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2009.10.19

高野山 美福門院陵・苅萱堂・女人道など

Koyafudoin_2Koyakumagaiji_2最後は、いくつかの史跡をめぐり女人道を歩きました。

左写真は、不動院にある美福門院陵。美福門院は藤原長実の娘で、名は得子(なりこ)。鳥羽院の皇后で、近衛院の母、という人です。
院政期において大きな政治勢力となった存在として「女院」が知られていますが、美福門院はその走りであり、代表的な存在です。娘の八条院の二代にかけて、天皇家の経済基盤ともなる広大な荘園支配(八条院領)を達成したことでも知られています。
永暦元年(1160)に死去。遺言により高野山に葬られましたが、女人禁制との関係で紛議があったようです。

右写真は、熊谷寺(くまがいじ)にある、伝熊谷直実使用の兜(だったと思います)。
直実は一ノ谷の戦いにおけるエピソードで知られていますが、平敦盛を討ったことに思い悩み、常に出家への希望を抱きながら御家人の勤めを果たしていた、とも語られてきました。結局は法然の弟子として出家しました。
高野山の熊谷寺には、建久元年(1190)に立ち寄り、敦盛の供養を行ったと伝わっているそうです。また、法然の供養塔も建てられたとか。このほか、中世の大般若経を所蔵しています。

Karikayado_2Karikayado_3左写真は、苅萱堂(かるかやどう)。「苅萱(刈萱)」は説経の代表作とされ、室町から江戸期にかけて流布したそうです。
概要は次の通り。

九州の領主である「加藤左衛門繁氏」が花の散るのを見て発心し、法然の手によって剃髪して苅萱道心と名付けられます。その後は妻子と離れて高野山に登ったところ、妻と子の「石童丸(石道丸、とも)」が訪ねてきます。女人禁制のため妻は麓に残り、石童丸が一人で登ってきて対面。しかし父は子に会っても、修行のため父とは名乗らず避けようとします。石童丸に「父は死んだ」と言い、母と菩提を弔うよう促して山を下らせます。しかし下ったところ、既に母は亡くなっていました。嘆き悲しんだ石童丸は、本当は父である苅萱道心のもとで出家。その後は決して親子であることを明かさず、40年もの間、この堂で修行に励んだ、というお話です。

お堂では、それぞれの場面を描いた絵が額入りで掛かっており、独特な調子で「絵解き」もしていただくことができます(有料)。

右写真は、お堂の傍らにあった石童丸の母の供養塔とされる宝篋印塔です。

Nyoninmichi_1
Nyoninmichi_3さて、女人道へと向かいます。
登る途中に左写真のお堂がありました。これどういうものでしたっけ…?
右写真が、女人道の様子。場所にもよりますが、結構勾配のきつい道もありました。女性にはなかなか大変だったように思います。(まあ現代人は男性でも大変ですが(笑))。

Nyoninmichi_4Nyoninmichi_9結構きつい道を歩ききると辿り着くのが、円通律寺。かつては専修往生院と称し、高野山別所のうち、小田原別所・中別所・東別所に対して、新別所と呼ばれたそうです。重源による再興と伝わり、現在でも修行の道場として静寂が保たれています。普段、拝観はできません。
さらに女人道を歩いてゆくと、右写真のような風景に出会いました。

Nyoninmichi_20そして下りてきました。
最後に、「虎屋薬局」。高野山で最も古い商家建築だそうです。1890年に高野山で大火があったそうですが、その直後に再建されたものとされています。今も薬局として現役です。

このほか、高野山霊宝館にも行き、貴重な宝物も拝観いたしました。過去の展覧会の図録も揃えてあり、資料集めのためにも立ち寄る価値があります。

以上、高野山のシリーズはこれで終了です。

■和歌山県高野町

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