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2009年10月

2009.10.30

NHK教育の中世ネタ二件

NHK教育「知る楽 歴史は眠らない」の第2回を見ました(第1回の感想はこちら)。

堺を中心としたお話。大徳寺の文書とか、いろいろと見られて面白かったです。(一部、文書の該当箇所と字幕が合ってないのが気になりましたが…)。

一つ気になったのは、番組中では1貫文を現代の価値で100万円に設定している模様でしたが、これはどうなんでしょうかねえ。
安易に現代の物価と比べるのは慎むべきとはいえ、イメージを膨らませるためにはある程度そういう目安を提示することが一概に悪いこととは言えないと思います。ただ、かなり価値を高めに見積もってませんかねえ?
時代にもよりますが、私は中世後期だと1貫文はおよそ10万円くらいかなあといった感覚です(1文は100円位)。1文=1000円はいくらなんでも高すぎると思うんですけど、何か根拠はあるのでしょうか。

ちなみに細かいことですが、少なくとも堺において、100文の「さし(緡)」に銭は100枚ないと思います。たぶん97枚でしょうかね(「省百」による)。また、「緡銭」は「さしぜに」と読んで間違いとまでは思いませんが、『日葡辞書』では「緡」を「びん」と読んでいるので、「びんせん」と読む方が正しそうです。

もう一つ、NHK教育のETV特集でやっていた「シリーズ日本と朝鮮半島2000年・第7回 東シナ海の光と影~倭寇の実像を探る~」を見ました。次々と登場する専門家の方々はお会いしたことのある方ばかりで、ニヤニヤしながら見てました。ユンソナと会話できて羨ましいなあと、くだらないことを思いつつ(笑)。

タイトルの通りテーマは倭寇だったわけですが、中世史では最もナイーブなテーマにもかかわらず、その核心にかなり踏み込んでいたので好感を持てました。私はまだ韓国に行ったことがないのですが、映像を見ていて、やっぱり一度は現地に行ってみたいものだ、と思ったりしました。はてさて、いつになるやら。

このシリーズをやっていたのを今まで知らなかったのですが、前回は蒙古襲来だったんですね。これも見たかったなあ。次回は秀吉絡みとのことで、また微妙なテーマですが、踏み込んだ内容になっていることを期待して待ちたいと思います。うっかり見逃してしまわないように気をつけないといけませんが。

一つ言うならば、あえてそうしているのでしょうけれども、朝鮮(韓国)側の人名がすべて片仮名表記のみになっていたのは、少し配慮していただけませんでしょうかねえ(なぜか世宗だけは平仮名でフリガナをふってましたが)。漢字を併記していただくとありがたいです。「イ・ソンゲ」って言われてすぐに李成桂だとわかる日本人は、そんなに多くはないように思うんですが。

2009.10.26

五條 御霊神社

GojogoryoGojogoryo_2ここから奈良県に入ります。
五條にある御霊神社。この地域には御霊神社が多く建っているそうですが、ここがその本社。
井上(いのえ)内親王・早良親王・他戸(おさべ)親王を祀り、延暦年間に創建されたとの社伝があります。井上は光仁天皇の皇后で、他戸は二人の間の子。母は異なりますが、早良もまた光仁の子です。
いずれも8世紀の権力闘争に敗れた人たちで、悲劇の人々の祟りを鎮めるといった意味が込められているのかもしれません。当初は霊安寺という寺院で、御霊神社は鎮守という位置づけだったようです。

縁起によると、御霊信仰の流行もあったのでしょうか、鎌倉期にかけてこの地域に多くの分社が建てられたそうで、地域の有力寺院(神社)として発展したと思われます。しかし正長元年(1428)に勃発した土一揆に対し、それを撃退しようとした畠山氏によって焼き払われたとされています。その後文明4年(1472)に本殿が再建されたことが、棟札によりわかっています。

Gojogoryo_3Gojogoryo_6こちらが本殿および早良神社・他戸神社(いずれも重要文化財)。覆屋があるため、うまく写真が撮れませんでした…。
近世以降度々改修されているようですが、15世紀の神社建築として貴重です。

境内には中世の石灯籠もあったようですが、見落としました…。そんなのあったかなぁ?

