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2009年9月

2009.09.30

空気の抜けた風船のように

このところ、月末に思い立って日記を書いているような…。これを機に定例化してみようかなあ。
来月にいきなり忘れていそうですが(笑)。

上旬に必死になって原稿を書き上げましたが、反動ですっかり腑抜けになっちゃいました。
この半月はほとんどなにもやってません…。
それをクヨクヨしても仕方がないので、そろそろ再始動したいところですが、なかなかネタが浮かびません。
ネタなんてのは突然浮かぶものではなく、地道な日々の作業の賜物ですから、それをさぼっていては当然なんですが。

iTunesを使って音楽を聴いているのですが、バージョン9に更新したところ、突然文字化けに。
調べてみると、新しいフォント(JIS2004、こちら参照)に対応していないことが原因らしい。
古いフォントに戻すのが現状の対策になるわけですが、そもそもこんな初歩的なバグに気がつかなかったことが信じがたい。まさか、マッキントッシュで作ってるから、という理由ですか?
先日バージョン9.0.1が出たとのことで、さすがに直しているだろうと思ったら、直していませんでした。おいおい。

この驚くべき対応の遅さは、文字に対する意識の違いに起因するんじゃないかと勘繰ってしまいます。26しか文字が無いあちらさんにとって、文字化けなんてものの存在が想像できていない…なんてことはないですかねえ?(日本語版は、日本人が制作に関わっているとは思いますが。)

新フォントは、「祇」の偏の部分がちゃんと「示」になっているなど、活字にする上でこれまで問題だった俗字(校正で手を入れるしかなかった)に対策が取られているので、原稿を書く上ではどうしても外せません。
文字化けしていても使えないわけではないですが(しかし、ダウンロードは字が読めないとほぼ不可能)、一刻も早く対応していただきたいものです。なお、マックは買いませんのであしからず。

ちなみにこの新フォント、Vistaは標準装備ですが、XPはマイクロソフトのサイトからダウンロードする必要があります。「より」の合字があるなど、なかなか有用です。

今年もあと3ヶ月。早いものです。

2009.09.29

高野山奥の院(1)

高野山観光のメインの一つでもある奥の院。
承和2年(835)に空海が入定(死去)したことにより、廟所として建立されたと伝わっています。中世になると空海がここで死去したと信じられるようになり、信仰を集めました。

厖大な墓があることで知られていますが、15世紀頃からここに墓所を構える動きが見られるようになったとか。ただし現在に残るもののほとんどは、近世になって多くの大名たちが墓所を構えたことによります。
現在では、企業が供養のために設けた墓所も多く見られました。

Koyasan_161こちらは「一の橋」。文字通り一番手前にある橋で、奥の院の入口に当たります。ここを渡ると、多くの墓が建ち並んでいます。
ちゃんと調べたわけではないのですが、印象としては手前(「一の橋」)側は墓が比較的新しく、奥へ行くほど古くなる傾向があるように窺えました。


Koyasan_16Koyasan_17多くの墓を通り過ぎるとあった護摩堂。隣には不動堂(たぶん)があります
左写真の手前側に見えるように、わりと古そうに見える門もあったのですが、説明が何もないのでどういうものであるかはわかりませんでした。ご存じの方、ご教示ください。

Koyasan_20Koyasan_19こちらの橋は「御廟橋」。その先に見えるのが弘法大師廟です。ここから先は撮影禁止なので、こんな写真が限界。この先には近世の歴代天皇墓所や、近衛家の墓所などがあります。
また、廟の周囲には、石田三成が築いたという経蔵(重要文化財)や、中世のものとおぼしき石造物も安置されていました。

墓については次回にて。

■和歌山県高野町

2009.09.27

高野山金剛峯寺(本坊)

Koyasan_175Koyasan_178こちらは高野山の本山地区と呼ばれる金剛峯寺本坊。高野山真言宗の総本山です。右写真の正門は、文禄2年(1593)築だそうです。

高野山は、弘仁7年(816)に嵯峨天皇から与えられたことによって空海が開いた山岳寺院で、真言密教の根本道場として開かれました。その後一旦荒廃したようですが、11世紀になると復興し、藤原道長や白河院などの権力者から保護を受けて発展してゆきました。こうして中世では権門寺院となってゆくわけですが、天正9年(1581)には織田信長の攻撃を受けるなど(本能寺の変で頓挫)もしています。

その後は木食応其(もくじきおうご)の仲介もあって豊臣秀吉から保護を受けており、秀吉の母(大政所)の菩提のために青巌寺を建立。近世になると徳川将軍家の菩提所となり、ほかの大名たちもこぞって墓所を設けるようになりました。

元々は高野山全体を指して金剛峯寺と呼んでいたわけですが、明治初頭に上述の青巌寺と、隣接する興山寺が合併して新たに金剛峯寺と名乗り、現在に至っています。なので、前近代と近代以降とでは、対象が異なっているということになります。

