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2009.10.05

高野山奥の院(3)

Koyasan_68Koyasan_71続きです。
左写真は、最上義光の墓。このほか、最上氏の関係者の墓が並んでいます。

右写真は、「高麗陣敵味方戦死者供養碑」。慶長4年(1599)に、島津義弘・忠恒(家久)が朝鮮出兵における敵味方の戦死者を供養したものだそうです。珍しい様式(大陸的?)で、同じような五輪塔が建ち並ぶ中にあっては異彩を放っていました。

Koyasan_75Koyasan_78左写真は禅尼上智という女性の墓。銘によると「立沙(弥)蓮阿」という人が永和元年(1375)に建てたものです。高野山は元々女人禁制だったわけですが、年代のわかる女性の墓のうち最も古いもの。この時期になると女性の墓も建てられていたようですね。

ここで、右写真の「中の橋」を渡ります。

Koyasan_79Koyasan_81橋の傍らに、左写真の「姿見の井戸」があります。空海が掘った井戸と伝わっていて、眼病に効くとか、水面に姿が映らないとと不吉とか、いろんな伝承があるようです。

右写真は、市川団十郎の墓。たぶん、17世紀後半に活躍した初代のものでしょう。元禄17年(1704)に舞台の上で刺殺されるという、今聞いてもなかなかショッキングな最期を迎えています。

Koyasan_84Koyasan_87左写真の墓には看板も無くみな通り過ぎていましたが、銘を見ると奥平信昌の墓であることがわかりました。
奥平(おくだいら)氏は奥三河の作手(つくで。現愛知県新城市[旧作手村])を本拠とする国人領主です。いわゆる「境目の領主」として今川氏・松平(徳川)氏・武田氏の間を渡り歩き、最後は武田勝頼に人質を殺されながらも再び徳川家康に属して家臣となりました。
この奥平信昌の「寝返り」が長篠の合戦の契機となりましたが、彼は長篠城に籠城して死守しました。磔の絵で有名な鳥居強右衛門(すねえもん)は、信昌の被官とされています。
こうして徳川家中の重鎮となり、主家の関東転封によって上野国に所領を移した後、関ヶ原の後は美濃加納(現岐阜市)で10万石の大名となりました。慶長20年(1615)没。墓は、元和3年(1617)の三回忌の際に建立した旨の銘を確認できました。

右写真は、本多忠勝の墓。家康の重臣として有名ですので、説明は略。彼は慶長15年(1610)に死去しています。

Koyasan_101Koyasan_102左写真は、明智光秀の墓。ほんまかいな?という感もしないでもないですが…(笑)。光秀の墓は各地にあるようです。

そして右写真は、石田三成の墓。いつ建てられたものかはわかりませんが、家康は処刑した際に三成の墓を設けることを許さなかったと言われているので、いずれにせよ死去してかなり経ってから築かれたのではないかと思われます。
ちなみに、三成を拘束し処刑の段取りを整える役を担ったのが、当時京都所司代だった奥平信昌でした。いずれも供養塔とはいえ、それぞれが近くに祀られているというのはなんとも皮肉なものです。

まだ続きます。

■和歌山県高野町

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