■奈良県五條市

2009.10.24

書評を受けるという初体験

先日届いた某雑誌を何気なく繰っていて、「あれ?なにか見覚えのある名前が」と思って見直してみたら、自分の名前でした(笑)。

書評というのはするものという感覚で来ましたが、初めて書評をしていただきました。数々の研究書が世に送られている中で、拙著を書評の対象として取り上げていただき、なおかつ第一線で活躍され、私にとって目標としている方に執筆の労を執っていただいたことは非常に光栄なことで、身の引き締まる思いです。
最近はこれから何をすべきなのか思い悩む節もあったのですが、今後なすべき指針を的確に指摘していただいて、俄然やる気が湧いてきました。

もっとも、拙著で大風呂敷を広げたことについては、ベースとなった博論という性格を考えてある程度確信犯的であったことも確かです。ただ、博論を書いてもなお「もっと大きな話をせねば」とこれまでは考えていたのですが、それでは行き詰まりつつあるというのが現状なのかもしれません。
今までそんな姿勢で来たために、じっくり積み上げるべき実証作業が十分でなかったことは確かなわけです。この点を反省し、今後はしばらく地道に史料を探しながら事例を積み上げる作業に軸足を置きたいと思います。

というわけで、早速史料集を借りてきて、久しぶりに“めくり”をやっています(我ながら単純な性格)。当たり前かつ地味な作業ですけど、実はこういう作業は嫌いではないので、初心を思い出して史料の発掘を楽しみたいところです。できれば未活字の史料を発掘できると嬉しいのですが…(そんなに甘くはないか)。

先日は別の件でちょっと自信を失いかけることもあったのですが、これを機に気を取り直して再スタートしようと思います。
まずは、なんとか〆切原稿のネタを見つけないと…(笑)。

2009.10.23

隅田八幡神社

SudahachimanSudahachiman_6お次は隅田八幡神社。欽明天皇の勅願による創建とか、貞観年間頃(9世紀半ば)頃の創建とか、いろいろと伝承があるようです。

実態としては、この神社の創建については、隅田荘が石清水八幡宮領の荘園となったことと関わっているのではないかと思われます。長治2年(1105)には、隅田一族の祖とされ、荘官でもあった藤原(長[なが])忠延がこの神社の俗別当となっていることがわかっています。これ以後、隅田一族の氏神として信仰されたそうです。おそらくは、荘鎮守も兼ねていたのでしょう。

鎌倉期には隅田一族が幕府の御家人になったことによって、当地も幕府の影響を受けるようになったと言われており、徐々に石清水八幡宮の影響力が衰えていったようです。南北朝期には高野山の影響も受けたりして、室町期になると結局は守護畠山氏に支配をされるようになりました。

さて、隅田一族といえば在地領主の典型例として研究面ではよく知られた存在で、一族による一揆結合についても注目されてきました。近年ではその見直しも進みつつあるようですが…?

Sudahachiman_7Sudahachiman_9左写真は、境内にあった力石。由緒については、何か説明があったかもしれませんが忘れました…。

右写真は、本殿の裏手にあった経塚。むかしは、この場所は神功皇后遺物塚という伝承があったようですが、1998年の調査によって3基の経塚が発見されたそうです。そのうち、長寛2年(1164)の墨書銘のある経筒が発見されており、この時期に作られたものであることがわかりました。
アングルがいまいちですが、柵に囲われていて、これが精一杯な感じでした。