Koyasan_185Koyasan_181左写真が、その中心となる本殿。文久3年(1863)築。
右写真は鐘楼。金剛峯寺の前身である青巌寺のものです。元治元年(1864)築とされています。

Koyasan_190正面に見えている建物は、本坊と壇上伽藍の間にある「六時の鐘」。時を告げる鐘のある鐘楼で、はじめは元和元年(1615)(元和4年とも)に福島正則が建立しましたが、一度焼失した後、寛永12年(1635)(こちらも異説あり)に正則の子である福島正利が再建したものです。
余談ながら、案内板の英訳が"the 6 o clock"になってましたが、これって誤訳では…? (もっとも、適当な訳があるかといえば微妙ですが。)

■和歌山県高野町

2009.09.26

高野山大門・壇上伽藍

Koyasan訪問順は前後しますが、先に高野山の中心部分を。
まずは、町石道を歩ききると最初に迎えてくれるのがこの大門(重要文化財)。元々は鳥居の形式で数町ほど下にあったとか。永治元年(1141)に楼門形式となり、寛喜2年(1230)には5間2階の楼門となったそうです。
度々火災に遭っており、現在のものは宝永2年(1705)築です。
各地に楼門はありますが、さすが高野山。巨大です。長い山道を登り切った人々は、この大門を見て何を思ったのでしょうか。今では、町の入口のシンボルのような存在になっています。

Koyasan_230Koyasan_231そして中心部の壇上伽藍と呼ばれる一角です。高野山は山上のすべてを一括して金剛峯寺と総称しますが、いくつかの地区に分かれています。

ここは伽藍地区と呼ばれていて、根本大塔(左写真)や金堂などの主要な堂・塔が配置されている、信仰上も重要な場所でした。この大塔を中心に東西に塔が置かれています。このほか数多くの堂舎が建ち並んでいますが、全部載せると厖大なので、ここでは一部を。ちなみに現在の大塔は1934年築です。

Koyasan_211Koyasan_214大塔の向かいにある梵鐘。天文16年(1547)に造られたもので、「高野四郎」という通称で呼ばれているそうです(由来はよくわかりませんが…)。
右写真は、大塔の隣にあった御影堂。

Koyasan_200そしてこちらが、不動堂(国宝)。建久8年(1197)に、鳥羽院皇女・八条院(暲子[あきこ])の発願によって行勝上人が建てたと伝わっていますが、実際は鎌倉後期に建てられたもののようです。様式は和様で、古い住宅建築の様式(平安期頃?)を仏堂に応用したものだそうです。
元々は一心院谷という別の場所に建っていたものの、明治末期に現在地に移築されました。

Koyasan_223Koyasan_225左写真は、山王院拝殿(重要文化財)、右写真は本殿(御社・総社とも、重要文化財)です。本殿は精一杯頑張ってこの程度の写りです…。
拝殿は文禄3年(1594)築。仏事などが行われる場でもあったことから、こちらを指して、院家として山王院と呼ぶこともあるようです。

本殿は修理によって大永2年(1522)の墨書が見つかったそうで、この時に建てられたものとされています。もっとも、その後何度か修理などの手が入ったようですが。
三社からなり、右から丹生明神、高野明神、十二王子百二十伴神が祀られています。神仏習合の遺風が窺える建物です。

Koyasan_229大塔の前には金堂がありますが、その下には写真のような礎石群が見られます。ここはかつて中門があった跡です。天保14年(1843)に焼失した後は再建されていませんが、近年、再建の動きがあるそうです。
サマーセミナーでは、発掘調査の報告を拝聴しました。それによると、中世から近世まで何度か建て直された様子を実際に確認できたとのことでした。

■和歌山県高野町

2009.09.24

アカデミックの処世術?

水月昭道『アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す』(新書ラクレ329、中央公論新社、2009年)読了。例の本の続編という位置づけのようですね。

まず感心したのは、非常に読みやすいことです(嫌味ではありません)。250ページほどありますが、1時間半で読めました。本書の中で院生の文章力を批判していますが(かくいう私も…ですが)、それだけに、読みやすさへの配慮はかなり感じられます。

現状の大学院生とポスドク、オーバードクターの置かれた現状を生々しく報告して学術行政を批判し、その上で、就職難に喘ぐこれらの人々に処世術を授けよう、というものです。
冒頭は大学院や大学の組織の現状について批判的に解説しています。この部分は、なるほどと思う所が多かったです。前著の実績を受けて、舌鋒がより洗練されているように思えました。もっとも、自説を補強する事例がやや突飛で、かえって説得力に疑問を感じる部分もありましたが…(むしろこれは、本書全体にわたって感じたことでした)。

