1575)で戦死。子孫は旗本になったそうです。

写真は山門。寛政10年(1798)築。常陸土浦藩主の土屋英直によって建立されました。土屋氏は武田氏の遺臣だからでしょうか。


Daizenji_2Daizenji_4メインはこちら。本堂でもある薬師堂(国宝)です。写真ではわかりづらいですが、かなり巨大。約18メートル四方あり、柱と柱の間隔は3~4メートルあったと思います。圧巻です。本尊は薬師三尊像(重要文化財)。
鎌倉幕府執権の北条貞時によって、弘安9年(1286)に甲斐・信濃の棟別銭を集めて建立したものだそうです。中世和様建築の典型例として貴重なもので、山梨県最古の建築物なんだそうです。
ちなみに、中を見学することもできます。
前の木がちょっと残念…とか言ってはいけませんね(笑)。


Daizenji_8Daizenji_9境内には、古い石造物がたくさん並んでいました。近世のものも多そうですが、結構中世のものもあるかなと。真ん中奥にあるやや大きめの五輪塔は、「佐藤信重の五輪塔」と呼ばれています。佐藤信重は源義経の忠臣として知られる佐藤継信・忠信兄弟の叔父に当たる人で、兄弟の安否を探るために大善寺まで来たものの、ここで亡くなったという話が『甲斐国志』にあるそうです。事実がどうだったかは…?

Daizenji_13こちらは、その横にある理慶尼墓。彼女は、武田信虎の弟である勝沼信友の娘です(信玄のいとこ)。兄の信元が永禄3年(1560)に誅殺されると、剃髪して大善寺の小庵で暮らしたそうです。
天正10年(1582)3月には、落ち延びる武田勝頼を迎え入れました。勝頼は直後に天目山で自刃しましたが、その様子をまとめた「理慶尼記」(別名「武田滅亡記」)が今も大善寺に伝わっています。(薬師堂の中で展示されていました。)
彼女自身は、慶長16年(1611)没。

Daizenji_15Daizenji_16左写真は、山門の傍らにある石塔。三枝守国の廟所となっています。
傍らにある石造物(右写真)を含め、なんかやや黒ずんでいる気もしますが、一度火を受けたのでしょうか?

ちなみに、「藤切り祭」という奇祭が有名です。例年5月8日に行われます。かつてちょうどこの日に来たようで、参拝ができず残念な思いをしたわけですが、やっと念願を果たせました。

■山梨県甲州市(旧勝沼町)

2009.08.16

甲斐一宮 浅間神社

KaiasamaKaiasama_2甲斐国一宮の浅間(あさま)神社です。(ただし一宮はほかに論社があるそうです。)
浅間神社は富士山の周辺に点在していますが、この神社は貞観7年(865)に現在地に遷座したと伝わっています。前年に富士山が噴火したそうで、山を鎮めるために建立されたようです。

諸国一宮興行のために書いたという、後奈良院の筆による紺紙金泥般若心経(重要文化財)を所蔵しています。天文19年(1550)に聖護院道澄を通じて武田晴信(信玄)にもたらされ、浅間神社に奉納したそうです。
このほか、信玄が奉納したと伝わる太刀を所蔵しています。

Kaiasama_1Kaiasama_3左写真は神門で、右写真が拝殿です。
境内はそれほど広大というほどでもなく、比較的コンパクトな感じでした。
少し離れた国道20号線沿いには、巨大な鳥居(一の鳥居)が建っています。今回は、こちらには立ち寄りませんでした。

Kaiyamamiya_2境内からちょっと離れているんですが、神社の南方、中央道を越えた山腹には、摂社の山宮(やまみや)神社本殿(重要文化財)があります。建っている場所は、貞観7年に現在地に本社が移る前に鎮座していた地と言われています。

春日造で、室町期の様式とされ、永禄元年(1558)に武田晴信が築いたと言われています。ひっそりとした林の中に佇んでいて、なかなか趣がありました。ただ、ちょっと場所がわかりづらいので、見に行く時は本社の社務所であらかじめ尋ねた方が無難です(ちなみに、本社から歩いていくのは難しい距離です)。