Sudahachiman_12境内には、このような珍しいオブジェがあります。

実のところ、隅田八幡といえばこちらの方が有名かもしれない、という人物画象鏡(国宝)をかたどったものです。「癸未年」の銘があり、383年・443年・503年のいずれかに当たると推定されています。銘については、解釈が諸説あるそうなので、詳しい話は省略(そもそも私もあまり詳しくないもので…)。
中国製のものを真似て作った仿製鏡(ぼうせいきょう)と呼ばれるものの代表例として、教科書にもよく載っているものです。
当然ながら、そうやすやすと実物を見ることができるわけでもなく…。

Sudahachiman_1Sudahachiman_3周囲の風景。特に変わった所はないですが、のどかな風景でした。
時にはこういう風景に浸ると癒されます…なんて言うと年寄り臭いですかね(笑)。

参考文献:
鈴木国弘「隅田荘」(網野善彦ほか編『講座日本荘園史』8、吉川弘文館、2001年)

■和歌山県橋本市

2009.10.22

利生護国寺

RishogokokujiRishogokokuji_2高野山の麓、旧隅田(すだ)荘の地域へ。

国道24号線沿いにある利生護国寺。寺伝では行基の創建とされ、鎌倉期に「沙弥願心」の寄進により、西大寺末寺として再興したと言われています。また、叡尊が度々隅田を訪れていることから、何らかの関わりが推測されています。
この「願心」はこの地域に勢力を拡げた隅田一族の上田氏であったことがわかっており、隅田一族との関わりの深い寺院として知られています。しかしそれだけではなく、なんらかの形で鎌倉幕府からも庇護を受けていたともされています。

右写真は本堂(重要文化財)。建武年間に一度焼けた後、14世紀後半に再建したものとされています。その後も何度か修理の手が入ったようですが、いかにも南北朝期の寺院建築といった印象です。

Rishogokokuji_5その後も隅田一族から厚い保護を受けていることがわかっており、実質的には隅田氏の菩提寺だったとも言えるようです。
本堂裏には、写真のように中世の石造物がずらりと並んでいます。これが隅田一族の墓と伝わっています。
過去にはこの墓石の調査もされたそうで、銘も一部確認されていると聞いたように記憶していますが(曖昧)、肉眼では当然ながら見えず。

■和歌山県橋本市

2009.10.19

高野山 美福門院陵・苅萱堂・女人道など

Koyafudoin_2Koyakumagaiji_2最後は、いくつかの史跡をめぐり女人道を歩きました。

左写真は、不動院にある美福門院陵。美福門院は藤原長実の娘で、名は得子(なりこ)。鳥羽院の皇后で、近衛院の母、という人です。
院政期において大きな政治勢力となった存在として「女院」が知られていますが、美福門院はその走りであり、代表的な存在です。娘の八条院の二代にかけて、天皇家の経済基盤ともなる広大な荘園支配(八条院領)を達成したことでも知られています。
永暦元年(1160)に死去。遺言により高野山に葬られましたが、女人禁制との関係で紛議があったようです。

右写真は、熊谷寺(くまがいじ)にある、伝熊谷直実使用の兜(だったと思います)。
直実は一ノ谷の戦いにおけるエピソードで知られていますが、平敦盛を討ったことに思い悩み、常に出家への希望を抱きながら御家人の勤めを果たしていた、とも語られてきました。結局は法然の弟子として出家しました。
高野山の熊谷寺には、建久元年(1190)に立ち寄り、敦盛の供養を行ったと伝わっているそうです。また、法然の供養塔も建てられたとか。このほか、中世の大般若経を所蔵しています。

Karikayado_2Karikayado_3左写真は、苅萱堂(かるかやどう)。「苅萱(刈萱)」は説経の代表作とされ、室町から江戸期にかけて流布したそうです。
概要は次の通り。