ま、それは小さいことで。むしろ問題なのは、では実際にポストを得るためにどんな処世術が求められるか、というメインの部分。研究者とて人間であり社会人ですから、それに見合った言動が大切、という話はよくわかります。…でも、それを言いたいがために、何十ページも割く必要があるのでしょうか…? これくらい書かないと社会性の乏しい院生はわからない、ということなのでしょうか。うーむ。

具体的な場面でも、首を傾げることが多い。例えば「アカデミアでは偉大なるイエスマンになろう」(p.73)ってどうよ…という気もするんですが。悪口ばかり言ってないで周りを幸せにするような言動にしろ、とか言われてもねえ。それでアカデミック・ポストが近づくと仰せですが、ほんとですか? そりゃあ、性格に問題のある人が研究者の世界でも鼻つまみになるのは当然ですが、ほかに必要なことはありませんか?

「論文は書きすぎたらイカン」(p.116)というのはびっくりしました(笑)。いや、書いてあることもわかるんですが、「目立ち過ぎないことこそが一番大切になる」(p.121)ってのは、いくらなんでも卑屈過ぎませんかねえ。もっとも「せいぜい年に三本くらいに留めたほうが身のためだ」(p.122)とも仰せなので、それ以上書いている方に対して言っているのでしょう。それに達していないので安心しました(笑)。いや、達していないとお先真っ暗、ということでしょうか…。

なお、「単著などを出すのも出来れば避けたほうがいい」(p.122)というのは、少なくとも私の居るギョーカイでは通用しないと言って良いと思います。研究分野によって「常識」はだいぶ違うので、著者の言うことが当たっている分野もあるとは思うのですが、その旨は本書のどこかで明記しておくべきではなかったでしょうか。誤解を招きます。

後半は、ギョーカイ内での人脈造りを強く求める主旨となっています。特に、学会の懇親会には必ず出ろ、と。この点、私は同感です。
そして、懇親会では「大物」に対して「論文ください」と言えと主張しておられます。そうなれば覚えめでたくなるかもしれないそうで。へえ、こういうのが風習になっているギョーカイがあるんですか。私には、それって厚かましいんじゃないの?という気もするんですが…、そういうわけでもないんですかねえ。この辺は、個々のギョーカイの「お約束」によると思うので、その点について注意を促すべきでしょう。真に受けて将来を棒に振る若い人が出ないことを祈るばかりです。
まあとにかく人脈を作るよう努力しなさい、という主旨なわけですが、それだけなら50ページ(第三章)も必要な話とは思えません。一行で済みます。ただ、第四章に関しては、これからドクターに進むような人に対しては有益な話も多いと思います。私くらいの年代になると、もう手遅れですが。

最後の方では、学振の特別研究員を「夢のような地位」(p.199)と評しています。しかし、その理由となったデータ(学振終了後の就職率の高さ)は、あまり当てにならないと思います。きっと私も「職持ち」にカウントされているはずだからです(笑)。
まあポスドク等全体での割合と比較すれば就職できる確率の高いことは言えるかもしれませんが、そりゃあ、学振はクジで採否を決めるものではないですからねえ…。ちなみに学振の採否において、著者が重視する人格は審査の対象にはならないと思います(笑)。(推薦者が必要なので、それすら取り付けられないほど申請者の人格に問題があれば別ですが。)


ネタにすると批判ばっかりになってしまうわけですが(著者なりに言うと、だから就職できないのでしょうけど(笑))、類書が少ないテーマなので、大きな社会的意義を持った本だと思います。前著以上に、議論を呼ぶ一冊になることを期待します。ただし、やはり事例がやや極端になる傾向は前著と同じで、その点でギョーカイに対して世間の誤解を招く懼れが少々あるのは、やや気がかりなところです。

4121503295アカデミア・サバイバル―「高学歴ワーキングプア」から抜け出す (中公新書ラクレ)
水月 昭道
中央公論新社 2009-09

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2009.09.23

高野山金剛三昧院

Kongosanmaiin_6Kongosanmaiin_8高野山の町の中心部から少し離れた所にある金剛三昧院。高野山では度重なる火災に見舞われてきましたが、ここは中心部から少し離れていたので類焼を免れたため、古い建物が多く遺されています。

金剛三昧院は、建暦元年(1211)に北条政子が夫の源頼朝の菩提を弔うために建立した禅定院を前身としていて、承久元年(1219)に源実朝の菩提を弔うために金剛三昧院に改めたとされています。

Kongosanmaiinこちらのメインは、この多宝塔(国宝)。貞応2年(1223)に、北条政子が源頼朝・実朝の菩提のために建立したとされ、開眼法要には栄西が導師を勤めたと言われています。大津の石山寺に次いで、日本で2番目に古い多宝塔だそうです。
ただし、実際のところ上記の伝承が正しいかどうかというと微妙なところのようで、安達氏の関与が濃厚な可能性が高い、とのことでした(うろ覚えですが、確かそんなお話だったかと)。