■山梨県笛吹市(旧一宮町)

2009.08.15

宋銭の世界

伊原弘編『宋銭の世界』(勉誠出版、2009年)を、執筆者のHさんより受贈。ありがとうございます(出版社による情報はこちら)。

かつてムックの「アジア遊学」で組まれた特集をベースにしたものですが、その後の研究成果を概説する新稿も収録されています。分類としては専門書ということになるのかもしれませんが、叙述は概説的なので、少し固めの教養書といったところかもしれません。
特徴としては、古銭学(この世界では「古泉」と呼びますが)からの論考もあるところでしょうか。近年ではいろんな研究テーマ単位で隣接学問との“協業”が叫ばれており、貨幣流通史では考古学との連携が進みつつあるわけですが、未だ古銭学との対話はなかなか進んでいません。この辺は、古銭学はアカデミックとは少し距離を置いているところも影響しているかもしれませんが、文献史学の側からもっとアプローチしてゆく必要はあるかもしれませんね。そういう現状を鑑みれば、かかる論考が入っているのは貴重です。

本書のテーマはまさに私の専門とする分野でもあるわけですが、実は私は中国史にはかなり疎いので(高校で世界史を学んでいないツケが…)、宋代の歴史を学ぶ上でも参考になります。また、海外の研究者の論文も収録されていますが、海外における研究の潮流と、日本のそれとの“ギャップ”を示す意図も込められているようです(「編集後記」による)。

ともあれ、これからじっくり拝読させていただきます。


以下余談ですが、先日歴史とはまったく無縁の旧友と会った際、「戦国時代にお金なんかあったん? 略奪ばっかりしてると思ってた。」(ほぼ原文)と言われてちょっとショックを受けました(笑)。
でもまあ、一般的にはおそらくこれが「常識」なのかなという気もします。そう考えると、どうやって自分の細々とやってきた仕事を世間に“普及”させてゆくべきなのか、もう少し戦略的に考えないといけないなあ…。などと、発言を受けてつらつら思いを巡らしたりしてました。
もっともそのためには、実行に移せるだけの実力と環境が必要なのですが。精進いたします。

(※2009.8.19追記)
執筆者のTさんからも拝領いたしました。ありがとうございました。

458503210X宋銭の世界
伊原 弘編
勉誠出版 2009-08-20

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2009.08.13

甲斐国分寺跡

Kaikokubunji_8Kaikokubunji_9以前行った山梨の史跡シリーズ。

甲斐国分寺跡です。国史跡。現地に目立った看板がなく、見つけるのに苦労しました。
例の諸国に築かれた国分寺の一つですが、甲斐国分寺は全国的にも規模は最小らしいそうで(最大は武蔵)。規模の差がどういう意味を持っているのかはよくわかりませんが、隣国同士で最大と最小を分け合うのは、なんとも不思議というか。


Kaikokubunji_4Kaikokubunji_6現地には小型の石がたくさん残されていますが、これは遺構ではないと思います。
ここにはかつて寺があったそうですが、配列からして、墓地があったのかな?という印象でした。
所々、左写真のような巨大な石があり、これが国分寺の礎石だったと思われます。

現在は、発掘作業が進められていて、将来的にはちゃんと整備するようでした。右写真は、金堂および講堂跡のあたり。

Kaikokubunji_11こちらは塔跡の礎石。中心の礎石には丸い穴が開いていましたが、これは果たしてかつての柱穴なんでしょうか?
ちょっと小さい気がするのですが…。穴を中心として一回り大きい円を描くような痕跡を確認できました。これはおそらく柱が置いてあった跡なのでしょう。

笛吹川南側の少し高い丘の上に位置していて、近くに一宮もあり、かつての甲斐国の中心地だったことがわかります。ただ、国府は川の対岸にあったようです。
今ではすっかりのどかな雰囲気でした。

なお、近くには国分尼寺跡もありますが、今回は素通り。
さらに現存する国分寺もあり、武田信玄の再興と言われているそうです。こちらも訪問せず。

■山梨県笛吹市(旧一宮町)