九州の領主である「加藤左衛門繁氏」が花の散るのを見て発心し、法然の手によって剃髪して苅萱道心と名付けられます。その後は妻子と離れて高野山に登ったところ、妻と子の「石童丸(石道丸、とも)」が訪ねてきます。女人禁制のため妻は麓に残り、石童丸が一人で登ってきて対面。しかし父は子に会っても、修行のため父とは名乗らず避けようとします。石童丸に「父は死んだ」と言い、母と菩提を弔うよう促して山を下らせます。しかし下ったところ、既に母は亡くなっていました。嘆き悲しんだ石童丸は、本当は父である苅萱道心のもとで出家。その後は決して親子であることを明かさず、40年もの間、この堂で修行に励んだ、というお話です。

お堂では、それぞれの場面を描いた絵が額入りで掛かっており、独特な調子で「絵解き」もしていただくことができます(有料)。

右写真は、お堂の傍らにあった石童丸の母の供養塔とされる宝篋印塔です。

Nyoninmichi_1
Nyoninmichi_3さて、女人道へと向かいます。
登る途中に左写真のお堂がありました。これどういうものでしたっけ…?
右写真が、女人道の様子。場所にもよりますが、結構勾配のきつい道もありました。女性にはなかなか大変だったように思います。(まあ現代人は男性でも大変ですが(笑))。

Nyoninmichi_4Nyoninmichi_9結構きつい道を歩ききると辿り着くのが、円通律寺。かつては専修往生院と称し、高野山別所のうち、小田原別所・中別所・東別所に対して、新別所と呼ばれたそうです。重源による再興と伝わり、現在でも修行の道場として静寂が保たれています。普段、拝観はできません。
さらに女人道を歩いてゆくと、右写真のような風景に出会いました。

Nyoninmichi_20そして下りてきました。
最後に、「虎屋薬局」。高野山で最も古い商家建築だそうです。1890年に高野山で大火があったそうですが、その直後に再建されたものとされています。今も薬局として現役です。

このほか、高野山霊宝館にも行き、貴重な宝物も拝観いたしました。過去の展覧会の図録も揃えてあり、資料集めのためにも立ち寄る価値があります。

以上、高野山のシリーズはこれで終了です。

■和歌山県高野町

2009.10.15

高野山一心院谷の史跡

Tokugawareidai_6高野山のうち、蓮華定院もある一心院谷と呼ばれる地域の史跡です。

まずは、徳川家霊台(重要文化財)。徳川家康と秀忠親子の霊廟です。寛永18年(1641)の墨書が確認されており、この頃に建てられたと考えられていますが、落慶は寛永20年(1643)とされています。様式は唐様。

Tokugawareidai_2Tokugawareidai_4左写真は家康、右写真は秀忠。並びとしては、右側が家康で左側が秀忠です(逆になって紛らわしくてすみません)。

微妙に彫刻に違いはありますが、様式はほぼ同じで、同時に建てられたと考えてよいようです。境内の石灯籠には「大塔御再興、霊台御造営」とあることから、高野山伽藍の大塔再建と同時に造営されたと考えられています。
材木は高野槙を使っているそうですが、大塔再建のものを一部流用したとも言われています。
屋根は、当初は銅板葺で、一度明治末期に檜皮葺に変えたそうです。今は瓦葺のように見えますが、銅板葺のようです。

Nyonindoこちらは、女人堂。高野山の北西側入口である不動口にあります。女人禁制の地域の境界にいくつか建てられていたものですが、現存するのはこれが唯一とのことです。
女人禁制の地域は徐々に狭まったものの、千年にわたって、ここから先には入れなかったそうです。境界に沿うようにして道が巡っており、この道は「女人道」と呼ばれています。女人道については次回。

NamikirifudoRengejoin1_8左写真は、高野山南院。本尊の不動明王像(重要文化財)は空海の作とされ、浪切(なみきり)不動尊と呼ばれています。平将門の乱を鎮めたという伝承などがあります。
蒙古襲来の際には、博多まで不動像を持ってゆき祈祷までしたそうで、それによってモンゴル軍を斥けたという伝承が広がり、篤く信仰されてゆきました。浪切不動は航海の守護として各地で信仰されていますが、ここが本家本元。
本尊は秘仏ですが、6月28日だけ開帳されるそうです。