来歴はともかく、どっしりとした風格で見応えありでした。ちなみに今は杮(こけら)葺きですが、かつては違ったそうです(板葺きだったか、茅葺きだったか…。聞いたのですが忘れてしまいました(笑))。中には運慶作とされる五智如来(重要文化財)が安置されています。

Kongosanmaiin_10Kongosanmaiin_12左写真は、境内にある四所明神社本殿(重要文化財)。天文21年(1552)の墨書が確認されており、この時に建てられたものとされています。金剛三昧院の鎮守となっています。

右写真は、経蔵(重要文化財)。多宝塔と同時期に建てられたとされています。立派な校倉造り。この様式は有名ですけど、現物にはなかなかお目にかかれません。実際に類例はほとんど遺っていないそうで、貴重なものです。

Kongosanmaiin_3Kongosanmaiin_19こちらの客殿・台所(重要文化財)は改修中でした。
特別に中を見せていただきました(右写真)。床を剥がすとこんな感じ。近世前期に建てられたもので、現在も宿坊として使用されているように見受けました(違うかもしれませんが)。

このほか、承元4年(1210)の銘が入った梵鐘(重要文化財)などを所蔵していますが、それらは拝観かなわず。
意外と高野山は中世建築があまり遺っていないのですが、それだけにこちらの文化財は貴重です。中心から少し離れているので観光客の多くは行きそびれがちのようですが、高野山参詣の折には是非とも訪れたいところです。

■和歌山県高野町

2009.09.22

高野山蓮華定院

Rengejoin1_6いよいよ高野山の山上に登ります。
中枢部分は後に回しまして…、まずは今回宿泊した蓮華定院(れんげじょういん)から。

鎌倉初期の建久年間に、源頼朝・実朝親子の帰依が篤い行勝上人が開いた院家です。当初は念仏院という名前だったそうですが、後に蓮華定院に改められました。

わりと有名な宿坊のようですが、それだけに、キャパシティに驚きました。私のイメージする宿坊ってのは、ほんの数人でいっぱいになるような所ですが、ここは100人以上はゆうに収容しそうです。給仕は修行僧(高野山大の学生か)と思しき若いお坊さんでしたが、まるで旅館でした。

Rengejoin1_9Rengejoin1_10境内はこんな感じ。右写真が本堂。宿坊部分はこれらとは別の、奥にある建物でした。

さて、この院家は中世から近世にかけて、信濃の人々による高野参詣の定宿になっていたことで知られています。特に16世紀半ば頃から佐久・小県地方の在地領主層から信仰を集めており、代表的なところでは海野氏や伴野氏、村上氏などから定宿とする旨の書状が遺されています。

そして言うまでもなく、真田氏もそのひとつでした。関ヶ原合戦後に真田昌幸・信繁(幸村)親子が仮寓したとされ、信繁の書状があることでも知られています(「焼酎の文」)。このほか、真田氏ゆかりの寺宝や、木食応其が豊臣秀頼から寄進された銘国広の刀(重要文化財)などを所蔵しています。
現在の本堂は、万延年間に真田氏によって再建されたものだそうです。

Rengejoin1Rengejoin1_3近世には真田氏の菩提寺となっており、裏手には墓所があります。正面は真田信政で、右側が真田信之(切れてますが…)。信政は、信之の子です。

信之(信幸)は昌幸の嫡男で、関ヶ原では東軍に与したため大名として生き残ったことで知られていますね。信之が昌幸・信繁の助命を嘆願したため、高野山で生き延びることができたことも、有名です。昌幸は慶長16年(1611)に麓の九度山で死去、信繁は言うまでもなく、大坂夏の陣で戦死しました。
Rengejoin1_4これが信之の墓。
信之はかなりの長命で、万治元年(1658)没。なんと93歳まで生きたそうです。長寿で知られた宇喜多秀家は3年前に死去しているので、関ヶ原を知る大名では最後まで生き残った人だったのかも。

信之・信政親子は同じ年に死去しているようなので、その頃に建てられたものかもしれません。もっとも、この時の当主は信政だったので、信政を中心に、隠居した信之は右に据えられたのでしょうか。

ちなみに、「蓮華定院文書」は『高野山史料4』(高野山文書刊行会)や『信濃史料』に収録されているそうです。

■和歌山県高野町

2009.09.21

丹生都比売神社

Niutsuhime_7Niutsuhime_10町石道の途中、少し降りた所にある丹生都比売(にうつひめ)神社。かつては丹生四所明神や天野社と呼ばれた神社で、高野山の鎮守として知られています。
古代から存在が確認されていますが、元は丹生明神を祀っていたところ、後に狩場明神(高野明神)も祀り、さらに承元2年(1208)に、気比明神と厳島明神も祀られたことにより、「四所明神」と呼ばれるようになりました。