2009.08.10

夏休みの宿題

世間的にはそろそろ盆休みの時期ですが、私はその間に片付けないといけない課題がいくつもあって切羽詰まってます。

もっとも、普段が毎日休みみたいなもんだから、たまにはそれくらいの苦労をしろ、という声が聞こえてきそうですが…。
とはいえ、そんな私にもいろいろと雑務があるわけでして、今月はそれらから解放される貴重な時期ですから、雑念を振り払って「宿題」を片付けたいと思います。

そんな中、地元から来た友人を接待するため、昨日は横浜へ行ってきました。中華街のちょっと高級な店で昼食。そこから、新横浜に場所を移して夜まで飲んでました(笑)。気の置けない友人のいるありがたさを改めて実感。
心機一転、来週にかけての二週間は精進いたします。

それにしても、猛烈に蒸し暑い…。暑いのは仕方がないけど、湿気はこたえます。みなさんも体調にお気を付けて長期休暇を楽しんでください。

2009.08.05

小机城跡

Kozukue_1JR横浜線の小机駅を降りると、のどかな田園風景が広がっています。新横浜から一駅で、この風景は驚きです。そして、線路沿いに歩いていくと辿り着く小山が、小机城跡です。

築城年代は不明ですが、室町期に関東管領の山内上杉氏の手によって築かれたとも言われています。
文献でその名が見られるのは、文明10年(1478)の攻城戦が最初とされています。この頃には、山内上杉氏の被官の一族であり、同氏の家宰になれず反乱を起こした長尾景春の拠点となっていました。小机には景春の被官である矢野兵庫助が在城し、本拠の石神井城(現東京都練馬区)を逐われた豊島泰経も拠っていましたが、敵対する太田道灌の攻撃を受けて落城しました。(豊島氏はこれによって没落。)
この時道灌は、「小机はまず手習いの初めにて いろはにほへとちりぢりとなる」と詠んだと言われています。

ここで一旦廃城になったそうですが、大永4年(1524)頃に北条氏綱が再整備し、被官の笠原信為が城主となりました。小机は北条氏領国における武蔵南部の重要拠点となり、笠原氏を中心とした被官層を糾合して「小机衆」を組織し、支配を進めていったとされています。その後一門の北条氏尭らが城主となっていますが、実質的には笠原氏が守りを固めていたようです。

天正18年(1590)に、後北条氏の滅亡とともに実質的な城主の笠原重政が降伏。落城することなく廃城となりました。笠原重政は徳川家康に仕え、子孫は旗本となりました。

Kozukue_4Kozukue_14現在は「市民の森」として、公園として解放されています。ただし今も私有地のようで、所有者のご厚意を得ているようです。
小机城は鶴見川沿岸に位置しています。川が堀の役割を果たしつつ、水運への影響も有していたのかもしれません。

左写真に見える門の先が本丸ですが、少年野球のグランドとして使われているらしく、訪問時は野球をやっていたため写真は遠慮しておきます。右写真は二の丸。結構広さがありました(むしろ本丸より広いかも?)。

Kozukue_10Kozukue_18城内の風景。かなり堀は深く掘られていました。ただ、撮影技術のなさと鬱蒼とした暗さなどによって、その雰囲気はあまり伝わりませんね…。

現在の城跡は第三京浜が山をぶち抜いていて、これがやや残念ですが、そもそもこの地域では城跡すら遺っている所も少ないので、貴重な遺構です。なお、麓に笠原氏の菩提寺があったようですが、訪問せず。

■横浜市港北区

2009.08.03

戦国期歴史像へのスタンスを考える

池享『日本中世の歴史6・戦国大名と一揆』(吉川弘文館、2009年)受贈。ありがとうございます。
最近忙殺されていてまだほとんど読んでいないのですが…。

最近、戦国期を対象とした概説書がいくつか出されている中で、どのように差別化を図ったかといったところがポイントでしょうか。
本書では、タイトルにある「一揆」に注目しています。中世後期に広がる一揆は、その基礎として「家」の形成があること、さらには一揆による結合では「家」の存立が危うくなった時、一人の指導者を頂点として社会統合の強化および秩序維持を図ろうという動向があった、という視点が軸となっています(p.3)。