右写真は、蓮華定院のお隣西室院(にしむろいん)にある五輪塔。源頼朝・頼家・実朝三代の供養塔で、高野山では最古の石造物とされています。こちらも、かなり規模の大きな宿坊のようですね。

■和歌山県高野町

2009.10.14

田中健夫さん逝去

中世対外関係史の泰斗が、旅立たれました。
奇しくも、今なお輝きを失わない高著を世に問われてからちょうど半世紀でした。
過日の岡元司さんの突然の訃報ともども、立て続けで驚いています。

私はまだまだ足下にも及びませんが、築き上げられた高みに少しでも近づけるよう思いを新たにすることで、哀悼の意に替えたいと存じます。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

2009.10.13

高野山奥の院(5)

Koyasan_134Koyasan_137奥の院の最終回です。
左写真は、多田満仲の供養塔。10世紀に活躍した人で(「武士」と呼んでしまうと多分まずいので(笑)、なんと言ってよいのか。)、源氏の祖と呼ばれることもあります。

摂津の多田(現兵庫県川西市)を本拠としており、当地には、廟所の多田院として有名な多田神社があります(実は、私はまだ行ったことがないのですが…)。
満仲の墓といえば、箱根に宝篋印塔も有名ですね。ほかにも各地にあるようです。

右写真は、北条氏墓所。16世紀のものかも?というものもいくつか見受けられました。やはり滅びた家の悲哀か、ほかの墓石に比べてこぢんまりしています。
高野山との関わりといえば、最後の当主といえる北条氏直は、小田原落城後に高野山高室院で蟄居しています。結局氏直は、天正19年(1591)に山麓の天野(現和歌山県かつらぎ町)で死去したと言われています。長命であれば、家名は長らえた可能性が高い、とも言われていますが…。もっとも、代わって一族である北条氏規の子孫が大名として生き残ってゆきました。

Koyasan_139町石がぽつんと建っています。
実はこの町石が、現存最古のものです。「奥之院二十三町石」と呼ばれるもので、銘によると、文永3年(1266)に大江(海東)忠成(ただしげ、大江広元の子)の寄進によって建てられたものであることがわかります(忠成自身は、前年に死去しているようですが)。
町石建立自体は、文永2年(1265)に始まった勧進に基づくとされており、この町石は歴史的にもごく初期に建てられたものといえます。

Koyasan_143Koyasan_147さて、終盤です。親鸞の墓所とかもあったのですが、時間の都合などでパス。
「一の橋」に近づいてくるとまたでっかい五輪塔が目立つようになりますが、どうやらこれらはかなり下った時代(19世紀頃か)に建てられたのではないかという気がしました。

さて、左写真は河野通直の墓。河野氏は高野山への信仰が篤く、実際に参詣もしていたようです。
ただ、この通直、“どの”通直なんでしょう(同名異人が3人いるので)。

右写真は、手前が筑後久留米藩主・有馬氏の墓所。ご存じ赤松氏の末裔です。
注目したいのは、実は奥にちらっと見える廟なんです…。うまく写真の撮れる場所がありませんでしたので、こんな状態。
これは、佐竹氏墓所にある佐竹義重霊屋(重要文化財)。義重は戦国期の当主で、後北条氏や伊達氏と争い、最終的には秋田(久保田)へ移るなど、波瀾万丈なお人。鹿島氏などの国人領主たちを謀殺するなど、えげつないエピソードを持っていたりしますが…。
この霊屋は慶長4年(1599)に建てられたことが銘によって確認されています。この時はまだ義重は存命であるわけでして、銘にもある通り、逆修(生前供養)として建てられました。

Koyasan_155最後は、曽我兄弟供養塔。満仲と曽我兄弟というのは、やはりセットなんですね(笑)。
近世に建てられたものでしょうか。

今回取り上げたものはごく一部で、大量の墓石群は圧巻でした。立派なのに看板もない墓がたくさんありましたけれども、その中には先に紹介した奥平信昌のように、結構な有名人の墓が埋もれているのかもしれません。
まあ、たぶん調査そのものはされてはいるのでしょうけれども…。