左写真は室町期のものとされる楼門(重要文化財)。右写真が、その四つの神を祀った本殿です(いずれも重要文化財)。今回は、特別に中まで入らせていただきました。


Niutsuhime_2Niutsuhime_24境内は仏教関係の施設もかつてはあり、多宝塔や御影堂などもあったそうです。いずれも、廃仏毀釈により廃絶。
その跡地のあたりには、左写真の、大峯修験者の供養塔が遺されています。向かって右から延元元年(1336)、正安4年(1302)、正応6年(1293)、文保3年(1419)のもの。

右写真は、境内の前にある宝篋印塔。応永23年(1416)に、大念仏(融通念仏)衆が秋の彼岸の中日に建立したそうです。

Niutsuhime_20Niutsuhime_22境内から少し歩くと、西行の妻と娘の宝篋印塔とされる石塔群があります。中央の大きな2基の宝篋印塔は応安5年(1372)の建立、右の小さめのもの2基は文安6年(1449)建立とされています。

後ろには五輪塔群があり、これらは曽我兄弟の郎党である鬼王・団三郎を供養したものだそうです。これらの郎党は、当地である天野で死去したと伝わっているのがゆえんだとか。

なお、この神社の惣神主であった丹生一麿家(「一麿」は近世の惣神主の通称だそうです)に伝わった文書群があります(「丹生家文書(丹生輝代麿家文書)」・高野山大学図書館寄託)。一部を拝見させていただきました。この文書群は新出で、まだ活字化が進んでいないそうです。このほかにも神社に関連する史料があり、和歌山県立文書館から目録が刊行されているとのこと。専論としては、加地宏江「丹生古文書集について」(『ヒストリア』102、1984年)があるそうです。

(2009.9.23追記)
太字部分を加筆しました。
今回拝見した「丹生家文書」は、和歌山県立博物館が目録を作成した文書群には含まれていません。詳しくは、この記事のたかぎさんのコメントをご参照ください。

■和歌山県かつらぎ町

2009.09.20

町石道を歩く

Choishi_10Choishi_34慈尊院から高野山へと続く町石道(ちょういしみち)のうち、序盤の一部を実際に歩きました。
熊野古道と並ぶ世界遺産の道ですが、今回はほかに歩いている人には出会いませんでした。

写真の通り、1町(約109メートル)ごとに、山上までの町数を記した石造五輪卒塔婆が建っています。中世では「墾路(はりみち)」と呼ばれていたそうで、文永2年(1265)から弘安8年(1285)にかけて、勧進聖の覚きょう(字は「學+攴」)の勧進活動によって整えられました。
その活動は、後嵯峨院・亀山院・宗尊親王の安穏などを祈るという位置づけでなされており、鎌倉幕府の関係者など、時の権力者の援助も得ていたことがわかっています。
179基が現存しているそうです(たぶん、後世に建てられたものは除く)。

Choishi_18Choishi_20左写真は、「163町石」。銘によると、文永8年(1271)に「検校真弁」らが寄進したことがわかります。柿畑の中にあって、眺めの良い辺りに置かれています。
右写真は、「159町石」。文永9年(1272)に、安達泰盛の寄進によって建てられたものとされています。銘には「交戦之場致夭死之輩」を祀ったものである旨が記されており、この年に起こった二月騒動での死者を供養する目的で寄進されたことがわかります。

Choishi_15Choishi_57左写真のような景色に出会えます。見えているのは橋本市街でしょうか。かつて官省符荘であった地域です。
右写真のところまで歩きました。たしか「124町石」。
本当はもう少し先まで歩く予定だったのですが、ここで終わりと勘違いして脇道を降りてしまったため、その先には行きそびれました。

単純計算で56町+α歩いたことになりますので、6キロ弱の道のりでした。日陰では涼しかったのであまり疲れませんでしたが、登りの柿畑の辺りは日差しを遮るものがないので、ここを歩くのは結構きつかったです。
いつか全行程を歩いてみたいな…という思いもありますが、たぶん実現しないでしょう(笑)。

■和歌山県九度山町・かつらぎ町

2009.09.19

旅行で名古屋へ

Inuyama_1Nagoyajoこの時期恒例の、出身ゼミの旅行に同行。
今年は名古屋周辺となりました。なかなか行きそうで行かない地域でもあるということで。

私自身は、かつて住んでいたにもかかわらずちゃんと見て回っていなかったので、いい機会になりました。
よくあることですが、住んでいるといつでも行けるから、となるんですが、結局行かないわけでして…。

左写真は今回の目玉、現存最古の天守閣とされる国宝の犬山城。ここは二度目の訪問。木曽川に架かる橋(かつて電車と車が一緒に走っていた所。こちら参照)から撮りました。窓越しなので写りは悪いですが…。

