高野山奥の院(5)

奥の院の最終回です。
左写真は、多田満仲の供養塔。10世紀に活躍した人で(「武士」と呼んでしまうと多分まずいので(笑)、なんと言ってよいのか。)、源氏の祖と呼ばれることもあります。
摂津の多田(現兵庫県川西市)を本拠としており、当地には、廟所の多田院として有名な多田神社があります(実は、私はまだ行ったことがないのですが…)。
満仲の墓といえば、箱根に宝篋印塔も有名ですね。ほかにも各地にあるようです。
右写真は、北条氏墓所。16世紀のものかも?というものもいくつか見受けられました。やはり滅びた家の悲哀か、ほかの墓石に比べてこぢんまりしています。
高野山との関わりといえば、最後の当主といえる北条氏直は、小田原落城後に高野山高室院で蟄居しています。結局氏直は、天正19年(1591)に山麓の天野(現和歌山県かつらぎ町)で死去したと言われています。長命であれば、家名は長らえた可能性が高い、とも言われていますが…。もっとも、代わって一族である北条氏規の子孫が大名として生き残ってゆきました。
町石がぽつんと建っています。
実はこの町石が、現存最古のものです。「奥之院二十三町石」と呼ばれるもので、銘によると、文永3年(1266)に大江(海東)忠成(ただしげ、大江広元の子)の寄進によって建てられたものであることがわかります(忠成自身は、前年に死去しているようですが)。
町石建立自体は、文永2年(1265)に始まった勧進に基づくとされており、この町石は歴史的にもごく初期に建てられたものといえます。

さて、終盤です。親鸞の墓所とかもあったのですが、時間の都合などでパス。
「一の橋」に近づいてくるとまたでっかい五輪塔が目立つようになりますが、どうやらこれらはかなり下った時代(19世紀頃か)に建てられたのではないかという気がしました。
さて、左写真は河野通直の墓。河野氏は高野山への信仰が篤く、実際に参詣もしていたようです。
ただ、この通直、“どの”通直なんでしょう(同名異人が3人いるので)。
右写真は、手前が筑後久留米藩主・有馬氏の墓所。ご存じ赤松氏の末裔です。
注目したいのは、実は奥にちらっと見える廟なんです…。うまく写真の撮れる場所がありませんでしたので、こんな状態。
これは、佐竹氏墓所にある佐竹義重霊屋(重要文化財)。義重は戦国期の当主で、後北条氏や伊達氏と争い、最終的には秋田(久保田)へ移るなど、波瀾万丈なお人。鹿島氏などの国人領主たちを謀殺するなど、えげつないエピソードを持っていたりしますが…。
この霊屋は慶長4年(1599)に建てられたことが銘によって確認されています。この時はまだ義重は存命であるわけでして、銘にもある通り、逆修(生前供養)として建てられました。
最後は、曽我兄弟供養塔。満仲と曽我兄弟というのは、やはりセットなんですね(笑)。
近世に建てられたものでしょうか。
今回取り上げたものはごく一部で、大量の墓石群は圧巻でした。立派なのに看板もない墓がたくさんありましたけれども、その中には先に紹介した奥平信昌のように、結構な有名人の墓が埋もれているのかもしれません。
まあ、たぶん調査そのものはされてはいるのでしょうけれども…。
■和歌山県高野町
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