■和歌山県高野町

2009.10.12

日本史研究会大会と大徳寺

今年も日本史研究会大会に出席しました。
テーマについては、私はまったくの門外漢でしたが、それゆえにかえって知らないことが多かったので、楽しく拝聴できました。内容も理解しやすく、勉強したなあという感じです。

討論を聞いていると、残された課題はあるようですが、課題はある方がモチベーションも高まるものというものです。今後の展開を期待しております。(なんか偉そうですが(笑))

昼休み中は会場に近い大徳寺に行ってきました。初めて行ったので、じっくり見て回りました。目当ては総見院の期間限定公開だったのですが、寺宝の「曝涼」(虫干し)を一年で一日だけという触れ込みでやっていたのが収穫。しかし、唐門って写真撮れないんですね…。ここが少々残念。
このネタは例によって追々ということで。

おかげで本を見て回る時間がなくなり、終了間際に慌てて購入予定のものを買い込む。
ドタバタしつつも、充実した二日間でした。というか、学会に行ったというより、京都に遊びに行ったという感がしないでもないですが(笑)。ともあれ、運営に携わったみなさん、ありがとうございました。
(今年も、たくさんの方に「ブログ見てます」と言われました…(笑)。)

2009.10.08

高野山奥の院(4)

Koyasan_103Koyasan_106左写真は、島津家久・光久・綱久の墓。家久(忠恒)は島津義弘の子で、初代薩摩藩主。光久は家久の子で、2代藩主。綱久は光久の嫡子でしたが、家督を継ぐ前に死去したので、歴代藩主には数えられていません(家督は綱久の子の綱貴が継ぎました)。

右写真は、奥に見える廟が井伊直弼の廟所です。有名人なだけに、立派ですね。

Koyasan_113Koyasan_115左写真は、伊達政宗の墓。この辺まで来ると、造りがみな似ているので段々飽きてきます(笑)。

右写真は、榊原康政の墓。家康の重臣として有名ですね。本多氏や奥平氏などと同じく、元は三河の国人の家の出身です。上野館林藩(現群馬県館林市)の初代藩主となりました。菩提寺も館林にあるそうです。

Koyasan_118こちらは、上杉謙信・景勝霊屋(たまや)(重要文化財)。「上杉謙信廟」とも呼ばれています。
上杉輝虎(謙信)は天正2年(1574)に上洛しましたが、その際高野山に参詣しており、謙信の法名も高野山で授かったと言われています。
この霊屋は近世初頭に建てられたものとされています。上杉景勝が建立させたという説もあったような気がしますが(根拠曖昧)、はっきりしたことはわからないようです。
奥の院のメインを張る史跡の一つですね。

Koyasan_123Koyasan_127面白いことに、近くには左写真の武田信玄・勝頼親子の墓があります。撮影した時は手前の石碑かと思ったんですが、どうやら奥の五輪塔のようですね。見にくくてすみません。
ほかの近世大名たちが立派なものを建てているのに比べて、わりと大人しめな感じがします。滅亡した一族の悲哀とも言えましょうか。

右写真は、近くにあった「馬場美濃守信有の墓」。近世に建てられたようです。銘には実名も彫ってあったようなのですが、確認できませんでした。「信有」ってのは、小山田信有と混同したのでしょうか…?
馬場美濃守については確か一次史料で実名を確認できないので、なんともいえませんが。

あと一回続きます。

■和歌山県高野町

2009.10.07

中世の借金事情 雑感

久々にすごい台風が迫ってますね。
被害が小さければよいのですが。
比較対象として5年前の台風が取り上げられているようですが、この時は確か、日本史研究会大会の前日から当日にかけてでしたっけね(新幹線の運行が微妙だったので、結局私は行かなかったのですが)。今年はすこし前にずれましたね(笑)。(この時の記事はこちら