右写真は、お馴染み名古屋城。こちらも中に入ったのは二度目です。三の丸跡からの眺め。
手前の銅像は、加藤清正像。

Gofujo_panそして、岐阜にも行きました。岐阜を観光するのはほぼ初めてで、岐阜城にも初めて登りました。
写真は、岐阜城天守閣(再建)から南西方向の眺め。もやが掛かっていて、ややいまいち。下に見える川は長良川。

多少のトラブルもありましたが、尾張の史跡をだいぶ見て回ることができました。
また追々紹介してゆきたいと思います。またしても、忘れた頃になりそうですが…。

これで今夏のイベントも終わり。これからは腰を据えて本業に…といきたいところですが、仕事も段々増えてくるので、どこまでできるやら…。

2009.09.15

丹生官省符神社

Jisonin_6Niukanshofu_4慈尊院の隣にある丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社。弘仁2年(816)に空海が創建したとされる、官省符荘の鎮守です。かつては丹生高野明神社などと呼ばれていました。かつてあった神宮寺の神通寺などとあわせて、神通寺七社明神とも称しています。

右写真の社殿(重要文化財)は、棟札から天文10年(1541)頃の築とされています。16世紀前半のものと思われる湯釜なども所蔵しているとか。

Choishiそしてこの神社の裏手から、「町石道」がいよいよ始まります。写真は、神社脇にある町石。「百七十九町」を示しています。銘から、文永6年(1269)12月に建てられたことがわかります。「陸奥守平朝臣時茂」の銘もあり、北条時茂(極楽寺流、重時の子)が寄進しています。時茂はこの翌月に死去するようですが、御利益はなかったということでしょうか…。ま、北条氏は短命な人が極端に多いのですが。

町石はこの時期にまとめて寄進されているようなのですが、それはまた別途。

■和歌山県九度山町

2009.09.14

慈尊院

Jisonin_1Jisonin_7さて、今年のサマーセミナー+α編です。

最初は、高野山の麓にある慈尊院。平安期に高野山が設けた政所跡で、後に寺院となりました。当初ここから先の高野山方面は女人禁制だったので(徐々に緩くなっていったようです)、女性はここまでしか来られないため、「女人高野」とも呼ばれていました。空海の母親がここまでしか来られずにここで亡くなったことから、空海は弥勒菩薩をまつったという伝承があります。

左写真は山門に当たる北門で、天文9年(1540)には建てられていたと言われているようです。右写真は、本堂でもある弥勒堂(重要文化財)。鎌倉期の築。寛平4年(892)の銘がある本尊の弥勒菩薩像(国宝)は秘仏だそうです。

中世においては高野山の膝下荘園である官省符荘(現和歌山県橋本市[旧高野口町]など)の中心としても機能していたそうです。

Jisonin_9この寺院は高野山参詣のために山を登る出発点として位置づけられており、参道である「町石道(ちょういしみち)」の麓側の基点となっています。
そしてこの写真は、参道に一町(約100メートル)ごとに建てられた町石。参道は180町あることから、この石は「百八十町」の文言が刻まれています。18kmの山道、想像するだけでぞっとします(笑)。
今回は一部を歩いたので、それはまた後程。

Jisonin_2Jisonin_5境内には、古い石造物も残されています。

左写真は、「下乗石」。上だけ残っていて、北門脇に据えられています。
文字通り下馬・下乗をする場所を示すために置かれた標識ですが、保延2年(1136)の銘があったと言われています。ただ、現在は確認できないようです。

右写真は、巨大な五輪塔。中世のものでしょうか?
大永6年(1526)の一石五輪塔があるそうですが、これではないような…。ちゃんと説明を聞いておくべきだったなあ。このほか、応永8年(1401)銘の石灯籠もあるそうですが、見た記憶がない…(笑)。うっかりしてました。

Jisonin_8こちらは多宝塔。修理中でした。

この慈尊院は、熊野や高野山とともに世界遺産に登録されています(こちら参照)。山上はさすがの賑わいでしたが、こちらはややひっそりとしていました。まあ訪問時刻がかなり朝早かったせいかもしれませんが。

■和歌山県九度山町

2009.09.10

三渓園の中世建築

Sankeien_63Sankeien_64三渓園の続きです。
こちらはシンボル的存在ともいえる、旧燈明寺三重塔(重要文化財)。
燈明寺はかつて南山城の旧京都府加茂町(現木津川市)にあった寺院で、聖武天皇の勅願、行基の開基などの伝承があります。
建武年間に一度廃絶した後、室町期に復興。その後また荒廃した後に、近世にも復興しています。この頃になると、日蓮宗の寺院になっていました。
経緯はよくわかりませんが、明治期に川合芳太郎という人が寺院を買収し、その後三渓園に移築されました。