このような捉え方そのものは、斬新なものというわけではなく、むしろかなり“伝統的”な時代像という風にも考えられます。ただし“伝統的”である「戦後歴史学」的理解一辺倒というわけではなく、領主=搾取の主体、民衆=闘争の主体という単純な図式とは一線を画した上で、両者の関係を措定してゆく、といった姿勢を感じられました。

一方、最後には「中近世移行期村落論」の立場は取らないことが明記されており、確かにこの視点からの研究はほとんど参照されていません。この辺は、議論になるかもしれませんね(ならないかもしれませんが)。

さて、個人的な関心に基づくならば、貨幣に関する記述がほかの概説書に比べて多いように見受けまして、勝手に喜んでいます(笑)。
ま、それはともかく、このシリーズは高校生をターゲットとしているらしいと伺ったのですが、高校生には少し難解かも? ただ、歴史に興味のある高校生なら十分読みこなせるかな、という気もしますね。

あとは蛇足的なことかもしれませんが、シリーズ第1巻で東アジア世界を中心に据えた歴史像とは距離を置いたように読み取れた一方で(こちら参照)、本書では東アジア国際関係の動向を考える重要性が最後に指摘されています(p.231)。もっとも第1巻でも対外関係が重要ではないとは書かれていませんが、この辺のスタンスの違いは、対象とする時代によるものなのかどうか、少々考えさせられました。

4642064060戦国大名と一揆 (日本中世の歴史)
池 享
吉川弘文館 2009-07

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2009.08.01

茅ヶ崎城跡

Chigasakijo_2Chigasakijo_37今春に行った、茅ヶ崎城跡です。
湘南の茅ヶ崎ではなく、横浜の新興住宅地となっている地域にあり、横浜市歴史博物館の近くです。まあ、要するに博物館のついでに行ったわけです。

周囲が宅地化されているものの、遺構がよく遺っている中世の城跡として貴重です。立地としては、麓を鶴見川の支流が流れており、かつては谷戸田を形成していたような地形のように見えました。

茅ヶ崎城は多田行綱が築いたという伝承があるようですが、微妙ですね。発掘調査によると14~15世紀のものと思われる遺物は出ているそうなので、室町期には存在していたようです。この地域に勢力を張っていた扇谷上杉氏の関与が推測されています。

といっても今に遺る遺構の大部分は、16世紀に後北条氏が整備したもののようです。南に数キロ離れた小机城の支城という位置づけだったと考えられ、この地域の領主である座間氏が拠っていたとされています。ただ、史料的にはあまり詳しいことがわからないようです。

Chigasakijo_7Chigasakijo_10左写真は虎口で、右写真は空堀。
茅ヶ崎城の虎口は、いくつか候補地があるようです。発掘調査の進展が待たれます。
空堀について現地看板によると、「両側の壁が七十度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていました」とのことです。

Chigasakijo_20Chigasakijo_32こちらは本郭。中郭とも呼ばれており、城の中心部に当たります。
ここでは一部発掘調査が行われています。それによると、堀立柱建物の遺構や、陶器の埋納坑と思われる土坑が検出されています。また、倉庫跡も見つかっているそうです。
これらのことから、曲輪の中に倉庫が立ち並んでいたものと考えられています。ただ、現在のところ居住施設と思われる遺構は見つかっていないそうです。


Chigasakijo_23Chigasakijo_34左写真は、中郭と東郭を繋ぐ土橋。右写真は、東郭から中郭を見たところです。土橋は、削って造ったのではなく、空堀に盛り土をして造ったものであることがわかっています。元々は空堀しかなく、土橋は廃城後のものであった可能性も指摘されているようです。

数年前までは、私有地だったこともあってほとんど整備がされていなかったそうなんですが、最近公園として整備され、写真ように結構きれいになっています。見やすくていいと思うのですが、鬱蒼とした城跡もそれはそれで風情もあったりしますので(笑)、好みの分かれるところですね。
なお、今も整備中で立ち入り禁止になっている区画がいくつかあります。大手と思われる道にも立ち入れないのがやや残念でした。

■横浜市都筑区

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