昨日、NHK教育の「知る楽 歴史は眠らない」を見ました。テーマは中世の借金や融通について。関連する著書を出されたIさんがナビゲート役のようです。
それにしても、中世の話をしている時に寛永通宝を出すのはやめてもらえませんかねえ…(笑)。

そんな些末なことはさておき。現代の金融は冷徹だと批判する立場から、中世ですらこんなに血の通った融通を行っていたんだ、という主旨のようです。
間違っているとは思いません。ただ、中世の融通がすべて「ハートフル」なわけではないことは留意すべきではないでしょうか。言い方によっては、むしろ中世の基底には根こそぎ財産を食われてしまうような金融があり、慈善的な金融はその対抗関係から登場する、という描写も可能なわけです。というか、過去の研究ではそう言われてきました。

もちろん、「どっちもあり」だと思います。いずれの立場であっても、取り上げる事実は厳然とした事実なわけですから。ただ、それらの事例が一般的なのか、あるいは特殊なのか。その辺りの判断の違いだと思います。

次回は堺の話だそうで、出来れば見たいのですが、見られるかどうかは今のところ微妙です。

ところで、Iさんの近著については、あるブログで手厳しい批判がされているのが周辺で話題になっています。批判の内容についてはとやかく申しませんが、このブログで最後に書かれていた中世像に関するコメントについては、大いに参考になりました。リンクは張りませんので、興味のある方は頑張って探してみてください(笑)。

2009.10.05

高野山奥の院(3)

Koyasan_68Koyasan_71続きです。
左写真は、最上義光の墓。このほか、最上氏の関係者の墓が並んでいます。

右写真は、「高麗陣敵味方戦死者供養碑」。慶長4年(1599)に、島津義弘・忠恒(家久)が朝鮮出兵における敵味方の戦死者を供養したものだそうです。珍しい様式(大陸的?)で、同じような五輪塔が建ち並ぶ中にあっては異彩を放っていました。

Koyasan_75Koyasan_78左写真は禅尼上智という女性の墓。銘によると「立沙(弥)蓮阿」という人が永和元年(1375)に建てたものです。高野山は元々女人禁制だったわけですが、年代のわかる女性の墓のうち最も古いもの。この時期になると女性の墓も建てられていたようですね。

ここで、右写真の「中の橋」を渡ります。

Koyasan_79Koyasan_81橋の傍らに、左写真の「姿見の井戸」があります。空海が掘った井戸と伝わっていて、眼病に効くとか、水面に姿が映らないとと不吉とか、いろんな伝承があるようです。

右写真は、市川団十郎の墓。たぶん、17世紀後半に活躍した初代のものでしょう。元禄17年(1704)に舞台の上で刺殺されるという、今聞いてもなかなかショッキングな最期を迎えています。

Koyasan_84Koyasan_87左写真の墓には看板も無くみな通り過ぎていましたが、銘を見ると奥平信昌の墓であることがわかりました。
奥平(おくだいら)氏は奥三河の作手(つくで。現愛知県新城市[旧作手村])を本拠とする国人領主です。いわゆる「境目の領主」として今川氏・松平(徳川)氏・武田氏の間を渡り歩き、最後は武田勝頼に人質を殺されながらも再び徳川家康に属して家臣となりました。
この奥平信昌の「寝返り」が長篠の合戦の契機となりましたが、彼は長篠城に籠城して死守しました。磔の絵で有名な鳥居強右衛門(すねえもん)は、信昌の被官とされています。
こうして徳川家中の重鎮となり、主家の関東転封によって上野国に所領を移した後、関ヶ原の後は美濃加納(現岐阜市)で10万石の大名となりました。慶長20年(1615)没。墓は、元和3年(1617)の三回忌の際に建立した旨の銘を確認できました。