この三重塔は、室町期の復興の折、康正3年(1457)の建立とされています。関東では現存最古の塔です。
もっとも、本来はあるべき所に存在すべきなのであり、関東にあってよいのかどうか…。
なお、全面公開とのことで、中にも入れました(右写真)。塔の中に入れる機会は滅多にないので、貴重な経験でした。

Sankeien_87Sankeien_90こちらは旧燈明寺本堂(重要文化財)。室町初期の様式とされていますが、塔と同時期に建立されたものでしょうか。戦後に一度台風によって倒壊したそうですが、修復の上現在の場所に移築されたそうです。
このほか燈明寺にかつてあったものとして、宝徳2年(1450)の銘がある銅製多宝小塔(重要文化財)も三渓園が所蔵しているそうです。本堂に安置されているとのことですが、そんなのあったかなあ? 確認できませんでした。

Sankeien_49こちらは旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)。豊臣秀吉が、母である大政所の平癒祈願のため天正20年(1592)に建立した寿塔(じゅとう)の覆堂です。天瑞寺は、天正16年(1588)に秀吉が京都・大徳寺の境内に母の平癒を願って建立した寺院です。明治7年(1874)に廃寺となりました。寿塔そのものは、現在も天瑞寺跡地に建立した大徳寺塔頭の龍翔寺が所蔵しています。

Sankeien_70こちらは、旧東慶寺仏殿(重要文化財)。永正6年(1509)頃の建立とされています。
東慶寺は、弘安8年(1285)に北条貞時が母の覚山尼(かくさんに)を開山として創建した寺院で、縁切寺として知られていますね。現在も鎌倉にありますが、そちらの仏殿は昭和になってから改めて建立されたもののようです。
詳しいことはわかりませんが、廃仏毀釈によって荒廃しつつあったところ、原三渓が保存のために移築したと言われています。

Sankeien_77Sankeien_82最後は近世のものですが、旧矢箆原(やのはら)家住宅(重要文化財)。巨大な屋根で度肝を抜かれます。
合掌造の典型例として貴重なもので、かつては旧岐阜県荘川村(現高山市)にあったものです。宝暦年間(18世紀後半)に建てられたもの。ダム建設によって湖底に沈むのを防ぐため、三渓園に寄贈されたそうです。

フラッシュが焚けないので暗いですが(まあ技術の問題もありますが(笑))、右写真が中の様子。
二階もあり、そこでは養蚕が営まれていたようです。現在は民具などが展示されていました。


ほかにも趣のある建物がたくさんありますが、近代以降のものは基本的にカットしました。
また人の少ない時にのんびり見て回りたいところです。

■横浜市中区

2009.09.07

秋口の日常的小ネタ三題

懸案の原稿、〆切直前にしてなんとか仕上げました。
「完成」とは言い難い出来なのが情けない限りですが…。

ところで要項を見ると、図表は「割付レイアウト」を提出しろ、と書いてある。
何それ? 版下のこと? そんなの作ったことないんですけど。つーか図表がどの程度のスペースに入るかなんてわからないんですけど。そういうのって印刷業者がやってくれるものだと思ってましたが、業者を通さないのかなあ?
まあいいや。とりあえずいつも通りのスタイルで提出して、それから考えましょう。
ともあれ、ひとまず安堵。

今日(9月7日)の朝日新聞朝刊に載っていた、博士課程の定員減をめぐる議論に目が留まる。
定員減の推進派としてコメントしていたのは、某大学前学長。極端につまらない入学式の演説が、とても印象的なお方(笑)。諸々の言動などから個人的にこの人は好かんのですが、まあやっぱりね、っていう感じ。御用学者って楽ですねえ。

一方、反対派は「高学歴ワーキングプア」で物議を醸したあの人。同じ立場として一々共感でしたが、一般の人にとっては、主張が我が儘に映るでしょうねえ…。「自己責任」という声が聞こえてくる気がします。
もう一人は中庸といった感じでしたが、日本はまだ世界的に見て博士が少ないので、減らすのは慎重に、といった主旨でしたかね。

つらつら思うに、結局のところ、お上が博士の社会的効用を引き出せなかったということなんでしょうねえ。そもそも、そんな意図が端からあったか疑わしいという批判もあるでしょうけど(笑)。しかしこの件、どうなることやら。

このところパソコン廻りの増強はおろそかになっていましたが、思うところあって無線LAN導入。今まで有線で特に不便は感じなかったんだけど、将来のためのインフラといったところでしょうかねえ。心なしか、幾分速くなった気もする(気のせい?)。
もう一つ、バックアップ目的で外付けHDDを購入。当たり前ですが、随分安くなったんですねえ。もはや単位がテラ(1000GB)になってるし。テラというと、テラドライブを思い出します(笑)。
私は500GBを購入。これでも十分すぎるくらい。

今までバックアップはUSBメモリだけで賄っていましたが(まあ最も重要なものはこれで足りるぐらいなんですが)、HDDも活用することにしました。データが飛んだら生活に関わるので、これまでよりデータ管理にはより慎重になろうと思います。みなさんも十分な対策を。

