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2009.10.01

高野山奥の院(2)

Koyasan_44Koyasan_9奥の院に建ち並ぶ墓を紹介してゆきます。
といっても、全部というのはもちろん無理なので、有名人とか文化財として知られているものをピックアップしました。原則的に一番奥(弘法大師廟側)から手前(一の橋)の順番になっています。

まずはじめは、少しルートから外れた企業墓が建ち並ぶ区画にある親鸞廟(右写真)。中の五輪塔は比較的古そうですが、どうでしょうか。保存状態も良く、大切にされてきた様子が窺えます。
織田信長墓もかなり奥の側にありましたが、こちらで載せたので割愛。

Koyasan_31大きな外様大名の墓所が建ち並ぶ一画にあるのが豊臣家墓所。わりと余裕のある敷地が割かれています。
中央はおそらく秀吉の墓と思われますが、秀吉は高野山の保護を積極的に行ったこともあって、墓所も「厚遇」されたのでしょうか。

Koyasan_35こちらは、結城秀康石廟(重要文化財)。秀康は徳川家康の二男で、はじめは秀吉の養子となったものの、結城氏の名跡を継いで、後に越前福井(北ノ庄)藩主となりました。慶長12年(1607)に34歳で父より先に死去。家康はその死を悲しみ、この石廟を築いたとされています。

Koyasan_38Koyasan_48左写真は、法然の墓所だそうです。といっても、五輪塔は近世の様式に見えました。後世に供養塔として築かれたものでしょうか。

右写真は、「大津籠城戦死者追弔碑」。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に伴う近江大津城の籠城戦で戦死した人々の供養塔です。
当時の城主であった京極高次は、はじめ西軍として大谷吉継と連携していましたが、東軍に寝返って籠城。毛利(末次)元康(毛利元就の子)や立花宗茂らの大軍に攻め寄せられ、必死に抗戦するも関ヶ原の決戦直前に降伏。高次は高野山に蟄居となります。しかし関ヶ原で東軍が勝利すると、功績が認められて若狭小浜藩主となりました。ちなみに高次の妻は浅井長政の娘(初、常高院)で、いわゆる「三姉妹」の一人で知られていますが、彼女もともに籠城したと言われています。
この供養碑がいつ建てられたものかはわかりませんが、高野山と関わりの深い高次によって建てられたものでしょうか。

Koyasan_50Koyasan_54そして左写真は、その「三姉妹」の一人で、徳川秀忠正室・崇源院(江)の墓。奥の院の墓石群では最大(6.6メートル)で、「一番石」と呼ばれているそうです。子の徳川忠長(家光の弟)が、母の死去の翌年に当たる寛永4年(1627)に建立しました。

右写真は、その傍らにある天樹院(千姫)の供養塔。秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室として知られていますね。豊臣氏滅亡後は播磨姫路藩主の本多忠刻(ただとき)の室となりました(この時起こったといわれる石見津和野藩主・坂崎直盛による「千姫事件」は、事実かどうか微妙?)。
ともあれ、千姫は寛文6年(1666)に江戸で死去。正式な墓所は小石川伝通院にあります。同じ頃に高野山にも供養塔が建てられたのでしょうか。

この先は次回にて。

■和歌山県高野町

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