右写真は、本多忠勝の墓。家康の重臣として有名ですので、説明は略。彼は慶長15年(1610)に死去しています。

Koyasan_101Koyasan_102左写真は、明智光秀の墓。ほんまかいな?という感もしないでもないですが…(笑)。光秀の墓は各地にあるようです。

そして右写真は、石田三成の墓。いつ建てられたものかはわかりませんが、家康は処刑した際に三成の墓を設けることを許さなかったと言われているので、いずれにせよ死去してかなり経ってから築かれたのではないかと思われます。
ちなみに、三成を拘束し処刑の段取りを整える役を担ったのが、当時京都所司代だった奥平信昌でした。いずれも供養塔とはいえ、それぞれが近くに祀られているというのはなんとも皮肉なものです。

まだ続きます。

■和歌山県高野町

2009.10.01

高野山奥の院(2)

Koyasan_44Koyasan_9奥の院に建ち並ぶ墓を紹介してゆきます。
といっても、全部というのはもちろん無理なので、有名人とか文化財として知られているものをピックアップしました。原則的に一番奥(弘法大師廟側)から手前(一の橋)の順番になっています。

まずはじめは、少しルートから外れた企業墓が建ち並ぶ区画にある親鸞廟(右写真)。中の五輪塔は比較的古そうですが、どうでしょうか。保存状態も良く、大切にされてきた様子が窺えます。
織田信長墓もかなり奥の側にありましたが、こちらで載せたので割愛。

Koyasan_31大きな外様大名の墓所が建ち並ぶ一画にあるのが豊臣家墓所。わりと余裕のある敷地が割かれています。
中央はおそらく秀吉の墓と思われますが、秀吉は高野山の保護を積極的に行ったこともあって、墓所も「厚遇」されたのでしょうか。

Koyasan_35こちらは、結城秀康石廟(重要文化財)。秀康は徳川家康の二男で、はじめは秀吉の養子となったものの、結城氏の名跡を継いで、後に越前福井(北ノ庄)藩主となりました。慶長12年(1607)に34歳で父より先に死去。家康はその死を悲しみ、この石廟を築いたとされています。

Koyasan_38Koyasan_48左写真は、法然の墓所だそうです。といっても、五輪塔は近世の様式に見えました。後世に供養塔として築かれたものでしょうか。

右写真は、「大津籠城戦死者追弔碑」。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に伴う近江大津城の籠城戦で戦死した人々の供養塔です。
当時の城主であった京極高次は、はじめ西軍として大谷吉継と連携していましたが、東軍に寝返って籠城。毛利(末次)元康(毛利元就の子)や立花宗茂らの大軍に攻め寄せられ、必死に抗戦するも関ヶ原の決戦直前に降伏。高次は高野山に蟄居となります。しかし関ヶ原で東軍が勝利すると、功績が認められて若狭小浜藩主となりました。ちなみに高次の妻は浅井長政の娘(初、常高院)で、いわゆる「三姉妹」の一人で知られていますが、彼女もともに籠城したと言われています。
この供養碑がいつ建てられたものかはわかりませんが、高野山と関わりの深い高次によって建てられたものでしょうか。

Koyasan_50Koyasan_54そして左写真は、その「三姉妹」の一人で、徳川秀忠正室・崇源院(江)の墓。奥の院の墓石群では最大(6.6メートル)で、「一番石」と呼ばれているそうです。子の徳川忠長(家光の弟)が、母の死去の翌年に当たる寛永4年(1627)に建立しました。

右写真は、その傍らにある天樹院(千姫)の供養塔。秀忠の娘で、豊臣秀頼の正室として知られていますね。豊臣氏滅亡後は播磨姫路藩主の本多忠刻(ただとき)の室となりました(この時起こったといわれる石見津和野藩主・坂崎直盛による「千姫事件」は、事実かどうか微妙?)。
ともあれ、千姫は寛文6年(1666)に江戸で死去。正式な墓所は小石川伝通院にあります。同じ頃に高野山にも供養塔が建てられたのでしょうか。

この先は次回にて。

■和歌山県高野町

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