というか、そろそろメインのパソコンが怪しい感じ。時々勝手に落ちます(特に立ち上げ直後)。これって何が原因なんですかねえ? CPU廻りはまめに掃除しているんですが…。

2009.09.05

横浜三渓園の古建築

Sankeien_1Sankeien_10少し時間が経ってしまいましたが、盆休み期間中に横浜は本牧にある三渓園へ行ってきました。
理由は、園内のすべての建物を全面開放していたためです。もっとも、そのお蔭ですごい人出。写真を撮るのに相当苦労しました…。まあ途中からはもう諦めて人が入るのもお構いなしになりましたが(笑)。

近代に生糸貿易で財を成した原三渓が、京都や鎌倉から古建築を移築して展示した公園で、中世から近世初頭にかけての建物も多くあります。

Sankeien_23Sankeien_39左写真は、月華殿(重要文化財)。慶長8年(1603)に徳川家康が伏見城に建てた、諸大名控え室の建物です。伏見城廃城の後は三室戸寺(みむろとじ)金蔵院(京都府宇治市)に移築され、1918年に三渓園に移されました。

右写真は、春草廬(重要文化財)。月華殿に附属して建てられた茶室とされています。月華殿と同じ経緯で三渓園に移築。織田有楽斎が建てたものとも言われています。

Sankeien_33Sankeien_4左写真は、天授院(重要文化財)。慶安4年(1651)築。元は鎌倉の建長寺の側にあった心平寺という寺院の地蔵堂とされています。かつて堂内にあった仏像は、今は建長寺に安置されているとか。

右写真は、旧原家住宅。鶴翔閣と呼ばれ、原三渓の旧居です。

Sankeien_56Sankeien_52こちらは、臨春閣(重要文化財)。慶安2年(1649)に、紀州藩初代の徳川頼宣(家康の子)によって、現在の和歌山県岩出市(旧岩出町)の紀ノ川沿いに建てられた別荘です。かつては「巌出御殿」と呼ばれ、後に将軍となった徳川吉宗がここで育ったんだそうです。
桂離宮(京都市西京区)とともに、数寄屋風書院造として貴重なものです。現在の大阪府泉佐野市に移築された後、1917年に三渓園に移築。庭園の風景と合わさって、なかなか風流です。中には襖絵や豊臣秀吉ゆかりの調度品もありますが、じっくり見るには人が多かったです…。

残り(実質メイン)はまた別途。

■横浜市中区

2009.09.02

雲峰寺

Unpoji_1Unpoji_4山梨編の残り一つ、雲峰寺(うんぽうじ)です。

現在は臨済宗妙心寺派の寺院ですが、寺伝では天平17年(745)に行基の開基とされています。というわけで、当初は天台寺院だったと言われています。
中世には甲斐源氏の祈願所となり、特に守護武田氏の保護を受けました。天文期に火災に遭いましたが、武田信虎の保護を受けるなどして復興。勧進によって伽藍が再建されました。

左写真の本堂(重要文化財)と右写真の書院(重要文化財)は、その時に再建されたものです。このほか庫裏と仁王門(いずれも重要文化財)も現存していますが、こちらは今回確認できませんでした。

雲峰寺には宝物殿があり、武田氏の旗印として知られる「孫子の旗」(風林火山)をはじめ、「諏訪神号旗」「日の丸御旗」などが収められています。ただしあいにく休館日に訪問したので、中には入れませんでした。
このほか、武田信虎印判状などの中世文書も所蔵しています。山奥でなかなかアクセスが困難ですが、一度は訪問しておきたい古刹ですね。

■山梨県甲州市(旧塩山市)

2009.09.01

将来が気になる節目

10日間ほどの長期遠征期間が終了。これから10日間は、必死で原稿を書き上げる期間です(笑)。

衆院選がなかなか盛り上がりましたが、日常に追われてそれどころではない感じです。
もっとも開票番組はしっかり見たわけですが(笑)、旅先の映りの悪いテレビで見ざるを得ず、欲求不満。デジタルとはいわないまでも、もうちょっと映りがなんとかならぬものなのか…。

しばらく世情も落ち着くでしょうし、やっと暑さもおさまりつつありますし、できることを着実にできるように気を引き締めたいと思います。次々に〆切原稿が舞い込んでいることですし…。ま、それはそれで幸せなことでもあるのですが。

年齢的にも、一つの節目を迎えました。現状を鑑みるに誕生日というのは、将来に対する一抹の不安が頭をもたげる点であまり喜ばしいものではないのですが。そういや、芥川龍之介が自殺したのもちょうど今のトシだなあ…なんて考えるとちょっと暗いですね(笑)。
まあ悩んでもいいことはないので、ケセラセラを心がけます。


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